「黒龍江省一人旅」
黒龍江省を鶏西、牡丹江と一人旅をした。鶏西は父の最後の勤務地を訪ねて、牡丹江は関東軍最後の激戦地を訪ねてである。
そのことは別稿で「父の霊」「最後の関東軍」と題して書かせて頂いた。これはその旅の途中のこぼれ話である。
ハルピンまでは連れがあったのだが、ここから先は全くの行き当たりばったりの一人旅。年寄りの不安は、重い荷物の上げ下ろし。
荷物だけは極端に減らして、ショルダーバック一つにした。地図も必要なページだけコピーしてひたすら軽くしている。他の荷物はハルピンへ来る途中瀋陽に寄って、友人の家に預けた。実は荷物を預けるとき、トランクに分散した金を入れたまま置き忘れて、財布の余裕もない。身も軽いが懐も軽い旅になった。
チェックアウトをしようとしたら、フロントのお嬢さんが「先生は、いつも髪型が違いますね。」と言う。
何事ならんと鏡を見たら、寝癖でベッカー選手も顔負けの流行髪型になっていた。水で癖をとる。無精髯は剃るのが惜しかったのでそのままにした。このお嬢さんは、昨日日本語を教えて上げた娘さんだ。
中国のホテルは「押金」と言って、チェックインのとき抵当金を預ける。これを日本語でなんと言うかと尋ねるから、「ほしょうきん」と教えて上げた。
続いて、(歓迎光臨)は日本語で「いらっしゃいませ。
「なんにち おとまりですか?」も実用的な会話である。
フロントはときならぬ日本語教室となった。「どうぞこれで、お好きな物を召し上がって下さい。」とホテルバーのサービス券50元券を4枚呉れる。以前瀋陽で日本語教師をしていたときの月給が1000元だったから、三言で200元は破格の稼ぎだった。
さてハルピン駅。私はまだ少し緊張したまま牡丹江行きの改札口に並んでいたら、一人の若者が緊張を解いて呉れた。
「牡丹江行きはこの改札口ですか?」と逆に私に尋ねる。
私は中国人にしょっちゅう道を尋ねられる。どうもここでも退職して孫の顔を見に行く中国人のおじいちゃんに見られたようだ。私の名誉のために付け加えるなら、日本では、これでも背広にネクタイが似合う紳士である。
この若者、人懐こい好青年で、問わず語りに自己紹介をしてくれる。14才から解放軍に入隊して、今年除隊したそうである。大学生にも見える二十才である。
列車に乗ったら、8人程の日本人の団体旅行客と一緒になった。
「どちらからですか?」と流暢な日本語で尋ねたら、またしても日本語の上手な中国人と間違われた。この人達は、黒河、満州里、チチハル、と周りこれから、東寧の要塞を見に行く国境の旅の途中だそうだ。皆さん、開拓団または軍隊で、終戦を国境で迎えられた人達。
一行の中のお一人が、孫呉(黒河市の南)で、21日まで戦闘をして武装解除を受けたと言う。21日まで武装解除に応じなかったのは、伝令が終戦の報を持って来たのだが、部隊長が伝令を殺してしまったからだ。二人目も殺し三人目でやっと武装解除に応じたという。その間旅団で400名の戦死者を出している。
面白いと言っては悪いが、こんな戦場もあったという。部隊駐屯地の真ん中に道路があった。大隊編成を解いていないのだが、そこをソ連機動部隊は、無視して往来した。皮肉にも、小銃がわずかしかないという貧弱な戦力が却って幸いした。敗残兵は相手にして貰えなかったのだ。
黒河事件についても始めて知った。国民党と中共軍の内乱に巻き込まれ、脱走を図った日本軍捕虜が200人(一説によると600人)殺された。針金で数珠繋ぎのまま黒龍江に放り込まれたという。今回の旅行では、この話題はタブーだったそうだ。
私と年齢も同じ、父親の年齢も同じという人が居られた。お父上は警察官。黒竜江を筏で渡るとき脱走したそうだ。
なんと定年前の職場も同じNTT。彼は黒河から北安までの逃避行を経験している。集落を避けながら1000キロ近い道のりを歩いて避難した。ご苦労は文章にされているそうだから、今度是非拝見させて貰うことをお願いした。牡丹江で一行とお別れする。
鶏西で最後の晩だった。夢心地の中で誰かがドアを叩く。今度は電話が鳴った。
「按摩をしませんか?」
「疲れたからもういいよ。」
「だったらなお按摩しませんか。」
「眠たいよ。」
「眠りのお伴をしましょう。」
「幾らだ。」
「300元です。」
「やっぱり一人で寝るよ。」
「ドアを開けて下さい。お話だけでもしませんか。」
「明日またおいで。」
実は明日は居ない。閻魔さんもこれ位の嘘は許してくれるだろう。
黒龍江省のこの田舎町も、改革開放の風は吹いている。
牡丹江から、三人の親子連れが向かいに座った。
男の子が、早速「党生活」という雑誌を取り出して、その中の思想問題を勉強している。
新学期で(中国は9月が新学期)ハルピンの警察学校に入学するそうだ。母親が、「黒龍江省三位の成績で、国の方針により公安に配属された。」と、息子の自慢をする。
18才のこの子、なかなか向学心旺盛で、「日本語を教えて下さい。」とノートを取り出した。
ご両親が、飲み物、食べ物を気遣って呉れる。先ほど述べた事情で懐が寂しかったから、遠慮なく頂く。
母親が、「お爺さんにお願いして、日本の娘さんを世話してもらったら。」と言う。
「そんなことを言うものではありません。」と彼、母親の言葉を押しとどめたが、それでも関心があるのか
「日本の警察は外国人と結婚できますか?」と意外な質問がきた。
「私もよくは知らないけど、憲法では結婚は両者の合意に基づいて行われるとなっているから、問題ないでしょう。」
「私達は、国の機密保持の立場から許されないと思います。」
「機密保持は、警察だけではない。公務員、医者、ホテルの従業員だってそれぞれ守らなくてはならない秘密があります。」
日本の風俗習慣など話したあとだった。
「少し敏感な話題を構いませんか?」と彼が控えめに切り出したのは、靖国問題だった。
「あの人達は、私達にとっては烈士です。庶民としての感情が根底にあります。」
母親は、100パーセント同意してくれた。
彼はA級戦犯合祀をとりあげる。
「それが、本当に問題点でしょうか?」と私が逆に問いかけたら、今度は教科書問題になった。
「この問題は基本的に、私達の内政問題です。」
「しかし侵略を認めないのは問題です。」
教科書検定そのものに対する日本国民の真剣な取り組み、(家永裁判)について説明するのは、私の言語能力を超える。
それは侵略を進出と書き改めさせられたことに対する、抗議でもあったのだが。
「あなたは、あの教科書がどれだけ採択されているか知っていますか?」
彼は勿論知らない。私の知る限り全国で採択を許しているのは、東京都と愛媛県だけである。そして実際に採択されているのは、愛媛の盲学校一校だけのはずだ。
彼はODAについて知らない。しかし私達多くの日本人は、日清戦争のとき下関条約で清国から当時の国庫収入の三倍の賠償金を取り上げたことも、中国が日中平和友好条約で賠償権を放棄したことも知らない。
お互いが都合のいいことだけを見ていないだろうか。
彼には言わないが、私はこの教科書はやはり問題があると思っている。 この教科書によると、日本人の歴史観はGHQに押し付けられたとあるが、少なくとも私は違う。そして多くの違うと思う人達がこの教科書に反対しているのである。
もう一つ。「満州」の記述について9ページもページを割きながら、満蒙開拓団について一言も述べていない。書かないことが検定上違法にならないとしても、この重大な事実を無視するということは、自ら客観性を放棄し、ある意図を持って編纂したと言わざるを得ない。
しかし中国政府がこれにとやかく言うのはもっと間違いだと思うから、私はこの教科書というより、我が国の文部行政そのものを支持しているのである。
率直に、静かに、本音を語りたい。
この話題はここまでだった。
「私達は、意見が違っても仲良くできます。」という私の主張に、彼も笑顔で同意してくれた。
彼の名前がいい。姓は白、名は雲。合わせて白雲。私は絶対にこの好青年を忘れないだろう。
旅は道連れ。黒龍江省一人旅では、またいい友達が出来た。
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