「センチメンタル漫遊記」
その一 沈陽の巻
国慶節の連休を利用して、小池先生達と大連を旅行する。
沈陽南駅朝7時半、延吉からの先生を出迎え、当日は沈陽見学、翌日本渓の鍾乳洞、三日目大連、四日目旅順の計画。
同行の士は、助さん格さんならぬ、金さん姜さん。延辺大学で日本語の教師をしている、朝鮮族のお嬢さん。25才。金さんが標準より大柄、姜さんが標準より少し小柄な違いがあるのを除いて、細く引いた眉が、整った瓜実顔によく似合う典型的な朝鮮族美人である。正直、その色気に不逞な男心が少しむらむらとしたのだが、そんな物は次の小池先生の一言で吹き飛ばされた。
「昨夜5時3分の列車に乗ったのだけどさ、彼女達何時に来たと思う。5時2分、発車一分前だよ」
「一分前はうそですよ」と、金さんが抗議の口を尖らす。
確かに発車2分前には改札口を閉めるから、一分前はともかく、ぎりぎりではあったのだろう。
「俺なんか、この重い鞄を提げてさ。彼女達の後を付いて、やっと列車の最後尾に乗ったとたんに発車だよ」と、小池先生お土産の林檎梨が10キロ入った鞄を持ち上げ、おどけてよろめいてみせる。彼女達のはちきれる若さの笑いの陰で、このなんとも言えぬ喜劇が、明日の我が身に悲劇として待っていようとは、その時は夢にも思わなかった。
ともあれ、「センチメンタル漫遊記」の序章は、明るく軽快なアレグロで始まった。
小池先生は、沈陽は何回も来ているので、宿で休息。
朝食もそこそこに済ませ、両手に花と私が彼女達二人を連れて故宮と北陵を回る。しかしこの花は少し重たかった。
故宮は子供の気を引くような物はあまり無かったので、予定通り午前中で見終わる。老辺餃子館で昼食を済ませ、午後北陵公園にまわる。
北陵公園には、入ってすぐ遊園地がある。ここですっかり彼女達の足が止まった。まずメリーゴーランドで木馬に跨り、童心に返る。次はゴンドラで、高い高い。更に水中ジェットコースターできゃーっ。まだお池のボートに乗りたそうだったが、どうせ私が手を豆だらけにして漕ぐことになる。この悲惨な姿を想像するだけで、ご勘弁願った。
さすがにくたびれて、ホンタイジの墓まで来たとき、「私はここで待っているから」と二人だけで行かせたら、ややあって「先生、先生」と城壁の上から私を呼ぶ声がする。例の満州族の衣装で私も記念写真を撮らされる。
「小池先生なんか私達より若いですよ」と煽るが、私は、宿でくたばっているその小池先生より三つも年上なんだ。
声と背中は年を隠せない、というその初老の背中を伸ばして、彼女達に心の中で反問する。
「君達にとって、老いは罪悪なのだろうか」と。
夜は「鉄西の貴公子」こと、千葉君がボーイとしてアルバイトしている新世界ホテルの中華料理を食べる。ここは沈陽でもトップクラス。特に日本人には人気がある。貴公子のネクタイ姿の制服も板につき、お嬢さん方のハートを射たのか、後で彼の電話番号を紹介することになった。
二日目の午前中は、五愛市場(沈陽の衣類雑貨卸し売り市場)で買い物案内。三万平米位の広場にビニールハウスが2メートル程隔てて整然と並び、それがまた二メートル位に区切られて一店舗となっている。大は家電製品から、小はボタン類まで、何でもあり。群集の地鳴りのような生活音の底から「一、二、三、四」「一、二、三、四」とテンポの良い四拍子のリズムに乗って、売り子の呼び声、運搬人の人をかき分ける声が響く。四文字で成語を作る中国語は、四拍子の世界なのだ。ここで迷子になったら大変と、彼女達に手を引いて貰う。
金さんが、防水コートを買おうと、鏡の前でモデルよろしくしなを作る。しかしどれも小さい。姜さんがジーパンを試着するが、どれも大きい。二人を足して二で割ったら、全て上手くいくのだが、どれも帯に短し襷に長し。やっと気にいったセーターが見つかったようで、二人の目つきが変わる。なんども裏返し、鵜の毛の傷も見逃さじと、先ほどの幼顔は消え鋭い女の目付きを見せる。ついで、弾んだ声で値引き交渉。でもねお二人さん、そんなに「私これが欲しくてたまらないの」と顔に書いたまま値引き交渉してもね、と思って眺めていたら、執念で言い値までまけさせていた。
女の買い物に付き合うのは苦痛である。うちの家内や娘は、私が居ると落ち着いて買い物が出来ないと、向こうが敬遠する。しかし今日は国際親善大使である。ひたすら作り笑顔で忍の一字。
それでも、どこか不機嫌な顔をしていたのか、姜さんが私にもズボンを買えと薦めてくれる。ちょっと待ってよ、少しでも荷物を減らそうと、こないだ高い航空便で不要なものを日本に送ったばかりなのだ。それに私は身なりをあまり構わない。寒ければ有るものを重ね着、暑ければ脱ぐ。家内にも「年をとったら、もう少し身なりを構って下さい」と言われるのだが、「僕はボロタマ」と答えて取り合わない。彼女達が日本語の教師としていくら日本語が上手だといっても、この「ボロタマ」を「襤褸で包まれた玉」、更に「辺幅を飾らぬ男の心意気」と説明するのは難しい。
日本に長い間留学し、日本通と言っていい中国人で、「日本人は冷たい」と言う人がいる。確かに中国人は親切である。例えばテーブルを囲んで食事をすると、主人は長い箸で客人の皿に間断なく菜を盛り気を使ってくれる。私は煙草を吸わないのだが、命令に近い程熱心に薦める人がいて困らされる。彼女達もバイキング形式の料理で、私が皿を空にしていると、更に何か取ってきて、私の口に押し込まんばかりにしてくれる。中国の人に「日本人は冷たい」と思われないために、この習慣の違いは機会ある毎に双方に紹介したいとは思うが、中国式親切を日本に持ち込む気にはなれない。
全く余計なことをしてくれるが、彼女は親切のつもりなのだ。買わないと「何故何故」とうるさい。どうせ買わなくてはいけないと私も腹を括った。面倒臭いから「これで良い」と、最初にはいたのを買おうとしたら、「そんな買い方は駄目」と結局別の店で買うことになる。
午後、工業大学のマイクロバスを借り切り、本渓の鍾乳洞に行く。直径約二乃至三十メートルの、洞窟の中の川を、10人乗りのボートで一キロ余りを往復する。ここは、私は二辺目だが、自然の彫刻の面白さと、規模の大きさは何度来ても十分に感動出来る。
マイクロバスの座席に余裕が有ったので、工業大学の日本語教師中野先生もお誘いする。北見から今年来られたばかりのご婦人。年齢は大学生の息子さんが北京に居られるそうで、それから拝察するしかない。
中野先生を交え、夜は彼女達ご希望の朝鮮料理。やっとキムチにありついて、彼女達もご満足の様子だった。朝鮮料理は日本人にも馴染みやすい。
その後、ボーリングを二ゲーム。宿で本物臭い「茅台酒」を空けて、沈陽の巻きの幕は無事下りる。
その二 大連の巻
旅遊特急「遼東半島号」沈陽北駅8時発。
「6時半にロビーに集合」と言ったら、金さんが「早すぎますよ」と言う。
「貴女は北駅が何処か知っていますか」と意地悪く尋ねたら、勿論知らない。実は、私も昨年までのことしか知らないが、環状線工事とラッシュが重なると、車が動かなかった記憶がある。私も年を取って、走ったりは絶対にしたくない。それに私は日本人だが、中国人の彼女達よりずっと中国を旅行している。「常に余裕をもって行動する」は私のモットー。とにかく、何が起こるか分からないのが中国なのだから。
ところが今日は10月1日国慶節。殆どの企業が休みで、ラッシュもなし工事もなし。タクシーはオールノンストップ。7時過ぎには着いてしまった。姜さんが「早すぎる」と鼻を鳴らす。遅れて文句を言われるのは分かるが、順調過ぎて文句を言われるのは、片腹痛い。子供は待つことが苦痛だ。この子達も、汽車は動く時間に乗るものと思っている。
早いついでに朝食をと、駅前の凱来ホテル(四つ星一流)の前にタクシーを停め、洋式のバイキングを食べる。これが又失敗だった。お勘定の時、財布を預かり会計を担当している金さんが「ひえーっ」と悲鳴を上げる。一人78元(日本円約1300円)は安くもないが、内容的に高くもない。しかし彼女は、大連のホテルと「歯ブラシを持って行くから少しまけろ」と、そこまで努力してくれているのである。この一食で全てを水泡に帰してしまった。申し訳ない。第二楽章は一転して荘重なムードで、始まった。
私達が乗車したのは発車数分前。座席指定のグリーン車だが、例によって皆適当に座っている。そして例によって、先に座った方が偉そうにしている。最近は私の中国に対する好き嫌いもはっきりしてきて、これはどうしても好きになれない一つだ。だが延々と座席の交渉をするのはもっと嫌だから、苦虫を噛み潰した思いで空いている席に座る。今日もこのまま我慢をするつもりだったのだが、それを金さんが交渉して、小池先生と並びにしてくれた。向かいの席が偶然だが、沈陽テレビで経済方面の解説委員をしている劉豊慶さん。車掌が「貴方は沈陽テレビの劉豊慶さんですよね」と語り掛けたので、私も知った次第。マスコミ関係の人らしく話題も豊富。
遼東半島一帯、中でも大連近郊の農家は年収入が3万元(日本円約50万円)。都市労働者の年収が約6千元(日本円約10万円)だから豊かと言える。主産業の林檎と梨畑の間に点在する農家はスマートで裕福さを象徴している。一般に内陸農家は貧困で、沿岸部と内陸部の貧富の格差が、改革開放経済のもたらした負の産物としてクローズアップされている。
ここはかつて、超特急アジア号が時速140キロで、長春(以前の新京)大連千数百キロを、約8時間で結んだ所だ。全車鶯色のスマートな車体は、「東洋の貴婦人」の愛称そのものだった。いま彼女は、沈陽南郊外蘇家屯にある蒸気機関車博物館に身を横たえている。残念ながら、その保存状態はあまり良くない。露天に雨曝しだ。
今日はダイヤ改正の第1日だそうで、この列車も平均時速100キロまでスピードアップされた。予定通りなら12時5分に着くはずだったのだが、到着を間近にした11時半、三十里駅という小さな駅に臨時停車する。劉さんが、先頭車両まで行って見てきてくれたところによると、機関車が故障したらしい。駅員が消火器を持って動いている。さっきからずいぶん煙りを吹くと思っていたが、ディーゼル機関がオーバーロードで過熱したのだ。何が起こっても不思議でない中国で、早くも第一のトラブルに遭遇した。
トラブル慣れしているのか、或いは列車はお上に乗せて頂くものと諦めているのか、乗客は皆落ち着いている。車内放送も無い。一時間を過ぎると、私も少しいらいらしてくる。
「日本では考えられない。少なくともどうなっているのか、車内放送をすべきです」と私が言ったら
「そう、我が国の一つの問題点は、透明度です」と、マスコミに携わっている人らしい返事が返ってきた。
「民は知らしむべからず。寄らしむべし」
とは言っても、経済が開放された今、民は知る権利も主張するはずである。
列車は、一時間半遅れで大連に到着。車内放送で、遅れた理由とお詫びの言葉が流れる。劉さんが「当然です」と、にっこり笑う。中国鉄道局も、乗せてやる列車から、乗って頂く列車に変貌しつつあるのだ。
宿舎渤海ホテルは、大連駅を降りて左、30階の大型ビルである。この建物が目立たないくらい、周囲には大型ビルが林立している。更に新築中のビルが、遠望できるのを含めて8あった。劉さんが、経済解説委員の立場から、元の切り下げは無いと断言していたが、アジア諸国が不景気の中で、中国といえども例外でないはずだ。このビルラッシュは、何処から来ているのだろう。
荷物をホテルに置くと、とにかく大連の街に出る。地図を買って、その上に幼い日の古い記憶をなぞらせていると、姜さんが「そんなもの、後で見て」と私の記憶の糸を引き千切ろうとする。はしゃいだ子供が、周りの大人を自分の遊びの中に引き摺り込もうとするあれだ。
埠頭の楕円形の建物、長崎通いの船、アカシアの並木道、卵石を敷き詰めた浜辺。
誰にもあると思うのだが、「前後の脈絡がはっきりしない、背景のかすんだ絵の数々の断片」。それはその人の最も古い記憶。絵が飛び散らないよう、私は急いで地図を押さえた。
大連は、上海と並ぶファッションの街でもある。駅前広場の横に韓国系の服飾百貨店があった。これを彼女達が見逃すはずがない。ちょっと気に入ったセーターが見つかり、早速試着室に入る。彼女達の一人だけのファッションショーを、私は丸椅子に座り所在なく待つ。続いて小池先生を交え、しばし値段交渉。やっと終わったと思ったら、また次ぎになにやら見つけたようだ。
もう私も我慢できない。「6時までには宿に帰るから」とタクシーに飛び乗った。背景のかすんだ絵の断片を拾い集める時間は、一時間も無い。
「星海公園と、埠頭と、理工大学。あとは6時まで渤海ホテルに着けるよう好きに走ってくれ」と運転手に告げる。
星海公園前の広場を、運転手君自慢する。確かに規模も大きく美しいが、新しい物にはあまり興味は湧かない。車を待たせて浜辺に降りる。平凡な海水浴場に過ぎないここには、卵石なんか無い。
ところがなんと言う奇跡か、埠頭に有ったのである。それも歩道の敷石の上に、60年間私が来るのを待っていたように。母が置いて呉れたのに違いない。私は拾い上げるなり思わず頬ずりした。
軌道電車、大和ホテルを始め古い物も、大事に保存されている。これらは、一つには観光資源でもあるのだ。運転手君、まさに神風のように市内を突っ走り、約束の6時2分前にホテルに着けて呉れた。
「しまった、この素晴らしい運転手君にチップを上げていない」と苦い気持ちを抱いたまま慌ててエレベーターに飛び乗り、部屋のドアを開けたら
「一分遅れたから、一元の罰金。でもまけときましょう」と暖かい歓迎の言葉が待っていた。小池先生卵石を見て「そんな物の何処がいいの」と不思議そうにおっしゃる。もう私は、弁解する気力も、説明する気力もなくなっていた。
荘重なムードで始まった第二楽章は、いま私の心の中で、暗く葬送曲を奏でている。
その三 旅順の巻
念のため大連駅前の公安詰め所で、旅順は開放されたか尋ねたら、まだ開放されていないと言う。びっくりして、「本当ですか?」と更に尋ねたら、貴方達に嘘を言ってなんになるといった表情で「本当ですよ。でも貴方達は、いけないと言われたことをしなかったらいいのです」と言う。なんだ。制限付きだが開放されているのだ。
今日は国慶節連休の一日で、家族連れが多い。
「203高地も案内します」と客引きのガイドが寄ってくる。日本とロシアの激戦地203高地に、中国人はまず関心を示さない。小池先生はどこから見ても日本人だから、それを知った上での勧誘である。車も新しいと言うので、この一行に加わることにした。
ところが、この20人乗りのマイクロバス、交差点で止まってギアをローに入れる度に
噛み込み、凄い音を立て、ときにエンストする。これは無事持つのかな、と心配していたら果たして、旅順まで全行程70キロの20キロ程残した、黄泥河トンネルに差し掛かったときだった。トンネル内は交互通行になっていて、折りしも赤信号で停車。例によってガリガリやっているうちに、バッテリーが上がってしまった。
乗客の携帯電話を借りて本社に連絡しているが、元々代車が有ったらこんなボロ車を配車するはずがない。運転手君ボンネットを開けて悪戦苦闘するが、どうにもならない。
「これは、押さなくてはどうにもならないね」と、先ほどの携帯電話を持っていた乗客に言ったら、「運転手が何か言うまで待とう」と言う。この人を含め、乗客は誰も文句を言わない。一時間も、もたもたしただろうか。運転手君申し訳なさそうに、男の人は降りて押して呉れと言う。女子供は降りようとしないから、「皆降りて」と私が言っても、姜さんが「私達は乗っていてもいいでしょう」と不服げな顔をする。押す人の身にもなってみろと言うのだ。「駄目、皆降りて」と今度は日本語で語気鋭く言ったら、一人の子供を除き皆あたふたと降りて来た。
トンネルは全長約150メートル。中腹までは登り、ギアーはニュートラル。中腹過ぎ
ギアーを入れると同時にブルンと軽快な始動音がした。やれやれ、第二のトラブルもなんとか解決。もう何が起こっても驚かないぞ。
旅順口砲台、弾薬庫、万忠墓と見学したところで昼食。私達は皆が昼食をしている間、昼食抜きで203高地に登る。ところが今度こそ車が徹底的に壊れてしまった。幸いタクシーが拾えたので、それで登る。
海抜203メートルの、なんの変哲もない丘。乃木大将が名付けて「爾霊山」(にれいさん)。この丘の中腹の小さな谷を、日本軍一万の将兵の屍が埋めたのだ。
「もし、この戦争に日本が負けていたら、日本はどうなっていたでしょうね」と姜さんが問い掛ける。問いの意味は、日本の近代化、軍国化がどうなったかだが、歴史に「もし」は無い。私は敢えて別の返事をした。
「分かりません。しかし間違いなく言えることは、私も貴女もこの世に生まれていなかったと言うことです」
この戦争の帰趨は、極東の歴史を大きく変えた。それはまた、この地に生きる全ての庶民の上に、荒波のように襲い掛かり新しい運命を作った。
その四 再見大連の巻
幾度もの車のトラブルで、予定の時刻は大幅に過ぎ、大連に戻るなり夕食をとる。小池先生が「彼女達日本語教師としての実地研修の意味で、日本料理はどうだろう」と言う。日本料理は値は張るが、大連なら本場物を食べられるはずだ。私も賛成したのだが、これは彼女達にとって、有り難迷惑だったようだ。でんと丼一杯持ち込んだキムチが、日本料理を押しのけるようにテーブルの中央に鎮座し、一種異様な雰囲気を醸し出す。彼女達はこれでご飯。味噌汁、茶碗蒸、それに天婦羅の一部には箸をつけるが、刺し身と寿司には眉をひそめる。おでんも駄目。まあ私達も正直犬料理には抵抗があるし、蛙そのままの鍋物となると、聞くだけでぞーっとする。しかし食べる。この娘達に、同じことを期待するのは無理だろう。
彼女達は「折角日本語を勉強したのだから、日本で働きたい」と言う。それで、保証人になって呉れとは言わないが、なって欲しそうな口振りをする。保証人は何を保証するのか。日本の法律を遵守し、風俗習慣を尊重できる人であることを保証するのだ。刺し身を食べることが風俗習慣の尊重とは言わないが、眉をひそめなくてはいけない程嫌な異国文化の中で暮らさなくてはいけないなら、その人にとって不幸である。キムチを持ち込めば解決する、といった問題ではない。
久し振りの日本酒、それに白酒ビール。最後、ホテル最上階の展望食堂でぶどう酒をやったのがいけなかった。ぐだぐだになって醜態をさらしてしまった。
昨夜の酒がまだ残って、疲れも溜まり体調は最低。彼女達は益々好調。出発までの寸暇を惜しんで、海産物市場で買い物をすると言う。私は宿で待たせて貰う。
例によって、発車3分前乗車。いざとなれば高速バスで帰ればいい。もう私もいらいらしないことにした。
列車は各駅停車の鈍行。座席はグリーン寝台のコンパートメント。皆さんは、これで明日の朝延吉に着く。私は沈陽で途中下車。7時間掛かる。
小池先生が煙草を吸おうとしたら、寝そべっていた金さんに「駄目!」と足で煙草を蹴落とされた。やって呉れます。これは流石にお嬢さん達も気が差したのか、自分で自分のお腹を抱えてけらけら笑う。第一楽章、明るく軽快なアレグロで始まった「センチメンタル漫遊記」は、彼女達の身の上にはまだ、明るく続いている。しかし私は、笑いを合わせる元気も無くなっていた。
確か保証人の話しから、必要な書類の一つとして、戸籍を記載した住民票が要るといったことが話題になったときだったと思う。小池先生が無国籍者になりたいと言う。いかにもコスモポリタンの小池先生らしい考えだが、実際問題としては難しい。第一パスポート無しでは、明日から中国にも居られない。無国籍、即ち全ての束縛からの解放を願う男のロマン。一見奔放豪快に振る舞っているこの先生の、この矛盾と葛藤は何処から来るのだろう。小池先生とは中国で4年以上のお付き合いだが、お互い立ち入った話しはしていない。先生の心の襞を、一瞬垣間見た思いがした。意外に寂しい人なのだ。二人共無言で、車窓の景色を眺める。
突然「長崎は今日も雨だった」の日本の曲が、車内放送で流れて来た。思わず個室内のボリュームを上げたら、「喧しいから小さくして」と金さんが言う。確かにこの曲はピアニッシモで聞くほうが良い。車輪の音にかき消される寸前までボリュームを落として、むせび泣くようなブルースに旅の感傷を重ねた。
「漫遊記」は哀調とともに幕を降ろそうとしている。
旅は寂しかるべ
唐土の地に「長崎の歌」聞きて心湿らす
渤海の明珠大連は、我が故郷長崎を結ぶ地なり
アカシアの並木道は、母と馬車に揺られしところ
卵石を拾いて海辺に遊ぶ
ときは流れり、人は去れり
潮騒かそけく遠く病める妻の吐息を運ぶ
嗚呼、旅は寂しかるべき
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