鶏西は黒龍江省東、ソ連国境に近い炭坑の町である。鶏冠山の西に位置する故鶏西市と名付けられているが、もとは鶏寧県だった。今は市内の人口90万強だが、当時はほんの数万人だったはずだ。
1945年4月、終戦を間近にして父三十六才。撫順から急遽この町に鶏寧県総務課長として赴任した。既に病の床に久しかった母は動けなかった。父と六十二才の祖母二人がこの戦雲急な国境の辺鄙な県に赴いた。母と私、弟、幼い妹が撫順に残った。
母と妹は翌年亡くなる。
父は4年前八十九才で他界した。
父は最後まで侵略を認めなかった。そんな父に私は頑なだった。
鶏寧は、もう一つ私に個人的な縁を生む。帰国後父がこの鶏寧で知り合った女性と再婚したのである。つまり私の義母もここで暮らしていた。父の上司鶏寧県知事の奥さんの妹、当時二十六才。
その義母も今年84才。一昨年脳梗塞で倒れ病床に伏している。彼女が元気なとき、断片的に引き上げの様子などを聞いたことはあるが、詳しくは何も聞いていない。今回鶏寧に行くと話したら、「そうかね、そうかね」と何回も嘆息をついた。しかし後遺症の言語障害で、詳しい話は何も出来ない。母の姉が健在で、1941年に一度鶏寧に行ったときの思い出を話してくれた。
坂道に鈴蘭が咲いていたそうである。母の姪になる人が私より三才下で、やはり鶏寧に住んでいたのだが、詳しいことはあまり覚えていない。彼女からは、当時開拓団や医療機関の人達で作っている会報、「東仁医報」を資料として頂く。
さてこんな頼りない手掛かりで、何が得られるのだろう。私は鶏寧の土地に立つだけでいいと、ハルピンから牡丹江への列車に乗った。
ハルピン〜牡丹江約300キロ。特別快速で4時間。牡丹江から鶏西は200キロない。軽く考えていたら、どっこい。牡丹江から普通列車で7時間掛かるという。
駅前に、マイクロバスの長距離バスがあったので、運転手に聞いたら、2時間半で着くという。もうすぐ発車するともいう。しかしこのもうすぐは一時間半かかった。この手のバスは、客が満席になるまで動かない。乗りかかった舟ならぬ、乗りかかったバスである。諦めてそのままひたすら発車を待つ。
しかし蹉跌はここまでだった。このあと思いがけない幸運が次々と訪れる。
第一の幸運
鶏西で一番大きいホテルに荷物を預け、夕食をとるため外に出た。北国の夜7時はもう真暗い。詳しいことは明日調べるとして、下調べのため市内をタクシーで回ることにする。
折りしも外は中秋の満月。感傷に浸った私が、独り言のように運転手に語り掛ける。
「実は私の父が、昔ここで満州国の官吏をしていた。それで何か名残がないかと尋ねてきた。」
「えー!私は満州族で祖父は満州国軍の少将だった。戦後は祖父もソ連に抑留されて、20年間監獄に入っていた。」
更に言葉を継いで、
「私達は同類だね。有縁千里来相会。(縁有りて千里相まみえる)」と言う。
祖父から三代に亘る生粋の土地の人間という彼が、まず街灯に照らされた駅前の六車線の舗装道路を指差し「ここは(黄土路)未舗装のでこぼこ道だった」という。
両脇に低い土塀と、平屋。犬の鳴き声。馬車、ロバ・・・土埃、目をつぶるとすぐその光景が目に浮かぶ。
彼が案内してくれたのは、「鶏西樹梁中学」だった。
「ここがあなたのお父さんが仕事をした場所かどうかは分かりません。しかし建国当時鶏寧県の事務所はここにありました。」
全てといっていいほど、殆どの当時の建造物は残っていない。その場所がどこか分かるだけで十分である。まず間違いない、ここが鶏寧県庁の跡だろう。
50才の彼自身が、58年前のことをそのまま知らないとしても、彼の子供の頃の状況を思い出すままに語ってくれる。
兵器の工作所みたいなところがあったらしい。子供の頃の遊び場所だったそうだ。ここから1キロほど離れた山腹の住宅地を指差し、「このあたりが、昔日本人が住んでいたところだと思います」という。そして殆ど古くなって撤去されたけど、一部残っているかもしれませんともいう。
しかし既に日もとっぷり暮れているので、明日また訪れることにして、遅い夕食にすることにした。中華料理は一人で食べるのは空しい。彼が火鍋に付き合ってくれた。
66年に文革が始まる。65年にソ連から戦犯として出獄してきた彼の祖父と一属は、身を潜めて暮らしたという。
鶏西のタクシーは、初乗り料金が5元というだけで、メーターが無い。「幾らでもいいです」と彼が言うから、50元渡した。2時間以上も、ガイドさせて市内をぐるぐる回ったのだから、相場かなと思ったのだが、彼多すぎると言ってどうしても受け取らない。押し問答をしていると、何事ならんとホテルのボーイ等人だかりがする。
タクシーの運転手が、「多すぎる」と言って料金を受け取らないこの前代未聞のやりとりを「貰っとけよ」と言いながら見守っている。20元と幾らかの小銭を受け取って貰ってこの騒ぎは収まった。
ここにこの縁深い運転手の名前を記し、お礼に代えさせていただく。「関 太平」
第二の幸運
明くる朝、この勤勉な町の7時はすでに活気に満ちている。
早速タクシーで昨日の中学校に行き写真を撮る。すこし自分で歩きたかったので、タクシーを捨て、それらしい所を歩き回ってみるが、全然それらしい物がない。違うとは思ったが、古い工場みたいな建物の前に十人くらい人がいたので、
「あれは建国以前の建物ですか?」と尋ねてみる。
勿論違う。更に近くを流れる「木蓮河」に掛かっている橋のことも聞いてみる。
「建国前にそんなのものがあるはずが無い」と言ったあと「あれは改革開放後のものだ」という。
そして、何故そんなことを聞くと不思議そうな顔をするから、事情を説明して、なんでも古い建物があったら教えて欲しいと言ったら、一人が「あの給水塔は日本人が建てたものだ。」と言う。
そして「第十三給水塔」と言えば、タクシーなら皆知っていると言う。礼を言ってタクシーを拾ったら、「変な所に行くな」と不思議そうな顔したが、連れて行ってくれた。
「写真を撮りたい。」と言ったら、色々と良い角度を教えてくれる。
これで諦めてホテルに帰る途中の車中だった。
「あんた土地の人間かね。」
「そうだよ、あの給水塔のすぐ近くさ。」
「昔日本人が住んでいた所を探しているのだけど、もう無いだろうね。」
「あの給水塔の真下の家は、日本人が建てたと聞いているよ。」
「早くそれを言わんかい。戻るぞ。」
「OK」
「この辺の人間は皆顔見知りだから、他も聞いてあげよう。」と彼が順番に当たってくれる。
中の一人が、「私が知っているから案内しよう。」とタクシーに乗り込んだ。
程なく着いた所はまさしく其処だった。いくら古くなっても、昔日本人が住んでいた建物は私には一目でわかる。この風格のある建物は間違いない、元知事公舎だ。義母とその義兄が住んでいた所だ。隣の一回り小さいがそれでも、回りとは違う品格ある建物は、総務課長父のいた官舎だ。書斎と思しき窓際に父の影が見える。庭には祖母が立っている。私は確信した。
ここは鈴蘭の花がよく似合う。
父の霊が私を呼び寄せたのだ。
「お父さん、あなたは青春の全てを中国に捧げたのですね。」
生前はどうしても言えなかったこの言葉を、私はやっと言った。父の満州国官吏として最後の勤務地で、私の満州も終わった。
|