「ノーと言えない日本人」

 

私の使っている中日大辞典は2520ページ有る。収容されている漢字は約1万4千。そのうち(不)一文字に22ページが費やされている。

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中国語は(不)すなわちノーの意味を被せた表現の仕方が、凄く多い。

例えば日本語では、買うの否定は買わないで充分である。ところがこれだけでは「買わない」気持ちが中国人には正しく伝わらない。

中国語では、買わないは単に買うの否定ではなく、何故買わないか、何故買えないかまで表現するのである。例えば

買不起: お金が無くて買えない

買不了: 多すぎて買えない

買不上: その場に居合わせなくて買えなかった

買不到: 売り切れて手に入らない

  買不找: 探したが見つからなくて買えない

 買不成: 商談が成立しなくて買えない

 買不来: 買ってこなかった

 私の知っているだけでもこれだけある。

 日本人は日本語に否定の表現が乏しいから否定が苦手なのか、あまり否定をする必要がないから否定の表現が乏しいのか、多分後者だろう。

日本人にとって、服従と忍従は美徳である。否定はときとして悪である。素直な子供は良い子であり、良い子はまず「はい」という返事の仕方から躾られる。目上の人の言うことを否定するのは、「口答え」として厳しくたしなめられる。

 

 中国の子供は、テレビドラマで見て日本兵の真似が上手だ。日本兵は、直立不動で「はい」と大声で返事をする。この絶対服従は中国人の目には相当奇異に映るらしく、どのドラマでもこの場面は日本語のままで出てくる。「はい」は中国語と言ってもいいほど、全ての中国人が知っている日本語である。

 改めて外国人になった積りで日本人の会話をよく聞くと、我々日本人は実に「ハイ」をよく使っている。テレビのあるインタービュー番組を聞いて、甚だしい場合は1分間に10回出てきた。

「ハイ」  承諾、基本的な使い方。

「ハイ」  呼ばれたときの返事、最も一般的。

 「ハイ」  単なる相槌、これが一番多い

 「ハイ」  さあ始めましょうの意味を含めて動作、の前に使う

 「ハイ」  自分の言った言葉の後につける 軽い強調の意味

 「ハイ」  間違いを指摘されて うっかりしていましたの意味

 「ハイ」  相手に同調を求める

 「ハイ」  意外の語調

 「ハイ」  自分の存在を強調する

 まだたくさん有るはずだ。こんなに多用しこんなに広い意味で使われている言葉だが、国語辞典を引いたら、改めて解説する必要も無いほど一般的な言葉なのか載っていなかった。中国人が使う日中辞典によると、「肯定、到着、存在」という意味を回答するときに使うと書いていた。

  

 戦後アメリカ映画で、上官が命令を下した後必ず(any question?)「質問は無いか」というのを見て驚いた。「上官の命令は天皇陛下の命令と思え」と教えられている日本の軍隊ではまず考えられない。まして、上官の命令を否定することなど絶対に有り得ない。

 余談になるが、第二次大戦で日本軍がシンガポールを陥落したとき、英軍の司令官パーシバル将軍に対し、山下泰文将軍が「イエース、オア、ノー」と無条件降伏を迫った。「イエス」と「ノー」しか使えない世界は、絶対服従の世界である。「ノー」と言うことは、時に死を意味する。

 

 中国では、服従と忍従は美徳ではないのか。4千年の歴史の中で数え切れない程生まれた王朝と政権は全て中国人民に服従と忍従を求めた。正史に残る王朝の交代はともかく、身近なところでの支配者の交代は頻繁に起こっただろう。                                      

そこで今日の主人が、必ずしも明日の主人と言えない中国人にとって、面従腹背は生きるための知恵である。忍従は、悪でも善でもなく能力である。

 終戦後の撫順で3年間の間に、日本、ソ連、共産党、国民党、共産党とめまぐるしく政権の交代があった。すくなくとも表面上はどの政権も民衆の大歓迎を受けた。政権交代の度に、その国その党の旗で街中が埋め尽くされたのである。

 因みに、中国では課長が代わったら係長はその一族で占められ全て代わる。局長が代わっても、係長が代わっても同じようなことが起こる。職場のポストは一族郎党で占められるのだ。これは、日本人が会社中心で行動するのが中国人に理解され難いように、日本の合弁企業者にとって理解し難いことだが、結局は中国側に押し切られる。

何故なら中国の社会単位は徹底して家族である。「中国人には家族という概念はあるが、社会という概念はない」という説がある。これは中国人(林語堂)が書いた「中国人」という書の一節である。社会主義の国中国の人民に、社会という概念が無いとしたら皮肉だが、中国人の本質は個人主義である。否定は、個が確立してこそ出来る。「これだけ否定語を豊富に持つ中国人は個人主義者である」というのが私の主張だが、お認め頂けるだろうか。

 では個人主義の国中国は、ばらばらか。これがまた違う。水は方円の器に従うというが、水の分子にも近い程ばらばらの中国人は、バケツに砂を入れたようにばらばらのまま、見事に体制に納まるのである。明日政権が変わっても、何事も無かったように明日はその政権の旗が国中にはためく。長い歴史の中で忍従の能力を身につけた中国人には、それが可能なのだ。

 日本の諺で「泣く子と地頭には勝てない」と言う。日本人はひたすら「イエス」と言って服従した。中国人は「ノー」という忍従の能力を持っていた。中国人は、忍従はするが、絶対に服従はしないのではないだろうか。

 

 これを読んでくれる中国の友人は、多分私の考えを頭から否定するようなことはしないと思う。中国人は、腹の底で「外国人は絶対に中国を理解出来ない」と思っているふしがある。

多分このような場合の決まり文句「あなたの考えに、私は啓発されました」と言うだろう。でも本当のところどう思っているかは分からない。ある意味で中国人は、日本人以上にノーと言わないから。