電話で、K先生も「ここは本当に何もありませんよ」と言っていたが、私達はそのK先生に会いたくて延吉に行くのだ。先生とは、4年前北京語言学院で一緒に中国語を学んだ仲。今、延辺大学で日本語教師の教鞭をとっておられる。
同行の道連れは、沈陽工業大学の留学生T君。空港でT君が、韓国語で「ライターを貸してくれ」と言われていた。北朝鮮との国境の町延吉は、吉林省延辺朝鮮族自治洲の洲都である。延吉行きの搭乗手続きの窓口は、既に韓国語の世界だった。
機は50分も飛んだだろうか、森林が途絶え、丘陵の頂まで耕された耕地が果てしなく広がる。延吉に入ったのだ。その多くは、今世紀初頭日本の朝鮮支配による迫害を逃れてこの地に来た朝鮮族の作ったものだ。1900年8万位だったこの地の人口が、30年間で40万人まで膨れ上がったという。彼等の多くは中国人地主の下で極貧の小作人となり、その血と汗が、いまの豊かな農地を作った。
日本ではこの一帯を間島(かんとう)と総称。ソ連とも国境を接し、ロシア革命勢力の支援を受け金日成率いる抗日朝鮮民族独立戦線の拠点ともなる。
1945年8月9日、日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍は、真っ先にこの地に侵入した。関東軍は既になく、無人の荒野を行くごとく疾駆するスターリン戦車の前に、取り残された日本人民間人の老若男女には、悲劇しか待っていなかった。
直線距離にして500キロ近くある、私の住んでいた撫順まで、徒歩と貨車を乗り継ぎやっとたどり着いた数百人の避難民の群れは、歩くというよりよろめいていた。老人と女子供だけの一群の中には、既に死んだ我が子を背負った、虚ろな表情の母親の姿もあった。女性は皆男装をしているのだが、やはり一目で判る。
途中ソ連軍の空爆から逃れた彼等も、多くは収容所で次の春を迎えることが出来なかった。飢餓と極寒の中、多くの子供達が中国人の養い親を求めて「大地の子」となった。
「国境の町」。この言葉にはロマンがある。しかしここ100年、国境の町の歴史には、庶民の血と汗と涙が深く染み付いている。
空港の滑走路脇に、シートを被せられた軍用機が20機程並んでいる。これも国境の顔だ。
延吉空港入り口の、ハングル文字の横断幕に、日本語で歓迎の言葉が一緒に書いてある。まさか私達二人への物とは思えない。環日本海開発計画の臍にあたる延吉は、一部日本企業の投資対象として注目されているのだ。
出迎えのK先生が、
「外事処の徐さんです」
と朝鮮族の若者を紹介してくれる。更に言葉を継いで
「彼、あんた達を迎えるため張り切って、生まれて始めてのネクタイを締めたのだぞ」
と変な紹介の仕方をするのを、徐さん横でにこにこ聞いているのが初々しい。25才の好青年。去年まで延辺大学で勉強し、K先生にも日本語を教わった。卒業後もそのままこの学校に残り、外事処(主として外国人教師や留学生に関する仕事)に勤めている。
待たせていた車がなんと「紅旗」。江沢民国家主席が乗っているのと同じ、中国国産最高級車である。徐さんが
「K先生のお客さんということは、学校のお客さんです。ですから学長車を用意しました」
と上手な日本語で言う。恐れ入りました。
「紅旗」が既に一つのステータスシンボルなのか、空港から市内までの高速道路はフリーパス。
ホテルに荷物だけ置いて、早速また「紅旗」で街へ出る。
ここの名物はなんと言っても、犬料理である。今日は徐さんのおすすめで、「犬しゃぶ」と言うか、犬鍋というか、犬料理のフルコースを頂くことになった。
オンドルの間にちゃぶ台、真ん中に芥子などで辛目に味付けされた鍋が煮たぎり、周りに5皿程犬のさまざまな部位が盛り付けられている。心臓を始めとする内臓類、尻尾の輪切り、爪の付いた足、脛、皮、皮付きの肉等等。もしこれを見て食欲が湧くなら、あなたはかなりの朝鮮料理の通である。
そして最高の物が付いていないと気が付くなら、更に通である。それはペニス。然し高い。どれくらい高いかというと、今日の料理が、酒、ビール主食を含めて300元(約5000円)。ペニスはこれだけで150元もする。それをもし私達が気持ち悪がって食べなかったら勿体無い、と心配して注文しなかったそうだ。少し残念。
徐さん「明日は一日お供をします、今日はお先に失礼します」と言った後、鍋の味付けまでしてくれて先に引き上げた。
明くる日徐さんに犬料理の感想を聞かれたので、
「足が少し残った」と答えたら
「足は80元もしたのですよ。一番美味しい所なのに」
と残念がった。徐さんが言うには
「犬料理は、やはり延吉のが最高です。第一犬の質が違う。一口食べたらすぐ分かります」
これは、私達が魚の養殖物と天然物の違いを、舌で味わい分けられるのと同じだろう。
延吉の犬は、付近の農家で料理用に専門に飼う。子犬の値段が100元。それが、半年弱で成犬になり、400元〜600元で売れるから農家にとっていい副収入だ。
腹ごなしに、夜店を冷やかす。大型テレビ位のガラスケースに、長さ一メートル位の蛇がうじゃうじゃしている。縞蛇の一種だろうか、皮をむいて幾重にも曲げて串に刺し、焼いている。香ばしくて美味しい。T君なんか
「口から犬が出てきそう」
なんて言いながら食べていた。一匹15元は安くないが、値打ちはある。目の前で皮を剥ぎ、生き肝をすする。肝は、信州育ちのK先生がお手の物で「美味い!」と一口ですすった。
白酒の良い所は明くる日に残らないことだ。昨日飲んだ酒の銘柄は忘れたが、地元の酒。40度はある。三人で7合は飲んだと思うのだが、寝覚めはいい。朝食も、朝のお勤めも健康に済ませたところへ、今日も「紅旗」のお迎えを受けた。
本日の予定は、林檎梨園の見学、図們国境見学、松茸食べ放題の食事、夕方の飛行機で沈陽に帰る。
林檎梨は、その名の通りりんごと梨のあいの子。延辺大学農学部の実験農園に案内される。そこは、「紅旗」がやっと取れる細い農道を、牛に、ときには家鴨の一団に道を譲って貰いながら、一キロも登った丘の中腹にあった。折よく今日の午後が収穫だそうで、20年生の親樹に,林檎梨が枝もたわわに実っている。
私達も早速試食させて貰った。形は林檎だが味は梨。林檎の酸味がわずかに残りみずみずしい。もぎたてより、少し保存して表面が黄色に変色した方がかえって美味しいそうだ。ここの人達にとって林檎梨は、キムチと共に欠かせない保存食とのこと。
この丘陵一帯全て林檎梨園。ここを含め、この地方の林檎梨総作付面積はざっと100平方キロという。気候風土上の適地は他になく、林檎梨は延吉の特産品である。
T君と二人、鞄に詰められるだけの林檎梨を土産に頂き、次の目的地図們に向かう。
北流する豆満江に沿って「紅旗」で約50分、延吉から距離にして30キロ位の所にある北朝鮮との国境都市図們。 地図で見ると、朝鮮半島は兎が立ち上がった姿によく似ている。その兎の耳先の左側である。ここを更に30キロ程北上すると琿春。ここは兎の耳の先端で、中国、ロシア、北朝鮮の三国が境を接する国境である。昔日本の領事館が在り、1920年「間島事件」の舞台にもなった。
領事館が朝鮮人に襲われたと、竜井に駐留していた日本軍が出兵して、朝鮮民族独立運動を弾圧した。このとき千人を超える朝鮮人が殺されたという。被害の規模、出兵の対応の速さなどから、襲撃はでっち上げと言われている。ここにも国境の町の悲劇がある。
地形的に不法出入国は比較的容易で、それにからむ庶民の哀史は、正式の歴史の裏でいまもあるという。ベルリンの壁は取り除かれて久しいが、琿春に本当の春はいつ来るのだろう。
図們から北朝鮮の間に、国境を跨いで、巾約7メートル長さ約200メートルの橋が架かっている。橋桁のペンキが中国側はピンク、北朝鮮側が緑。そのまま今にも渡れそうな、小さな橋だ。
展望台に置かれた望遠鏡で見ると、対岸でトウモロコシの収穫をしているのがはっきり見える。その向こうに見える鉄道橋を指差しながら、徐さんに
「君が私の年になったとき、即ち40年後にはあそこに新幹線が走っているでしょう」と言ったら
「えっ、本当ですか?」
と素っ頓狂な声を上げる。
私の予想は外れるかもしれない。しかし外れて40年より早くなることはあっても、遅くなることはないと思う。私は40年前の日本を知っている。当時の日本は、新幹線はおろか一級国道ですら洗濯板だった。当時の私達は、ひたすら欧米諸国の後を追った。いま中国が欲しい物は、具体的に先進諸国にある。目に見える物を得るのは比較的容易だ。その後のことは誰にも分からないが、ここまでは予言でも予想でもない。確実に来る未来である。
それにしても20世紀は悪すぎた。20世紀に数々の悲劇を生んだこの「国境の町」が、21世紀には友情の接点であって欲しいと願わずにはおられない。
T君と徐さんが、「来年は是非一緒に長白山に登りましょう」と握手をしている。21世紀に向けて、国境の町に芽生えた若者同士の友情に幸有れ。 |