旧居訪問

瀋陽での日本語教師としての一年間の勤めを終え、帰国に先立ち、弟と一緒に昔住んだ家を回ることにした。

一才〜十三才迄を過ごした家。

 

  緩い坂道に添って煉瓦造りの洋館が立ち並ぶ。彼女は、木枯らしに彩りを研ぎ澄まされた夕日を浴び、津々と降る粉雪の中に佇んでいた。

  「これは夢ではないのですね。やっと又お会い出来ました」

 その深紅のマントを纏った王女の頬に、私は少年の唇をいつまでも押し当てていた。

  定年後真っ先にしたのは、中国望郷の旅だった。

そこで見た北台町の高級住宅街は、半世紀の間に深紅のマントからシルバーグレイに装いを変えていた。車を降り、私はいつまでも一人そぞろ歩いていた。そして夢の中で連れ添った古女房ならぬ古恋人に、「時間が経ったのですね」と、いたわりの言葉を掛けるのである。以来撫順の夢は一切見なくなった。

 

  撫順市南台町の一角の小高い丘の上に在る、煉瓦作りの埴生の宿は健在だった。銭湯、坂道、周囲の景色まで当時を偲ばせる。ここは四十九年前、私達兄弟が最後の中国生活を二年程過ごした家だ。

  実は私は昨年二度訪れ、家の人とは面識がある。今回は突然の訪問だったのだが、“ニーハオ”という私の大声に聞き覚えがあったのだろうか、徐さんの奥さん,息子さん、そして風貌も佐田の山に似た巨体の徐さん等三人が、狭い玄関に重なるようにして出迎えて呉れる。

  「暫く見えないから、もう帰国されたと思っていました」

 「近く帰国します。弟も昔一緒にここに住んでいました」

 「そうですか。どうぞゆっくりご覧になって下さい」

 ご好意に甘えて、上がらせて頂く。

 ここは、二階建て四戸の共同住宅である。向かいの人が十年前、二階の人が昨年私と入れ違いに訪問され歓待を受けたそうだ。

 「半世紀を隔てて、こうして昔の住人と同じ家で語り合えることは素晴らしい

ことです」と徐さん一家の人達は口々に語りながら、心から私達を迎えて呉れる。

中国人は本当に客好きだ。お昼を一緒にと言って頂いたが、済ませたばかりだったので遠慮する。

 徐さん夫婦は既に六十を幾つか過ぎ、定年になっている。息子さんは三十位、今日家に居るのは非番だからだろうか。庭に出て案内して呉れる。 前庭には地下貯蔵庫みたいな物を作り、その上には葡萄棚を作っていた。この家も2〜3年の中には取り壊されて、高層化するそうである。

  「私達は今のままが良いのですが仕方ありません」と、徐さん一家の人達は言う。これこそが時の流れだろう。周囲は既に二割位高層住宅が見える。

或いは、この家も私達が見るのは最後になるかも知れない。一キロ位離れた所に、戦後「日僑浮子弟小中学校」(日本人捕虜の子弟小中学校)と呼ばれ、私達が通った学校があった。五年前1992年、私が引き揚げ以来始めて撫順に来たときは、「撫順武警病院」として建物だけは残っていたのだが、今は高層アパートになっている。

  「この郵便受けは以前のままです」と言うその郵便受けを背に玄関の前で、記念写真を撮った。

 家までの近道は少し急なだらだら坂になっている。六十才を過ぎた今、なんでもない登り道が、当時十三才の栄養失調の少年にとってはこれが苦痛で、回り道をしたのを思い出す。母の死後荒んだ家庭は、無理に思い出そうとすると、胸を鉋で逆撫でするような辛い思い出しかない家だが、その中に少年の日の涙が甘く混ざる。

  感傷に浸ったまま一時間も長居しただろうか、待たせていたタクシーが警笛を鳴らす。私達もこれを機会に失礼することにした。弟の日本から土産に持参した羽子板が、友情の記念として永く中国の人達に愛されることを願いながら。

 

  十才〜十一才を過ごした家

 終戦間際に、父が国境の町牡丹江の奥鶏寧という県に祖母と二人で転勤した。それと同時に、私達残された家族は旧名四国町という撫順駅の近くに引っ越しをした。

 終戦はここで迎える。翌年結核を患っていた母は、三十才の若さで春を待たずに他界する。妹がすぐ後を追うように、チブスで死ぬ。

 当時は多くの子供が街角で煙草を売ったり、餅を売ったりしていた。公園前の街角は、そのまま元の面影を残っていて、おまけに物売りも当時の様子で煙草を売っていた。

 奥地から大勢の避難民が、よろめくように歩いて通ったのはこの前の道だ。

 住んでいた家の建物は、高層住宅に変わっている。前を電車が走っていたのだが、これも撤去されている。弟が「駅までこんなに近かったな」と何度も首を傾げる。彼はまだ五才だったのだから無理もない。駅の駐車場に二元(約30円)払って、タクシーを待たせたままその辺をぶらぶらする。

 五年まえガイドをして呉れた、中国旅行社撫順支社の周景慧さんの事務所がここから近い。その時眼鏡を撫順のホテルに置き忘れ、日本まで送って貰った。以後彼には何かとお世話になっている。訪ねたら、お土産に朝鮮人参を頂いてしまった。全てが消えて行く中で、新しく芽生えた友情だ。

 

  六才〜十才を過ごした家

 昔東公園、今労働公園の東側に、久保町と呼ばれる日本人街が在った。当時の撫順炭坑長、久保孚氏の名を冠したもの。労働公園は綺麗に整備されていて、昔より立派である。新中国には悪いが、撫順で昔より立派なのはここだけだった。

 久保町には中学校が在った。今も残っている。そこを起点に私の記憶は枝を張る。五年前は昔の建物も一部残っていたが、今は完全に無い。昔住んでいた近くに、路上市場が密集している。祭の屋台みたいな店が百戸余り、肉、野菜、果物、衣類、等々日用雑貨何でも売っている。

 中で一人の人のよさそうなお年よりに、

  「私達は五十五年前ここに住んでいました。この近くにボイラーがあったと思うのですが知りませんか」と聞いたら、「それがそうだ」とすぐ横の建物を示す。「やっぱり」という思いと、「あれっ」という思いが交錯する。だとするとその東一軒おいて隣が我が家だ。見知らぬ青年が案内役を買って出て呉れる。東北、中でも撫順は人情が素朴だ。

 

 三才〜五才を過ごした家

 私の中国の記憶は、三才の時母と始めて長春(元新京)に行った時に始まる。長崎に実家帰りしていた母と共に長春の家に戻った時の思い出が、私の人生で記憶と言える物の最初かもしれない。弟はここで生まれた。

  その他幼稚園に四郎君という子がいたのも覚えている。竹下恵子ちゃんという子が近くにいて、いつも一緒に幼稚園に通っていた。

 白菊小学校が近くに在った。

 忠霊塔のある広場に何故か牛の銅像が在った。

  断片的な記憶の一つ一つは、それぞれに鮮明である。だからこんど57年ぶりに訪れるのだが、方角位はなんとかなるだろうと少し高をくくっていた。

  まず「春誼飯店」(旧大和ホテル)にチェックインする。ここを含め旧皇居、国務院等、旧満州国時代の建造物が、計画的に保存されている。ここはそのまま歴史記念館であり、観光資源でもある。タクシーの運転手に言わせると、昔日本が建てた建物は機能的にもしっかりしていて、新しい建物よりずっと素晴らしいと言う。旧三中井デパート、放送局等も特に保存の対象となっている訳ではなかったが、そのまま残っている。彼が、「保存しなくても丈夫だから壊れない」と言ったのが面白かった。

 私一人だと、こちらから名乗らない限り中国人に日本人と思われることはまず無い。しかし弟はどこから見ても日本人である。汽車の中で年輩の男性に日本語で語り掛けられたのを始め、今回は、先方はこちらが日本人と知って対応して来る。だからタクシーの運転手の言う「日本が残して呉れた物は素晴らしい」という言葉も、外交辞令として割り引いて考える必要がある。

 

 白菊小学校くらいすぐ分かるだろう、と思ったのは甘かった。やはり五才の時の記憶では、長春の街全体の印象からして違う。駅前の大通り等も、名前はスターリン道路等と呼び方は変わったが、本質的に変わっていないと言う。しかしこちらの受け止め方が変わっている。勝利公園は昔の児玉公園ではないだろうか。印象はあるが、撫順程具体的でない。

 そこで撫順旅行社の周景慧さんに電話して、長春の旅行社を紹介して貰った。白菊小学校は今の第五中学だとすぐ教えて貰えた。

 二日目タクシーでそこへ行った。昨日多分ここではなかろうか思った所の一つだ。

学校は確か家の北側に在ったから、学校の南側をうろうろする。ちょうど年輩のご夫婦が居たので、尋ねてみる。ご近所の人も交えて、親切に色々と教えて呉れる。今は高層アパートが建っているが、確かにここは昔日本人が住んでいた一角だと言う。路地一つを隔てて中国人居留区とはっきり分かれていた。ここが二階建てのアパートがあったというのも、私の記憶と一致する。弟には「ここら辺りが君の生まれた所のはずだ」とは言えるが、いま一つ断定出来ない。

 「この辺は変化が激しく、ずっと住んでいる私達でもよく分かりません」と教えてくれた人が慰めるように言って呉れる。

 

 二日目は北京に早く帰ってもどうせ半端になると、飛行機の切符は午後六時にしている。午前中でめぼしい所は回ってしまった。吉林棋院が地図で見つかったので行ってみたが、時間が半端なので折悪しく碁の相手が居ない。仕方がないから近くの映画展覧館に行ってみることにした。ここは大杉栄の暗殺で知られる甘粕正彦が主宰した、満州映画協会のあったところだ。

  二十万坪はあろうか。撮影所、明代清代のセット、資料館、児童向けの娯楽施設等が広い構内にゆったりと配置されている。こちらは時間を潰すのが目的だから、構内の小さな食堂でまずゆっくりと食事を済ませ、それから見物をしたのだが広すぎる。シネマスコープ館の前にベンチがあったので、そこで休むことにした。

 一時間程うとうとしただろうか。若い娘さんが私の肩をつついて、ベンチの荷物を横に寄せて呉れと言う。彼女も横に座って大欠伸をするが、眠るでもない。彼女シネマソコープ館の切符もぎりなのだ。国籍不明のお爺ちゃんが二人、ベンチで居眠りしているのに好奇心をそそられたらしい。どちらから声をかけたのだろうか。こちらもちょうど退屈していたところ、たあいない会話が果てしなく続く。

 彼女芳紀二十三才。来月二十日結婚するそうだ。新夫は公安に勤めている由。日本のことを次々に聞く。「一度日本に行って見たいな」と夢見るような表情で言う。

 「君達は若いのだから、必ず機会はあるよ」と私。続いて

  「機会が有れば是非遊びに来て下さい」と名刺を渡した。

 この台詞は中国人が良く使う、一種のお愛想。でも彼女嬉しそうににっこりと笑った。

 二十三才といえば、母親がここ長春に来た歳だ。そう思って見ると母に似て横顔が整っている。一瞬、彼女が母の身代わりで語っているのではなかろうかと錯覚した。

 気丈な母が一度だけ、病床で私の膝を抱くようにして「あんたが私の白木の箱を抱いて帰るのよ」と泣き崩れたことがある。母の日本への想いは、いかばかりだったろうか。

  シネマスコープ館に客が来た。彼女が屈託なくさっと立ち上がる。膝の痺れを伸ばすように、ゆっくり歩く彼女の後ろ姿から

 「よく来たね、もういいのだよ」という母の声が聞こえた。

 私の中国への憑き物が又一つ落ちた。