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   「探親掃墓」

氏名 山名政宏
ハンドルネーム ノロ
年令 72才
住所 埼玉県蓮田市末広2-1-12
主な滞在地 寛甸、丹東、孫呉、斉斉哈爾、長春
  

   私の父は1946年の9月に、錦西の「集中営」で2週間ほど船を待っている間

に病死しました。いま「集中営」と言うと「労改」のような響きがあるようですが、

当時、収容所のことを中国政府(国民党政府)がそのように呼んでいたのです。父の

遺志に従って、火葬した遺骨は大部分を収容所内の墓地に埋めました。

 戦後、父が埋まっている錦西(葫蘆島市)を訪ねて、「探親掃墓」をしなければ、

と思っていましたが、地方の旅行事情がわからないままに延び延びになっていました。

1997年になって、懇意になった大連の旅行社に依頼してみたところ、思いがけず

簡単に個人旅行の手配ができたので、妻と二人ではじめて葫蘆島市を訪ねました。し

かしこの時は準備不足で、錦西集中営の跡を探し出すことはできなかったのです。

 その後日本でいろいろと調査をした上で、翌1998年の9月に私と妻と娘の三人

で第2回の葫蘆島訪問をしました。大連からまっすぐ錦州へ行く列車に乗りました。

ところがその日、私は前日食べた海鮮料理が当たったのか、朝ホテルを出るときから

吐き気と寒気がしていました。列車に乗ってからそれがますますひどくなって、腰掛

けているのがつらくなったので、四人用のボックス席の片側の座席を一人で占領して

横になっていました。

 発車してからしばらくして、「列車長」の腕章をつけた中年の小柄な女性乗務員が

通りかかって、横になっている私を見て、なにか言葉をかけて来ました。私は行儀の

悪さを注意されたのかと思って、「我身体不好」と変な中国語で弁解しました。列車

長は、「それは分かっている」という風に頷いて、なお何か言うので、よく聞くと「

寝台車に行きたいか?」と聞いているのでした。私が「我喜歓」と言うと、すぐに部

下の乗務員に命じて空席を探させましたが、三人用の空席がなくて困っている様子で

した。そこで私が「没有三個人的座席、我一個人去可以」と言うと、列車長はほっと

した様子で、自分で案内して私を寝台車へ連れていきました。

 案内された席は乗務員の休憩用に取ってある席のようで、若い女性乗務員が一人、

片側の寝台に寝ており、私はその向かいの寝台に寝かされました。私は寒気がしてた

まらず、毛布が欲しかったので、「毛布」は中国語も日本語も同じだろうと思って、

「我要毛布」と列車長に言うと、「毛巾?」と聞き返されたので「毛巾!」と答える

と、毛布ではなくタオルケットを部下に出させて、かけてくれました。後で調べたら

日本語の「毛布」は中国語で「毛毯」だと分かりました。しかしタオルケット一枚で

も十分有り難かったのです。

 列車長は寝ている若い乗務員とおしゃべりしながらずっと向かいの寝台に腰掛けて

いましたが、ひょっとしたら私に付き添ってくれたのかも知れません。そのうちに私

は寝込んでしまいました。眼が覚めると一時間ほど経っていて、若い乗務員は相変わ

らず対面に寝ていましたが列車長の姿はありませんでした。そして私の激しい症状は

ウソのように、ほとんど消えていたのです。起きあがって自分の席に戻る途中に列車

長に会いました。「我現在覚得比較好、謝謝」と言うと、大きな目をさらに見開いて

心配そうに「好多了?」と言うので、「好多了。謝謝」と言って席に戻りました。そ

の後は錦州まで何事もなく、翌朝はホテルの周りをジョギングしたほど体調が回復し

たのです。私は今でも、列車長の「親切」と言う薬で病気が治ったのだ、と信じてい

ます。現在の日本に、この列車長のような親切な乗務員がまだいるでしょうか。

 錦州駅に着くと、去年と同じ葫蘆島の旅行社の姜女士が迎えに来ていました。翌日

から一日半かけて、姜女士といっしょに集中営の跡を探しました。

 当時の錦西集中営は元は満洲国軍の兵営だったと聞きましたが、鉄条網で囲んだ敷

地のなかに二、三十棟の木造三角兵舎が建っていました。まわりは何もない原野でし

た。我々は現在は京哈線と呼ばれている北京行きの鉄道で無蓋貨車の列車を降りて、

数百メートル歩いて集中営に入りました。葫蘆島へ出発するときに、発車直後に大き

な鉄橋を渡りました。

 はじめに行った三、四箇所は私の記憶に合いませんでしたが、最後に行った「北大

営」という中国軍の基地がそれらしく思われました。鉄橋から近いこと、周りは平坦

な野原であることなどが記憶に合ったのです。もちろん今の北大営は当時の集中営よ

りはるかに広大ですから、集中営跡を包み込んで広がっていると思われます。ほぼこ

の場所に間違いないと思ったので、基地に近い畑のなかで酒と煙草を供え、焼香して

父を弔いました。

 しかし、この場所だという確証はありません。焼香の後、基地の近くの鉄道の踏切

(この鉄道は内蒙古行きの塔魏線と、後で分かりました)の所に行って周りの写真を

撮っていると、近くの部落から数人の村人たちが見物に出て来ました。姜さんがその

人たちに、「むかしこの辺に日本人たちが泊まりましたか?」と聞いてくれましたが、

中年以下の人が多いので、当時のことを知っている人はいません。錦州から北京へ飛

ぶ飛行機の時間も迫るので、そろそろ切り上げようかと思っていたときに、奇跡が起

こりました。

 一人の小柄な老人が小さな荷車を驢馬に引かせて、自分は荷台に乗って基地とは反

対側から踏切を越えて来たのです。姜さんがその老人に同じことを聞くと、彼は「住

過!」と一言答えて、そのまま驢馬車で行ってしまいました。そこで見物の村人たち

に「あの人は何歳ですか?」と聞くと、村人たちは老人の後ろ姿を指さしながら異口

同音に「七十八!」と言いました。それなら終戦時はもう青年です。自動車に飛び乗っ

て老人の驢馬車の後を追いかけ、呼び止めてまた質問しました。姜女士が、私が描い

て置いた三角兵舎のスケッチを見せて、「日本人たちが泊まった収容所はこんな建物

でしたか?」と聞くと、ちらっと見て「就這様」と答えます。「周りは鉄条網でした

か?」と聞くと「鉄絲網、鉄絲網」と答えます。有望ですが、まだ証明されたとは言

えません。質問と同じ言葉でしか答えていないからです。そこで私が、そばの塔魏線

の鉄道を指して、「日本人はこの鉄道で降りましたか?」と姜女士に聞いてもらうと、

彼は決然として、はるか遠くの京哈線の方向を指さし、「いいや、日本人は向こうの

鉄道で降りた。駅のない所に汽車が止まって、汚い格好をした日本人たちが収容所ま

で歩いた」と、身ぶりを入れながら自分の言葉で話したのです。この言葉で、北大営

が集中営跡であることが証明されました。

 私は老人にお礼を言って、玉蜀黍の収穫で忙しかったであろう時間を費やした償い

に20元を差し出しました。老人は感謝して受け取りましたが、彼の証言は1000

元でも惜しくない価値があったのです。そして、長期にわたった調査の最後の瞬間に

この老人(後に王さんという名前であることがわかりました)に会えたことは、私の

父の霊が引き合わせてくれたとしか思えなかったのです。

 この時は集中営跡が証明された幸運に満足して帰国しましたが、日が経つにつれて、

あの王老人にもう一度会って、詳しい話を聞きたい、そしてもっと沢山お礼を上げた

いという気持ちがだんだん強くなって来ました。それで、翌1999年に妻と二人で

三回目の葫蘆島訪問をしました。大連からまた前年と同じ列車に乗りました。あの親

切な列車長とは、車内では会いませんでしたが錦州駅のプラットホームで会って挨拶

しました。

 そしてまた姜女士と一緒に王老人を探しましたが、ちょうど法輪功の騒ぎの直後だっ

たので、村人たちの警戒心が強くなっていて、王老人に会うことはできませんでした。

まさに「一期一会」でした。王老人が今も元気に玉蜀黍畑で働いていることを祈りま

す。

(終わり)



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