「アジア体育祭」

 

楊爽さんからアジア体育祭の案内が来たのは、看護婦学校の教師の仕事を終わり、帰国後10ヶ月程過ぎた1998年夏も始めのことだった。

「秋に瀋陽市で第一回のアジア体育祭を行いたい。その中の一催しとして、日中韓三国アマチュア囲碁大会を計画しているのだが、代表団を派遣して欲しい」という。

中国では囲碁もスポーツ部門に属しているから、体育祭で碁を打つことは不思議でない。それにしても時間がない。関西棋院の星川八段に相談したところ、幸いご協力頂けることになり、愛媛を中心に選手団及び交流団を急遽結成した。

団長星川信明関西棋院八段、苑田勇一関西棋院九段を顧問とする一行17名である。

 

春に瀋陽大阪の直行便が開通し、関空からわずか二時間半で行ける。

828日、台風4号が発生しているが、まだ南方海上遥かにある。

飛行機はわずかに遅れたが、ほぼ予定通り瀋陽郊外桃仙空港に着。楊爽さん(この大会の囲碁部門責任者で、中国棋院二段の女流棋士。25才)他関係者多数の出迎えを受けて、バスで宿舎のある市の中心地へ向かう。

このアジア体育祭の開催に向けて、二号環状線、市役所前広場、中街等商店街の整備は目覚しい。

到着した夜は、囲碁関係者の招待宴会。ここで楊爽さんが最高責任者として歓迎挨拶をしたのには驚いた。こんなに若い人が、国際行事に第一線で活躍しているのだ。

 

明けて二日目は、アジア体育祭の開会レセプションに招かれる。これもこの大会のために作られたリゾート施設「緑島」での、野外立食パーティー。会場に向かう途中、私達の乗ったバスが市内の混雑を、赤信号を無視して突き抜け、高速道路の追い越し車線を突っ走る。何と、パトカーが先導して呉れているのだ。クラブハウスの前庭は、二万平米はあろうか。各国の選手団、中でも蒙古民族の衣装を纏った選手団と、シルクロード沿いのどこかの国からきた美人選手団が人気で、私達も次々にこの人達と記念のカメラに納まる。「これは素晴らしい」と皆が十分に満足したのだが、この後にもっと素晴らしい感動が待っていた。

 

レセプションの終了が7時。「次は総合体育館に行きます」と、通訳の人が言う。何をするのか尋ねても「開会式です」と答えて呉れるだけで、詳しくは分からない。

これも何使うか分からないまま、楊爽さんに頼まれて持ってきた特大の日本国旗を広げて、星川団長始め四人がその四隅を持つ。その後ろに残りの団員が横隊作って続く。なんと私達は入場式に参加するのだ。

6万大観衆の待つ中、カクテル光線に日の丸が照らし出されたとき、一瞬場内が静まった。続いて嵐のような拍手が湧き起こる。星川団長の振る手につれて高揚する拍手は、あきらかに私達へのものだ。皆口々に「これはオリンピックだ」と感激の声を上げる。

日本で言う満州事変として日本が侵略を開始し瀋陽で、このような暖かいもてなしを受けたことに私は感動したのである。

かつて侵略の象徴であった日の丸が、平和の殿堂の中を中国の人達の暖かい拍手に包まれて、堂々と行進している。

「日の丸よ、永久に平和なれ」

と祈りながら、私も6万大観衆に手を振った。

 

  試合は中国が二チーム、韓国が一チームそれに私達日本の4チームが三日間一日一試合リーグ戦を行う。一チーム5名、試合は午前中だけ。一般交流参加の人達は、観戦するもよし、アマチュア同士友好対局もよし。Nさんなどは、ご婦人を選って対局していたようだ。

  午後は韓国からの専門棋士も交えて、指導対局と交流対局である。苑田九段と星川八段の前は特に人気があり、指導対局を希望する人が絶えない。7,8才の子供が起立して礼をし、星川先生の「好」「不好」だけの中国語の解説に、真剣に耳を傾けているのが微笑ましい。「手談」に多くの言葉は要らないのだ。

 

さて、肝腎の試合の結果だが、優勝候補と目される中国Aチームと韓国チームの結果を中国選手に尋ねたら「私達は非友好的でした」の返事が返って来た。どうも勝ったらしい。これは良い言葉だ。この言葉を借りるなら、我々は非常に友好的だった。初日松田さんが中国Bチームに一勝をあげたのだが、遂に両目は開かなかった。しかし、高下さんの半目負けを含め惜しい碁は随分あった。

韓国の人が「次は、北朝鮮の人も交えて一緒にやりましょう」と私の手を固く握る。碁に国境は無い。碁を通しての庶民同士の交流が、国際平和に貢献できたらどんなに素晴らしいだろう。是非実現したい。但し、次は私達も、もう少し「非友好的」に振る舞わせていただく。

瀋陽の四泊五日は、連夜の宴会で,胃袋の休まる間もなく過ぎた。

  「瀋陽は素晴らしい、必ずまた来ます」との、星川団長のお別れの言葉に、皆の気持ちを代表した実感があった。

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