「チャンマオ」

 

  騙人

 北京の秋は感傷をそそる。そしてまた食欲もそそる。丁度そのとき、私の感傷と彼女の食欲が一致した。

  大きな目をやヽ伏し目がちに、その愁いを帯びた表情からはおよそ似つかわしくない、まさに闊歩するといった足どりで、彼女は留学生ロービーの玄関に現れた。

 

 最初の一言は「吃飯了?」「食事すんだ?」だった。ここでは一番素直にでる言葉だから。さてそれからどこへ行ったか、どうしても思い出せない。ただ覚えているのは「よく喰うな!」と私が驚きの言葉を上げたのと、彼女が豪快に笑ったことだ。そして、あの愁いが、ただの空腹だったのを知ったのである。

 中国料理は結局、皿数で値段が決まるから一人で食べても、二三人一緒に食べても費用は変わらない。それに安い。日本円にして千円もあれば、このチャンマオが十分に満足し、私もほろ酔いになれるのである。

 

 チャンマオは中国語で「喰いしんぼの猫」。中国人の耳には不愉快に響く声音らしいのだが、私の実験では日本人、韓国人、インドネシア人の娘さんには心地よい響きを与えるらしい。だから私がこれらの国の娘さんに「君はチャンマオ?」と問いかけると、普通はあまり使わない言葉なので、「なに?」と首を傾げる。

そこで「食いしん坊の猫、机以外なら何でもたべる」と説明すると

「そうなの、そうなの、ご馳走して!」となる。

 

「机以外」は、中国人は四足のものなら机以外、空飛ぶ物なら飛行機以外はなんでも食べるという例の文句で有る。

中国人を含め、彼女達ご馳走してとは言うが絶対に礼を言わない。それは、あまり礼を言うのはまたご馳走してと催促をしたことになり、卑しいと考えるからである。だから誘いやすいしまた、客人のマナーは主人を喜ばすことと心得ているから、実に楽しい話題を提供してくれる。

 少しチャンマオの説明が長くなった。これから彼女の固有名詞が必要なときは、チャンマオと呼ぶことにする。

 私は「老石」。中国語で先生は「老師」、中国語での発音が似ているので彼女が私にくれた“外号”あだ名である。「老」は一種の敬称であり老人という意味はあまりない。しかし私の年齢に、ふさわしい“外号”ではある。気にいった。

 この猫が私の心に巣くってしまったのは、北海公園の一件以後だった。帰国を間近に控えた私が買い物のため「おじいちゃん、ステッキが欲しいのだけど」と彼女を誘ったら「うん、いいよ」と笑顔でOKを呉れた。

 「今日は端境期?」

 「えーっ?」

 「デートのさ」

 「ハッハッハ、いやーだ私そんなにもてないよ」

 「また、また」

 「老石、北京でまだ行ったことのない所で行きたい所が有ったら案内するよ」

 「北海公園なんかいいね。まさにローマの休日だ」

 「フフッ、前の人もそう言ったよ」

 「年よりの心をくすぐるのが上手いんだ」

 「私、老石のこと年よりなんて思っていないよ。ホントに」

 「どうでもいいけどね」

 北海はその名にふさわしく、氷が張っていた。なにが話題になったときだったろう?チャンマオが柄になく、鬱ぎこんでしまった。

 「どしたんだい?」

 「あの方がね、電話に出てくれないの」

 「あの方て?」

 「父なの」

 「分かるな、君に涙声を聞かれたくなかったのさ」

 「えーっ、どうして分かるの?」

 「君は随分お父さんに心配を掛けているからな」

 「そうなの」

 「僕だって、二人の娘の父親だよ、君より十才も大きい」

 次の彼女の言葉は、私はただ黙って聞いて上げるつもりだった。しかし彼女は何も語らなかった。彼女も沈黙を語りたかったのだ。しばらくの沈黙のあと

 「私ね、世界であの方が一番好きなの」

 今度は私が沈黙する番だった。そして「世界で一番嫌いな男性は父」と言っている長女のことを、思いだしていた。私に対してもよそよそしい敬語を使う。三十路は過ぎているのだが、まだ嫁いでいない。親の欲目を割り引いてても、器量も気だても人並以上だと思うのだけど、何故か分からない。そして長女の交際相手がまた年輩者なのだ。

 沈黙は、意外なことで破られた。いかにも胡散臭い若者が二人、私達に近づいてきた。このような観光地は鴨を漁って、このての人間がうようよしている。

 韓国人かと私に尋ねる。「違うよ当ててごらん」と私。彼ら「分からんよ」と首を横に振る。二人で一緒の写真を頼む。彼らの写真も撮ってやって、出来たら送ってやるから住所を教えて呉れ、と言ったら名刺に福建省と書いてあった。

 「福建省は烏竜茶の本場だね」と私が知ったかぶりを言ったのが、そもそもの災難の始まりだった。「そおだよ。よく知っているね。俺達すぐそこの旅館に泊まっているからお茶でも飲みに来ないか」と私達を誘う。チャンマオも好奇心は人一倍強い方だから、二人揃ってとにかく行くことにした。

 杯みたいに小さな茶碗、一杯目は注ぐだけで、それを盆の上に捨てて二杯めから飲む。味はまあいい。「実は俺達こんな商売をしているんだ」と鞄を広げたら玉の細工物が色々と入っていた。カタログには紫たんや黒たんの家具、山水画もある。玉は雲南省の本物だと言いながら、玉の腕輪を金属製のスチームパイプの所で叩いて見せる。チーンと澄んだ音がしていかにも本物臭い。しかし幸か不幸かこのような物には私は全然興味がない。裸のスチームパイプが無造作に走っているこの部屋代はいくらだろうとか、私の興味はおよそ彼らにとって興味の無いことにある。興味を示さない人間は騙せない。

 一人が何を思ったのか玉の腕輪を取り出して「これは本当は二千元以上するのだが、今日の記念に上げよう」と言う。「そんなに高い物は貰えないよ」と私。

 「ではこうしょう。日本に帰って本当に値打ちがあると思ったら、金を送って呉れ」

「私はそんなに、いい人間ではない」

「俺達は貴方を信用している」

 あんまり話が上手すぎても騙せない。それに雲南と言えば麻薬の本場ではないか。私は運び屋に利用されるのが恐かった。

 丁重に謝意を述べてそこを辞そうとしたときだった。一人が何か得体の知れない干物みたいな物を取り出した。

「これは、値段がつけられない程の貴重品だが値を付けるとすれば二千元だ」と言う。まだ私は興味を示さない。それでも儀礼的に何かと質問したら、虎の足で作った飾り物を出してきて、これの腹の中にある物だと言うが、なお分からない。彼が自分の一物を指し示したらすぐ分かったのに、それが虎のペニスだと分かるのには少し時間が要った。

 色は薄汚い茶色。全体で長さ50センチくらいの、干涸らびているから直径は3センチ位の管状のものが、ところどころに何か動物の体毛が付着したまま、輪状に巻かれている。

先の10センチ位の部分は亀頭だろうか軟骨である。その部分全体が鋭く尖り周囲に脱落防止だろうか、パイナップル状の骨が刺のように見える。要するに、いかにも虎をイメージさせるおどろおどろしい物である。

 彼が何やら書物を取り出して説明するが、指し示す場所が書いていることとずれている。「はは、字が読めないのだな」と私の興味はまだそんなことにしかない。

 ある一行に“風湿病”とある。なに?リュウマチの特効薬?私の目がそこで止まったのを鋭い彼らの観察眼は見逃して呉れなかった。興味を示したら後はいちころである。「鹿袋」を含めて私が日本円にして二万円足らず巻き上げられるのに、いくらも時間は要らなかった。それでも三時間位は騙されていただろうか。

 

 「胡散臭い物を買うのだから、彼の胡散臭さに賭けたのだけど」

 「そうかもね」

 チャンマオは賢いから、私の気持ちを推し量って「そんなの、インチキに決まっているじゃない」とは言わない。買い物の後、食事が終わったときである。彼等が、最後に言ったこの取引は「相互信頼」に基づくものである。と何度も重々しく言ったのがどうも耳に引っかかる。そこではっと芝居のストーリーが皆読めた。虎の足は本物だろう。しかし足が本物でも肝心のペニスが本物とは限らない。勿論錯覚を生むための小道具。

 腕輪をやると言っても私が受け取る度胸がないのは、彼らは先刻ご承知だった。そして、いかにも私を信用しているといったポーズは、自分を信用させるための布石だったのだ。

 「参ったな、彼が騙人(ピエンレン)で俺がピエロか。でも僕はどちらも好きなんだよ。昔港町を歩いていて船員風の人に荷主が破産して現物で受け取った服地と言うのを買わされてね。買わされたというより買ったのかな。買うからその下手な騙しの台詞は全部聞かしてよと言ったら、彼なんと言ったと思う。お客さんやり難いな、もういいよだって。買って上げたよ。いま思ったら下手な騙し文句も計算済みかもね。プロの詐欺師は詐欺師の看板を掲げて詐欺をするそうだから」

 悔しさから少し饒舌になっている私を、チャンマオは優しく慰めて呉れた。

 「私、騙され易い人って好きよ」

 私の胸に柔らかく刺さったこの刺が、こんなに化膿するとはそのときは夢にも思わなかった。もしかしたら、チャンマオが一番騙人かもしれない。

 

 

  再会 

 「又北京に来ました」とチャンマオから葉書を貰ったのは帰国後間もない、翌年の三月だった。私が帰国したのが12月、彼女は二カ月程遅れて帰国したのだが、またすぐ北京に行ったらしい。今度はどうしょうかと迷っていた私の心は、はっきりと決まった。丁度そのころ、私はカルチャースクールの囲碁教師という、私にとってもったいないような仕事をしていた。一週間6万円、時給にして5千円のこの仕事は年金をはるかに越えていたし、生徒は150人近くいたのだが、広い階層の人から先生と呼ばれるのは悪い気はしない。第一楽しかった。しかしこれは捨てられる。早速9月で止めると、予定をカルチャースクールの方に告げた。

 第二の問題が最大の問題だった。妻は大腿骨に人工関節を入れるという大手術を終わったばかりだった。妻は私のことを「優しそうな人」という。優しい人とは呼んで呉れない。術後の付き添いは、私が「優しそう」にした。相変わらず、私を優しい人とは認めて呉れなかったが、それでも妻が十分に満足して呉れている様子を見て、実は私が一番嬉しかった。いま病妻を捨てて私は中国へ行こうとしている。私は「行きたい」と言えば、妻がどう返事をするか分かっていた。

 

 「どうせ貴方て、居ても居なくても一緒なのよね」

 「何処にも行かないで」と私の胸に縋って泣く女ではない。いや、泣きたい気持ちが痛い程分かりながら私の期待する返事を引き出す私が、やはり「優しそう」な人間なのだ。泣きたい台詞が言い易い行為は、絶えて久しかった。

 幸い長女が今家に居る。しかしいつまでもという訳にはいかない。

 「あの娘がいてくれるあいだ、僕にとっても最後のチャンスだから」

 「でも、貴方の方が言い易いこともあるし」

 「あれ、何か喧嘩の種はないかい」

 「言い出したら聞かない人だから、貴方って」

 ここで妻に泣かれたら動けない私は、わざと喧嘩をふっかける仕草で、おどけてこのピンチを乗り切った。

 チャンマオの葉書によると、「宿舎の事情が厳しくて、しばらくは住所を転々します」とあった。行けるとなった私は、すぐ葉書を出した。

 「君が北京に居るかぎり、私は鰹節を持ってどこまでもチャンマオを探します」そして最初の言葉は、「君に会いたくて北京に来た」と率直に言おうと心に決めた。

  二度目の北京は折しも仲秋節だった。認遊柑はひっそりと頬を染め、ポプラは冬支度の落ち葉を校庭に撒き、そして月は最も平凡に表現しょう。まんまるだった。チャンマオはここにいないことになっていたので、そろそろ鰹節の準備をしなくてはと思っていた矢先、丁度仲秋節のその日だった。猫の鳴き声がするではないか。胸の前で両腕を激しく震わせる子供っぽい仕草で、チャンマオは私を歓迎してくれた。

 「何度も来たんだよ、やっと会えた。私ここに入れたの」

 「そうよかったね、僕も丁度明日尋ねて行こうと思ってた」

 再会の第一夜は四川料理だった。

 「月が素晴らしいわね」

 チャンマオが素朴に素直に再会の喜びを表現する。オカッパ風に刈った少しいたずらっぽい横顔に、ちょっと去年より女らしさを感じた私の返事は、あまり素直ではない。

 「月より団子でしょう」

 「そうなの、私また肥ちゃった」

 「君に会えただけでも、北京に来た甲斐があった、でもこれ五人目」

 「いいよ、いいよ、その台詞」

 「じゃー20週居るから、20個はこのての台詞を用意しておくよ」

 二日後に、またチャンマオが尋ねてきた。そして、父親が近く北京に来るから私にも会って欲しいという。これまでのお礼を兼ねて、北京ダックをご馳走するから、半日是非空けてと言う。彼女の計算が私にも分からなくはなかったが、いざとなりゃ皿まで食えばいいじゃないか。私にも計算があった。これで大ぴらに彼女と会える。

 

 チャンマオが「私の部屋は女子寮だから、父の居る場所がないの、ちょっと私支度してくるまで父を預かって」と私の部屋まで紹介のために連れてきた彼女の父を、部屋にそのまま置いて行ってしまった。いまや、私達は彼女の筋書きどうりに芝居を始めた。

 銀行マンらしく、スーツをきちっと着こなした彼女の父と、襟の汚れが黒光りの一歩手前というジャンパー姿の今日の主役二人が、まず天安門に登場した。

  天安門は、おのぼりさん広場である。中国の道路を横切るのは勇気が要る。チャンマオはさっさと渡ってしまつたが、彼女の父と私二人は取り残されてしまった。「悔しいけど、年の差ですか」と、私は年の差を意識的に言う。

 中国人料金で入場券を手に入れてきたチャンマオに対し、彼女の父は「十元、二十元大したこと無いじゃないか」と口では言うが、目元はその語学力に満更でないものを感じているようだ。

 土産物屋が近寄ってきた。絵はがきが欲しかったので、例によって半分まで値切って買った。チャンマオが全く興味のなさそうな顔で立っている。20メートル程先を行っていた彼女の父に私が追いついて、「彼女あれで結構したたかなんですよ。見ててご覧なさい、私より値切って買って来ますから」

 「まだ10元安くなったよ」とチャンマオが得意そうな顔で追いついてきたとき、彼女の父が初めて大きく笑った。彼女はこの顔を見て育ったのだ。

 前門「前聚徳北京ダック店」で二人の名優は、学校時代の思い出、中国の経済問題等無難な話題をかなり広く話あった。

 

 「私父の学校時代の話なんて、初めて聞いたわ。あの綺麗好きの父が、肥料桶をかつぐようなアルバイトをしていたなんて、とても信じられない。それに父があんなに快活そうに人と話すのも初めてみたわ」

 「あれが男の表づらさ、僕もあのスタイルで二年前までは毎日仕事をしていたんだよ。よその男の表づらは毎日見ても、自分の父や夫の表づらはそんなに見ることないよね。逆に君は僕の内づらを知らない」

  「老石も私の内づらを知らないわ。父が早速返事を呉れたの、読む?」

 「その手紙の最後に、僕によろしくと書いてあるかい。もし書いてあれば、僕も見せてもらおう。書いてないなら駄目だよ」

 

 以下は私の、心の中の言葉である。

 「僕はこれ以上君とは深く関わりたくない。君は、僕が北京まで娘に会いにきた父親の心が分からない人間だと思っているのか。そこには、君の内づらが十分に伺えることが書かれているだろう。これまで、君が日本での過去を語ろうとする度に、僕はさりげなく話題をかえてきた。君が一番嫌がる言葉だと知っているから言ったことはないが、その豪快な笑いの下に秘められていると思われる心の傷は、君にとっては深刻かもしれないが、週刊誌風に見ればファザコン娘が年寄りと一線を越えた。それだけのことさ。この傷はそっとしておけば、時間とともに必ず直る。しかしいま僕が下手にふれたら、その傷は滅茶苦茶になる。反動で僕も手傷を負うことになるだろう。君も知っているように、僕は優しそうな男さ。それを知っても君に優しくはできない。だから読みたくない」

  こんなに酷い言葉を、この「優しそう」な私が彼女にこのまま言ったことは一度もない。しかし彼女も私に近づきながらなおかつ、明らかに私を避けていた。

 チャンマオのその両肩は、私が抱きたい距離からいつも数センチずれていた。私もまたその数センチを踏み込まなかった。そしてチャンマオは密林の奥から、おカッパを両手で後ろにかきあげ、大きな瞳を少し眩しそうに細めて、じっと私を見つめるのである。

 

 

 「あの子」

 仮にM子と呼ぼう。M子は私の同級生で一番入り口にひっそりと座っているが、色白で長い髪は十分に人目を引いた。ただ何故か少し背中を丸めて、人の会話の中に自分から入って来ることはなかった。去年も一緒にいた娘だが、M子がロシアまで男を追いかけてきたけど、結局別れたという話を私は彼女自身の口から問わず語りに聞いていた。

 二時間目と三時間目の間は20分の休憩時間があり、その間だけ校庭の道路端でコーヒーやケーキを売っていた。コーヒーに誘ったのは私だった。

 この学校は今年は噴水設備までできて、中国開放政策の第一線を走っている。

各国留学生の様々な声のなかで私達は行列に加わっていた。十分に乾いた空気が落ち葉とともに吹き抜けた。彼女が軽く肩を震わせて首をすくめた。

 「駄目だよ、僕の前でそんな格好をしては。抱いてやりたくなる」

 「フフッ」とすり寄せてきた肩を、私は後すざりしながら押さえた。

 「食事に行こう」

 「今日は駄目、金曜日まで駄目」

 「OK、金曜日だね、約束したよ」

 「いいわ」

 「下心あるよ」

 「どんな?」

 「胸の痛みを治して欲しい、君失恋の名人なんだろう」

 「私でよければ、いいわよ」

 「ボーイフレンドは?」

 「居るけど、彼丁度そのころ旅行に出るの」

 女を口説くには一言しか要らない、と言ったのはシエークスピアだったろうか?誰かが言っておりそうな言葉だが、誰も言っていないならいま私が言おう。私が言ったのは、「抱きたい」の一言だけである。

 

 私がこんなに荒んだ気持ちになったのは、チャンマオの前に「あの子」が出現してからだった。

 M子を口説いた前日の日曜日、私達は「盤山」に登った。この山は北京と天津の間にあり海抜864メートル。三国誌演義にも登場してくる、古くからいわれのある山である。山腹には数々の寺も有って北京天津市民の高級行楽地になっている。高級と言ったのは少し交通の便が不便だから、ここへ行けるだけである階層に属していることを意味する。私達は李老師に招かれていた。

 李老師とは、昨年閲読の時間を担当して頂いて以来のおつきあいである。歴史、文学に造詣が深く、娘さんは日本にも留学したことがあり、いま日本系の企業で働いている。ご家庭にも幾度か招かれたお礼に、その娘さんの23才の誕生日を畠詔蟻疹兌糾でお祝いして上げた。そのとき、チャンマオとやはり留学生で李老師とゆかりのある斎藤さんという娘さん三人で行ったのだが、同じ年輩の三人娘でよく盛り上がった。

 ところがチャンマオが当日になって、急に行きたくないと言い出した。体はどこも悪くないと言う。生理が終わったのは知っていた。一週間位前彼女が「生理で頭が痛い」というから、そんな言葉はストレートで言ってはいけないと、たしなめたことがある。うちの娘達もこの言葉を私の前で無神経に使うが、私には刺激が強すぎる。ただの寝坊だと思ったから私も少し腹が立った。

 「約束しているのだから、わがままは駄目」と無理矢理引きだしたのだが、全然乗りが悪い。

 山登りの途中、少し遅れて二人だけになったとき「一体どうしたの┻」と私が少し詰るような口調で尋ねたとき、チャンマオがやっと重い口を開いた。

 「聞いて欲しいの。実はね、私今日殆ど寝てないの。だって夕べあの子がいきなり私の部屋を尋ねて来て、私のことを好きだというんだもの」

 「あの子て誰だい」

 「韓国人の子だけど、まだ名前ははっきり知らない。二人で卉才坩まで自転車で行って、そのあとも寝れないの」

 「いきなり直球とはね」

 「私達そんなことしていないよ」

 とチャンマオがむきになる。私はいきなり愛の告白とはね、言ったつもりだが、今日のチャンマオはすっかりいかれている。いつまでもこんな話はできないから、帰ってから聞くことにした。

 八合目位の所に、襖を5枚重ねた位の岩が屏風状に立っている。そこに「忘帰」と朱色で大きく書かれていた。景色の良さに見とれて、帰るのを忘れると言う意味だが、私が「この景色は日本に似ているので、かえって日本に帰りたくなります。いま彼女がそうなんです」と離れて立っているチャンマオの方を指さしたら「あゝ、彼女はホームシックですか」と一同納得したような様子を示してくれた。

  帰りの車は、左手に地平線に沈む夕日を見ながら走った。今度は私が大失敗をしてしまった。食事のために車が止まると同時に、夕日は落ちた。

 そのとき、私は堪えきれずに大声で泣いてしまったのだ。こんなとき中国人は一人で泣かせてはくれない。全員が心配そうにどうしたのか私の顔を覗きこむ。

 片言の中国語で詫びの言葉を述べたのは、十分に泣かせて貰った後だった。

  「先ほどはお恥ずかしいところをお見せしました。今日の楽しい日に、私が何故泣いたか、お食事の前にお詫びしたいと思います。

 私は子供のころ中国東北地方に住んでいて、13才のとき帰国しました。

 いま地平線に落ちる夕日を見ながら、当時の感傷に浸っていました。そのとき、隣に座っていた中田さんが、ある物語を語ってくれました。それは引き揚げの途中子供を餓死させた母親の話で、その子は夕日が落ちると同時に母親の両腕の中で息を引き取ったというのです。

 実は私の母が終戦後間もなく病で死に、そのあと母乳を失ったなった妹が餓死したのです。そのことを思い出した私は、必死に涙を堪えていました。ところがいけません、いまバスから降りたときマンホールの蓋が開いていて、危うく落ちそうになった私を王君が抱き抱えてくれましたね。体のバランスを失った私は、心のバランスも失って、後は涙が止まらなかったのです。」

  まさか、老いを夕日に重ねて、チャンマオのことを切なく思っていたもう一つの気持ちは告白出来ないではないか。しかし、この説明は事実である。私の片言がかえって緊迫感を醸し出したのか、幸い「私達はよく分かりました」と理解して貰えた。

 

  客の絶えた一軒の喫茶店の片隅で、私達は向かい合っていた。

 「私て駄目ね」とため息がときおり混じるチャンマオの話を、私は只黙って聞いていた。ときに語り口が理路整然とするのは何回か自問自答しているのだろう。

 「時間がもろい」とか各所に意味不明の言葉が出てくる。こんなときはなにを言っても無駄なことを、私は自分の娘で知っている。しかしいま目の前にいるのは他人の娘だ。もし自分の娘がこんな赤裸々な告白をしたら、私はなんというだろうな、と冷静に耳を澄ましていた。

 私はまた自分の娘にこそ、このように冷静に対処してやるべきだった、と苦い後悔を噛みしめていた。

 少し長すぎる沈黙が続いた。彼女は明らかに私の言葉を催促している。

 「まじにふざけるから、聞いて」と、私は20年前に人気のあった、ある民放のセックスカウンセラーの声色を使った。

 「性なくして愛が営まれることなく、愛なくして性が結ばれることもありません。性と愛とは健康な男女が生きていく上において欠かせない、車の両輪のようなものです。心に悩みが有るということは、心の健康のためにも体の健康のためにもよくありません。どうぞ性と愛とで悩みをお持ちのかたは、ご気軽にご相談下さい。チリンチリン」

 なんの言葉でもいい。私の一言を待っていたようにチャンマオが

 「そうなのよね、私、やっぱり最後までいくわ。ハッハッハ」と笑った。

 「なんだ、泣いているのかい」

 「泣いてなんかいないよ」

 笑顔と泣き顔は表情は一緒でも声は隠せない。あるいは私の心が泣いていたのかもしれない。

 「そうそう、あの子老石のこと知っているて言ったよ、去年一緒に食事をしたこともあるて、会ってやって呉れる」

 よく聞くと、確かにそんな陰の薄い神経質そうな男の子が一人いた。チャンマオの話による食が進まなくて体が弱いというのは、ノイローゼだなと直感したが

 「うんいいよ、結婚式は僕が仲人をしてあげよう。披露宴ではコザックダンスでも踊って上げる」と勤めて陽気を装った。

 

 翌日月曜日

 「あの子」は約束の時間に現れなかった。チャンマオが宿舎まで探しに行ったが、どこにも見つからないという。とにかく二人で食事だけしたが、話題がなにもない。ただ「あの子どうしたんだろうね」の繰り返しである。

 

 火曜日

 昼チャンマオが「やっぱり見つからないよ」と私の部屋にやってきた。碁でも打とうよと私が誘ったら、意外に素直に「うん」と頷いた。碁は教え始めたばかりだが、お世辞ぬきにして筋はいい。

 「落ち込んでいるわりには冴えているね、今日はこれで終わり」と手を差し出して握手をした。俗に手も握らない仲というが、チャンマオの手をこんなにはっきりと握ったのは初めてである。じっと手を握りながら、私は先に立ち上がった。

 少林寺拳法をしながら、スポーツ推薦で進学した彼女の体格は私よりいい。その豊満な肉体を見下ろす形で

 「この健康な体で、胃薬が要る程喰えば女がもだえるわな」と、口調も卑猥に一番酷い日本語を浴びせかけた。上目使いに私を睨み上げるチャンマオに、私は更に追い打ちをかけた。

 「実は僕が一番君を抱きたい。君が誰に抱かれようと僕にはなにも言う資格はないが、僕の目の前であんな奴に抱かれるのを見るのは辛い。僕達の性は残り火のような物で若い人のはちきれる性とは違う。自己処理能力もある。しかし、これだけ燃え上がらせて呉れたことに感謝する。君も知っているM子と、話ができた。僕が一匹の牡である証明だけして君の前から姿を消したい。戦闘準備もできているよ」

  これだけは絶対に言ってやろう、と胸にたぎっていた言葉を早口でまくしたてた後、戦闘体制を誇示するようにゴム製品をチャンマオの目の前に示して、押し出すようにドアを閉めた。

 

 水曜日

  チャンマオは尋ねて来ない。私も行かない。いらいらするだけで、一日が過ぎる。日本のラブホテルで再会するという想定のもとに、チャンマオは私に犯されていた。

 

 木曜部

 この日は午後中国棋院に行くことを、だいぶん前から棋院側と約束していた。

 「午後中国棋院に行きます。ここは中国の碁のメッカで、一見の価値があります。一緒に行きませんか?一時まで部屋で待っています」と朝早くチャンマオの部屋に置手紙をした。

 午後一時きっかり、大きな目を一杯に見開いたチャンマオが無言で現れた。そして私に二枚の便せんを差し出す。

 「私は老石を忌避します。」の文句で書き出されたそれは、私に対する嫌悪感と、侮蔑の言葉で埋められていた。最後に月曜日にあの子が来なかったのは、入院したからでもう居ません。と書かれていた。

 「こんなに素直な言葉を有り難う。やっと気が晴れた」

 「私達仲直りできるのね─こんなもの燃やすよ」

 「勿論。いま泣いた烏がもう笑うた。互佶仇厘音岑祇傍焚担挫阻─さあ行こう」

  言葉に出せない程嬉しいというところは中国語で高らかに叫んで、チャンマオ得意の両腕を胸の前で激しく震わせるポーズに私も合わせた。

 もう私の心は碁どころではない。八段の女流棋士に三子で指導を受けたのだが、完敗。

 

昆論飯店のバーには、ジントニを前にした二人が只黙って座っていた。チャンマオが柔らかい表情で、トレードマークの大きな目を閉じている。こんなにしげしげと彼女の顔を見るのは、私も初めてだった。「よく見りゃこの娘も結構お多福だな」なんて心の中で呟きながら、私の胸は満たされていた。私達はいつまでもそうしていた。

 「時間が流れるていいものね」とチャンマオが呟く。

 この娘の傷は必ず直ると確信した私は、やはり撫順に行こうと返事をした。

 沈黙に入る前チャンマオが

 「母の心の故郷開封も行ったし、父も北京に来て呉れたし、後老石の故郷撫順に行ったら私の中国は終わり。日本に帰る。一緒に行こう」

 と言ったのだが、私は「僕の客観的立場がない」と静かに首を横に振った。私は来年この大学の日本語教師をしないかと誘いを受けている。しかしいまは、客観的立場より自分を信じようと思いなおした。

 「私て、このあいだ延長手続きをして授業料も払ったばかりなのに、父がなんて言うかな」

 「僕が帰れと言ったと書いたら┻君も僕の居ない北京には用事がないだろう」

 「しょってるよ─」

 「室生犀生にねあれはなんといったかな、題名はど忘れしたけど父と娘の小説があるの。僕も帰ったら読むから読んでごらん。お父さんの気持ちが必ず理解できるから」

 私達が帰ったのは、門限ぎりぎりの十二時だった。

 

 金曜日

 M子が辛いものがたべたい、と言ったので連れていった四川料理店は、チャンマオと感激の再会をしたその店である。チャンマオが座っていた場所に、私は敢えて彼女を座らせた。彼女の口から出た話題は、父のことだった。

 「エーッ又!」と私は思わず心の中で叫んだ。世の中にはファザコン娘がこんなに多いのだろうか。私の少し小太りで風采の上がらない体格、軽いどもり、加えて深い皺に囲まれた締まりのない顔の真ん中に大きな鼻が鎮座し、一種の愛敬を醸し出している。このピエロ面が彼女達に言わせると「優しそう」ということになるのだろうか。

 宿舎の服務員の弌純(お嬢さん)が悲しそうにしていたので「どうしたの、ホームシック?」と声をかけたら、彼女カウンター越しに私の手を握りながら二十分間程辛い胸の中を語った。勿論中国語で。

 イタリアの若者にすっかりいかれてしまっている「なおみ」は、彼と喧嘩をすると私の所に泣きにくる。

 あの徒表から帰りのバスで私を泣かせてくれた中田さんは、私より少し年上だから、私に父を感じるはずはない。しかし頼み安い人とか言って電話の掛け方を聞きに来たりして、礼にチョコレートを呉れたりする。彼女の父は元某大学の教授で、その道では権威の人だった。それと関係があるかないかしらないが、彼女は未婚である。

 要するに、私がここで親しくしている女性に共通しているのは、彼女達の心の中に父親が大きなウエイトを占めているということだ。

 韓国の家庭料理を作ったからと、ご馳走してくれたあの韓国娘も、聞いてはいないが間違いあるまい。

 M子に対して私は「初恋の人に似ている」から始まって、甘い調子のいい言葉を敢えて早いテンポで喋りまくった。彼女が私に抱いているイメージを壊せばいいのだ。

 「よくそんなに調子のいい言葉が、次々と出ますね」

 彼女の私に対する軽蔑を十分に引きだしたところで、

 「そうなんだよ、よく言うじゃない、あちらが駄目になると口が達者になるて、恥ずかしながら実は僕もう駄目なんだよ」と、股間に熱い物を抱いたまゝ辛い一言を吐いた。

 ピエロの演技は完璧だった。もし、この悲しい演技を見抜ける程の娘なら又考えよう。

 長い重たい一週間が過ぎた。「あの子」が巻き起こした二つの大きな台風は完全に納まり、北京の空にはいまや雲一つない。危機は全て去った。そして又チャンスも去った。

 

 

 算了

  北京から瀋陽へ向かう寝台車の朝、ようやく上りかけた陽の向こうに地平線。

  天蒼蒼、野茫茫、風吹草低、見牛羊。

  天青く野は果てしなく広がり,草低く風吹き渡るところ牛羊の見ゆる。東北地方大平原、さっきから変わらぬパノラマはそのままずっと続いている。

  ときどき点在する旧日本軍鉄道守備隊が使っていたトーチカを見ながら、私は妻のことを思っていた。昔、妻が

 「満州て麦畑が遠く近く見えるのよね」と言う。

 「エーッ」と、怪訝な顔をしている私に、妻はこれ子供のときに覚えたのだけどと言いながら「遠近見える麦畑」とメロディーを付けて歌った。

 「なんだ、それトーチカだよ」と大笑いをしたことを思いだしていたのだ。

 この具体的な侵略の歴史を前にして、チャンマオは別の事を考えていた。

 「私ね、中国の近代史を中国の学校で使っている教科書で、勉強したいの」

 窓辺に寄り添っているチャンマオの肩に、油断があったが私は抱けなかった。そしておカッパの端をそっと彼女に分からないように撫でた。

 

  「撫順の街なら、目を瞑っていても歩けるよ」と、私はどうしても興奮気味にチャンマオを案内していた。

 「ここが建物は代わっているけど、お袋と妹の死んだところ。お袋は結核でね、どちらかと言うと気の強い人で人に涙を見せるタイプではないけど、一度だけ僕の手を取りながらあなたが私の骨を抱いて帰るのね、と泣いたことがあるよ」

  終戦後、当時十才の私がパンを売ったり、売り食いの品物を並べたところもそのままだった。終戦、母の死、極限の貧困、死体を日常的に見る混乱した世相、その全てが私の少年期を奪った。私はしっかり過ぎる子どもに育ったのである。一口で言えばませていた。だからその子つまり私が、実際の年以上の思いを寄せた娘と一緒に学んだ学校もそのままあった。

 還暦を間近に控えたいまも、そこだけが大きな空洞を作っていて、時折私の心はそこに少年の狂気が吹き荒れる。いまこの空洞をチャンマオがしっとりと埋めてくれた。

 撫順賓館は渾河畔の丘の上にある。私達二人は麓でタクシーを降りて歩くことにした。

 「今日は有り難う」と私。

 「有り難うて?」

 「上手く言えないけど、有り難うでいいじゃない」

 「みんなその言葉だけ残して、私から離れていくの」

 「君がいい娘だからさ」

 しかし、心のなかで私は別のことを考えていた。僕、前の人、例の「あの子」、あるとき話してくれた君の過去を暗示する中国人留学生、みな君を抱くためには危険な崖を跳ばなくてはいけない人ばかりではないか。

 「正直言って水密桃でお腹を壊すのが恐い、僕はソープで洗った桃がいいよ」と言葉をつないだ。

 この水密桃だが、チャンマオと首都劇場に芝居を観にいったとき、しもねたまがいの中国語の台詞が飛び交うなかで、二人が観客と一緒に笑えた唯一の台詞だったのでここで使ったのだ。

 「ああ、私の白馬の騎士はどこにいるのかな─」視采の水面まで届けとばかりチャンマオが大声を上げた。

 「君には自転車の騎士が似合うけどな」

 「ハッハッハ」と例の豪快な笑いをチャンマオが張り上げた。

 「目を瞑って日本地図の上に鉛筆を落としてご覧、そこに居るから。間違っても海峡を越えないようにね」

 「うん、やってみるよ」

 「今晩、君の部屋に行くよ」

 “熱烈歓迎”「大歓迎よ」と中国語で挑発するように、チャンマオの肩が私の肩を強く押した。そこには、私が絶対に受け取らないのを見越した上で、高価な玉の腕輪を差し出した北海の騙人がいた。

 私の脳裏の舞台の上では、ピエロが着せ替え人形を弄んでいた。

 シベリア寒流が二人の間を吹き抜け舞台をかき消した。

 しばし間があって、二人は同時に同じ中国語の言葉で大声を上げ、顔を見合わせて笑った。

 “算了!”「止めた!」。

  
  (完)