阿K放浪記

 プロローグ

1948年8月10日。撫順駅には、最後の引き揚げ列車が停車していた。

 我が家の四人もそれに乗車していた。撫順は今もだが、当時は東洋を代表する工業都市だった。その施設の維持管理のため中国政府(当時は蒋介石の国民党統治下)は技術抑留者を要請し、その要請に応えた者とその家族が数百名乗車していた。父は技術者ではなかったが、抑留者子弟教育に携わることで、自ら希望して残留していた。

 父は満鉄の委託生として、旧長崎高等商業に留学し英語ができた。父が希望して残留したのは、父は日本に帰りたくなかったからだ。その原因は祖父の代まで遡る。祖父は広島で手広く材木商をしていたが、相場に手を出し、一夜で破産する。夜逃げの先として遼寧省開原市を選ぶ。祖父は日露戦争に衛生兵として参戦するのだが、僅かに土地勘がある満州を選んだのは、そこしか逃げ場が無かったのだ。

 外地の生活は厳しかった。七人居た家族が、祖父を含め五人が祖母と父を残しばたばたと死んだ。多くは病名も判然としない風土病。いまでいう感染症だろうか。父はその後、満州国に奉職し、最後は参事官として王道楽土の建設に燃えていたのは、その出自からみても当然だと思う。長崎高等商業留学時代の縁で、母と結ばれる。母は当時の国民病肺結核に冒されていた。母一人子一人の家庭へ嫁ぐのは難しい。そこへ母の病を知ったとき、祖母は鬼になった。逃げるように去った母が復縁したのは、父の母への強い思いからだが、父はまた自身の母の盲愛の中にあった。この物語が始まったときは、母が他界して僅か1年半。嫁姑の葛藤はまだ早熟な少年の心の中で燻っていた。

 祖母、父、私、幼い弟。四人はそれぞれの思いで、発車を待っていた。私は母亡きあとの家族から逃げたかった。一人になりたかった。日本に帰りたくなかった。

 

 放浪篇

 

 別れ

 列車は無蓋貨車だった。即ち屋根が無い貨物列車は、平たい頑丈な板に、車輪が付いているだけで、敷物などは勿論無い。

 まず貨車の四隅の柱の間にロープを張り、人や荷物が落ちないように、安全を確保する。勿論それ位では安全は十分とは言えない。トイレは原則停車中に線路脇で用を足すが、緊急の場合は隅の柱に手を添えて自分で自分の身体を確保しながらしなくてはならない。揺れる列車上では、かなり危険だ。年寄や女子供は、大人の助けを受ける必要がある。

 荷物を貨車の端に積み上げて、銘々がそれぞれに座席を拵えたそのとき、父がはっと気が付いたように

 「茣蓙を忘れた」と言った。

 「僕が取って来る」

 「何処で?」

 「家の畳を剥がしてくる。剃刀を貸して」

 発車までまだ三時間くらいはあったが、南台町の元の家までは、片道2キロ以上ある。

 危険な賭けだ。

 「もういい」と渋る父から剃刀を無理やり借りると、貴重品が入った小さなリュックを背負って貨車から飛び降りた。

 「それは重いから置いていきなさい」父がリュックを置いて行くように勧めるが、 

 「貴重品は肌身離すな」と父のいつもの口調を真似て、リュックを背負ったまま駆け出した。 

このときは、私はまだ祖母から逃げ出す気持ちは、はっきりとは無かった。祖母から逃げ出すということは父と別れることだが、それも止むを得ないとは思っていた。

 漠然と憧れていた北京、そこには少なくとも祖母のような鬼は居ないはずだ。

 私は。戻るまで列車が発車していることを願った。もし、列車が発車していたら一人で北京に行くつもりだった。

 南台町の元の家は、当然ながらもう他人の家だ。幸い裏の戸が開いていたので、そっと入る。畳を二枚剥がしたところで、家人に見つかった。30からみの男性が、出口を塞ぐように立ちはだかり大声で怒鳴る。

 私は、血の気が失せたがまだ冷静だった。

 次の瞬間を待つ。男が殴り掛かったその時だ。素早く身をかわし、体制が崩れた彼の脇の下を潜るように、表に飛び出した。あとは一目散に逃げるだけ。

 

 列車は、まだ発車していなかった。

 私は、迷った心のままもう一度賭けを試みた。茣蓙と剃刀を貨車の近くに置いて、物陰に身を隠したのだ。

 「けんちゃーん!けんちゃーん!」と狂気のように叫ぶ父の声が聞こえる。父はそれを見つけたのだ。しかし私の姿が無い。まさか逃げる気で隠れているとは思わないから、道路を只うろうろと走り回る。

 私は見つけて欲しいような、見つけて欲しくないような、半々の気持ちで息をひそめて運命の神に身を委ねた。

 

 やがて発車の時刻になった。

 動き始めた貨車に、父が飛び乗った。年老いた母、幼い弟。どちらも父を必要としている。

 「けんちゃんなら、しっかりしているから大丈夫だよ」。

 誰かが慰めるように言う。

 「けんちゃんは、いつも北京に行きたいと言っていたよ」と、同級生の子供が言ったとき、父ははっと思いあたった。貴重品の入ったリュックを何故私が持って行ったか。

 まさかとは思いながらも、今は只この向こう見ずな息子の無事を祈るしかなかった。

 ここはお国を何百里。敗戦後三年、祖国にも見放された人達が、ソ連軍の侵攻による、徴用,徴兵、避難、抑留、玉砕、虐殺、残留、遺棄、自殺、餓死、刑死、病死、凍死等々多くの悲劇的な別れをしてきた。それらに比べたら、この別れは喜劇かもしれない。子が親から自らの意志で離れたのだから。

 獅子の子は、自ら千尋の谷に身を投げた。

 

 北京への一歩

父と別れた私は、とにかく線路沿いに西へ向かった。

 大官屯、発電所、この辺までは、遠足で来たことがある。望花、古城子もよく耳にした地名だ。撫順から奉天までは、撫順中学の学生の、軍事訓練の行軍コースで、背嚢を負いゲートル巻きの少年が夜間行軍で歩いているのを見たことがある。

 撫順奉天は、遠足の延長位の軽い気持ちだった。そこから北京までは、想像も出来なかった。簡単な地図の上での北京は、それほど遠くは思えなかった。

実際は、撫順奉天が約50キロ。奉天北京が約700キロある。それがどれ位の距離か、距離の実感が無いまま、とにかく歩くしかない。

 

八月は、この辺は雨が多い。驟雨に時々襲われるが、幸い長雨は無かった。ぬかるみで靴やズボンが汚れたのは、むしろ望む所だった。旅支度の私は、あまりにも身綺麗にしていたから。目立つのは困る。

 

 国共内戦最後の決戦の幕はやがて切って落とされようとしている。

 私達の引き揚げ列車も、撫順から瀋陽までで、瀋陽から錦州までは、国民党の軍用機が用意されていた。瀋陽を離れたら列車の安全が確保できなかったからである。

 私達最後の引き揚げ者は、国民党の要請で残った技術抑留者の一団だった。蒋介石は安全帰国の約束を守って、軍用機を用意してくれたのである。

 軍用機は国民党の本拠地南方から東北へは軍需品の輸送で満杯だったが、戻り便は空いていたからそれが出来た。

 葫蘆島からの引き揚げ船もそうである。

 1 南方から葫蘆島へ国民党兵士の輸送。

 2 葫蘆島から日本へ引き揚げ者の輸送。

 3 日本から南方へアメリカの援助武器輸送と在日中国人の送還。

 三角輸送の一辺が日本人の引き揚げ船に使われた。船舶は重に上陸用舟艇が使われ、一部当時僅に残っていた、日本船病院船高砂丸と興安丸が使われた。

 内戦の緊迫で都市部には、農村から食料が入り難くなり、穀類は暴騰していた。しかし毎日の最低の食品、煎餅(高粱や唐黍の粉を、鉄板で薄く焼いた物)や、饅頭はまだ路上で売っていた。

 

 沿線のトーチカには、兵士の動きが慌ただしい。しかし治安はそれほど悪くない。どこの軍隊も平時の統治下では、占領政策を円滑に進める為にも、作戦の遂行上も無用の混乱は好まない。住民の宣撫と治安維持にはそれなりに力を注いでいた。

 両軍とも軍紀は保たれていた。人心を失ったら負けということを両軍とも心していたから、八路軍は「人民の物な針一本奪わない」と宣伝していたが、それは事実だった。

 蒋介石の言葉「以徳報怨」は、一般の兵士にも浸透していた。

そこは何処だったろう。子供の足で5時間ほど歩いた所で、小さな廟のような所があった。かなり荒れているが、夜露くらいはしのげそうだ。少し早いが大分疲れた。今日はここで寝ることにする。

 

当時多くの中国人は、貧困の極限にいた。

この辺には、山東省から流れてくる労働者が多く、彼等は「山東苦力」(サントンクリー)と呼ばれ、炭鉱など文字通り地下労働に従事し最低の生活をしていた。真冬でも吹き溜まりの中で、寒風を避け煎餅蒲団一枚にくるまってやどかりのように寝ていた。煎餅蒲団一枚が、彼等の全ての財産であり、家だったのだ。

水は高きから低きへ、経済は低きから高きへ。満州は傀儡と言われよう何と言われようと、周辺の山東省より経済的には高かった。満鉄は満州の産業振興の中心的役割を担っていた。それが、山東省などより経済の低い土地から人の流れを呼び込んでいたのである。

 

満州国を「傀儡」と断じたリットン調査報告書も、この実態を認めて「今満州国を無くすことは、実務的ではない」と日本の満州国の経営権その物は認めていたのである。

ここはそんな浮浪者にとっても良い塒だったのか、日が暮れると、風体の怪しい男性共が三々五々と集まってきた。

その中の一人が、私に問いかける。

「見かけない餓鬼だな。どこから来た?」

「あっち」と、東の撫順の方角を顎でしゃくる。

「どこへ行く?」

「あっち」と、西の瀋陽の方角をまた顎でしゃくる。

「ふーん」。男はそれ以上聞かなかった。

「俺も故郷にお前と同じ位の息子がいる。この辺は物騒だ、気を付けろ」

男性は、短く言うと鼾をかき始めた。

私も、貴重品を腹の下に包めて寝た。第一夜はとにかく無事に過ぎ

た。

 

彷徨う小羊

二日目は、東稜近くの荒れた建物。三日目は更に西へ20キロほど行って野宿する。

私が野宿に選ぶ場所は、宿無しの浮浪者達にとっても良い場所だった。

狼の群れの中の一匹の小羊。ライオンの群れの中の迷える縞馬。

それでも、一人で彷徨うよりはここが安全だった。

百獣の王ライオンと雖も、飽腹なら無用の殺生はしない。ここの狼達は、百獣の王でもない、飽腹でもなかったが、私を襲わなかった。

「窮鳥懐に入らば猟師もこれを射ず」

「人之初、性本善」

性善説では、この状況は説明出来ない。

集団の中の倫理、それを法と呼ぶなら、ここには辛うじてそれが存在していた。

もし一人が私を襲い、私が抵抗する。殺す。奪う。そこまでは容易だが、衆人環視の中での殺人は狼にとってもリスクが大きかった。治安を維持する者が存在し「奪うな、殺すな」という最低の法が存在していたからである。

 

以前、家の近くの道端でガラクタを売っていたのだが、そのとき不思議な体験をした。

ガラクタを商品として並べるとき、多くの群集が集まる。全員が何か手にして「これ幾らか!」と叫びながら一人の私に尋ねる。もたもたしていると、かなりの品物が並べ終わるまで無くなっていた。

ある日、玩具の太鼓を一人の男性が持ち去った。これは私が大事にしていた物で、許せなかった。後先を考えず男を追う。

「金は後から払う」という男の手にむしゃぶりつき太鼓を奪い返してきたとき、何も残っていないのを覚悟していたが、なんと何も無くなっていない。一人一人の泥棒同士で互いに監視し合って店番をしてくれていたのだ。

そのとき、私は学んだ。

「悪人が悪を行うのではない。悪を行わせる状況が、悪を行わせるのだ」と。

 それと今にして思うに、哺乳類には本能的に種を越えて子供を可愛がる本能がある。人間から見て、狼の子もライオンの子も嬰児は可愛い。私は子供だったから、危険が無かったのだと思う。母亡き後私は急に言葉が出なくなっていた。難発型の吃音である。哀れを誘う芸を子供として無意のうちに身につけていた。

混乱も群集心理も、その状況を生む。逆説めくが、私は狼と一匹一匹向き合うより、狼の群れの中に身を置く方がむしろ安全だった。それを、実社会の体験の中で学んでいた。

あれはいつだったか。八路軍が撤退し国民党が進駐した日。その間僅に生じた無政府無警察状態の中で暴動が発生した。

暴徒が通った後は、イナゴに襲われた畑同様箸一本残っていなかった。そんな中で同級生の玉井君(愛媛県出身)が暴徒に槍で殺された。彼は暴徒に抵抗した。

私達の居住区は日本人が多かったので、自衛態勢がとれた。その日緊迫した中で父が言った。「絶対に抵抗するな。命だけ大事にしろ」と。

私ももしここで何か有ったら、いざとなったら、命以外は全て差し出すつもりだった。

この辺は、まだ都市部である。人通りも多い。市場もある。差し迫った危険はないようだ。彷徨う小羊は、まだハイキング気分でいた。

 

 地獄で仏

四日目、只ひたすら西に向かって歩いていたのだが、だんだん人通りが少なくなり、やがて西には何も無くなった。果てしなく広がる高粱と唐黍。僅の緑は、瓜畑か。

まだ陽は昇って間もないというのに、足に豆が出来て痛む。貴重品袋からメンソレを出して傷口に厚く塗る。

道端の池のほとりで、腰を下ろしているときだった。

「何処へ行く?」と農作業の馬車の主が声を掛けてくれた。

「飯は食ったか?」

私が首を横に振ると、「乗れ」と座席を空けてくれた。

以前父に「美味しい物をあげるとか、良い物をあげるとか、優しそうな言葉で言う人間には絶対に付いて行ってはいけない」と厳しく言われていた。

 

「これが人攫いだな」と、私の危機察知アンテナはアラームを出したが、私に危機感は無かった。彼にも罪悪感は無かったようだ。

人の好さそうな農夫の笑顔は、私を安心させた。

「孤児か?」

「うん」

「俺と一緒に行くか?」

彼は私の身形と言葉の訛りから、とっくに私を残留孤児と見抜いていた。厳密に言うと私は家出少年だが、まあ似たようなものだ。

日本人の子供は高く売れる。彼は胸算用をした。

「あの農家なら人手を求めていたし、この子を高く買ってくれるだろう」

彼は、たまたま子犬を拾った。それを欲しい人に譲って小遣いを稼ぐ。自分も子犬も貰い手も三方全て好。

私も彼を「人攫い」などと人聞きの悪い言葉は使うまい。彼は地獄で仏だった。

 

少し余談になるが、確か老舎の何の小説だったかの一節に、麦わらを簪にした少女の話がある。麦わらは「私を攫って下さい」というシグナルだった。

敗戦後の撫順でも多くの少女が、私の回りから姿を消した。彼女達は麦わらの簪はしていなかったが、明らかにシグナルを出していた。彼女達は私から見て玉の輿だった。

私は攫われて、むしろほっとした。

 

馬車が着いた先は、菜園と家畜小屋の周囲を広く柵で囲み、幾つかの広い母屋と作業小屋、作男部屋がある富農だった。商談はすぐ成立した。農夫がにこにこ顔で去った後、主人が作男に「何か食わせてやれ」と命じ私には

「畑のトマト、キュウリ、ナスは好きに食べて良い」と優しく言ってくれた。

作男頭のような男が、塩で茹でたじゃが芋を呉れて、

「欲しければまだ有るぞ」と言ってくれる。 

主人が作男頭に「色々教えてやれ」と言った後、私に対しては「明日から思い切り働いて貰う」と言い残して立ち去った。

「北京はまた行けるだろう。ここも悪くない」

私は、この親切な農家に身を寄せてもよいと言う気になっていた。

 

 スパイの手先

翌朝、作男頭から農場の中のことを色々と教えて貰っているときだった。サイドカーに乗った国民党の将校が来た。あの林中尉だった。

「何故君がこんな所にいる?」と驚いたのは向うだった。

 林中尉については少し説明がいる。終戦後私達は東一路の狭い住宅に住んでいた。日本人は中国人に住宅を譲り、複数所帯で暮らしていた。そんなとき隣に住んでいた、秀子姉さんが、母を亡くしたばかりの私に優しくしてくれた。物語はそれからだが、この地域の治安維持を担当している、国民党の将校林中尉が、秀子さんを見そめた。秀子姉さんと仲がよい、少し中国語を話せる私が、キューピットの役を果たした次第。

私が「引き揚げ列車からはぐれて、北京に行きたいと思っている」と半分本当半分作り話をする。

「北京は遠いぞ。子供の足では無理だ。どうしても行きたいか?」と聞く。

「うん」と頷くと、「一寸二人だけにしてくれと」と作男頭を遠ざけた。

「これから私の言うことは、一度聞いたら、断ることは出来ない。断ったら私は君を殺さなくてはならい。その代わり聞いて呉れたら北京行きは私が保障する。聞くか?」

「うん」と私はもう一度頷いた。

「二度は言わないからしっかり聞け」と林中尉がゆっくりと、語り始めた。 

「これから西へ20キロほど行ったらトーチカがある。その近くまでは人を付ける。このトーチカには絶対に近づくな。トーチカに沿って鉄条網があるが、南へ500メートル行くと、石ころと枯草の塊がある。その下が抜け道だ。君なら通れる。向うへ出たら西へ行け。集落がある。そこで誰でもよい、「馬大人」を探していると言え。誰かが水滸伝を持っているかと君に尋ねるがそれが合言葉だ。男にこの本を渡せ。そして北京に行きたいと言え。それで終わりだ」

 

二度は言わないと言ったが、林中尉は要点だけもう一度言ってくれた。

時は新中国建国一年前。国共内戦最後の決戦を前にして、国民党はすでに面としての支配地域を失い、辛うじて保った防衛線も各地で分断されて、グレーゾーンとも言うべき点が各地に存在していた。

撫順は国民党の支配下だったが、共産党の政治工作員と思しき人物が出没していた。

人だかりの後ろで、誰かが親指と人差し指で、「八」の字を作って尻の下でサインしている。「八路」の意味だ。

共産党の都市包囲網の中で、人々は食料と情報に欠乏していた。「八」の人達は、情報の運び屋でもあった。

内戦はまた、同族同士骨肉の争いだ。双方に、源を同じくする伏流水が存在しても不思議はない。それらが、地下で密かに繋がっていた。林中尉がどちらに水源を持っていたかは知らない。或は両方に持っていたかもしれない。

グレーゾーンでは、庶民は優劣が決定的になるまで旗色を鮮明にしていなかった。両方の旗を持っていたのである。その時々の支配者に敢えて逆らわず生きていた。信じられないだろうが、敗戦後暫くはまだ日の丸を持って居る人もいた。いつ日本軍が戻ってきてもいいように。

 

トーチカと鉄条網の向こうは、そのグレーゾーンだった。林中尉は、グレーゾーンと連絡の任務を持ってきた。しかし何等かの手違いで、連絡員が来なかった。そこで私をその連絡員として利用しようと考えた。

私は悪運があった。だから今生きている。

 

脱出

あくる日、林中尉がまた来た。

「この馬車で行け」と、中尉が指示した馬車の主は、先日の農夫だった。

「さあ行くぞ」屈託のない人の好さそうな笑顔は、あの仏の人攫いのそれだった。

彼は私が何をしに行くのか、何も尋ねなかった。聞いても答えられないことを知っていたのだろう。

高粱畑の間の道を5時間ほどで遥か右にトーチカが見える所に着いた。

「俺が言われているのは、ここまでだ。腹が減ったら食え」と大きな饅頭を二個呉れて、農夫はもと来た道を戻って行った。

 

まだ陽は高い。私はトーチカの銃眼から隠れるように、高粱畑の中に身を横たえた。高粱畑の中を南へ、トーチカの鉄条網に沿ってゆっくりと500メートルほど移動する。しかしこの一帯は、高粱が刈り取られていて、それ以上鉄条網へ近付けない。

闇を待つしかない。饅頭を食べ、非常袋の中の水筒の水を飲み眠ろうとするが、却って頭が冴えて眠れない。

私は、母に抱かれた記憶がない。

母が亡くなる前、一度だけ「あなたが、私の遺骨を抱いて日本に帰る」と私を膝に抱きしめて泣き崩れたことがある。結核を患っていた母は、感染を恐れて私をあまり近づけなかった。

 

日が暮れた。幸い月は無い。星明りだけを頼りに、昼間目星を付けていた地点に這うように身を屈めて進む。抜け道はすぐ見つかった。

それを潜り抜け、やれやれとほっとしたときである。

「誰か!」と大声がした。

歩哨の巡回に見つかったのだ。これは、林中尉の教えてくれた筋書きに無かった。

「我!我!我!」と私は中国語でやっとそれだけ言うと、両手を挙げて立ち上がった。

恐怖にひきつって、それ以上は言えなかった。余計なことを言えなかったのは、却って幸いだったかもしれない。

歩哨がカンテラで私の顔を照らすと「なんだ子供か。行け!」と見逃してくれた。

私は転がるようにその場を離れると、集落の近くの、僅に樹木が茂る小さな丘陵の下で、今度は夜明けを待って身を横たえた。

 

地平線に朝日が射した。その一瞬小鳥達が一斉に囀り声を上げた。どこにそんなに居たと思えるほど、多種多様な不協和音だ。

タンバリンのような小鳥の囀りに混じって、とても鳥の声とは思えない、金切り鋸を引いたような不思議な声もある。

それも短い時間だった。小鳥達がそれぞれに群れを作り餌を求めて飛び立つと、また元の静寂が戻った。

集落の竈にも煙が見える。そこはここから近い。私も起き上がり、そちらへ向かって歩いた。

 

八路軍少年兵

農家30戸ほどの小さな集落には、屈強な若い男の10人足らずの武装集団が居た。彼等に「馬大人」を尋ねたらすぐ分かった。腰に拳銃を下げた30前のリーダー風の男性が、「水滸伝を持っているか」と私に聞いた。

私の大役は無事終わった。

 

「北京に行くのだな。俺達は明日阜新に行く。そこから北京へ行くよう手配してやろう。朝飯はまだだろう」と、粥と豆乳を用意してくれた。

阜新は、3月に解放されたばかりだったが、市内には八路軍の正規兵が満ちあふれていた。正規兵と言っても服装はまちまちで、輜重兵は、素足で天秤棒を担いでいた。

部隊長風の男性が、

「ここには日本人も居るぞ。と連れて行ってくれた先に居たのは、なんと門脇さんだった。

 

門脇さんは元々満蒙開拓義勇軍だったが、終戦のと隊から離れ撫順郊外竜鳳のある富農の家に寄留していた。日本人がいる農家があると聞いて私達は、彼のところに食料の買い出しに行った。買い出しと言っても貰いに行ったようなものだ。名前は失念したが、宮城県出身、当時20才。彼は土地の人にすでに人望があった。

「お前達知り合いだったのか。丁度良かった。門脇お前この子の面倒をみてやれ」と部隊長が言い残して立ち去った。

門脇さんも北京を目指したらしい。何とか瀋陽を抜けたところで、捉えられるようにして、八路軍に入ったという。

「ここには、俺以外にも元日本兵が大勢居る。俺達は部隊の労農学校で革命教育を受けている。こないだ、地主富農の公開処刑があった。おれも一人やらされた」と浮かぬ顔で言う。

人民裁判で有罪になった地主富農が、予め自分で掘らされた穴の前に手足を縛って並ばされ、それを銃剣で一人一人突き殺す。

門脇さんの表情は、暗く浮かなかった。あの親切な龍鳳の農家の主はどうなるのだろう。

私も、仏の人攫いに連れて行かれた農家の主の身の上が心配だったが、どうしようもない。

 

又部隊長が来た。 

「どうだ、お前も少年兵になるか?」

「私は北京に行かなくてはならない」

「北京に行ってどうする」

「それは北京で言います」

彼は私が北京でまだ別の任務があると思ったのか、それ以上引き留めなかった。

「いつでもその気になったら来い。俺達は歓迎だ。明日列車を手配してやろう。ここから北京はそれ程無い。一日も乗ったら着くだろう」と言い残して、又立ち去った。

列車は、山間部の山並みを縫うように走る。

途中駅で幾度か長い停車をしたが、ほぼ一昼夜走った所で、万里の長城を越えた。

列車の乗務員は、私のことを部隊長から聞いていたのか、「気をつけていけ」と私を自由にしてくれた。

やっと憧れの北京に着いた。

私は当てもないが、とにかく人通りのある方向へ歩くことにした。

 

北京第一夜

北京の朝靄は、夏とはいえ少し肌寒い。日差しが昇るにつれてさわさわと吹き始めた風は、ポプラの葉を落とし秋の香りさえした。

私の北京に対する知識は、「中心が故宮で、天安門という大きな門がある」それ位しかない。

緩やかな人の流れは、朝の太陽を左にして南に向かっているから、ここは北京の中心から北のようだ。それも大分離れているようだ。

 

京に田舎在り。四方には畑が点在し、農家の幤屋、アンペラ小屋も散見された。アンペラ小屋とは、レンガ小屋の屋根をコールタールで塗り固めた壁の回りに、アンペラと呼ばれる高粱殻で編んだ筵が立てかけている、最低の住居とも呼べない住居だ。

八路軍の少年兵の誘いを断って、一人中心方向へ向かって歩いていたとき、朝の便意を催した。何か食べた物が悪かったのか、水が悪かったのか、昨日から便が柔らかい。

幤屋の物陰で用を足そうとしたとき、ズボンを脱ぐ間ももどかしく、大便をズボンの中にし被ってしまった。汚れたズボンから大便を拭きとっているとき、隣に年の頃16,7才の大柄な少年が座った。

「腹を壊したのか?何処から来た?」

「東北」とその方角を指さす。 

「えーっ!ほんとか、何処へ行く?」

「北京」

「ここが北京だ。お前行く所が無いようだな。俺について来い」と、先に立って歩き始めた。

 

少年の行き先は、すぐ近くのアンペラ小屋だった。広さ20平米はあろうか。中は意外に小奇麗にしていて、オンドルと呼ばれる、竈と暖房を一つにしたような高床の上に、煎餅蒲団が数枚畳まれているが、家具らしい家具は何も無い。

私と同じ位か、少し年少かと思われる少女が居た。

「新入りだ。腹を壊している。お前面倒見てやれ」と少年が少女に命ずる。

「うわー臭い!さっさと脱ぎなさい」と少女が私のズボンを手早く引きずり下ろす。

きまり悪そうに、縮こまっている小さな「おちんおちん」を隠す場所も間も無い。

少年が私の額に手をやる。

「熱が有るな。休め」と蒲団を引き始めた。

「こういう時は、暖かくして寝るのが一番だ。腹は一日食わなかったら治る。明日の朝お粥を作ってやるから、ひもじいのは我慢しろ」

更に少女に向かって

「お湯を沸かして飲ませてやれ」とてきぱき適切な指示を出して、何処かへ出かけた。

 

夕方少年が帰ってくる。

秋にはまだ早いが、日は大分短くなっていた。辺りが暗くなると、少年が私の蒲団に潜り込んできた。正確に言うと、私が少年の蒲団に寝ていたのだが。

「お前まだ毛が生えていないのだな」と小声で言うと、私の手を取り、自分の一物を握らせた。本日心ならずも公衆の面前に晒す破目になった私の13才のおちんちんは、まだ白い唐辛子だった。

少年の陰毛は見えないが、ふさふさと手首に当たる。一物は成人のそれだった。

私は求められた訳でないが、何を求められているかは,分かっていた。

私の手の動きにつれ、彼の一物も躍動する。

やがて、薄い煎餅布団を突き破るような激しい液体の噴出とともに、動きが止まった。

隣の少女は、とっくに寝ている。

彼が鼾を書き始めるまでの時間も、それほど長くは無かった。

私も長旅で、やはり疲れていた。昼間あれだけ寝たのに、また深い眠りについた。

 

 新しい仲間

 翌朝、完全に疲れが取れた私の体は、昨日までの慢性的な気だるさが嘘のように軽い。

 空腹さえ、むしろ心地よい。

 「ズボンは乾いているよ」と少女がズボンを手渡してくれた。

 昨日は、昼も夜も寝ていたので気が付かなかったが、チビが二人いた、

 八才位のすばしこそうな男の子。まだ尻割れの嬰児服を着ているが、三、四才位の女の子。

 「紹介しよう。まず俺は大牛だ。本当の名前もあるにはあるが、通称でいいだろう。俺を呼ぶときは、大哥(兄貴)と呼べ」続いて「俺の妹だ、別嬪だろう」と少女の紹介をしようとしたとき、少女が自ら

 「私のことは婷姐(婷姉さん)と呼んで」とやや命令口調で言う。彼女は私より若いかもしれないが、豊かな胸のふくらみも、丸い豊な体つきもすでに女性だった。何より当時130センチにも満たない、チビの私に対して150センチ以上ある彼女は、堂々たるお姉さんだった。

 「僕は二牛」とすばしこそうな男の子が言う。只横でにこにこしている女の子を指して、

、「僕の妹、小妹だ」と紹介してくれた。そのとき大牛が意外なことを言った。

 「俺たちは、この子に食わせて貰っている」と小妹を指さす。

 なんのことだと、私が訝っていると、

 「俺の妹とこの子二人で、盛り場で他人の情けを受けている。早く言えば乞食だな。俺は彼女らの紐だ」

 

 「金なら少し持っている」と腹巻に父がいざというときの為に縫い付けくれていたのをほどいて、差し出した。

 「いいだろう。ここでは俺が持っている方が安全だ。要るときはいつでも言え。元々お前の金だ」と大牛が中身も確かめずに、それを懐に入れた。

 「遠慮せずに使ってくれ」

 「要るときは使わせて貰う。俺達は仲間だ。皆絶対に仲間を裏切るな。それだけは言っておく」

 「そうだ、お前のこと名前も聞いていないな」

 「私なら(けん)だ」

 「けい?」中国人は(ん)の発音が苦手で、彼も「けん」を「けい」と言い難そうに発音した。

 「どうだ、俺が良い名前を付けてやろう。(阿K)はどうだ」。と新しい名前と共に私も新しい仲間の仲間入りをした。

 

 大牛が言う。

 「俺達の親は死んだ。このチビ達は近所の子だが、父親が死んだら、母親は別の男と何処かへ行った。男が連れて行ったのか、女が付いて行ったのかは知らない。俺は男と女のことは分からない。しかし親が無くても子は育つが、女は一人では生きていけないからな。そうだろう?」と私に同意を求めるが、私も勿論分からない。

 「小妹は本当に可愛いだろう。この子の無邪気な笑顔を見ていると俺も癒される。そしてこの笑顔でこの子は稼いでいる。俺はこの親を知らない子供達に、いつも言ってやるのだ、お前のお袋は優しかったよと。可愛がられずに育った子が、こんなに良い笑顔をするはずがないだろう」

 

 そこまで、大牛がしんみりと言ったとき、私の頬に涙が流れた。それが大河となってとどまることを知らなくなった。

 号泣したのである。手放しで。

 皆は、私がはぐれた両親を慕って泣いたと思ったのだろう。そのままいつまでも泣かせてくれた。

 親を捨てた子。親に捨てられた子。親無き子供達が、生きていくために、更に心の結びつきを深めた。

 

 バーベキュー

 二牛がとんでもない物を拾ってきた。

 「どうだ、凄いだろう!」

 「うわ~美味しそう!」婷姐と小妹が歓声をあげる。

 「何処で拾ってきた。でかしたではないか」と、大牛が褒める。

 

犬の死骸だ。黒か茶か、昨夜の雨で毛が泥まみれに汚れて、色は定かではないが、体長50センチ位の成犬だ。

 腹部に出血があるが、それが致命傷か。すでにそこには蛆がわいている。

「そんな目で俺を睨むな」と言いたくなる無念の形相で、牙をむき出しにして私を睨む。

 実は、昨日裏山の墓地みたいになっている所で、私もこれを見つけていた。少し離れた場所に、腹部を食い破られた嬰児の死体があったのは、多分この犬の仕業だろう。

 しかし、私にこれを拾って帰る発想は無かった。

 

 大牛と婷姐が、慣れた手つきで犬を捌く。二牛が、火の支度をする。小妹までが、何かそわそわしている。

 「お前は近くの畑で葱を失敬してこい」私は、大牛に命ぜられて、野菜の調達に行った。

 焼肉の香りが、遠く漂う中を私は一束の葱を手に帰ってきた。

 皆、焼きあがった肉を前に円座を作っていた。無念の形相の犬の首は切り取られ無造作に傍らに置かれていた。

「醤油が有っただろう。今日みたいな日に使え。さあ皆思い切り食え」

大牛の弾んだ声を合図に宴は始まった。

 

 「どうした?」

大牛が、あまり箸が動かない私を戒めるように、問いかける。 更に、

「阿Kお前、生きるということは何か分かるか?」と、禅問答のような問いかけがきた。私は小さく首を横に振る。

「生きるということは、食うことだ」暫く間をおいて

「死ぬいうことは、何か分かるか?」と更に思いがけない問いかけがきた。私にとって死は、話題にするのも只恐ろしいことでしかない。それが何か、考えたこともない。

母の死、二人の妹の死、私はすでに三人の肉親の死と向かってきた。

 

深い沈黙の時間が流れる。

「死ぬということは、食われることだ。さあ、食われたくなかったら食え」と、大牛が香ばしく焼き上がった骨付き肉の塊を、私の前に差し出した。

腸を食いちぎられた、嬰児の死体。傷口に蛆虫がわいた無念の形相の犬。それらがどうしても瞼にこびりついて離れない。

こういうとき、父はそれを食べるまで絶対に何も呉れなかった。

 「腹が減ったら何でも食べる」

 それが、貧困家庭で育った父の哲学だった。お蔭で、私は偏食はない。何でも食べる。

私は飲み込むように、やっとそれを食べた。生きることは辛い。しかし食われるよりましだ。

飽食に満ち足りた仲間達が、生きることを学んだ私を、「好!」と笑顔で祝福してくれた。

心なしか、犬の形相にも笑みが浮かんだように見えた。

 

 漢奸

 私の貴重品袋には、ハーモニカが入っていた。久し振りでそれを取り出して吹いたら、皆が「好!」と褒めてくれる。

 国旗の歌「白地に赤く♪」あの曲を吹いているときだった。大牛が「それは何だ」とせき込んで尋ねる。

 「日本の国旗の歌だ」と私が答えると、

「そうだったのか」何かを悟ったように彼が大きく頷いて言う。

 「この歌を歌うと、日本の兵隊が、飴をくれた」

 多分日本軍の宣撫隊が、子供に歌わせたのだろう。

 

「お前にまだ俺の親父が何故死んだか言ってなかったな」一息おいて,

 「俺の親父は、日本兵の手先だった。その歌を歌う子供達を集めるのが親父の仕事だった」また間が空く。

 「お前わかるだろう。これは好い仕事だった。金になる仕事だった。金だけではない。当時なかなか手に入らない、砂糖も我が家にはあった。米も唐黍も大豆も不自由したことは無い。親父は器用な男で、簡単な日本語も話せた」

当時の中国人は、文法を無視して中国語の語順のまま日本語の単語を当てはめた言葉と簡単な中国語をごちゃ混ぜにした、独自の日本語を使っていた。

例えば「ターターデヨウ」(多多的有)。意味は「沢山ある」である。

彼が一人で語り続ける。

 「その後どうも憲兵隊とも繋がりができたようだ。羽振りは更に良くなった。なあこれは悪い事ではないだろう?親父の才覚だ」と私に相槌を求める。

 

撫順でもあった。撫順の最後の憲兵隊長はH某だ。久保町の我が家の一軒隣りだった。同級生の娘さんが居たから私もよく覚えている。彼は敗戦後一早く撫順を離れたらしい。らしいというのは、無事逃げたまでは風聞で、彼の腹心の部下陳某が、撫順市公署前で漢奸として、公開銃殺されたのは風聞ではない。

 罪状は、憲兵隊長の逃亡幇助である。

 当時絶大な権力を持った憲兵は、また情報も握っていた。彼等はその権力と情報を、我が身の安全保障に使った。利用されたのが、漢奸と呼ばれた中国人である。狐の抜け道に餌をたっぷり貰った兎が囮として配置された。

 

 大牛の父も戦後人民裁判で、漢奸として公開銃殺された。権力者の恩恵を受けた分だけ、逃げきれない物が有ったのではないだろうか。

 母親の死は、もっと悲惨だった。母親は美人だったという。婷姐を見たら分かる。父が殺された後、ある男の女房と女同士髪を引っ張り合う猛烈な公開バトルをやる。

格闘は痛分けだったが、数日後彼女は、素っ裸で樹木に括りつけられ殺されていた。

大牛はそれ以上語らなかったが、こういう場合中国人は女性の局部に棒を突き刺し、野犬の食い荒らすままに放置する。

 

 大牛が言う。

 「人は必ず死ぬ。どんな死に方をするのも一つの死に方だ。戦争は必ずどちらかが勝って片方が負ける。親父は負けた方に肩入れして殺された。まあ人生の大博打に負けたようなものだ。もし親父を漢奸というなら、当時の中国人は、皆漢奸だ。皆好い思いをしたかったが、才覚のある者だけがそれを出来た。俺は親父は赦せるが、母親のことは分からない。俺は女が嫌いだ」

 大牛の鋭い語気の中には、少年の潔癖感があった。

 

3-5 泥棒

 表通りに、間口10メートルほどの少し大きな雑穀商があった。

 私はここで時々落花生を買っていた。

 その日は、折あしく店には誰も居なかった。ふと帳場を見ると、算盤があった。

 私は、それが無性に欲しくなった。

 そっと手に取ってみたが、人の気配はない。

 それを懐に、さりげなく表へ出た。中で人の気配がする。急ぎ足で表へ出た時後ろから男の大声が聞こえた。緊張で頭の芯がきりきりする。

 

 私は路地裏に逃げ込んだ。入り込んだ胡堂の細道は、すぐ袋小路になった。大きな獅子の門飾りの陰に身を隠したときだった。二牛がどこで見てたのか、私の傍に来た。

 「それを寄こせ」

 彼は私から算盤を手にすると、勝手知った路地裏の裏を、素早く駆け抜けた。

 手代が私を見つけた。小さな私の胸倉を掴んで、吊し上げて言う。

「太いガキだ。さあ盗ったものを出せ!」

「私は何も盗っていない」

「嘘つけ!何故逃げた!」

「逃げたのではない、小便がしたかった」

騒ぎを聞きつけて、野次馬がたかる。

主人の老板も駆け付けて来た。

手代は、更に私を打擲しながら厳しく詰問するが、証拠が無い。

必死に哀願する私に、野次馬裁判官はニタニタ笑って無言だが、雰囲気は無罪判決だった。

最後老板の「もういいだろう、放してやれ」の一言で私もやっと解放された。

 

小屋に戻ると、思いがけずも大牛にいきなり、一発頬を張られた。

「何故あんな物を盗んだ!」

「欲しかった」

「俺達が市場でかっぱらいをするのも、畑の作物を失敬するのも、乞食をするのもみな必死に生きる為だ。お前みたいに、唯欲しかったなんて甘えた気持ちで盗みはしていない。分かったか」

「うん」

「いいか、盗ったら盗られた者がいる。盗られた者の仕返しが、裁きだ。俺は善悪でお前を説教しているのではない。お前はあのとき、殴り殺されても文句は言えなかったのだ。偶然二牛が通りかからなかったら、どうなっていたか。運の強い奴だ」

私はここでも、自分の悪運の強さを思った。

 

「お前、何故日本が負けたか分かるか?」

「それは、アメリカの物量作戦にやられたからだ」

「違う違う。盗ったから盗り返されたのだ」

まだ軍国少年気分が抜け切れていない私の頭は、ガーンと新鮮な衝撃を受けた。

敗戦後、半年して再開された学校では軍国主義教育から180度反転した民主主義教育が行われていた。教科書は、「飛行機」という文字すら軍国用語として墨で黒々と塗り消されていたが、以前のままの教科書だった。教える教師自体が、つい半年前までは「天皇陛下万歳」を教えていた人達だ。

 

父も「満州国は侵略ではない」といつも言っていた。日本に住む場所を亡くして親の代から中国に住み着いていた父は、本気で「五族共和、王道楽土」の建設を夢見ていた。

満鉄の人達も、その技術でこの土地に貢献してきたことを誇りに思っていたし、私達はその技術を必要とする中国の要請で、敗戦後も抑留していた。敢えて「抑留されて居た」と言わないのは、皆多かれ少なかれ使命感を持って残ったからである。

父は技術者ではなかったが、技術抑留者の子弟に国語や中国語、英語などの教育に携わる為自ら志願して残った。

 「もしここで、中国人に殺されるなら本望だ」と言っていた。日本より中国生活の方が長い父にとって、日本は「帰る国」というより、「行く国」だったのだ。

 

しかし、大牛の反戦教育は分かり易かった。奪った側が「王道楽土」など、なんと屁理屈を言おうと、ここには奪われた人達が居た。それを奪ったのが日本で、日本は奪い返されただけだ。

 

3-6 寺子屋

ある朝、小妹が壁の棚に背伸びをしていたので、抱き上げてやったら、もっと高くという。

「もっともっと」言うから、肩車をしてやったら、「きゃーきゃー」言ってはしゃぐ。

死んだ妹が元気なら、丁度この年だ。

二牛も加わって、押しくら饅頭のようなことをして、じゃれ合いながら、ちょっとくすぐってやったら、小妹が、もう悲鳴に近い嬌声を上げる。

「何やってるのよ」と婷姐まで騒ぎに加わってきた。

彼女の豊な胸を押し付けられたとき、今度は私が息を詰まらせた。とたん股間に強い衝撃を受けて、思わず「バカ!」と日本語で怒鳴ってしまった。彼女が私の唐辛子を握りしめたのだ。手を挙げたら、

「小東西(ちいさなちん)あかんべー」と赤い舌をペロッと出して逃げられた。

 

夕食のときだった。彼女が聞く。

「バカてどういう意味?」

「バカはバカさ」

「阿K、あんたまだ日本語を覚えている?」 

「当然だろう」

「(吃飯)は日本語で何と言うの?」

直訳したら、ご飯を食べるだが、私は「吃」が中国語で日常の挨拶だということを知っていた。だから敢えて「こんにちは」と教えたら、彼女が綺麗な日本語で真似してこれを言った。

お世辞抜きで「上手だな」と褒めたら、「本当?」と「これ何?これ何?」と手当たり次第に回りの品物を指さして聞いてくる。

「布団」「茶碗」「箸」「水」「石」などすぐ覚えた。

 

大牛が私に尋ねる。

「阿Kお前字が書けるか?」

「うん、少しなら」

「俺の名前は王XXだが、書けるか?」

「XXの字が私には難しくて書けない」

 彼が少しがっかりしたようなので、 

「大牛なら書けるよ」と。地べたに大牛と大きく書いてやったら、彼すっかり喜んで、

「よし、これから俺の名前は王大牛だ、うん、良いい名前だ」と自分で自分の通称を本名にしてしまった。

「俺は学校に行っていない。字を習いたいな」 

「自分でも勉強出来るよ。このあいだ、君に預けた金はまだ有るかい?」

「一銭も使っていない」 

「ならあの金で、本を買いなよ。それから小妹にズボンを買ってやりなよ。もう赤ちゃんでないのだから」

私が肩車してやるのに、尻割れ服ではどうもまずい。

「そうだな。小妹も喜ぶだろう」

大牛が買って来たのは「三字経」だった。

「人之初」と私が読むと、「性本善」と彼が続ける。彼に取って当然ながら中国は母国語だ。だから読めなくても書けなくても話せる。意味の解釈は無用。私が読めない字が有っても前後の字が読めたら、彼がその字の読み方を推測する。

 

「お前この間算盤なんか盗んで来たが、出来るのか?」

私がぱちぱちと披露したら、彼すっかり感激して

「お前は何でも知っているな。これからは阿K老師と呼ばせて貰う」と、私を畏敬の眼差しで眺めた。

大牛の文字学習は、海綿が水を吸うように急速に進歩した。

婷姐の日本語も、語彙が格段に増えていた。食べる、走る、聞く、話すなど簡単な動詞もすぐ使えるようになった。

北京の一角の寺子屋で、私は浮浪児相手に「阿K老師」と尊敬を受ける身になっていた。


 開運

秋も深まり、初冬と言ってよい北京の昼下がり。寺子屋の噂は、どことなく広がっていた。噂を聞きつけて一人の四十前の男性が小屋に訪ねて来た。あの雑穀商の老板だった。彼が室内を見回して例の算盤を見つけたが、軽く頷いただけで、もう咎めなかった。そして大牛に向かって尋ねた。
 
 「お前字が書けるか?」

「今勉強しています。三字経の中の字は書けます」

「算盤は?」

「これも今習っています」

「どうだ、うちで働く気はないか?」

老板が続けて言う。

「今時その若さで読み書き算盤が出来たら、立派な人材だ。給料は出せないが、春節と中秋節に小遣いをやろう。食べる物は腹一杯食べて好い。どうだ?」

この望外な申し出に対して、大牛に否応は無い。

更に婷姐に対しては

「お前飯炊き掃除洗濯が出来るか?条件は同じだ?」と問いかける。

 婷姐が、大きな瞳を一杯に見開いて、大きく頷く。

 老板の視線が私に向かったとき、私の方から発言した。

「私は自分で商売がしたいのですが、教えて頂けませんか?」

「商売?何をする?」

「焼き芋屋をやりたいのです。」

「ほう!それは偉い。道具はリヤカーと芋の釜は私が準備してあげよう。芋の仕入れと燃料の仕入れも私が手配してあげよう。」

更に二牛に対して、「坊主は手伝え」と命令した後。小妹に向かって

「あんたは、何もしなくていいよ。食べる心配もしなくていい。飯は店で皆と一緒に喰え」と優しく言ってくれた。
 

思いがけないことから運が開けてきた。

__ 北京生活未完___

 

大団円 再会、別れ、再見

1949年10月1日新中国建国。日本との間に正式な国交は無かったが、日本共産党と社会党は友党として、党間の交流はあった。貿易も細々とはあった。密貿易かもしれないが、それを取り締まる法も整備されて居なかったし、まだ両国とも、司法そのものがしっかりした実態が無かった。

  父は、まだ中国に個人的な友人も居たし、旧満州国の人達も、皆それぞれの機関でそれなりの立場を持って仕事をしていた。

 父がどのチャンネルを使ったかは知らない。

1950年春、父はとにかく北京まで来た。そして旧満州時代の友人、その友人、その又友人の手蔓で、私を探し出した。

「浮浪少年の中に、日本語を少し話せる子供が居る」という情報を得た。私は日本語をなるべく話さなかったから、その子は婷姐だった。その後私はすぐ見つかった。

再会した父を前にして、私は無言だった。あの家出以後、私は父に対して感情をあまり示さない子供になっていた。

 別れの時がきた。

大牛が言う「俺達のことを忘れるなよ」   

「勿論」

「また会いに来る」と婷姐に対して私はやっとそれだけ言うと、母の形見の珊瑚の簪を、父に見えないようにそっと握らせた。

二牛は少しは分かっているようだが、何のことか分からない小妹は、いつもの無邪気な笑顔で只にこにこしている。

 

 時は流れた。
 帰国後私は結婚し子供も孫も出来た。その妻は50年連れ添って先立った。
 定年後何度か来た中国。何度か暮らした中国。阿K少年の夢は益々強くなる。

 その強い思いが、遠い昔の夢の世界へ誘う。

 北京の街角で、「今日は」と綺麗な日本語話す年輩のおばちゃんが居た。

「あーっ婷姐だ」と私は直観した。

彼女は母の形見の珊瑚の簪を付けていた。つぶらな大きな瞳は、紛れもなく婷姐だった。

思ったより小さく見えたのは、私が成長していたのだ。

「阿Kだ。また会いに来たよ」

「60年だね」彼女はこの別れの期間を正確に覚えていた。

「大牛は元気か?」

彼女が首を横に振る。 

「昨年病気で死んだ。私達はいつも阿Kの話をしていた」

「二牛と小妹は?」

彼女がまた首を横に振る。

「元気なはずだが、その後分からない」

「これで、大牛の霊を弔ってくれ」と私は少し用意していた人民元の包みを差し出した。

「また会いに来るよ」

「また60年待つよ」と彼女が昔のままのいたずらっぽい目で笑った。

その時だった。急に少年の心が蘇った私は涙が止まらなくなった。

婷姐が優しく号泣する私の背中を撫でてくれた。

私は涙声のままやっと「再見」と言った。

 

再見!北京

白塔に雲遠く棚引き

馴れ初めの北海

淡き想い胸に芽生えど

言うべき言葉知らず

あ!閉じないでくれ

昨日の扉を

北京よ 再見

 

千頭椿薄く頬染め

さすらいの香山

幼き日の想い語りて

ときの過ぎるを知らず

あ!叩かないでくれ

今日の扉を

北京よ 再見!

 

夜汽車の汽笛細く尾を引き

うつろいのいわ園

たぎる心千々に乱れど

抱くべきすべを知らず

あ!開けないでくれ

明日の扉を

北京よ 再見!

 

梢に一葉散り惜しむポプラ

病葉の天壇

去るべきとき来たるを知れど

行くべきところ知らず

あ!閉じないでくれ

潤む瞳を

北京よ 再見! 再見! 再見!