中国一口話  top
0010 ワンパターン ワンパターン 英語のような 中国語
0020 風変わりな姓 馬さんと 鹿さん結婚 何になる
0030 中国人の身長 もう少し 欲しいが身の丈 ままならず
0040 礼を言うより世辞を言え 教養が 滲み出るような 世辞を言い
0050 食事の重み ビジネスの 能力の差は 酒の量
0060 借りを作れ 恩着せる よりは恩着て 友を得る
0070 沢庵 労働の 汗の味覚が 塩求め
0080 中国人へ物の上げ方 心付け 直接渡す 心掛け
0090 家伝 嫁ぐ子に そっと持たせる 親心
0100 中国人の金銭感覚 握ったら 死んでも放さぬ それが金
0110 三顧の礼 借金取り 三度おいでと 追い返し
0120 一銭を惜しめ 宵越しの 金を惜しむな 名を惜しめ
0130 没問題 問題が 有るときに言う 没問題
0140 明天は希望の象徴 明天と 希望を託し 明日を待つ
0150 ニーハオ ニーハオの 元を糺せば ハウアーユー
0160 友好基本用語 友好の 決め手は「どうぞ」 一語だけ
0170 情報は金 旅人は ニュースとデマの 運び屋さん
0180 吃飯了吗? 満腹の 笑みに平和の 神宿り
0190 包子先生 ぴったりの 綽名を貰い 苦笑い
0200 家属 孔孟の 教えは君臣 父子の道
0210 議論好き 口喧嘩 異国の言葉で 被告席
0220 兵馬俑の顔 2000年 変わらぬ餌で 同じ顔
0230 砂漠の恋歌 馬子歌も 砂漠で聞けば 恋の歌
0240 緑帽子 亭主だけ 知らぬを陰で 嘲笑い
0250 赤脚医生 中国で 赤脚(はだし)の医者は 赤髭さん
0260 チャンコンの町 方言の ルーツを辿れば 海を越え
0270 豊年踊り 年寄りのディスコは 手を挙げ歩くだけ
0280 盲目の易者 中国の ノストラダムは 只の人
0290 街の音楽家 うつろいと 幻想の中で 時が過ぎ
0300 雀のお宿 害鳥の 濡れ衣雀 宿追われ
0310 蝿はどこへ行った? ご馳走は 蝿も味知る お相伴
0320 ニーハオトイレ ニーハオと 心が通う お尻合い
0330 ゴキブリは何処から来た ゴキブリも 食べてしまえば 蛋白質
0340 農家肥 10億の 口を養う 農家肥
0350 虫は永いお友達 我が物と 思えば虫も 愛らしい
0360 騙し上手 命だけ 残して呉れれば 詐欺も良し
0370 騙されて得した 騙される プロは詐欺師に 損をさせ
0380 最高のガイド 懐の 鳥には詐欺師も 情けあり
0390 将来の国宝 国宝も 1000年前は 只の壺
0400 ユーモアの天才 天才は 笑いで罪も 吹き飛ばし
0410 相互信頼 信頼が 何処でずれたか 詐欺になり
0420 不見不散 木枯らしの 中に佇み 君を待つ
0430 罰金 罰金も せちがらくなる 年の暮れ
0440 割り込み 鷹揚な 後の烏が 先になり
0450 福根儿 慌て者 残りの福に ありつけず
0460 一家人 団結の 固い絆が 一家人
0470 公私の区別 宮仕え 役所の物は 我の物
0480 中国人の団結 船頭と 和尚は少ない 方が良い
0490 中国の中の日本 想うほど 想われていない 片想い
0500 中国人の忠節 靖国も 歴史も政治も 食ってから
0510 中国人の(没有) 没有を 覚えて中国 通になり
0520 儒教思想と衛生観念 信じるは 己のまなこで 見える物
0530 徐福伝説 霊薬を 求めて徐福 蓬莱へ
0540 朝貢外交 日本で シルクロードは 旅を終え
0550 流浪の民 大陸を 追われてご先祖 日本へ
0560 一衣帯水 横たわる 一条の帯の 幅思う
0570 名宰相 魂を 揺さぶる口説きで 国治め
0580 役得 大岡の 裁きは 三方全て得
0590 袖の下 魚心 巧みに伝える 袖の下
0600 蛇頭 蛇の道と 知って分け入る 法の裏
0610 獄中詩人 月明かり 獄舎の窓辺に 子の笑顔
0620 小銭をねだる子供 物ねだる 飢えた子供に 罪は無い
0630 人身売買 人形の ように貰われ 玉の輿
0640 オール眼鏡屋 見渡せば 一色だけの 旗が立ち
0650 結婚式 結婚の 祝いも時代の 波を受け
0660 中国のインテリ インテリは プライドを食べ 高楊枝
0670 地下銀行 地下銀行 庶民のニーズに 花盛り
0680 闇両替屋 公然と 闇屋の屋号で 商売し
0690 同居する英霊 恩讐を 越えて眠るか 一つ屋根
0700 現在は満洲国 功罪は 歴史の評価の 時を待ち
0710 落ちこぼれの理想郷 王道の 楽土に流した 血と涙
0720 やどかり 木枯らしと 粉雪の中 うずくまり
0730 少年工哀史 一日の 汗で一切れ パン求め
0740 米の飯 食い物の 恨みは厳し 風化せず
0750 米西、米西 悪餓鬼の 遠い思い出 胸の澱
0760 日本化教育 植民地 経営基盤は 教育で
0770 避難所 日常の 営みの中に 死が宿り
0780 便衣隊 天秤を 素足で担ぐ 輜重兵
0790 大地の妻 国破れ 撫子異国の 土地に咲き
0800 居留民会 一介の 庶民が国の 罪背負い
0810 中国よ何処へ行く 改革の レールの先は 何処へ着く

0010

 ワンパターン

 現代用語基礎知識によると、one pattern 「決まりきった行動しかしない人」と解説していました。
 和製英語でしょうか。私も実際に英語圏でどんな使われ方をするかは知りません。
 実はこれは、中国からの外来日本語です。
(王八蛋 wang ba dan)直訳したら亀の卵。可愛らしい響きの言葉ですが、中国では罵り言葉です。俗説によると、「亀は親子相姦す」と言われています。親亀の上の子亀、子亀の上の孫亀と重なり合った姿からの連想でしょうか。だから亀の卵は、親子の間で作られた子と言う意味です。中国の罵り言葉は近親
相姦物が多く(王八蛋)は、中国の数多い罵り言葉の中でも最大級そしてかなり普遍的な物です。
 日本人がワンパターンと言うと、(王八蛋)に聞こえます。中国では「ワンパターン」は、日本語的感覚で使わない方がいいでしょう。

 ワンパターン 英語のような 中国語


0020

 風変わりな姓

 白石正夫という子供がいます。
 実は中国人ですが、名前だけ見るとどう見ても日本人ですよね。
 中国は夫婦別姓です。それに、中国では複姓といって二文字以上の姓は珍しいのですが、この場合は、ご主人の姓が「白」、奥さんの姓が「石」。そこで二つ併せて子供の姓にしたというわけです。一人っ子ですので、時々こういうことをする人がいます。
 私の友人で、「麦」さんという人がいます。これだけなら有りそうな姓ですが、奥さんが「米」さんとなると、作り話みたいですが、本当です。
 二人で、複姓にして、「米麦」にした、これは嘘です。


 馬さんと 鹿さん結婚 何になる

0030

 中国人の身長

 中国のテレビ番組に、「電視紅娘」という、公開結婚紹介所みたいな番組があります。
 そこで非常に特徴があるのは、男女とも自分の身長を述べることです。相手に身長を幾ら以上と、具体的に求める人もいます。
 雑誌その他この種の報道の統計によると、92.3%の人が、結婚相手の身長に強い関心があると答えています。
 一般に東北方面、北の人は男女とも身長が高く、南方は小柄です。
 四川省の女の子は「辣妹子」と呼ばれます。四川省の料理が特別辛いことから、こういう呼ばれ方をするのだと思いますが、私には、「山椒は小粒でもぴりりと辛い」小粒の形容の方が相応しい。
 本当にぴりっとして、可愛らしいです。


 もう少し 欲しいが身の丈 ままならず


0040

 礼を言うより世辞を言え

 
一般に中国には割り勘の習慣はありません。中国人は、ご馳走になっても礼を言いません。
 礼を言わないから、礼儀知らずと言うのは短絡的思考です。日本人が「つまらぬ物ですが・・・」という裏返しで、互いに気持ちの負担を掛けない思いやりです。
 あなたもあまり礼を言わない方が、「あいつは中国通だ」と親しみを感じて貰えます。
 中国ではご馳走になる方が、客。ご馳走する人は、主人としてその場の覇者を相互に認め合う大事な儀式です。

 この席を牛耳るのが主人。主客の関係であって主従の関係ではないのですから、あまり礼を言うのは卑屈であり、くどくどと礼を言ったら却って主人に失礼なのです。
 その代わり、客には客として大事な義務があります。それは上手なお世辞です。
 「どうぞ我々の至らぬ点を、忌憚なくお延べの上ご指導下さい」と言われて本当に本当のことを言ったら、お仕舞いです。
 ろくにお世辞も言えない人間は、非文明人ですから。

 教養が 滲み出るような 世辞を言い

0050

食事の重み

 
「私は彼を知っている」ということを、中国語で「我認識他」と言います。
 この「認識」ですが、農村で地方によっては、一緒に食事をした仲間同士で始めて使えると教わったことがあります。つまり一緒に食事をするということは、それだけの重みがあるのです。
 中国は、昼休みが二時間という職場も多く、昼に宴会ということも珍しくありません。
 中国で実務をする人にとって一番大事な「関係」(中国語でコネのこと)は、宴席で作ります。だから宴会は大事な仕事であり、昼間から酒を飲んで怪しからんという非難はあたりません。
 男女の間でも、二人で食事をするということは、かなりの線を意味します。
 そんな関係を瀋陽一帯の俗語で「鉄子」と言うと、あるご婦人が教えてくれました。どんなとき使うのか尋ねたら、「いつでもよい」ということでしたので、彼女の旦那さんの居るところで、「鉄子!」と彼女のことを呼んだら、彼しぶい顔で苦笑いしていました。

 ビジネスの 能力の差は 酒の量

0060

借りを作れ

 
中国で割り勘の習慣が無いことは、既に延べました。
 一緒に食事をすると、必ずどちらかが主人になります。どちらが主人になるかは、中国人にとっては、時に死活問題です。
 宴席の最後に、互いに自分が払うと言って、懸命に争っている光景をよく見ます。勘定を払う者が、主人だからです。
 誘われた宴席なら、こちらが払わない方が無難です。二度目はこちらが払う。それも日本人風に、トイレに立ったついでに、皆の分からない所で払うようなやり方は絶対にいけません。下手をすると友人を失います。
 中国流は、テーブルに従業員を呼び、皆の面前で今日の勘定は幾らだったか、分かるようにして払います。今日の勘定が如何に安かったか、即ち客人への心理的負担が如何に少なくて済んだかを公開するのが主人の義務であり、客人が「安かったね」というのは、「安くて美味しかった」という意味を込め、感謝の意思表示です。
 勘定の公開は貸借関係をはっきりさせ、お互いが対等な関係であることを認め合う大事な儀式です。
 一般にご馳走して貸しを作るよりは、ご馳走を受けて借りを作る方がいい友人を作れます。
 逆の立場で考えて見ましょう。借りがある相手よりは、貸しがある相手の方が心理的負担がなく、付き合い易いでしょう。
 但し借りを忘れてはいけません。
 (王八)は(忘八)と発音も同じなら、意味も同じ。畜生ということになります。

 恩着せる よりは恩着て 友を得る

0070

沢庵

 1998年看護婦学校での日本語教師を終えて帰国後、日本のある医療関係の篤志家が、瀋陽看護婦学校の元教え子を日本に招待して下さいました。

 歓迎の宴席で、「日本料理は、見かけだけで美味しくない」と、同行の校長先生が親友の私には遠慮が無いから、中国語で可愛くないことを言う。
 そこで私も一計を思いついて、ある日沢庵を丼に山盛り出して貰いました。果たして彼ご満悦。
 「田舎者には、鹹いものさえ食わせておけば満足する」と私も中国語で、やり返しました。
 東北は寒冷地で、気候条件も厳しい。一般に労働も激しい。必然的に塩分を多量に摂取します。沢庵を出したのは、織田信長が、京都の料理の名人が作った薄味の上品な料理を不味いと怒ったとき、塩を多目に入れて満足させたという故智に習ったものです。
 最後に校長先生の名誉の為にもう一つ大事なことを付け加えます。味に率直な感想を述べるのは、中国では親しい者同士の感謝の表現なのです。日本人と国際結婚したご夫人の不満に、「何を作っても美味しいというだけで、甘いとも辛いとも言ってくれない」というのがありました。

 
労働の 汗の味覚が 塩求め

0080

中国人へ土産の渡し方

 
職場へお土産を持って行くとき、「これ、皆さんで召し上がって下さい」と事務員さんに差し上げるのは、日本では極めて自然です。
 渡す相手もあまり意識しません。そこに居る人に渡します。
 中国では絶対にこれは駄目です。
  渡したい人に、通常はトップの人に直接手渡すべきです。貴方がそこで、その品物を手渡した人が、貴方が皆の面前で認めたNO1ということです。
 もしNO1が不在で、NO2が居た。あとでNO1に渡しておいて下さいという上げ方もお勧めしません。そういうときは、むしろ事務員に渡した方がいいでしょう。
 中国社会では、常に誰が覇者であるかを、具体的に物の流れで見ています。流れを把握するのが権力です。仮に貴方が責任者だとして、日本から職場の皆に土産を持って帰ったときなど、場合によっては気をつけるべきです。
 最初に貰った人が、横領するという考え方は当たりません。女の子ならむしろ貴方の気持ちを大事にして皆に公開しないと、好意的に解釈すべきです。

 心付け 直接渡す 心掛け


0090  家伝

 中国の百貨店に行くと、何処の百貨店でも貴金属売り場があり、庶民のお客さんで賑わっています。
 中国人は昔から銀行を信用していません。銀行券は現政権の軍票にすぎないと思っています。ですから、政権にもインフレにも関係ない貴金属を非常に大事にします。
 何処の家にも「家伝」といって、金の細工物があります。そしてそれを、娘が嫁に行くとき持参金として持たせます。
 それの額ですが、私の農民の知人は、人民元で一万元位と言っていました。日本円なら、15万円ほどでしょうか。最後の最後に手をつける貴重なお金です。

 嫁ぐ子に そっと持たせる 親心


0100

中国人の金銭感覚

 
中国の観光地で土産物を買うとき、先にお金を払うとお釣りを呉れないで、その金額だけ品物を買わされた経験は、皆さん無いでしょうか。
 中国人の金銭感覚は、どんな理由であれ自分の懐にある金は自分の物です。お釣りといえども、言を左右にして払いません。こんな場所では、釣りを持っているか先に確認すべきです。いまでも私はしょっちゅう失敗します。中国では、小銭は貴重品です。
 支払いは必ず対価を先に受け取ってから払う。物は必ず金を貰ってから渡す。実際問題として、どちらもそうしたいわけですから難しいですが、その心がけは大切です。
 個人Aの口座へ一括振りこみをし、更にBへ支払って貰うというようなことも、トラブルの種です。往々にして、Aが払いを渋るという信じられないことが起こります。面倒でもA,B夫々に支払う方が間違いがない。
 それは、理由のいかんに関わらず、一度自分の口座に入った金は自分の金だからです。
 
 握ったら 死んでも離さぬ それが金

0110

三顧の礼

 
1990年初頭、八百伴はじめ多くの企業が中国へ進出しました。5年後には、その八割が撤退しました。
 その理由はともかく、彼らが学んだ商習慣の違いの一つに、請求書を書いても、なかなか金を貰えないということがあります。
 中国人から金を貰うには、足を運ぶしかない。それも最低3回。とにかく金払いが悪い。
 中国の会社の中には、掛取り専門の人間がいて、いつもそれだけで外回りをしているそうです。 実際に中国で会社を経営している人の話によると、経理担当者の能力評価は、「如何に支払いを延ばすか、如何に回収を早くするか」にかかっているとのことでした。
 払う側の中国人の心の中の言い分を、代弁してみましょう。「払わないとは言っていません。少し色を付けて下さい」
 貰う側も、あまり催促すると会社が危ないと誤解されるのを怖れて、そこは適当にやっているようです。
 三顧の礼は、金を払って貰う方がします。債権の取立てと思ってはいけません。

 借金取り 三度おいでと 追い返し

0120  一銭を惜しめ

 中国人と一緒に買い物に行くと、往々にして値段交渉が長引きます。
 日用品や衣類は、土産物みたいに法外な掛け値をしていませんから、かなりシビアな交渉になります。
 例えば30元と言い値の品物が、28元と27元との間で、延々1時間近く両方が頑張るときがあります。
 日本人は「宵越しの金は持たない」とか言って、金離れがいいのが美徳のように言いますが、ここ中国では逆です。
 私の中国人の友人が、いつも私に言います。
 「中国人といい付き合いをしようと思ったら、お金を大事にして下さい。お金を粗末にする人は軽蔑されます」と。
 まさに一銭を笑う者は、一銭に泣く。この一元の差は、金銭哲学を争っているのです。

 宵越しの 金を惜しんで 名も惜しめ

0130

没問題

 中国人が早い時期に覚える日本語に、「大丈夫」というのがあります。
 中国語に直訳すると、「大きな亭主」。
 意訳すると、「没問題」(問題無い)です。
 大きな亭主 ⇒ 頼り甲斐がある ⇒ 没問題、というようなことでしょうか。
 「没問題、やりましょう」こういう風に言われたら、日本人は100%問題無いのだ、出来るのだと思います。
 しかし、これは日本語の軽い「大丈夫だよ、努力してみましょう」程の意味しかありません。
 問題はあるが可能性もありますに近い。
中国人は、友人の頼み事は少しでも可能性があれば「没問題」と引き受けるのが親切なのです。日本人は、少しでも問題があったら「無理です」と安請け合いしないのが、親切ですが、逆です。
 だから頼んだことが出来なくて、中国人は嘘つきと思うのは見当違いです。可能性を追求してくれたことに感謝すべきです。


 問題が 有るときに言う 没問題

0140  明天は希望の象徴

 瀋陽で日本語教師をしていたときのこと。ある日暖房が壊れました。
 瀋陽の冬は零下20度以下、暖房が壊れたら、氷地獄です。
 所長に催促しても三日続けて「明天」を聞かされただけで、一向に直らない。つい痺れを切らして、「中国語の明天は今日の次の日と違うの?」と皮肉を言ったら、即座に直りました。
 実は直ったのは、返事の仕方だけ。「明天」と言う代わり「不知道」(知りません)になり、肝心のボイラー修理はなお先が見えなくなりました。
 「明天」は直訳したら、「天を明ける」という動詞。希望を持って下さいと言っているのです。
 催促は、こちらが希望を棄てていない意思表示ですから大事ですが、皮肉は逆効果でした。

 明天と 希望を託し 明日を待つ


0150  ニーハオ

 
現在の挨拶語、ニーハオはいつから使われ始めたのでしょう。
 60年前、私が始めて習った中国語会話の教科書「急就篇」には載っていませんでした。
 私はこの言葉は、1972年以後生まれたと思っています。
 つまりニクソン訪中以後です。英語の「how are you?」を直訳した、バター臭い中国語だと思います。だから、英語圏の人達は、ニーハオマ?と疑問文型にして使います。
 いまは、ニーハオは中国の公用語みたいになって、電話の応対もニーハオですね。
 またニーハオは、日本語と言ってもいいほど日本人の間にも定着しました。
 ニーハオと言われて、不愉快になる人は居るでしょうか。
 謝謝と言われて、腹を立てる人は居るでしょうか。
 再見!は、またお会いしましょう。友好の継続を願う言葉です。日本語に、また良い言葉が加わりました。

 ニーハオの 元を糺せば ハウアーユー


0160

友好基本用語

昨年(2004年)9月、瀋陽から北京まで、日本人四人、中国人九人の計十三人で、16日間自転車旅行をしました。
 二十四時間、走っているときも、食事をするときも、寝ている間も一緒です。私は、中国語で寝言を言っていたそうですから、夢の中も一緒でした。
 私達の中国語能力は「ニーハオ」+α。私が我流でなんとか人より少し喋る。
 中国人の皆さん好意でしょうが、「メシ、メシ」と妖しい日本語を使われるのには、些かげんなりしました。そこで覚えて貰った日本語が、「これは何ですか?」と「どうぞ」
 「これは何ですか?」
 「葡萄です」
 「葡萄どうぞ」
 「これは何ですか?」
 「椅子です」
 「椅子どうぞ」=「お座り下さい」
 私達が中国語を知りたいときは、日本語で「これは何ですか?」と問えば、中国語で教えてくれる。
 「ニーハオ」「謝謝」「これは何ですか」「どうぞ」
 以上友好基本用語四つで、16日間十分楽しく交流できました。


 友好の 決め手は「どうぞ」 一語だけ

0170  情報は金

 
中国人は客好きです。特に外国人は心から歓待してくれます。
 広い大陸で、旅人は貴重な情報源だからです。
 雑談をすると、まず例外なく尋ねられるのは、日本の物価です。
 米は幾らか、蜜柑は幾らか・・・
 でも計画経済と違いますから、米一キロ3.6元なんて答えられないですよね。
 申し訳無いけどこの方面に何の知識もない私は、「この人本当に日本人だろうか」と落胆させてしまいます。
 情報で一番関心があるのは、収入です。ですから中国人は、かなりあけすけに互いの収入を交換します。これは昔からです。
 しかし、だからと言っていきなり不躾に貴方の月給は幾らとは尋ねません。そこへ話題を持っていくのが、所謂「中国通」です。

 旅人は ニュースとデマの 運び屋さん


0180  吃饭了吗?

 
愛情は相手への関心です。
 それを具体的に示すのが挨拶です。
 「今日は」は、今日は如何ですか?と相手への関心を示した如何ですかを省略した言葉であり、英語のhow are you? は相手の体調への関心をそのまま述べた言葉です。
 韓国語の「アンニョハセヨ」は「安寧にあらせませ」という、やはり関心といたわりの言葉です。
 中国語の挨拶は(吃飯了??)「食事は済みましたか?」それは、庶民の共通の関心が食べることであることを、端的に物語っています。
 昔中国語会話の教科書「急就篇」で習った挨拶は「吃飯了??」でした。いまでも、中国人同士で一番普通に使われる挨拶です。

 満腹の 笑みに平和の 神宿り


0190  包子先生

 
1997年、私が日本語を教えたのは看護婦学校でした。
 17才から18才の可愛いお嬢さんばかり。
 ある日、「私の好きな物」という題で作文の宿題を出したら、一人の生徒が「餃子が好き」と書いてきました。
 「どれ位食べるの?」と尋ねたら、「一斤(500グラム)」と答えて、けろっとしているから、「餃子小姐」(餃子お嬢さん)と綽名をあげたら、後がいけません。とたんに「包子先生(肉饅頭先生)」とお返しがきた。
 私の気にしているチビデブにぴったりだったのか、クラスのお嬢さん方をすっかり喜ばせてしまいました。
 残念ながら、いまでも彼女達は私を本名で呼んで呉れません。

 ぴったりの 綽名を貰い 苦笑い

0200  家属

 
中国人は家族のことを、家属と書きます。
 もう少し正確にいうと、日本人がfamilyから和製漢語「家族」を作ったのではないかと、私は推測しています。
 中国の家属の基本を支える思想は、儒教の三綱五常です。
 三綱は、君臣、父子、夫婦の道を説き、五常は仁、義、礼、智、信を説きました。
 三綱は言うまでもなく、教育勅語の精神そのものであり、五常は軍人勅諭の母体です。
 今日本では、家族の崩壊が社会の崩壊を引き起こすと危惧されています。
 中国も、一人っ子政策が、三綱破壊の危機をもたらしています。
 421部隊と言う言葉があります。子供一人に二人の父母、四人の祖父母という家族構成のことです。家父長不在という、家族構成そのものの破壊。誰にも次の世代が見えないだけに深刻です。
 
 孔孟の 教えは君臣 父子の道

0210

議論好き

 
中国人は議論好きな人間が多い。
 やはり看護婦学校でのこと。50年配の職員で「私達が仲良くするためには、本音の話し合いが必要だ」といつも私に議論を吹っ掛けてくる人がいました。
 残念ながら彼の中国語には敵わない。いつもやられっ放し。ある日、侵略が話題になりました。
 彼「中国は一度も他国で戦争をしたことがない」
 私「中越戦争はなんだい?」
 彼「あれは教育的行為さ」
 私「それは素晴らしい、日本もその教育的行為とやらを中国にして上げよう」
 彼がぐっと言葉を詰まらせたとき、周囲の聴衆がどっと笑い声を上げ、親指を立てて始めて私の一本勝ちを宣言してくれました。
 彼が目を白黒させたのが面白かったのでしょう。
 
口喧嘩 異国の言葉で 被告席

0220

兵馬俑の顔

 
西安の兵馬俑はいま復元されています。
 それは、生きている人間のようにリアルです。兵隊さんが履いている草鞋の裏の網目まで、細かく彫られている。
 体型だけは、軍人らしく大きく誇張されていますが、その表情は、いまそのまま西安の街を歩いても現代人です。
 これは幾つも興味あるテーマを提供してくれます。
 食べ物が基本的に変わっていないと推測される。
 食文化に変化が無いということは、経済が基本的に変わっていない。
 それは、中国文化という、経済の上部構造が、2300年基本的に変化していないということでもあります。中国人の精神構造も、本質的に2300年変わっていないということです。
 文字も同じ漢字が使われ、その漢字が伝える人の心の襞も同じです。
 そこには、同じ漢字を使う日本人の心のルーツもあります。

 2000年 変わらぬ餌で 同じ顔

0230

砂漠の恋歌

 
内蒙古通遼市の西北約70キロ程の所に、「科尓沁」という遊牧民が年に一度交易市を開き、競馬や射的などお祭りをする場所があります。
 そこのホテルのロビーに、岩国の錦帯橋の写真が飾られているのを見て驚きました。砂漠に生きる人達にとって、豊かで清涼な水と美しい桜は夢の景色なのですね。
 もっと驚いたのは、そのとき聞かせて貰った出会いの恋歌が、馬子唄そのものなのです。
 日本の馬子歌のルーツは砂漠の恋歌だったのだ。そう思って聞くと、江差追分も箱根馬子歌も一段と情緒があります。
 
馬子歌も 砂漠で聞けば 恋の歌


0240

緑帽子

 
緑化運動のシンボルとは違います。
 古く明の時代に、妓楼即ち女郎屋の亭主が被ったのか、被らされたのか、とにかく彼等が頭に戴いていたことに由来する蔑称です。
 意味は、女房を寝取られた亭主。又は、女房に如何わしい稼ぎをさせている紐亭主。どちらにしろ良い意味はありません。
 もしあなたが、緑色の帽子をお持ちなら、中国では絶対に人前で被らないことをお勧めします。
 万里の長城や、空港の売店では何故か、この緑色の帽子を売っているのですよね。外国人の好みなのか、外国人に被らせて、陰で笑っているのか。後者かもしれません。中国人は、結構意地が悪いですから。

 亭主だけ 知らぬを陰で 嘲笑い

0250  赤脚医生

 
日本語では、「裸足の医者」です。
 農村などで、他の仕事に従事しながら医療にも携わる人達です。
 正規の医師の資格を持っている訳ではありませんが、注射、投薬、酸素吸入、点滴、血圧測定、緊急措置など救急医療も行います。
 「問診所」と赤十字の看板が掛かっている場所が、その人達の職場です。 中国では、どんな小さな「鎮」(日本の村または、大きな部落に相当する最小の行政単位)にも一つはあります。
 何かのおり知っていると、便利かもしれません。
 ある日友人が旅行中心臓発作を起こしたときも、ここでベッドに横になり、酸素吸入とブドウ糖の点滴を受けて、急場をしのぎました。
 中国で 赤脚(はだし)の医者は 赤髭さん

0260  チャンコンの町

 長崎市には、「中華人民共和国駐長崎総領事館」があります。
 他に中国が日本に置いている在外公館は、札幌、東京、大阪、福岡だけです。
 何故こんな田舎の小都市(長崎市民の方には失礼)に中国の総領事館があるか。それは長崎が、「チャンコンの町」だからです。
 長崎ではお盆に、その年初盆を迎えた人の霊を「精霊流し」(しょうろながし)といって、竹で作った船に乗せ海に流す風習があります。(今は港の汚染防止のために焼いているようですが)
 その時の掛け声が、「チャンコン」。中国語の借光(ジエグァン)が訛ったものです。借光はご存知中国語で、ちょっと通り道を譲って下さいというような意味です。
 長崎は、鎖国の昔からオランダなど僅かですが外国に門戸を開いていた町。華僑の人も多く、古い中国の伝統行事も多い町です。

 方言の ルーツを辿れば 海を越え


0270

豊年踊り

 
中国人の朝は早い。季節によっては五時、東の空が白むのと同時に、公園や学校の校庭には人が溢れます。
 ジョギングをしている若い人もいますが、圧倒的に年寄りが多い。
 太極拳をする人、後ろ向きに歩く最近流行の健康法をしている人。そしてこれも最近流行は、豊年踊りの一団です。中国語では、「秧歌」。少しふざけて「老人ディスコ」とも言います。
 鉦に銅鑼、チャルメラのような笛。原色の合繊繊維の派手な服装で、化粧をした人も多く、20人から、多いときは100人近いグループで、踊っています。
 踊りは阿波踊りと同じと言っていいほど、よく似ています。囃子に合わせ、思い思いに手を上げて足を運んでいるだけ。
 1992年は見ない風景でした。1997年は珍しかった。今は毎日至る所でやっています。
 私が飛び入りで踊っても、仲間に入れてくれます


 年寄りの ディスコは 手を挙げ歩くだけ

0280  盲目の易者

 
瀋陽の労働公園前で、一人の五十年配の男性が椅子に座り、何人かの人に囲まれていました。
 どうも彼は目が不自由のようです。そして筮竹などはありませんでしたが、易者のようでもありました。
 私も見て貰うことにしました。ただ私の手をとって、叙事詩のように私の過去から将来を語ってくれます。
 開口一番「労働をしてない手ですね!」と感嘆の声を上げる。これは易者でなくても、触れば分かります。
 続いて、私が少年期に母を亡くしたことから語り始めたとき、私の心は完全に捕らわれました。目が見えないからこそ、何か鋭い直感があるのですね。
 広い中国には、凄い人が居るものです。小柄で平凡な男性が、高僧のように見えました。

 中国の ノストラダムは 只の人


0290

街の音楽

 瀋陽市鉄西区は、瀋陽市西の郊外工業地帯、私が子供の頃は飛行場がありました。
 滑翔路とか、騰飛街とかの名前が残っている所がそうです。今の第31中学校は昔の日本人小学校で、日本人もかなり住んでいました。あまり文化の香りはしない、雑然とした新興住宅地でもあります。
 ある日夜店の一角から、妙なる笛の響きが流れてくる。音色に釣られて入ると、一人の30代の男性が、無心で横笛を吹いていました。
 誰も聞いていません。座り込んだたった一人の聴衆私のために、彼は30分近く、ときに玉音というのでしょうか、唇で微妙に震わせた音などを交え、非常に高いテクニックと、素晴らしい音楽性を披露してくれました。
 あくる日、お礼の煙草を一カートン持って行ったのですが、彼の姿はありませんでした。広い宇宙空間に妙音を放ち、何処からか来て何処へともなく去る。かつての吟遊詩人もこうだったのでしょうか。
 
 うつろいと 幻想の中で 時が過ぎ

0300

雀のお宿

 
子供のとき、あれだけ居た雀はどこへ行ったのでしょう。
 ゴム銃で、ポケット一杯の石ころを持って半日回れば、子供の私でも一羽や二羽を落とせるほど、身近に居ました
 それが、今居ることは居ますが、極端に少ない。一説によると、大躍進時代毛沢東の「雀は害鳥」の一声で、抹殺されたそうです。
 その方法たるや、全員が銅鑼と太鼓で雀の寝込みを襲い、雀を睡眠不足にして、一夜で殺してしまったそうです。
 このことは、私に二つの恐怖を呼び起こします。
1はそのカリスマ性の凄まじさ。 
2は生態系の破壊です。
 2はイナゴの大量発生を生み、大飢饉の原因になった。
 自然を壊すのは、一夜で出来ますが、回復は不能に近いほど難しい。

 害鳥の 濡れ衣雀 宿追われ

0310

蝿は何処へ行った?

 
子供の頃、外で食事をすると、白いご飯が瞬く間に黒飯になった。これは形容ではありません。
 1992年、望郷の旅をしたとき、ガイドの小姐が、車の中の一匹の蝿に大騒ぎするのを見て、むしろ滑稽に思ったものです。
 1972年国交回復後、中国政府が多くの日本人を招待し赤い絨毯の上を案内して熱烈歓迎が流行しました。そのときの団員の感想の中で、新中国の素晴らしさの一端を紹介する例として、蝿が居なくなった話がよくでたように思います。うちの父も、そうでした。
 子供の頃、国民党政権だったか、共産党政権だったか記憶は有りませんが、蝿を買い上げていたような記憶がありますが、そんなレベルで解決するとは思えません。
 いつどんなカリスマ性が発揮されたのか、どんな魔法が使われたのか私も興味があります。
 多少の憶測を交えて、トイレの改善がその一翼を担ったのではないかと思っています。以下あくまでも憶測ですが、そのトイレの話をしてみたいと思います。

 ご馳走は 蝿も味知る お相伴

0320

ニーハオトイレ

 
このお話は、お食事前の方は飛ばして読んで下さい。
 
中国へ初めて来た人が、まずショックをうけるのが、トイレのようです。
 扉なし、前の人のお尻とニーハオとご対面しながら用を足すのが、なじめない。実は私も、トイレは行けるときに行くようにしています。
 私の子供の頃は、一歩外に出るとそのトイレもありませんでした。ではどうするか。全部青空トイレです。今の観光地は、どこも戦乱で荒れ放題でしたから、それこそ足の踏み場もない、健康食品使用後展覧会場でした。青大将がとぐろを巻いたように見事な長尺物、子供の頭くらいの大きな饅頭、まくわ瓜の種がまぶされたスープ状の物、それらが幾重にも重なって陳列されていました。そしてそこには、蛆が真っ白に湧き、蝿が群がっていました。
 1972年は、文革が実質的に終結した年です。鶴の一声で作られた今のスタイルの公衆便所は、緊急食料増産肥料確保対策ではなかったか。石灰で一括処理されて肥料となる過程で、蛆虫の繁殖場所を奪ったのではないかと思うのです。
 皆さん外国人は、三ツ星以上のホテルでないと泊まれないのをご存知でしょうか。実は私も最近まで知りませんでした。それは、三ツ星以上でやっとトイレらしいトイレがあるからです。
 

 ニーハオと 心が通う お尻合い

0330  ゴキブリは何処から来た
 
 子供の頃もゴキブリはいました。でもそれ程目にはつきませんでした。
 今、大衆食堂の残飯処理場を覗いたら、浜辺の船虫のようにぞろぞろいます。種類も数も多い。
 私はゴキブリを食べたことがあります。
 キャベツと春雨と豚肉と炒めた料理でした。これは私の好物です。ある日、茸みたいな物が入っていて、噛むと、かしゃっと得体の知れない歯ごたえがする。小姐に「何よ?」と尋ねたら、「ゴキブリでしょ」と何事もないようにいなされて、がくっとしました。
 キャベツを刻んだまま置いておくと、発酵して熱がでる。そこへゴキちゃんご機嫌で潜り込んでいたのですね。
 食糧事情の全体的な好転が、ゴキブリの増殖と関係ないでしょうか。

 ゴキブリも 食べてしまえば 蛋白質

0340  農家肥

 
中国でも農薬汚染は深刻と報道されています。
 日本の商社が求める基準の作物を作ろうとすると、どうしても農薬に頼らざるを得ないでしょう。
 その場合私が恐れるのは、農薬汚染が肉眼で見えないだけに、肉眼しか信用しない中国人が、大量に使いすぎて基準値を超えないかということです。
 それは現実に起こっています。
 一般家庭で食べる中国の野菜は、見かけはともかく味は凄く美味しい。それらは主に都市近郊の家庭菜園で、農家肥(人糞)で作られています。
 その便所は、所によっては鍵をかけて守るほど貴重なものです。今度自転車旅行で、田舎の宿に泊まり、便所を守る大きな犬が繋がれていて、気持が悪かったのを思い出しました。
 中国農業が、先進諸国の受けた洗礼、農薬汚染を避ける道はあるのか。今からの課題です。

 10億の 口を養う 農家肥


0350

虫は長いお友達

 
中国人が使う家属の「属」と言う字をよく眺めると、体の中に虫がいるように見えませんか? 尸は体の象徴です。
 虫の周りには、腸もあります。
 虫は中心の「中」と言う字が支えられています。「中」を「心」で支えたら、忠節の忠です。
  古代の人は、体の中で蠢く虫を、人の魂のようにも思えたのではないでしょうか。そのように大事な永いお付き合いをした回虫が、日本ではいつの間にか消えました。
 1998年、中国から回虫を湧かして帰国し、総合病院に行ったときのことです。30代のお医者さんがレントゲンを撮りましょうというので、「検便でないでしょうか?」と、私が恐る恐る進言したら「実は回虫見たことがありません」と、告白されました。
 人類の農耕の歴史と共に付き合ってきた回虫との決別が、人類に何をもたらすか。一説によると、花粉症の治療に回虫が効果があるそうです。わざわざ回虫を養って体調管理をする療法もあるそうです。
 5千年の朋友は、まだまだ軽視できないようです。「日虫友好」も真面目に考えましょう。

 我が物と 思えば虫も 愛らしい

0360

騙し上手

 
中国で生活していると、一日に一度は騙される。そんな気がしませんか。
 私もしょっちゅうやられています。
 ある雪の日の夜中。北京でタクシーに乗りました。三号環状線を明らかに反対方向に走っている。
 違うと言っても、間違い無いと言い張る。
 まあ良いやと、好きに走らせたら、着いたところはやっぱり違う。
 運転主君「聞き間違えた」と言う。
 その日は50元余分に払いました。しかし雪の環状線は街灯に照らされた街路樹に白い粉が舞い、童話の世界でした。
 こんな景色、1000円出すと頼んでも見せて呉れないなと、思い直すことにしました。
 「良くぞ騙して下さった。でも命だけは取らないでね」

 命だけ 残して呉れれば 詐欺も良し

0370

騙されて得した

 
やはり北京のタクシーです。
 降りようとしたら、メーターがとたんに急速回転する。
 私 「おい、このメーター優秀だな。何処で売ってる。俺が替わって会社に電話してやろう」
 運転手君「そうなんだよ。わたしもおかしいと思っていた。いつもは幾らだ?」
 私「いつもは30元だけど、今日は20元だな」
 運転手君 「いいよ」
 私は騙されて却って得をしました。今でも思い出して愉快になります。

 騙される プロは詐欺師に 損をさせ


0380  最高のガイド

 
私は知らない土地に行くと、まずタクシーに乗ります。
 そして「私は、ここは初めてだけど、君が良いと思う所を好きに走ってくれ。金は要っただけ払う」と言います。
 これで、騙されたことは一度もありません。
 食事時を挟んだら、一緒に食事をするのがいいでしょう。彼らの行きつけの店は、安くて美味い。一緒に食事をしたら、もう朋友です。
 中国人特有のおせっかいに近い親切さで、徹底ガイドをしてくれます。
 彼らは世間も広いし、話題も豊富。私の「如何わしい方面」の専門知識は全部ここで仕入れます。
 一銭も騙されまいと身構えるか。「騙して下さい、授業料は払います」とゆったり構えるか。がちがちしない方が、不思議に騙されません。

 懐の 鳥には詐欺師も 情けあり


0390  将来の国宝

 
北京の琉璃厂(骨董品市場)に行くと、将来の国宝級骨董品が並んでいます。
 店の正面で、明の時代の茶器とか、清の時代の水煙袋(阿片を吸う煙管)などが堂々と加工されています。
 そしてそれらが店頭に並べられると、何処から見ても国宝級の出来栄えです。
 残念ながら、いまは只の偽物で、値段もそれ相応に安い。
 日本の明治時代の10銭銀貨が、10元で売っていました。換算するのが、楽しくなるような値段です。友人が気に入って買いました。
 「偽物でも、これだけよく出来ていたら値打ちがある」と言って。
 残念ながら、宿につくまでに、国宝はメッキが剥げて只の金屑になっていました。せめて後100年持って欲しかった。

 国宝も 1000年前は 只の壺

0400

ユーモアの天才

 
1997年瀋陽の看護婦学校で日本語を教えていたときのことです。
 当時スーパーマーケットはまだ珍しかった。今でもそうかもしれませんが、入り口で鞄を預け、厳重なゲートを通り、客より売り子の方が多いような広い売り場で買います。
 生徒を連れて行くと、チイママよろしく、買い物を厳重に検査してくれます。一枚の皿を買っても、文字通り舐めるように検査して売り子に文句を言っている。「ここには偽物は無いよ」と私は鷹揚だったのですが、有りましたね。
 ティッシュペーパーを買ったのですが、何故か何ほども使わないのにすぐ無くなる。おかしいなと二箱目を空けたのですが、これもすぐ無くなる。よく見たら、二、三枚のティッシュが箱の裏に貼り付けられている。なんと上げ底なのです。
 「うーん、中国人はユーモアの天才だ!」これには、腹を抱えたまま暫く笑いが止まりませんでした。

 天才は 笑いで罪も 吹き飛ばし

0410

相互信頼

 
プロの詐欺師は、詐欺師の看板を掲げて詐欺をします。
 福建省から来たという二人連れの行商人風の若者と北海公園で知り合い、お茶をご馳走して貰うことになりました。
 「私達は良い人間でないが、あなたは良い人のようだからこの腕輪を上げよう」と玉の腕輪を差し出して、「金はもし気に入ったら日本から送ってくれたらいい」と言います。
 これはまず、自分はあなたを信じているという素振りを示すことで、自分への信頼を引き出す伏線。自分が悪者であることを隠さないのが憎い。
 雑談の中で、私がリュウマチに関心があることを示すと、その後は例の有名な「虎のペニス」なるものを、一万円で日本の純情なお爺ちゃんに掴ませるのは、彼らにとっては赤子の手をねじるようなものでした。
 その時彼等が言った台詞がいい。「これは相互信頼に基づく取引です」
 私が彼等を信じたので、彼等が私を騙したのではありません。
 
 信頼が 何処でずれたか 詐欺になり

0420

不見不散

 蒙古の大草原には、オボという石塚があります。
 草原を旅する人の道標ですが、ここで年に一度遊牧の若い男女が出会うのだそうです。これをオボの出会いと言います。
 広い大陸でのデートは、時間まで約束は出来なかったでしょう。そのせいかどうか知りませんが、中国人と時間の約束は、無意味です。特に女の子は、時間前に行くことは沽券に関わると思っているのか、絶対に遅れてきます。
 デートの約束をすると、「不見不散」と言います。これは、直訳すると「会うまで去るな」意味は「行くまで待っててね」です。
 オボの出会いは可愛いが、これには全く腹が立ちます。男は辛いです。

 木枯らしの 中に佇み 君を待つ


0430  罰金

 
天安門広場で、缶ビールを買いました。栓を棄てようと思うのだが、ゴミ箱がない。
 芝生の横に十個ほど誰かが棄てているので、私も棄てました。
 とたんに一人の男が寄ってきて、「今あなたは、ビールの栓を棄てましたね」と言って、罰金5元也を請求します。
 「なんだ、罠じゃないか」と腹が立ちましたが、払いました。
 今度箒を持って行って、わざと棄てた後「私は反省している」と嫌味たっぷりに掃除をして、中国政府の営業妨害をしてやろうと思うのですが、まだ実行していません。
 瀋陽から杭州まで、寝台車で旅行をしたときのこと。友人が禁煙の車内で煙草を吸っていたら、車掌に見つかって罰金5元。この罰金は洒落ていて、車内音楽放送のリクエスト料でした。

 罰金も せちがらくなる 年の暮れ

0440

割り込み

 
中国で生活した人が、外のことは少しずつ慣れても、なお苦痛に感じるのが行列です。
 銀行、郵便局、駅、空港、百貨店・・・何処へ行っても、13億の中国人が居ます。その人達が並ばない。
 私の友人で腕力に自信のある男性がいるのですが、彼はボランティアで行列整理に腕力を振るっている。下手な中国語で言うより効果的なようでした。
 空港のカウンターで青い目の外人さんが、目の前に割り込んだ中国人の襟首を掴んで、有無を言わさず後ろへやっていました。
 私なんか色男で力が無いから、「並びなさい」と恐る恐る中国語で言ってみるのですが、「バリバリバリ」と凄まじい中国語の集中砲火を浴びて、すぐ玉砕です。
 しかし嬉しいですね。郵便局の窓口でもたもたして居たら、局員が「後辺儿!」(後ろの人)と私に手を差し伸べてくれました。
 
 鷹揚な 後の烏が 先になり

0450  福根儿

 
日本語に訳したら「残り物に福あり」というような意味でしょうか。ビールの最後の一滴を注ぐときなどによく使う言葉です。
 一昨年、黒龍江省を一人旅したときのことです。鶏寧から牡丹江まで列車に乗ることにしました。
 グリーン車なんかありませんから、「硬座」と呼ばれる普通車に乗ろうとしたのですが、始発駅で行列に並んでいるのに乗れない。列車は乗車率120%。終戦後日本の闇屋を運んだ列車は窓から乗り降りしましたがそれに近い。
 行列から弾き出され、「どこでもいい、乗れたらいいや」と行列の外に佇んでいたら、駅員が私だけ手招きしてくれる。
 そして一緒に連結している「ハルピン始発大連行き」の回送車に乗せてくれました。広い車両にたった一人。
 なんと言う幸運。残り物の福だったのでしょうか。
 自分では何処から見ても中国人の姿形をしていましたが、やはり日本人にしか見えなかったのでしょうか。
 また中国が好きになりました。

 慌て者 残りの福に ありつけず


0460  一家人

 
中国人はよく「私達は一家人」と言います。
 軽い意味で、同じ釜の飯を食った仲間という意味もありますが、もう少し深い結びつきを強調しています。
 中国で会社を自分で経営して、或いは合資又は合弁企業を立ち上げて、まず日本人が戸惑うのは、人事権の存在のようです。
 課長の人事は部長、係長の人事は課長、係員の人事は係長という点までは一般的ですが、中国はもう少し徹底していて、部長が変わると知らぬ間に課長は全て部長の息の掛かった人間で占められます。以下係員まで、同じ。
 これが「一家人」です。
旧満州国の昔から、国の役所でも同じでした。
 中国社会を理解しようとするとき、この中国人の「一家人」という概念と至る所でかちあいます。

 団結の 固い絆が 一家人

0470

公私の区別

 
仮に会社で主任が病気になり入院したとします。
 係員が病院に付き添いで、行きます。
  これを皆さんなら、どう思いますか。
  どうもこうもない、中国人だった当然過ぎるほど当然です。一家人ですから。
 少し西欧的な雇用契約概念がある私に言わせると、これは公私の混同です。行くなら個人的に有給休暇をとって行くべきと思います。
 実際に私がその場の上司として、それを言ったら大変なことになるでしょう。
 私は多分東洋的に処理すると思います。私も東洋人だからです。
 気持の中では、大目に見ることが出来る範疇です。しかし美談とは思いません。
 もし中国人に付き添いを禁じたら、日本人は鬼だと思うでしょう。

 宮仕え 役所の物は 我の物

0480  中国人の団結

 
一個和尚挑水吃 和尚一人なら、二つの桶を天秤で担ぐ
 両個和尚抬水吃 和尚二人なら、一つの桶を二人で持つ
 三個和尚没水吃 和尚が三人になると、誰も桶を持たない
 という諺があります。
 中国人は団結が苦手だという意味です。
 皆さんが、直接中国人と靖国問題でも歴史認識問題でも話したら、意外に冷静な返事が返ってきて、拍子抜けがすると思います。勿論こちらが日本人と知ったらなお更です。
 それは、中国人が個人主義だからです。政治宣伝には逆らいませんから、清一色に見えますが、実はばらばらなのです。
 そして、徹底的にばらばらだから、水が方円の器に随うように見た目団結するのです。
 例の2004年アジアカップサッカーのときの、日本選手への激しいブーイングのように、すぐ群集心理でまとまるのです。
 その本質を見ないと、中国政府が、靖国=軍国主義と過敏に反応するように、日本人は、歴史認識=反日と短絡してしまうのです。

 船頭と 和尚は少ない 方が良い
0490  中国人の中の日本

 
1948年引き上げて以来、初めて新中国を訪れたのは、改革開放も市場経済へ向けて加速した1992年でした。
 その頃、テレビで英語講座をしていました。日本語講座もあったはずですが、英語講座が殆どだったと思います。
 王府井の新華書店の外国語コーナーで、12書架がありました。10が英語で、1が日本語、残りの1にドイツ語フランス語スペイン語イタリー語ロシア語等がありました。
 この比率は、中国が世界へ向けている目と同じ比率ではないかと思いました。
 ロシア語は、ソ連の崩壊後完全に落ちぶれていました。
 1993年、北京語言学院に短期留学しました。
 その時外国人の比率ですが、日本人が一番多くて、約35%。続いて韓国。あと、アメリカを始め、文字通り世界各国から学生がきていました。
 この学生比率は、世界が中国に関心を示した比率だと思います。
 日本が中国に思いを寄せている割には、中国の目はアメリカの方を向いている数字です。

 想うほど 想われていない 片想い
0500

中国人の忠節

 
撫順で、日本が敗戦後1945年から3年の間に、ソ連、八路軍、国民党、八路軍と、目まぐるしく政権が変わりました。
 その度に、何事もなかったように、そのときそのときの政権の旗が靡くのです。
 日本の統治時代は、「日章旗と、満州国の旗」が「今は満州国だからね」と、翩翻と翻っていました。
 実は中国人は、その全ての国旗をセットで用意していたのです。
「食わせてくれる者に忠節を誓う」
 これも動乱を生抜く中国人庶民の知恵。変節と呼ぶにはあたりません。
 二人だけの場所、例えばタクシーの運転手などは「食わしてくれるなら誰でもいい。日本人勿論結構。又来いよ」 位は平気で言います。満更外交辞令とも思えない。
 これだけは間違いない。「靖国」よりも「歴史認識」よりも、庶民に関心があるのは、今晩の餃子です。

 靖国も 歴史も政治も 食ってから

0510  中国人の(没有)

 
日本人が、ニーハオ、謝謝の次に覚える中国語は「没有」です。
 店で買い物をする。
 「○○下さい。」
 「没有」
 「そこにあるじゃないの」 
 「あれは隣の売り場担当です」
 中国人にとって、有るということは、自分の手にあるということです。だから、自分の手中に無い、担当でない物は「没有」です。
 「没有」と言われても、今手元に無いだけか、何処からも手に入らないのかの確認が必要です。
「没有?法」(どうしようもない)。手のうちようが無いと言われても、一言は粘ってみるべきです。
 今の方法では駄目なだけで、別の方法なら有る。後僅かの出費を惜しまなかったら出来ることが往々にしてあります。

 没有を 覚えて中国 通になり

0520

儒教思想と衛生観念

 
儒教において、知とは「鬼神を敬してこれを遠ざく」つまり、抽象的不思議なこと、現実に捉えること出来ないものは、認知しないのです。
 この観念を持つ現実的な中国人にとって、肉眼で見えないものは、「鬼神」であり信ずる対象にはなりません。
 それは衛生観念において如実に現れます。
 今、大便が付着していないなら、先ほどまで便器として使っていた物を食器にしても、ためらいません。
 布巾と雑巾と一緒に使っても、それで結果が見た目で同じ奇麗になるなら気にしません。
 恐らく、これを見た多くの日本人は奇異に感じるでしょうが、中国人が見たら、奇異に感じる日本人の方が奇異でしょう。日本人の行き過ぎた潔癖もときに問題ですが、サーズ騒動以後は少し変わったようです。
 今度自転車で田舎を旅したのですが、水を使えない屋台では、使い捨てのビニールの袋を椀に被せて使っていました。これは合理的です。

 信じるは 己の(まなこ)で 見える物

0530  徐福伝説

 
秦の始皇帝が不老不死の薬を、徐福という人に命じてそれを求めた。
 徐福は、大きな船を建造して、善男善女500名を乗せ、蓬莱の国(日本)へ来たと言う日本でも有名な話です。
 ここで、日本人のルーツについて、専門的意見を述べる見識を持っていません。
 しかし人類発生以来の流れから見て、中国人も日本人の先祖筋であるのは間違いないでしょう。弥生文化は徐福又は徐福のような人がもたらした稲作文化です。子孫ならご先祖を敬うべきです。まして中国の伝統観念ではそれは絶対です。
 徐福伝説は、中国人の自尊心をくすぐる伝説として、中国人なら皆知っているし、日本人に向かって中国人がこの話をするときは、「日本人は中国人の子孫だ」という優越感が言外に
あります。

 霊薬を 求めて徐福 蓬莱へ

0540

朝貢外交

 
「日出処天子到書日没処天子」(日出る処の天子、書を日没する処の天子に贈る)
 聖徳太子が、遣隋使に持たせ隋の煬帝に贈った書の書き出しです。
 朝貢外交は、君主国と属国に分れ、属国は君主国を崇める代償として、貢物に数倍する代価を得て、国を富ませました。
 先に紹介した聖徳太子の国書は、煬帝の逆鱗に触れました。酷い返書があったらしいのですが、その返書は使者が紛失したということで残っていません。
 遣唐使は、国書を持たせていません。形式的には民間外交です。
 我が国が朝貢という形で、属国となることを拒絶したからです。しかし実質的に朝貢でした。
 その見返りの一部は奈良の正倉院に残っているだけでも膨大なもので、遣唐使が有形無形、我が国の文化向上に寄与したのは言うまでもありません。
 日出る大和の国は、又シルクロード朝貢外交が没する、終着駅でもありました。

 日本で シルクロードは 旅を終え

0550

流浪の民

 
渤海湾にある興城海水浴場の海岸には、「打撃密渡」の密航取締りの立て札が見えます。
 付近には、コールタールで塗られた、モータボートに毛が生えた程度の漁船しか見えない。
 こんな小船で、日本海の荒波を越えるのは信じられないのですが、外航船が着くような埠頭は付近に有りません。
 春秋戦国時代(紀元前770年~221年)、地球は今と違ってもっと気温が低かったのではないかと、言われています。
 そこへ戦乱が重なり、流浪の民が出来た。その人達が朝鮮半島へ伝わって日本へ、あるいは朝鮮半島の人達が、押し出されるようにして小船に乗り日本に来たということは十分に考えられます。
 弥生文化の担い手が、大陸の戦乱が生んだ流浪の民なら、徐福伝説も首肯されます

 大陸を 追われてご先祖 日本へ

0560

 一衣帯水

 
日中友好を語るとき、対で使われる言葉です。
 元々の意味は、「あたかも帯びのように狭い川の幅のように隔てが小さい」という意味です。
 「南史、陳后主紀」に隋の文帝が使った言葉として、残っています。
 私が庶民を救う気持は父母に尽くす気持と変わらないと、庶民に対する気持と父母に対する気持との隔ての無さを形容しました。
 日中間で使う場合は、両国の地理的な近さもさることながら、本来の意味は、気持の隔たりの小ささを強調しています。

 横たわる 一条の帯の 幅思う

0570  名宰相

 
一衣帯水と言う言葉は、1972年日中友好条約締結のとき、時の周恩来首相により、このように使われました。
 「日中両国は、不幸な歴史もあったが友好の歴史の方が永い。これからも一衣帯水の間柄の国家同士として、子々孫々まで友好を深めなくてはならない」
 この言葉は、日本人の魂を揺さぶりました。私も大好きな言葉です。1972年当時、少なくとも今よりは中国国民の反日感情は厳しかったはずです。国交回復に反対して日本国旗に座り込む人々に対して、周恩来は根気強い説得だけで対処したと言います。
 そんな国内情勢の中で、「一衣帯水」は日本人の魂を揺さぶっただけでなく、中国人へも配慮されたはずです。それは、この言葉が、本来臣下に対して使う言葉だという点に、キーワードがあるような気がしてなりません。
 ともあれ日中共同声明から平和条約の締結までの紆余曲折、その後今日までの友好の発展は、この名宰相の功績なくして語れないと思います。

 魂を 揺さぶる口説きで 国治め


0580

役得

 
団体で旅行すると、私は少し中国語が喋れるので、通訳兼ガイドみたいな役回りになることがあります。
  そこで土産物屋に行くと、当然のように私にもリベートがあります。
 リベートと言うと穏やかでありませんが、売り子が私に感謝の気持を物で示してくれます。例えばハンカチが20枚売れたら、私に当然の如く5枚呉れます。
 ある日、お酒の燗をする錫の薬缶みたいな物を皆で買うことになりました。300元というのを、皆さん私の通訳で頑張って、230元まで負けさせた。
 私が売り子に、「私は100元でいいね」というと、 「どうぞ、どうぞ」 と、OKしてくれる。
 Aさんが、怪しからんと憤慨する。
 「悪かったね。ではこれ君に150元で売って上げよう」
 「それどういう意味?」
 「私は50元儲け、君は皆より80元安く買ったのだから80元儲けでしょう」
 Aさん、なんか釈然としないようでしたが、結局私に150元払ってくれました。
 これが中国の役得です。誰も損しない。

 大岡の 裁きは 三方全て得

0590

袖の下

 
昔私が子供の頃、「満洲」という副読本がありました。
 その中に「袖の下」と言う一節がありました。
 当時中国人は長い袖の服を着て、袖の下で指符丁を作り取引をしていました。
 その理由をこの本では、例えば豚の取引のとき、「豚が聞いたら悲しみで涙をこぼすから」と説明していました。勿論本当の理由は取引内容を第三者に知られたくなかったからです。
 袖の下と言うと、あまり良い響きはありませんが、この心がけは大事だと思います。
 例えば、運転手さんへのお礼など、現金で一寸した御礼をしたいときはあります。そんな時握手を装って、そっと手渡す心遣いです。札束で頬をはたくような上げ方では、折角上げて怨みを買います。

 魚心 巧みに伝える 袖の下

0600

蛇頭

 
不正出国、受け入れ側から見れば、不正入国の仲介を業とする人達の総称です。
 役割機能的にみると、勧誘蛇頭、引率蛇頭、受入蛇頭に分けられます。勧誘蛇頭は不正出国までを受け持ちます。
  私も実際にこの人が蛇頭だという人に会ったことはないのですが、この人達はかなり上層部の腐敗と関連していると見ています。
 実は、心ならずも不正入国の片棒を担いだことがあります。その時の相手の肩書きは、相当な機関の幹部Xでした。さらに、YがXを批難しながら別の仕事を持ってきたのですが、彼の呉れた名刺のFAX番号はXと同じでした。
 全ての産業の最上層で、専制的権力を持つ人。彼が蛇頭と言うのが言い過ぎなら、少なくとも勧誘蛇頭は、彼等を利用していると言い替えましょう。
 一党独裁を国是としている国で、その権力の外の人が、大きな権力を動かすのは考えられないからです。

 蛇の道と 知って分け入る 法の裏

0610

獄中詩人

 
日本で中国人の犯罪があると、通訳でお手伝いすることがあります。

 彼は密入国で来て、工場で働いていたのですが、腰を痛めて転落の道を歩みます。
 取調べは、のべつまくなく尋問しているわけではありません。被疑者の心を開く雑談も重要な部分になります。
 その日はおりしも中秋節でした。


 異国の獄舎月光かすかなり
 共に月餅を食らいしはいつの日ぞ
 娘よ許せ
 晴れ着一枚買い与えざる父を


 即興の拙句に、彼も即興で七言絶句を返しました。
 
 牢中望月
 夜獄遥望異国月  夜獄 遥かに異国の月を望む
 玉輪共照故郷円  玉輪 共に故郷を円かに照らす
 年年月円人不円  年々月は円べど 人は円ばず
 更為老少増心傷  更に為す老少 心傷を増す

 月明かり 獄舎の窓辺に 子の笑顔


0620  小銭をねだる子供

 
少し小奇麗な自家用車に乗せて貰っていると、踏み切りなどで停車したとき子供が寄ってきて、窓へ向かって手を出します。
 運転手は、用意している小銭を渡します。たまに小銭が切れていると、丁重に「今日は小銭が無いけど、次は必ず上げる」と言って頭を下げます。
 「君は偉い」と感心したら、「いやこうしないと、何をされか分からない」と言いました。
 この最近、盛り場等で小銭をねだる子供が本当に増えました。
 私達は、進駐軍のジープに「ギヴミーチョコレート」の世代です。私自身おねだりしたことは有りませんが、飢えは知っているだけに、いつも心を暗くし、身を縮めるようにして通り抜けます。
 振り切れないとき、小銭を上げるのですが、却ってやりきれない気持になります。

 物ねだる 飢えた子供に 罪は無い

0630

人身売買

 
中国にはまだ、人身売買があります。勿論違法ですから、テレビ番組でも犯罪として報道されます。
 昔、語学学習で短期留学したときの教科書にも、結婚の一形態として売買婚があると載っていました。
 中国を旅行すると、青い目の人達の養子縁組ツアーと出会います。ホテルのロビーで乳母車に子供を乗せ、我が子以上の慈しみ方をしています。その人達の多くは自分の子供もいます。
 人身売買と、キリスト教の博愛の精神を発揮している人達と、並べて書きましたが、私はこの養子縁組ツアーを、敬服こそすれ決して批難しているのではありません。
 一人っ子政策と関係なく子供は出来ます。その子達の多くはこの世の陽の目を見ません。見ても「黒子」(戸籍の無い子)として、生きなくてはなりません。養子になる子供の多くは、そんな宿命を負った子供達です。

 人形の ように貰われ 玉の輿


0640  オール眼鏡屋

 
中国に「九干一水」という言葉があります。10年に一度は大水が出るという意味です。
 1998年、100年に一回の大水害がありました。
 直後に、通遼(内蒙古)に行ってきました。
 地平線まで見渡せる大平原が、全て水に埋もれたというのは、見ていないから信じられないのですが、水の爪痕は残っていました。
 ハルピンの松花江には、その時の水位を示す記念塔がありますが、ハルピン全市のアパート一階まで浸る水位です。
 私はこれを見て思うのが、瀋陽中街の眼鏡屋です。瀋陽700万人はおろか、全中国の眼鏡がここだけで賄えるのではないかと思うほど、全店眼鏡屋です。
 写真が当たったら、全市に写真屋。コピー屋が当たったら、全市にコピー屋。今は全市に網バー、即ちインターネットとゲームコーナーです。
 この極端な供給過多はなんでしょう。それに応える受け皿が現にあるということです。
 俗に言うマーケットの大きさ。しかし大水が一斉に引くようなマーケットでもあります。

 見渡せば 一色だけの 旗が立ち

0650

結婚式

 
これまで、結婚式に三回お招きを受けました。
 お祝いは「紅包」という封筒上の奇麗な包みに、名前を書いて渡します。「紅包」は式場にも準備しています。
 さて、気になるその金額ですが、最初中国人の友人に聞いたら200元ということでしたので、200元とラジオを贈りました。しかしどうもこれにも日本人料金というのがあるようで、400元でも多すぎることはないようです。何故か祝い事は偶数金額です。
 二度目は仲人をしたので、888元奮発しました。三回目は、666元。8も6も目出度い数字です。
 中国銀行で、結婚式に使うと言ったら新札に換えてくれます。
 「点煙」と言って、キャンドルサービスのように新郎新婦が、煙草のサービスにテーブルを回りますが、そのときに渡します。
 式は料理が終わると、流れ解散のように終わります。

 結婚の 祝いも時代の 波を受け

0660  中国のインテリ

 
私の友人Lさんは、瀋陽工業大学の青年数学教授です。
 申し訳ないが、よれよれのズボン姿をみると、とても新進気鋭の大学教授には見えません。
 ときどき、御宅にお邪魔して、囲碁を打ったり、夕食をご馳走になったりするのですが、10階建てのアパートにはエレベータも無く、全部で24平米ほどの狭い部屋には、家具らしい家具と言えばベッドだけ。書架も無く数多い専門書は、ベッドの下に平積みされています。
 文革のとき、一番目の標的になったのが地主、二番目富農、三番目は確か反革命分子、以下右派等に続いて、九番目が知識分子、即ちインテリでした。
 中国でインテリは、日陰の身というより、攻撃の標的だったのです。
 Lさん月収は600元弱。「女房より少ないよ」と屈託の無い笑顔で、霞とプライドを食べて生きています。
 
 インテリは プライドを食べ 高楊枝

0670

地下銀行

 
中国の地下銀行の取引高が、2003年に10兆円を越えたと報道されていました。
 これは正規の銀行取引高の3割を占める額だそうです。
 日本に密入国で稼いだ金も、地下銀行で送金されます。
 まず日本の地下銀行の手先に電話をして来て貰う。
 送金相手と金額を言う。
 手先が中国へ電話をする。
 中国側の地下銀行がその金額を相手に届ける。
 相手が送り主に受け取ったと電話をする。
 そこでこちらの手先に支払って取引完了。
 手数料は、1%。所要時間は30分。
 安くて、安全、迅速、確実。地下銀行のモットーです。

 地下銀行 庶民のニーズに 花盛り

0680

闇両替屋

 
闇というから、こそこそやっているのかと思ったら、大間違い。
 中国銀行へ行ったら、それと分かるお兄さんが、フロントの椅子にでんと構えています。
 「日本円」それだけ言うと、レートを言ってくれます。分からないときは、銀行員に尋ねていますから絶対正確。
 両替え金額を言うと、私を手招きして自分の後ろへ呼び、窓口へ並びます。必要な金額だけ、自分の通帳から下ろし私に呉れます。
 私は最初銀行のフロアマネージャーかと思っていたのですが、私が確認の勘定をするとき、人目から隠しますから、やはり闇屋なのでしょう。
 相場は、正式レートより色を付けて呉れるし、面倒な手続き一切無し。今銀行から目の前で下ろした金ですから、偽札の心配も無し。
 勿論、外国人留学生相手の専門闇両替屋、ホテルなどに屯している旅行客相手の闇屋、旅行社等が代行する臨時の闇屋等も数多くあり、むしろそちらが闇屋の主流です。

 
公然と 闇屋の屋号で 商売し


0690

同居する英霊

 
満鉄(南満洲鉄道の略称)の駅周辺には、鉄道付属地というのがありました。
 名前からいっても、本来的には、鉄道従業員宿舎とか、操車場とかの鉄道関係付属設備のための用地だと思うのですが、直接関係しない多くの日本人もここに住んでいました。
 治安が良かったからです。というより、こういう点に近い狭い範囲しか、治安が確保できなかったのかもしれません。
 旧日本人居住地を探すときの、もう一つの手掛かりは、解放記念碑を探すことです。日本人が作った忠霊塔が、これに転用されているからです。 少なくとも撫順と承徳はそうです。その近くに旧日本人居住地があります。
 日中戦争を戦った互いの無名戦士が同居しているのは、ある意味では意義深いことだと思います。

 恩讐を 越えて眠るか 一つ屋根

0700

現在は満州国

 
1999年に90才で亡くなった私の父は、旧満州国で仕事をしていました。
 終戦のとき36才。鶏寧という牡丹江の奥、ソ連との国境に近い辺鄙な県で総務課長をしていました。「私のしたことは、中国の役にたっている」と最後まで侵略を認めませんでした。
 父が当時の思い出の一つとして語ったのは、中国人が二言目には「現在は満洲」と言ったことです。満州国は未来永劫と信じていた父にとって、「現在は」というところが、やけに耳障りだったとのこと。
 この「現在」には二つの意味があります。
 1 とにかく「現在」食わせてくれているのは、日本人だ。
 2 そのうち居なくなるだろう。
 良きにつけ悪しきにつけ、新中国建設に大きく関わった満州国13年が、中国全国統一の最初の政権となった秦の15年と、比肩できるようになるか、歴史はもう少し時間が必要なようです。

 功罪は 歴史の評価の 時を待ち


0710
 落ちこぼれの理想郷

 
父が子供の時ですから、もう80年以上前、大連に「一万円」という屋号の帽子屋さんがあったそうです。
 一万円貯めるのが目標でつけた屋号とか。当時の一万円は今の一億円に相当しましょうか。
 故郷を捨てて、王道楽土に来た人達は夢を持っていました。一面で日本の落ちこぼれでした。開拓農民として満洲の荒地を耕した人達の多くは、日本で小作の辛酸を嘗め尽くした人達です。
 最近、インターネットで偶然私に立派な親類があることを知りました。生前の父も、昔祖母も、そのことは言ってくれませんでした。多分昔不義理をしているのでしょう。
 父の好きな言葉は「人間到処有青山」でした。人間はどこにでも故郷があるという意味です。帰る場所の無い人達は、ここに理想郷を求め、一生懸命働きました。
 残念ながらこの地には、すでに中国人という先住民族が、文化圏を作っていました。

 王道の 楽土に流した 血と涙

0720  やどかり

 
東北、中でも瀋陽撫順の昔の工業地帯には、山東省の人が大勢います。
 山東省からは、煙台から船に乗れば遼東半島は目と鼻の先です。
 日清戦争でこの地を得た日本は、ここを拠点に植民地経営に乗り出しました。そしてここから、国策会社南満洲鉄道、所謂満鉄経営の歴史が即ち満州国の歴史とも言えます。
 撫順炭鉱も、瀋陽の重工業も全て満鉄が経営していました。その労働力の供給源が、山東省でした。
 戦乱と内乱に疲弊した中国本土から、難民に近い形で職を求めた人達が流れて来たのです。
 その人達を日本人は、やや軽侮の響きを込め「山東苦力」(サントンクリー)と呼んでいました。
 彼等の多くは住む家も無く、零下20度以下の極寒の屋外で、常に身にした全財産煎餅布団一枚を、やどかりのように纏い、ただうずくまって過ごしたのです。

 木枯らしと 粉雪の中 うずくまり


0730  少年工哀史

 撫順炭鉱は露天掘りと言って、池を掘るように全体から石炭を掬うように掘ります。東西2キロ強、南北7キロ弱、深さ約300メートル。
 それだけ埋蔵量が豊富だということでしょうか。それに無煙炭と言って、質の良さでも第一でした。
 いまは、山西省太原に質量とも一位の座を明け渡し、斜陽の身をかこっています。
 子供の頃、学校から2キロ程離れたここには、よく遠足に行きました。そこでお弁当を広げている横で、少年工が、文字通り素っ裸で額にロープを掛け、それで石炭を満載した麻袋をひっぱり、谷底から運び上げていました。
 しかし本当の哀史は、その職にもありつけなかった人達です。
 炭鉱労務局の窓口には、毎日、ようやく饅頭数個の賃金を求めて、飢えた少年が群がりました。

 一日の 汗で一切れ パン求め


0740  米の飯

 昭和17年食糧管理法が制定され、お米は自由に売買出来ませんでした。
 この法律は平成7年に新食糧法が出来て廃止されました。
 制定当時、中国人は米を持っているだけで経済犯として逮捕されました。このことは、俗に言う「食い物の恨み」。今でも旧満州国が話題になると、必ず中国人が話題にします。
 当時中国人の家に呼ばれてご馳走になったことがあります。一品ずつ出される料理の中の一つとして、丼に白いご飯が盛られただけの物が出されました。当時の中国人にとって「米の飯」は、それだけでご馳走だったのです。
 当時の満洲を代表する風物は高粱畠でしたが、今はむしろ珍しい。米は、稲作の北限に近い北緯45度「日本の稚内」くらいまで作られています。
  今米は一キロ日本円で約40円。高粱は一キロ約50円と、雑穀の方が割高です。

 食い物の 恨みは厳し 風化せず


0750

米西、米西

 
始めて中国人の家庭によばれたとき、「メシ、メシ」と言われて戸惑ったことはありませんか。
 中国語には無い言葉なので、敢て中国語にするなら「米西、米西」となります。
 直訳したら、「飯、飯」。
 こころは、「どうぞお食べ下さい」という意味です。
 これも、例の抗日映画で普及した、妖しき日本語。
 昔私達悪餓鬼は、「メシメシ シンジョウ」(飯飯、進上)と前に両手を重ね、乞食の真似をして中国人をからかいました。
 日本人社宅に、纏足の女の人が子供の手を引いて、ゴミ箱に食べ物をあさりに来る。
 その人達に、「メシメシ シンジョウ」と囃し立てながら、よちよち逃げるのが面白くて、石を投げこともあります。 苦い思い出です。

 
悪餓鬼の 遠い思い出 胸の澱


0760  日本化教育

 
1997年瀋陽で日本語教師をしていたとき、当時70才を少し過ぎたご婦人が、バスの中で私を日本人だと知って、昔の歌を歌ってくれました。
 紀元節の歌、明治節の歌です。
 そして圧巻は、御真影奉戴の仕草をしたことです。御真影奉戴とは、天皇皇后の写真を恭しく捧げ持ち、後すざりするように歩きます。さきの紀元節や明治節のとき校長が、これを行いました。
 植民地経営も、経営である以上投資が要ります。それが、治安維持と民度の向上、即ち教育でした。
 惜しむらくは、教育は日本化でした。満州族の清が少数民族として漢民族を支配するとき、満州語を捨てても、基本的に漢民族の風俗を尊重したのとの違いです。
 朝礼は、東に向かって皇居遥拝にはじまり、神社参拝も強要とは言わないまでも、反対できる雰囲気はもともと有りませんでした。

 植民地 経営基盤は 教育で

0770

避難所

 
撫順、瀋陽は終戦後も比較的治安が良い都市でした。
 そこへ満蒙の辺地での開拓住民、北朝鮮一帯の政情不安の地から多くの避難民が流れて来ました。女子供と僅かの老人。老人の多くは「大地の子」のお爺ちゃんのように途中で棄てられたのでしょうか。
 その人達は、学校へ収容され、そこを「避難所」と言いました。
 飢えと寒さの中で、発疹チブスが流行し、多くの人が死にました。
 その人達の殆どは、校庭の隅に掘られた防空壕に棄てられました。
 その数約2000。春の雪融け前に馬車に積まれ、付近の川渾河に流されました。
 むしろの陰から、凍った足だけ出した遺体の山の行列が、家の前の道を通ったのを覚えています。
 
 日常の 営みの中に 死が宿り

0780

便衣隊

 
抗日戦争映画を見ていつも思うのですが、私が実際に見た抗日の兵士の服装は、実にお粗末でした。
 戦争は、一面で兵站線の確保の戦いです。鉄砲を撃つ人も飯を食う。部隊の移動のとき輜重兵といって、食料部門を担う人が、大勢居ます。
 ソ連軍は、馬車が輜重の主力だったように思う。
 国民党はトラック。
 八路軍は、天秤棒を担いだ輜重兵が、歩兵の後に延々と続きます。
 正規兵でも、軍服をきちんと着ていた人達は、馬に乗ったごく一部の人間だったように思う。
 まして、輜重兵はどこからみても農民です。
 因みに便衣隊は、軍服を纏わぬ農民兵に日本人がつけた名前で、中国では遊撃隊と言います。

 天秤を 素足で担ぐ 輜重兵

0790  大地の妻

 
満洲には、電話交換手、看護婦などの仕事に従事しているご婦人も多く居ました。
 その人達が終戦後、身の保全の為に男装をするのですが、女性はどんなにしても女性です。子供の私が見ても、却って色っぽかったと思います。
 彼女達が、中国人男性と縁が生まれるのも極自然です。ある年齢以上の中国残留者を残留邦人と呼ぶのですが、残留邦人の中に女性が多いのは、支配者の地位が逆転した象徴でしょう。
 国民党の兵士と一緒になり、南方に行った人も少なくありません。
 子供のとき、外で遊んでいたら「日本人の子だろう。餅つきが出来るか。遊びにおいで」と、当番兵みたいな兵士に誘われたことがあります。
 餅つきの手伝いは口実で、将校の日本人奥さんの話相手でした。
 たっぷりご馳走になった楽しい思い出です。

 国破れ 撫子異国の 土地に咲き

0800

居留民会

 
1946年再開された私達の学校の名前は、日僑俘子弟小中学校でした。
 日本人の捕虜の子供の学校という意味です。
 私達の正式な身分は捕虜かもしれませんが、通常は居留民と呼んでいました。
 撫順の炭鉱は、日本人居留民の技術と協力なしでは、維持できないのが分かっていたので、撫順は治安も良かったのです。
 当時、「居留民会報」というガリ版の新聞がありました。そこに最後の撫順炭鉱長、久保孚氏が石山灰一というペンネームでエッセーを書いておられました。
 石山灰一は、石炭の「炭」を「山」と「灰」に分解したもの。つまり「石炭一」ということです。
 この人は1947年7月、平頂山事件の責任を負わされ処刑されます。
 平頂山事件とは、1932年9月16日、紅槍会匪という匪賊の襲撃があったとき、住民が匪賊に協力したと、軍部の青年将校の独断に近い形で、一般住民3000人を虐殺した事件です。
 当時久保氏は炭鉱次長、民間人です。炭鉱運営の労働力の確保という立場からも、常に事を平和的に処理した人です。
 それでも、誰かが血で贖わなくてはいけなかったのでしょう。
 捕虜はときにBC級戦犯として、満足な裁判もなく処刑されました。

 一介の 庶民が国の 罪背負い

0810

中国よ何処へ行く

 
改革開放は「走れる者は走れ」。その面では資本主義そのものです。
 一方で厳然たる社会主義国家ですから、土地は国有で、農民には居住地選択の自由もありません。
 計画経済という「見える手」は、沿岸部に国家が人為的な梃入れして、それが内陸格差となり、傾斜に更に拍車をかける。
 2002年11月、特色有る社会主義の建設を目指して、中国共産党は、重要な規約改正をしていました。
 18才以上の国民なら、原則誰でも党員になれるというものです。
 それは、憲法一条で明確にしているプロレタリア専政という国の骨格をも揺るがせかねないことです。
 歴史は権力分散の方向に流れている。中国もその方向に流れるのか、中国人本来の姿「バラバラ」に戻るのか。

 改革の レールの先は 何処へ着く

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