受難の記

 

 ついに、心配していたことが起こった。

メーデーの連休を利用して、丹東に一泊旅行し帰った晩のことである。


列車は八時に着き、そのまま帰ったら間にあうのだが、食事をしたら門限の十時を過ぎる。そこで八時四十分位だったろうか、食事をとる店から宿舎の看守員温爺さんに、

「少し遅くなるかもしれない」と電話を掛けたら、

「電話で言いにくいことが起こりました。帰ったらゆっくり説明します」

なんだか胸騒ぎがするが、とにかく食事を済ませて帰ったのは十時を十分程まわっていた。

 何故か、部屋の窓が開いている。宿舎の玄関を入ったら、屈強な男が数人それに宿舎の所長も居る。

所長がまず口を開く。

「実は貴方の部屋に泥棒が入った。今公安が調べているから部屋に入るのは待って欲しい」。

私が最初に思ったのは「しまった!窓を開けたまま出かけたか」ということだった。

「もし、私の不注意がこの事件を引き起こしたのなら申し訳ない。私は出かける時は必ず(指差呼称)で電気と戸締まりだけは確認する癖をつけているのだが、絶対に間違いないとは言えない」

と頭を下げた。

 文字にすると、私は随分落ち着き払っているようだが、実際は動転している。このときは窓さえきちんと閉めて出れば、この事件は起こらなかったと思いこんで、後悔の念に駆られている。パソコンは絶対に無くなっているだろうなと思った。

 所長が、部屋の中の主な物を言ってくれという。パスポードとカメラは持って出ている。まずパソコン。五年前のPC98ノート型。本体価格は0みたいな代物だが、固定ディスクに入っているソフトが痛い。

他に電子ブックプレーヤー(日本大百科全書)は, 今度来るときお母ちゃんに泣きついて買って貰ったばかりの貴重品だ。

ウオークマンも机の上に置いてスピーカーで聞いて使っているから無くなっているだろう。テープレコーダ、ラジオ、現金日本円13万5千円、   トラベラーズチェック28万円も盗られているはずだ。

スーツが四着あると言ったら、逃げる所を見た人の話しでは、あまり大きな物は持っていなかったようだから、それは残っているだろうと言う。

取り敢えず隣の留学生T君の部屋で休んでいたら、所長が来てパソコンはなくなっていないと言う。先ずはほっとする。発見が早かったのだ。  続いて守衛の温爺さんが来て

「申し訳ないことをしました」

と謝る。この爺さんの日頃から責任感の強いのは、私もよく知っている。

「貴方の発見が早かったお陰で、被害が最小だった。こちらが感謝している」

と手を握ったら、彼ほっとしたように、状況を説明してくれた。

  8時過ぎ(正確には8時25分)に見回りをしていたら、私の部屋のドアが少し開いている。私が旅行に行っているのは知っていたのでおかしいと思ってノックしたら、中から鍵を掛けて逃げられた。ちょうど今寮の増築工事をしていて、裏に飯場がある。そこの人が逃げる所を目撃したが、賊は二人で一人は背が低かったと言う。

 何故ドアが開いていたか。後で分かったのだが、私の部屋の、電気のスイッチは本棚の陰になっていて分かり難い。机の上のスタンドは、蛍光灯の接触不良で、ちょっと点けるのにこつが要る。窓からの明かりだけでは暗い。それでやむを得ず、廊下の電灯から明かりを採るためドアをすかしたのだ。

 幸運はまだあった。公安の立ち会いで部屋に入ったら、意外にも現金とトラベラーズチェックが盗られていない。これも後で分かったのだが、

机の一番右、いかにも貴重品入れといった鍵付きの引き出しがある。鍵は掛けていない。その中の手前の方に、透明の名刺入れの箱に、小銭を山のように容れていた。その小銭がなくなっている。賊はそれに気を取られ部屋の暗さとも相まって、奥の大金には目が行かなかったのだ。

  衣服を容れた箱が掻き回されているのは、宝の山に入ったはずなのに、収穫の少なさに苛立った彼らの心理的不満を物語っている。

  これまで判明している被害物件は以下の通りである。

被害物件       個数   ¥    人民元

電子ブックプレーヤー 一個   80000     5300

ウオークマン     一式   16000     1100

テープレコーダ    二個   26000   1700

旅行鞄        一個    7000      500

  上記中身 下着   一揃   10000      670

電卓         二個    1000       70

ディスク(ニイハオ) 四枚   40000     2700

鞄          一個    8000      530

目覚まし時計     一個     2000      130

     

      計            190000    12700

  旅行鞄と鞄は、盗んだ品物を容れて持ち運ぶために使ったものと思われる。下着が一揃い容れていたので、一緒に持って行かれてしまった。

 被害物件に共通しているのは、いかにも子供が好きそうな物ということだ。私にとっては痛い電子ブックプレーヤーも、システムディスクも、彼らにとっては猫に小判だ。

 事実、公安の調査により判明したのは、進入経路サッシの窓。賊は二人、少なくとも内一人は子供。残された指紋と足跡からの推察である。窓辺に置いていた中国将棋の盤面に足跡が残っていたので、証拠物件として持っていかれる。

 公安が帰った後、窓を閉めようとしたら閉まらない。このとき私は、はっと全てが閃いた。窓は確実に閉まっていたのだ。そして犯人はこの窓の開け方を知っていた可能性が強い。

 早速所長を呼んで、窓が閉まるように直して貰う。大事なことなので山本さんにも立ち会って貰う。

  何故私が「窓は確実に閉まっていた」と言いきれるか。

  もし窓の鍵が開いていたら、窓は自然に開いたはずである。従って、こんなに不自然にこじ開けた状況は、残っていないはずである。何故窓は枠ごと外れていたか。実はよく見ると、鍵の噛み合いの溝が浅く、外から窓を軽く押したら二つある片方の噛み合いが外れる。そのあともう片方の鍵の掛かったままの窓枠全体を動かして、外から開けることが出来るのである。

 日頃は、私の部屋の前は地面から窓枠までは1メートル50位あって、大人でも簡単には上がれない。しかしその日は工事用の砂利が窓辺に積まれていて、子供でも簡単に上がれた。

事件発生の二日前、その砂利に登って、10才前後の男の子が私の部屋を覗いていた。机の前で仕事をしていた私は不愉快だったが、子供のことだとほっておいた。その子が入ったとは言わないが、一般に子供は好奇心が強く、また知ったことを黙っておれない。彼のおしゃべりが、賊の情報源になった可能性は高い。私が前日旅行に出たことを知り、帰るまでの時間、砂利がある条件。彼らの立場から考えたら、決行のチャンスはこのときしかなかった。

 

 夜が明けるとすぐ、学校の王書記に電話を入れる。

 「被害が少なくて良かった。中国人同士の事件なら、公安も構って呉れない。外国人の事件なので、公安も地区以外に市の公安も省の公安も来た。しかしまず解決しないだろうから諦めた方がいい」と慰めてくれる。

 以前北京で、鞄にカメラを入れたまま電話ボックスにちょっと忘れて無くなったとき、親しい友人に「貴方は鞄を忘れても自分の名前をまだ覚えているからいい」と言われたことがある。つまり中国人は失ったものより残っているもの、良い事を列挙して慰めるのである。

この習慣を知らないと、慰められてかえって腹が立つ。寄ってたかって、人の不幸を肴に楽しまれているような気になるのは、私だけのひがみだろうか。

 校長が“銭財身外物、生不帯来、死不帯去”と書いて呉れる「生まれて来た時は裸でないか、財産なんてどうせ死ぬ時は持って行けない物さ」の意味がそのまま漢字から読みとれる。更に“留得青山在不愁没柴焼”と書いて呉れる直訳すれば「山さえ残っていれば愁うるなかれ柴はまだ燃えていない」となるのか「青山」には人生とか、前途とか、希望とかの意味が含まれている「柴」は「財」と発音が似ているそこで意味は「希望を持て大事なものはまだ残っている何も愁うることはない」ということになる

 以前ここの宿舎の職員で既に退職し、留学生に中国語を教えている年輩の元職員が居る。彼一言居士で、日頃から私にも説教口調で物を言うのだが、次の日ロビーで、向こうから私を呼び止めた。例の中国式慰安言葉で私の神経を少なからず逆なでして呉れたあげく

「貴方も気をつけるべきだ」

と言う。これには私もついに爆発した。

 「君が一体何が分かっていると言うのだ。仮に好意から出ている言葉だとしょう。それにしても安全を含め服務を提供している立場の人間がユーザーに言う言葉ではない」

 と厳しく言ったら、彼まだぶつぶつ言っていたが分かって呉れたかどうか。固唾を飲んで成りゆきを見守っていた他の服務員も無言で、気まずい雰囲気が流れる。

 

  宿舎の従業員で、いつも私の部屋に中国将棋を教えに来て呉れる陳さんが、「私も疑われるな」と憂鬱な顔をする。指紋も残っているし、子供の仕業だということも分かっていると私が言ったら「こんなことは子供でないと出来ない」と言う。その意味は外国人への犯罪ということで、量刑が倍にも三倍にもなり、大人は割にあわなくて恐ろしくて出来ないというのだ。

更に文化大革命時代は、大勢の人がなんでもないことで濡れ衣を着せられたとも言う。

 

  10日経過

  公安からはなんの音沙汰もない。所長に聞いたら、彼の方にも何も無いと言う。

こんな場合日本ならどうするか教えて欲しいというから、免許更新のとき教わった交通事故が発生したときの処理例に倣って説明した。即ち刑事、民事、行政方面の処理についてである。適切な説明だったかどうかは知らないが、基本的には中国も同じだと言う。

「私も中国人がこういう場合どう処理するか知りたい。これは私にとって一種の中国勉強だ。ならばそれほど高い授業料ではない。」

と言うと皮肉にとられたのか、彼も苦笑を浮かべながら握手の手を差し伸べた。

 

 20日経過

 今後の安全対策として、窓に花柄の鉄格子が付いた。これは評価出来る。これで夏も窓を開けて寝られる。

  公安からは何の音沙汰も無し。この話しに後日談が付くか、一切何も無しか。中国公安のお手並み拝見としょう。

 

 25日経過

 後日談は意外に早く付いた。

 5月27日、所長が来て犯人が捕まったと言う。学校の掲示板に「通告」が張り出される。50cmx80cm位の白紙に墨で書かれている内容は事件の経過、被害額概算、それに犯人の学校名、姓名の内姓だけ、名前の部分はxxとなっている。やはり子供だった。中学生だ。通告文は, 目下厳重取調中で終わっていた。

 偶然だが、最近テレビで非行少年の特別番組があった。年端もいかない子供が、入れ墨をしているのが映る。中国でもこのようなことは社会問題になっているのだ。

 先の陳さんの話しによると、こんな場合家には簡単な通知書が行くだけで、一般に親は、子供が何処で取調を受けているかも分からないと言う。テレビでも重罪犯罪人の見せしめの公開裁判は珍しくない。犯罪には厳しい。

泥棒が捕まったのだから、品物がすぐ返ると思ったらどっこい、泥棒が捕まってから二週間経ってもまだ返らない。所長が公安から聞いた所によると、品物は殆ど無事に揃っているという。盗難届に無い物もあるそうだが、

「私だって部屋に何が有ったか、皆は覚えていないよ」

と言ったら、それはそうだと理解して呉れた。

 

 40日経過

 犯人が捕まって15日目、意外な人が訪ねて来た。暫くあたり障りの無い話題の後彼が切りだしたのは、このことだった。

 「実は、先日捕まった子供は私の知り合いの子供です。そこでお願いがあるのですがよろしいでしょうか」

 「いいですよ。どうぞゆっくり話して下さい」

 「子供の量刑を少しでも軽くする為に、被害額を少な目に訂正して頂けないでしょうか」

 「私も親御さんのお気持ちはよく分かります。出来ることはなんでも致しましょう。しかしどうやってするのですか。責任者の所長を通して話して下さいますか」

 「もっともです。では、私から所長に話しましょう。先方の親がお詫びを兼ねて伺いたいと言っていますが、今晩お暇ですか」

 「それはかえって気まずくなる恐れがあります。お気持ちだけ頂いて、会うのは遠慮しましょう」

明くる日の夕方、所長に「例の件どうなった」と聞いたら、彼きょとんとしている。昨日の件を簡単に話したら

「そんな事出来ませんよ」

と血相を変える。私はてっきり彼は既に知っていると思っていたので、まずい事になったと思っていたら、彼の方から

「お互いに何も知らないことにしましょう」

と言って呉れたので、私もほっとした。

 品物の返還が遅れているのと、このようなことと或いは関係が有るかも知れない。(走後門)「非合法手段」に訴えても何とかならないかと、画策する親の心情は私も理解出来る。もう暫く成りゆきを見守ろう。

 

 46日経過

 6月17日。朝食を済ませたばかりの7時半過ぎ、鉄西区公安の孫東波さんが来る。私の出勤前も見計らって来たのだ。

「先に提出を受けた被害者届に基づいて、正式に被害者調書を改めて作成したいのですが、構いませんか」

と言う。

 実は、今日授業は無い。早速私の部屋に通って貰った。

 三十才過ぎだろうか、小柄で人懐っこい孫さんは、話しの合間にじっと私の顔を覗き込むようにして笑顔を見せる。

天下の中国公安の取調を、二人きりで受けることになった私の不安を取り除くように、まず雑談から始まる。私も貴方の名前は覚え易い。あの有名な詩人蘇東波に似ているからと言ったら、彼きまり悪そうに笑いながら頭を掻いた。

八時過ぎ、出勤して来た所長が心配そうに用事にかこつけて私の部屋に来るが、私達が和やかに談笑しているのを見て安心して出て行く。「尋問記録」は四頁に及んだ。主として被害品詳細である。私も出来るだけ事を大げさにしたくないので、

「私にとっては大事な物ばかりだが、価格的には値打ちの無いものばかりです」と、事更に古い物だと強調する。すると彼も実勢価格は半額以下と書いている。

二時間近く掛かってやっと終わり、書類に確認のサインをした後、私から

「子供達の為に私が出来ることがあったら何でも遠慮無く言って欲しい」

と申し出た。孫さん無言で壁の耳を心配するように、手元の紙に

 「貴方のお考えを紙に記して頂けますか。私が子供のため有利に取り計らえるように」と書いた。

  勿論私に異存はない。

 「私は子供の気持ちが理解できます。人は皆過ちを犯します。それを改めさえすればいいのです。中国政府がこの子達に反省の機会を与えて呉れることを望みます。しかし私はどう書いていいか分かりません」

 と言ったら、その通り書いて呉れたらいいのですと言う。

 私が書いた、減刑嘆願書に孫さんが付け加えたのはただ一言(従寛処理)「寛大なご処置を」だけだった。

 

 「これは、決して私が強制して書かせたものではありません」と念を押すから、

「勿論です。私は子供のころ中国で育ちました。当時は私も泥棒は得意でしたよ。だからいまでも公安が恐い」

彼始めて声を上げて笑った。そして

「私達は友達です」

と私の手をしっかりと握った。

 

  午後、孫さんと部下が品物を持って来た。受取のサインをして一件落着。孫さんが一仕事をやり上げた人の満足感をたたえた笑顔で、

  「日本の警察は優秀だそうですね」

  「中国の公安も素晴らしいですよ」

  これはお世辞抜きの私の実感。国際的な体面を配慮して、特に力を入れてくれた点を割り引いても、初動体制、検挙の早さ、調書を作るときの応対態度全て一流だと思った。もう私は中国の公安を、無闇に恐れることはないだろう。