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 葫蘆島への旅

ハンドルネーム あなたのやぎさん
年令 1937年
住所 東京都昭島市
滞在地 長春
著者略歴

1946年引揚。山口、千葉、東京に移転。
1998年定年退職。現在無職

 

 今回の旅(六月二十四日から二十七日)は、「葫蘆島に行ける」というだけで決めた。なぜ葫蘆島にこだわるのか。
 六十年前、ここから引揚船に乗ったのである。当時は、九歳で記憶も少ない。どんなところか、見ておきたかった。

 葫蘆島から出港する前に、半月ばかりいた収容所も探してみたい。
 その収容所がどこにあるのか、唯一の記億は、駱駝の二つ瘤のような山の近くというだけである。
 錦州を過ぎたあたりから、山が見えてきた。瀋陽から4日間、付いてくれたガイドの李卓旬さんと車窓からそれらしき山を探した。
 塔山という所で、山が見えたような気がした。今回の旅では、フリーの日が一日ある。その日に塔山に行って見ようと思った。

翌六月二十五日は、「葫蘆島百万日本人居留民大送還六十周年と中日関係展望フォーラム」が開催される。
 式典は、厳粛な雰囲気の中で行われた。
 中国側からは、国務委員の唐家旋氏、日本側は、村山富市元首相。中国側の意気込みを感じた。

引揚時の中国は、蒋介石政権で、ポツダム宣言の際、戦後処理まで話しあわれた。日本人を送還するに当たり、陸上輸送は中国、海上輸送はアメリカと分担を決めていた。短期間に、大勢の日本人を輸送する為に、中国側は総動員をかけていたそうだ。私達はその時の経緯は知らなかった。今、改めて感謝の念を新たにした。

来賓挨拶は、何れも引揚げ六十周年を契機に、更に日中友好を深めようと言うものだった。
 休憩後のシンポジュームでは、日本人は淡々と発言しているのに対し、中国人は日中友好の重要性を熱っぽく語っていた。温度差を感じたのは、私だけではないだろう。

 昼食後、六十周年記念平和公園起工式へ。
 風船が一斉にあがり、鳩が飛び、花火がなり、音楽隊が演奏する中で始まった。
 村山元首相、唐家旋国務委員を初め十人程の人が鍬入れをしていた。
 記念イベントが終ると自由行動。
 ここから、葫蘆島港は近い。今は軍港になっていて、撮影は禁止、立入禁止だった 外洋にある埠頭には、行けるという。
 その埠頭は、半島の裏側にあり、十分で到着。
 あの当時、殆どの引揚船は、現在軍港になっている港から出航した。しかし、この外洋埠頭からも乗船したと、葫蘆島のガイドの李娜さんも言っていた。碑も立っていた。

 私の記憶でも、引揚船に乗ったのは、この外洋埠頭だった。その埠頭も、昔の面影はなく、コンクリーの残骸がわずかに残っていただけだった。
 夜は、葫蘆島市主催のレセプション。グループに分かれた。個人参加者は、それぞれのグループに配分された。
 私ども夫婦は、安東会(安東市におられた人たちの会)グループに入った。

 私は、ネット仲間に安東関係の人を知っていたので
「池田さんという方をご存知ですか」
と聞いてみた。
「手紙の交換をしている。彼を知っているとは奇遇だ。嬉しいね」
 安東会の会長さんは大喜びで、一気にみんなと打ち解けてしまった。
 こもう一人個人参加でこられた方がいた。生後一年九カ月で吉林から引揚げ、母親を引揚船の中で亡くされていた。記憶も残っていない。
「ここまで生かされてもらってきた。感謝で一杯です」
胸をつまらせながら語っていた。

 翌日は、フリータイム。夕方までに瀋陽のホテルに着けばいい。
 収容所のあった場所を探すことにしていた。実はこれが大変難しい。
 手掛りは、駱駝の二つ瘤のような山だけ。 李娜さんも戸惑ったであろう。地元のお年寄りに聞きまわっていた。その結果、市街地の南方に、首山という山がある。その山が二つ瘤のように見えるという。
 先ず、初日に行った塔山へ。

 市街地の北、普通の農村という感じの場所だった。周辺を探したが、山はなかった。
 次に首山へ。方角が違うなとは思ったが、ここまで来たのだから、無駄になってもいいから行ってみようという気持ちになっていた。
 李娜さんは、しばらくして
「あの山ですね」
 と言ったが、周りに山が多すぎる。 私の記憶では、平地にぽつんと二つ瘤山がなければならない。近くにいた人に、この辺に収容所があったか聞いたが、皆否定している。遂に断念した。

 葫蘆島に戻る途中で、李娜さんは、山の上から渤海湾を見下ろせる景勝地や砂浜の海水浴場に案内して、我々を慰めてくれた。李娜さんとはここでお別れ。
 瀋陽に戻ることになった。私は、収容所の痕跡が見当たらなかったことに落胆していた。年齢的にも、今回が最後の中国旅行になるだろう。
 李卓旬さんは、私の落胆振りを見て
「まだ諦めることはありません。この先にも、山が残っています」
と慰めてくれた。
 錦州に近くなった頃、李卓旬さんが右手の方を指し、言った。
「あの山がそうかもしれない。高速を降りて行って見ましょう」
 形が違うので、期待はしていなかった。 錦州インターチェンジを降り、南に少し戻った。北側から見ると、石灰石の採掘で、すっかり形を変えていた。

 南側に回り込んで見ると、駱駝の瘤のようにも見える。しかし一つしかない。やはり違うなと思っていた。
 山の麓に来ると、石灰石を積んだトラックとすれ違った。

 李卓旬さんは向こうに見える小屋に行っていろいろ聞いてきた。
 「この山は、昔は二つの山になっていた。ちょうどおっぱいのように見えたので母山といっていた」
 二つの瘤のうち、一つは掘りつくしてしまったということになる。

 私の興味は俄然うごめき出した。周囲は広々とした平地である。南の方にも山が見え、やはり石灰岩の採掘で大きく崩れている。この山か向こうの山か、いずれにしてもこの近くだと思った。
 当時は荒野だったが、今は落花生の畑になっている。ここだと確信に近いものになった。

 六十年前、長春から乗った引揚列車から伝染病患者が発生した。駱駝の二つ瘤のような形の山の近くで列車から降ろされ、暑い七月の空の下、長い行列を作って歩き、数キロ先の収容所に入った。
 収容所生活は辛かった。自分たちは忘れられ、放置されているのではないかと不安に駆られてもいた。収容者同士の喧嘩も目撃した。先が見えないという不安から、荒れていたのだ。

 母が収容所の隅で、一人泣いていたのを見た。親が泣いていると子は不安になる。何があったのか分からない。そんな光景だけが記憶に残っている。

 引揚船の埠頭と収容所。私の記憶の中で霞にかかっていた風景を、探し当てることができた。

 クロスワードパズルに例えると、埋めることの出来なかった二つの空欄をやっと、埋めることができたのである。
 最後に、私の過去を探す旅に、一生懸命お手伝いをして頂いた、李卓旬さん、李娜さんに心から感謝をしたい。

 

(おわり)

中央青柳さんご夫婦
式典会場にて 
埠頭の跡
記事中の母山


  

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