けんちゃん」の中国大陸放浪記
放浪前夜
満州時代の撫順は、東洋一の露天掘り炭鉱があり、東洋を代表する工業都市だった。
その施設の維持管理の為、当時の中国政府国民党は日本の敗戦後も、技術抑留者を要請した。父は技術者ではなかったが、抑留者子弟教育に携わることで、自ら希望して残留していた。
学校の名称は「日僑浮子弟小中学校」(日本人捕虜子弟小中学校)と言ったから、私達のここでの正式な身分は、捕虜だったのだろうか。
父は満鉄の委託生として、旧長崎高等商業に留学し英語ができた。父が希望して教師として残留したのは、日本に帰りたくなかった
からだ。帰りたくても、帰れなかったからだ。
その理由は祖父の代まで遡る。祖父は広島で手広く材木商をしていたが、相場に手を出し、一夜で破産する。祖父は日露戦争に衛生兵として参戦したのだが、僅かに土地勘がある満州を夜逃げの先に選んだのは、そこしか逃げ場が無かったのだ。父が9才、1919年の話である。
外地の生活は厳しかった。七人居た家族が、祖父を含め五人が祖母と父を残しばたばたと死んだ。多くは病名も判然としない風土病。幼い子は熱をだして腹を壊したら、それだけで命取りだった。
父はその後、現地で就学。満鉄入社、長崎留学後、満州国の官吏養成所「大同学院」を卒業して満州国に奉職し、最後は参事官として王道楽土の建設に燃えていたのは、その出自からみても当然だと思う。
そんな父は、満州国建国後まもなく生まれた私に、「獻」という名前を付けた。愛しの我が子を陛下の赤子として、満州国皇帝溥儀に献上するという意味である。父は、根からの溥儀の忠臣だった。そして私は生まれながらにして「溥儀の子」という宿命を持っていた。
「大同学院」卒業後若い父は、資材局地政課に配属され、土地台帳の作成に従事していた。現場は匪賊が出没する最も治安の悪い所。大同学院のモットーは「殺されても殺すな」身に寸鉄を帯びず、大陸の山野を駆け巡っていた父の腹は据わっていた。
希望して残留した以上「ここで中国人に殺されるなら本望だ」と。しかし又中国人は、無益な殺生をしないのも知っていた。
だから、私にとっても中国こそ我が育ちの故郷で、「日本は行く所」であって「帰る所」ではなかった。
父は長崎高等商業留学時代の縁で、長崎に住んでいた母と結ばれる。母一人子一人の家庭へ嫁いで来た母を待っていたのは、全てを失い只一人残された我が子(それは私の父)だけを盲愛する母(それは私の祖母)だった。
いつからだろう。母は当時の国民病肺結核に冒されていた。母の病を知った祖母は母を離縁させようとする。母を追い出しにかかったのである。
母は、当時としては珍しい女学校を卒業した賢母だった。しかし三つ指をついて姑に仕えるタイプの良妻ではなかった。嫁姑の仲は更に険悪になったが、賢母は簡単に屈しなかった。傍目には、姑の嫁いびりというより、嫁が姑を支配しているように見えたのではないだろうか。
子供の頃、一つ覚えている事がある。ある日祖母が、丼一杯の白い米のご飯に蓋をして、布団の中に隠していた。その不思議な行為を見た私は、母に告げ口をした。
当時は配給制で、確かに白いご飯は貴重だった。中国人は、米を持っているだけで、統制経済違反の現行犯として逮捕された。しかし、戦前の我が家が窮乏していた訳ではない。むしろ、高級官僚として恵まれていた。
「わしは、あの子に食わそう思うただけや」と、いたずらを見つかった子供のように、唯悄然としている祖母を前にして、母は祖母を強く詰った。
「私が主人を何か粗末にしていますか?」と。
この事以来、私は祖母に完全に嫌われた。
1946年2月。敗戦の翌年、衰弱した母は春を待てずに他界した。続いて母乳を失った幼い妹が、精一杯哀れみを求めた大きな目と、膨らんだ腹の餓鬼の様相で後を追った。
この冬は多くの日本人が死んだ。
母が死んで、嫁姑の軋轢がなくなり、我が家に平和が訪れたかというと、事はそれほど簡単ではなかった。母の記憶が薄い下の弟は祖母にも懐いたが、私は祖母にとって可愛くない存在だったから。
我が家の内戦もだが、天下の形勢は更に風雲急だった。
国共内戦は、最後の決戦の場として、遼寧省錦州一帯に双方の主力が着々と終結していた。後に言う「沈遼戦役」である。戦場は広い。庶民の暮らしにも直接影響する。まず穀物が市場から姿を消した。リュックに一杯の紙幣を詰めて市場に行ってもそれと同量の穀物が買えなかった。やっと手に入ったのは、油を絞った後の大豆滓。これを削ってスープにし、少量の岩塩を加えて口にする。
この餌は不味かった。苦痛だった。まず下痢をする。
おりしも仲秋のある日の夕食の食卓、父と弟の膳には高梁の粥があった。
「僕もあんなのを食べたい」と言ったとき、父がきっと居ずまいを糺し、激しい怒りの声を上げた。祖母に対してである。
「この子に何を食べさせている!」
「もうあの子はすんどる。同じ物を食べさせてますがな」と祖母は取り合わない。
父は私に粥を分けてくれた後、祖母に手を上げた。祖母は黙って父のなすままに任せていた。母のときもそうだった。父は祖母の盲愛を強く拒絶していた。私は、この光景を見るのが大嫌いだった。
明くる日父の居ないとき、祖母が私に対して憎々しげに言った。
「あんたは、あれに似て意地が汚い」
「あれ」とは、死んだ私の母親のことである。二言目には、「あれに似て」と言われるのが、私にとって辛かった。更に 「あんたが、あの子を苦しめる。これ以上あの子を苦しめるなら一緒に死のう」と包丁を振り上げた。
最初は、祖母も本気ではなかったかもしれない。しかし、小さな私を追い回しているうちに、目が充血し、眼から炎が上がってきて鬼の形相になった。
私は怖くなって表に飛び出した。
その晩私は玄関脇で蹲って寝て、家にはついに帰らなかった。撫順の仲秋は既に日本の冬である。私は凍えた体で、満月に幾度も母の顔をなぞらせていた。そして、遠くへ行きたいと思っていた。そこで母が待ってくれているような、荒唐無稽な思いにとらわれていた。教科書でしか知らない北京は、心地よい響きで、私の心からいつまでも離れなかった。
次の日の食卓、この強情な息子に父は多くを問わなかった。この時期私は父に反抗して物を言わないのではなく、酷い吃音で、物言えぬ子供になっていた。
強情な息子を前にして、父がため息をつく。
祖母がぽつりと言う。「業やのう」
父が言う。「あんたが、一番業や」
母性愛と業の化身。
その母の盲愛を受け入れられない子。
実の母の愛に飢えている子。
それともう一人母の愛を知らない子。幼い弟が居た。
四人がそれぞれの思いで、大陸最後の仲秋の食卓についていた。
別れ
1948年8月10日。撫順駅には、最後の引き揚げ列車が停車していた。 我が家の、四人も、それに乗り発車待ちしていた。
無蓋貨車、屋根が無い貨物列車は、平たい頑丈な板に、車輪が付いているだけで、敷物などは勿論無い。
まず貨車の四隅の柱の間にロープを張り、人や荷物が落ちないように、安全を確保する。
勿論それ位では安全は十分とは言えない。トイレは原則停車中に線路脇で用を足すが、緊急の場合は隅の柱に手を添えて自分で自分の身体を確保しながらしなくてはならない。揺れる列車上では、かなり危険だ。年寄や女子供は、大人の助けを受ける必要がある。
荷物を貨車の端に積み上げて、銘々がそれぞれに座席を拵えたそのとき、父がはっと気が付いたように
「茣蓙を忘れた」と、言った。
「僕が取ってこよう」
「何処で?」
「家の畳を剥がしてくる。剃刀を貸して」
発車までまだ三時間くらいはあったが、南台町の元の家までは、片道2キロ以上ある。
いつ発車するか分からない列車だ。危険な賭けだ。
「もういい」と、渋る父から剃刀を無理やり借りると、貴重品が入った小さなリュックを背負って貨車から飛び降りた。
「それは重いから置いていきなさい」父がリュックを置いて行くように勧めるが、「貴重品は肌身離すな」と父のいつもの口調を真似て、リュックを背負ったまま駆け出した。
このときは、私はまだ祖母から逃げ出す気持ちは、はっきりとは無かった。祖母から逃げ出すということは父と別れることだが、それも止むを得ないとは思っていた。
漠然と憧れていた北京、そこには少なくとも祖母のような鬼は居ないはずだ。
私は、戻るまで列車が発車していることを願った。もし、列車が発車していたら一人で北京に行くつもりだった。
南台町の元の家は、当然ながらもう他人の家だ。幸い裏の戸が開いていたので、そっと入る。畳を二枚剥がしたところで、家人に見つかった。30からみの男性が、出口を塞ぐように立ちはだかり大声で怒鳴る。
私は、血の気が失せたがまだ冷静だった。
次の瞬間を待つ。男が殴り掛かったその時だ。素早く身をかわし、体制が崩れた彼の脇の下を潜るように、表に飛び出した。あとは一目散に逃げるだけ。
列車は、まだ発車していなかった。
私は、迷った心のままもう一度賭けを試みた。茣蓙と剃刀を貨車の近くに置いて、物陰に身を隠したのだ。
撫順の緯度は札幌と同じ。内陸は大陸性気候で、長い冬と短い夏しかない。その間に挟まれた更に短い秋が、既にポプラの葉を散らし始めていた。
ポプラの葉陰で、短い夏の短い命を惜しむように、油蝉がじりじりと鳴いている。私もその蝉の鳴き声に合わせて、じりじりと発車を待った。
「けんちゃーん!けんちゃーん!」と狂気のように叫ぶ父の声が聞こえる。父が茣蓙とカミソリを見つけたのだ。しかし私の姿が無い。まさか逃げる気で隠れているとは思わないから、道路を只うろうろと走り回る。
私は見つけて欲しいような、見つけて欲しくないような、半々の気持ちで息をひそめて運命の神に身を委ねた。
動き始めた貨車に、父が飛び乗った。年老いた母、幼い弟。どちらも父を必要としている。
「けんちゃんなら、しっかりしているから大丈夫だよ」誰かが慰めるように言う。
「けんちゃんは、いつも北京に行きたいと言っていたよ」と、同級生の子供が言ったとき、父ははっと思いあたった。貴重品の入ったリュックを何故私が持って行ったか。
まさかとは思いながらも、今は唯この向こう見ずな息子の無事を祈るしかなかった。
ここはお国を何百里。敗戦後三年、祖国にも見放された人達が、ソ連軍の侵攻による、徴用,避難、抑留、玉砕、虐殺、残留、遺棄、自殺、餓死、刑死、病死、凍死等々多くの悲劇的な別れをしてきた。それらに比べたら、この別れは喜劇かもしれない。子が親から自らの意志で離れたのだから。
獅子の子は、自ら千尋の谷に身を投げた。
北京への一歩
父と別れた私は、とにかく線路沿いに西へ向かった。
大官屯、発電所、この辺までは、遠足で来たことがある。望花、古城子もよく耳にした地名だ。撫順から奉天までは、撫順中学の学生の、軍事訓練の行軍コースで、背嚢を負いゲートル巻きの少年が夜間行軍で歩いているのを見たことがある。
撫順奉天は、遠足の延長位の軽い気持ちだった。そこから北京までは、想像も出来なかったが、地図で見る限り、それほど遠くもなさそうに思えた。
実際は、撫順奉天が約50キロ。奉天北京が約700キロある。それがどれ位の距離か、距離の実感が無いまま、とにかく歩くしかない。
八月は、この辺はにわか雨が多い。驟雨に時々襲われるが、幸い長雨は無かった。ぬかるみで靴やズボンが汚れたのは、むしろ望む所だった。旅支度の私は、あまりにも身綺麗にしていたから。目立つのは困る。
撫順から瀋陽にかけては、まだ未開放だった。国共内戦最後の決戦の幕はやがて切って落とされようとしている。
私達の引き揚げ列車も、撫順から瀋陽までで、瀋陽から錦州までは、国民党の軍用機が用意されていた。瀋陽を離れたら列車の安全が確保できなかったからである。
私達最後の引き揚げ者は、国民党の要請で残った技術抑留者の一団だったから、蒋介石は安全帰国の約束を守って、軍用機を用意してくれたのである。
もっとも、軍用機は国民党の本拠地南方から東北へは軍需品の輸送で満杯だったが、戻り便は空いていたからそれが出来た。
葫蘆島からの引き揚げ船もそうである。
南方から葫蘆島へ兵士の輸送。
葫蘆島から日本へ引き揚げ者の輸送。
日本から南方へアメリカの援助武器を輸送。
三角輸送の一辺が日本人の引き揚げ船に使われた。
都市部には、農村から食料が入り難くなり、穀類は暴騰していた。しかし毎日の最低の食品、煎餅(高粱や唐黍の粉を、鉄板で薄く焼いた物)や、饅頭はまだ路上で売っていた。
沿線のトーチカには、兵士の動きが慌ただしい。しかし治安はそれほど悪くない。どこの軍隊も平時の統治下では、占領政策を円滑に進める為にも、作戦の遂行上も無用の混乱は好まない。住民の宣撫と治安維持にはそれなりに力を注いでいた。
両軍とも軍紀は保たれていた。人心を失ったら負けということを両軍とも心していたから、八路軍は「人民の物は針一本奪わない」と宣伝していたが、それは事実だった。
蒋介石の言葉「以徳報怨」は、国民党の一般の兵士にも浸透していた。
そこは何処だったろう。子供の足で5時間ほど歩いた所で、小さな廟のような所があった。かなり荒れているが、夜露くらいはしのげそうだ。少し早いが大分疲れた。今日はここで寝ることにする。
当時多くの中国人は、貧困の極限にいた。
この辺には、山東省から流れてくる労働者が多く、彼等は「山東苦力」(サントンクリー)と呼ばれ、炭鉱など文字通り地下労働に従事し最低の生活をしていた。真冬でも吹き溜まりの中軒下など屋外で、寒風を避け煎餅蒲団一枚にくるまって、やどかりのような姿で寝ていた。煎餅蒲団一枚が、彼等の全ての財産であり、家だったのだ。
ここは彼等にとっても良い宿だったのか、日が暮れると、風体の怪しい男性共が三々五々と集まってきた。
その中の一人が、私に問いかける。
「見かけない餓鬼だな。どこから来た?」
「あっち」と、東の撫順の方角を顎でしゃくる。
「どこへ行く?」
「あっち」と、西の瀋陽の方角をまた顎でしゃくる。
「ふーん」男はそれ以上聞かなかった。
「俺も故郷にお前と同じ位の息子がいる。この辺は物騒だ、気を付けろ」更に「寒いだろう、入るか?」と、煎餅布団の脇を空けてくれた。
間もなく男性は、鼾をかき始めた。
私も、貴重品を腹の下に包めて寝た。
「人之初、性本善」(人の本性は、本来善である)これは三字経の書き出しだが、性善説をとるか、「人を見たら泥棒と思え」と性悪説をとるか。
その賛否はともかく、哺乳類が種を越えて、幼児を可愛がるのは、事実である。虎の子も狼の子も、子供は無性に可愛い。
戦乱のこの時節、浮浪児は珍しくなかった。その子達は生きるため、時に盗みも悪事も働いたが、ひたすら可愛く生きた。私も捨てられた子犬のように可愛かった。無意識に可愛く振る舞った。その限り安全だった。
闇の中に梟だろうか。鳴き声と異様な物音がする。子供にとって闇は死を意味する。恐怖の中、私は見知らぬ男の懐に抱きついた。
明くる朝、男はさらに優しかった。
「窮鳥懐に入らば、猟師もこれを射ず」
第一夜は、ともかく無事に過ぎた。
地獄で仏
二日目は、東稜近くの荒れた建物。三日目は更に西へ20キロほど行って野宿する。
私が野宿に選ぶ場所は、宿無しの浮浪者達にとっても良い場所だった。
狼の群れの中の一匹の小羊。ライオンの群れの中の迷える縞馬。
それでも、一人で彷徨うよりはそこが安全だった。
四日目、只ひたすら西に向かって歩いていたのだが、だんだん人通りが少なくなり、やがて西には何も無くなった。果てしなく広がる高粱と唐黍。僅の緑は、瓜畑か。
まだ陽は昇って間もないというのに、足に豆が出来て痛む。貴重品袋からメンソレを出して傷口に厚く塗る。
道端の池のほとりで、腰を下ろしているときだった。
「何処へ行く?」と農作業の馬車の主が声を掛けてくれた。
「飯は食ったか?」
私が首を横に振ると、「乗れ」と座席を空けてくれた。
以前父に「美味しい物をあげるとか、良い物をあげるとか、優しそうな言葉で言う人間には絶対に付いて行ってはいけない」と厳しく言われていた。
「これが人攫いだな」と、私の危機察知アンテナはアラームを出したが、私に危機感は無かった。彼にも罪悪感は無かったようだ。
人の好さそうな農夫の笑顔は、私を安心させた。
「孤児か?」
「うん」
「俺と一緒に行くか?」
彼は私の身形と言葉の訛りから、とっくに私を残留孤児と見抜いていた。厳密に言うと私は家出少年だが、まあ似たようなものだ。
日本人の子供は高く売れるだろう。彼は胸算用をした。
「あの農家なら人手を求めていたし、この子を高く買ってくれるはずだ」
彼は、たまたま子犬を拾った。それを欲しい人に譲って小遣いを稼ぐ。自分も子犬も買い手も三方全て好。
私も彼を「人攫い」などと人聞きの悪い言葉は使うまい。彼は地獄で仏だった。
少し余談になるが、確か老舎の何の小説だったかの一節に、麦わらを簪にした少女の話がある。麦わらは「私を攫って下さい」というシグナルだった。
敗戦後の撫順でも多くの少女が、私の回りから姿を消した。彼女達は麦わらの簪はしていなかったが、明らかにシグナルを出していた。彼女達は私から見て玉の輿だった。
私は攫われて、むしろほっとした。
馬車が着いた先は、菜園と家畜小屋の周囲を広く柵で囲み、幾つかの広い母屋と作業小屋、作男部屋がある富農だった。商談はすぐ成立した。農夫がにこにこ顔で去った後、主人が作男に「何か食わせてやれ」と命じ、私には「畑のトマト、キュウリ、ナスは好きに食べて良い」と優しく言ってくれた。
作男頭のような男が、塩で茹でたじゃが芋を呉れて、「欲しければまだ有るぞ」と言ってくれる。
主人が作男頭に「色々教えてやれ」と言った後、私に対しては「明日から思い切り働いて貰う」と言い残して立ち去った。
「北京はまた行けるだろう。ここも悪くない」私は、この親切な農家に身を寄せてもよいと言う気になっていた。
スパイの手先
翌朝、作男頭から農場の中のことを色々と教えて貰っているときだった。サイドカーに乗った国民党の将校が来た。あの林中尉だった。
「何故君がこんな所にいる?」と驚いたのは向うだった。
林中尉については少し説明がいる。近所に、秀子姉さんと呼んだ年頃の綺麗な娘さんが居た。母亡きあと彼女は、私に駄菓子をくれたり、文房具をくれたり、何かと優しくしてくれた。やがて国民党の進駐と同時に白馬の王子が現れた。サイドカーに乗った若い将校林中尉である。
私は二人の通訳みたいなことをして、キューピット役を務めた。林中尉は、私にもお土産を持って来てくれた。
私が「引き揚げ列車からはぐれて、北京に行きたいと思っている」と半分本当半分作り話をすると
「北京は遠いぞ。子供の足では無理だ。どうしても行きたいか?」と聞く。
「うん」と頷くと、「一寸二人だけにしてくれと」と作男頭を遠ざけた。
「これから私の言うことは、一度聞いたら、断ることは出来ない。断ったら私は君を殺さなくてはならい。その代わり聞いて呉れたら北京行きは私が保障する。聞くか?」
「うん」と、私はもう一度しっかり頷いた。
「二度は言わないからしっかり聞け」と林中尉がゆっくりと、語り始めた。
「これから西へ20キロほど行ったらトーチカがある。その近くまでは人を付ける。このトーチカには絶対に近づくな。トーチカに沿って鉄条網があるが、南へ500メートル行くと、石ころと枯草の塊がある。その下が抜け道だ。君なら通れる。向うへ出たら西へ行け。集落がある。そこで誰でもよい、「馬大人」を探していると言え。誰かが水滸伝を持っているかと君に尋ねるがそれが合言葉だ。男にこの本を渡せ。そして北京に行きたいと言え。それで終わりだ」
二度は言わないと言ったが、林中尉は要点だけ繰り返し言ってくれた。
時は新中国建国一年前。国共内戦最後の決戦を前にして、国民党はすでに面としての支配地域を失い、辛うじて保った防衛線も各地で分断されて、グレーゾーンとも言うべき点が各地に存在していた。
撫順は国民党の支配下だったが、共産党の政治工作員と思しき人物が出没していた。
人だかりの後ろで、誰かが親指と人差し指で、「八」の字を作って尻の下でサインしている。「八路」の意味だ。
共産党の都市包囲網の中で、人々は食料と情報に欠乏していた。「八」の人達は、情報の運び屋でもあった。そしてグレーゾーンは、 双方の諜報戦の最前線でもあった。
内戦はまた、同族同士骨肉の争いだ。双方に、源を同じくする伏流水が存在しても不思議はない。それらが、地下で密かに繋がっていた。
林中尉がどちらに水源を持っていたかは知らない。或は両方に持っていたかもしれない。
グレーゾーンでは、庶民は優劣が決定的になるまで旗色を鮮明にしていなかった。両方の旗を持っていたのである。その時々の支配者に敢えて逆らわず生きていた。信じられないだろうが、敗戦後暫くはまだ日の丸を持って居る人もいた。いつ日本軍が戻ってきてもいいように。
トーチカと鉄条網の向こうは、そのグレーゾーンだった。
林中尉は、グレーゾーンと連絡の任務を持ってきた。しかし何等かの手違いで、連絡員が来なかった。そこで私をその連絡員として利用しようと考えた。
私は悪運があった。
脱出
あくる日、林中尉がまた来た。
「この馬車で行け」と、中尉が指示した馬車の主は、先日の農夫だった。
「さあ行くぞ」屈託のない人の好さそうな笑顔は、あの仏の人攫いのそれだった。
彼は私が何をしに行くのか、何も尋ねなかった。聞いても答えられないことを知っていたのだろう。
高粱畑の間の道を5時間ほどで、遥か右にトーチカが見える所に着いた。
「俺が言われているのは、ここまでだ。腹が減ったら食え」と大きな饅頭を二個呉れて、農夫はもと来た道を戻って行った。
まだ陽は高い。私はトーチカの銃眼から隠れるように、高粱畑の中に身を横たえた。高粱畑の中を南へ、トーチカの鉄条網に沿ってゆっくりと500メートルほど移動する。しかしこの一帯は、高粱が刈り取られていて、それ以上鉄条網へ近付けない。
闇を待つしかない。饅頭を食べ、非常袋の中の水筒の水を飲み眠ろうとするが、却って頭が冴えて眠れない。
私は、母に抱かれた記憶がない。
母が亡くなる前、一度だけ「あなたが、私の遺骨を抱いて日本に帰る」と私を膝に抱きしめて泣き崩れたことがある。結核を患っていた母は、感染を恐れて私をあまり近づけなかった。
私を抱かないのが、母の愛情だった。
日が暮れた。幸い月は無い。星明りだけを頼りに、昼間目星を付けていた地点に這うように身を屈めて進む。抜け道はすぐ見つかった。
それを潜り抜け、やれやれとほっとしたときである。
「誰か!」と大声がした。
歩哨の巡回に見つかったのだ。これは、林中尉の教えてくれた筋書きに無かった。
「我!我!我!」と私は中国語でやっとそれだけ言うと、両手を挙げて立ち上がった。
恐怖にひきつって、それ以上は言えなかった。余計なことを言えなかったのは、却って幸いだったかもしれない。
歩哨がカンテラで私の顔を照らすと「なんだ子供か。行け!」と見逃してくれた。
私は転がるようにその場を離れると、集落の近くの、僅に樹木が茂る小さな丘陵の下で、今度は夜明けを待って身を横たえた。
地平線に朝日が射した。その一瞬小鳥達が一斉に囀り声を上げた。どこにそんなに居たと思えるほど、多種多様な不協和音だ。
タンバリンのような小鳥の囀りに混じって、とても鳥の声とは思えない、金切り鋸を引いたような不思議な声もある。
それも短い時間だった。小鳥達がそれぞれに群れを作り、餌を求めて飛び立つと、また元の静寂が戻った。
集落の竈にも煙が見える。そこはここから近い。私も起き上がり、そちらへ向かって歩いた。
八路軍少年兵
農家30戸ほどの小さな集落には、屈強な若い男の10人足らずの武装集団が居た。彼等に「馬大人」を尋ねたらすぐ分かった。腰に拳銃を下げた30前のリーダー風の男性が、「水滸伝を持っているか」と私に聞いた。
私の大役は無事終わった。
「北京に行くのだな。俺達は明日阜新に行く。そこから北京へ行くよう手配してやろう。朝飯はまだだろう」と、粥と豆乳を用意してくれた。
阜新は、3月に解放されたばかりだったが、市内には八路軍の正規兵が満ちあふれていた。正規兵と言っても服装はまちまちで、面構えだけが逞しかった。輜重兵は、素足で天秤棒を担いでいた。
部隊長風の男性が、「ここには日本人も居るぞ。と連れて行ってくれた先に居たのは、なんと門脇さんだった。
門脇さんは、宮城県出身の元満蒙開拓団の青年隊員だが、敗戦後撫順郊外龍鳳のある富農の家に寄留していた。日本人が居る農家があるということを聞きつけて、私達はこの農家に野菜や食料の買い付けに行っていた。
「お前達知り合いだったのか。丁度良かった。門脇お前この子の面倒をみてやれ」と部隊長が言い残して立ち去った。
門脇さんも、北京を目指したらしい。何とか瀋陽を抜けたところで、捉えられるようにして、八路軍に入ったという。
「ここには、俺以外にも元日本兵が大勢居る。俺達は部隊の労農学校で革命教育を受けている。こないだ、地主富農の公開処刑があった。おれも一人やらされた」と浮かぬ顔で言う。
人民裁判で有罪になった地主富農が、予め自分で掘らされた穴の前に手足を縛って並ばされ、それを銃剣で一人一人突き殺す。
門脇さんの表情は、暗く浮かなかった。あの親切な龍鳳の農家の主はどうなるのだろう。
私も、仏の人攫いに連れて行かれた農家の主の身の上が心配だったが、どうしようもない。
又部隊長が来た。
「どうだ、お前もここで少年兵になるか?」
「私は北京に行きます」
「北京に行ってどうする」
「それは分かりません」
彼は私が北京でまだ別の任務があると思ったのか、それ以上引き留めなかった。
林中尉の密書を命がけで届けた私は、「勇敢な少年諜報員」として皆の敬意を集めていた。それは、私も肌で感じていた。
「いつでもその気になったら来い。俺達は歓迎だ。明日列車を手配してやろう。ここから北京は、列車ならそれ程無い。一日も乗ったら着くだろう」と言い残して、又立ち去った。
明くる日列車は、山間部の山並みを縫うように走る。途中駅で幾度か長い臨時停車をしたが、ほぼ一昼夜走った所で、万里の長城を越えたようだ。
ここは何処だろう。まだ明けやらぬ中、列車は駅の無い収穫前の唐黍畠の中で停まった。
星空の中一台の馬車が待っていた。阜新からついて来てくれた若い兵士が、農民の姿で一緒に横に乗った。「北京は何処へ行く?」「天安門」と私が短く答える。実は何処でも良かったのだが、北京の地名を天安門しか知らなかった。
太陽がやっと昇ろうとした頃、馬車は停まった。
「天安門はまだ遠いが、俺達が送れるのはここまでだ」と言う。私も子供ながら、ここが内戦の舞台の一角であるのは分かった。北京はまだ未解放だった。ここも双方の境界を接するいわばグレーゾーンなのだ。
子供の足でも、昼までには着くだろう。とにかく南へ行け」と男が言った後「水筒を出せと」と水を補給してくれた。更に一包の紙袋をくれ「饅頭とネギと味噌が入っている。これは隊長からの選別だ」と、小銭の束を懐に入れてくれた。
諜報に従事する者は、任務の遂行に必要な事以外は教えられていない。相手も必要な事以外は問わない。お互い出身地はもとより、本名すら名乗らなかった。私は子供ながら、ここでは立派な中国共産党の諜報員だった。
「気をつけて行け」最後に男はそれだけ行って、また馬車で去った。
北京第一夜
北京の朝靄は、夏とはいえ少し肌寒い。日差しが昇るにつれてさわさわと吹き始めた風は、ポプラの葉を落とし秋の香りさえした。
私の北京に対する知識は、「中心が故宮で、天安門という大きな門がある」それ位しかない。
私は昇る太陽を左手に見ながら、ひたすら歩き始めた。
京に田舎在り。人通りもまばらになり始めたころ、四方に畑が点在し、農家の幤屋、アンペラ小屋が散見された。アンペラ小屋とは、レンガ小屋の屋根をコールタールで塗り固めた壁の回りに、アンペラと呼ばれる高粱殻で編んだ筵が立てかけている、最低の住居とも呼べない住居だ。
馬車を降りて何時間たったっだろう。一人中心方向へ向かって歩いていたとき、朝の便意を催した。何か食べた物が悪かったのか、水が悪かったのか、昨日から便が柔らかい。
幤屋の物陰で用を足そうとしたとき、ズボンを脱ぐ間ももどかしく、大便をズボンの中にし被ってしまった。
汚れたズボンから大便を拭きとっているとき、隣に年の頃16,7才の大柄な少年が座った。
「腹を壊したのか?何処から来た?」
「東北」とその方角を指さす。
「えーっ!ほんとか、何処へ行く?」
私の東北訛りの中国語から、信じられないという顔で信じてくれた。
「北京」
「ここが北京だ。北京の何処だ」
「天安門」
「天安門はまだ遠いぞ。お前行く所が無いようだな。俺について来い」と、先に立って歩き始めた。
少年の行き先は、すぐ近くのアンペラ小屋だった。広さ20平米はあろうか。中は意外に小奇麗にしていて、オンドルと呼ばれる、竈と暖房を一つにしたような高床の上に、煎餅蒲団が数枚畳まれているが、家具らしい家具は何も無い。
私と同じ位か、少し年少かと思われる少女が居た。
「新入りだ。腹を壊している。お前面倒見てやれ」と少年が少女に命ずる。
「うわー臭い!さっさと脱ぎなさい」と少女が私のズボンを手早く引きずり下ろす。
きまり悪そうに、縮こまっている小さな「おちんおちん」を隠す場所も間も無い。
少年が私の額に手をやる。
「熱が有るな。休め」と蒲団を引き始めた。
「こういう時は、暖かくして寝るのが一番だ。腹は一日食わなかったら治る。明日の朝お粥を作ってやるから、ひもじいのは我慢しろ」
更に少女に向かって
「お湯を沸かして飲ませてやれ」とてきぱき適切な指示を出して、何処かへ出かけた。
夕方少年が帰ってくる。
秋にはまだ早いが、日は大分短くなっていた。辺りが暗くなると、少年が私の蒲団に潜り込んできた。正確に言うと、私が少年の蒲団に寝ていたのだが。
「お前まだ毛が生えていないのだな」と小声で言うと、私の手を取り、自分の一物を握らせた。本日心ならずも公衆の面前に晒す破目になった私の13才のおちんちんは、まだ白い唐辛子だった。
少年の陰毛は見えないが、ふさふさと手首に当たる。一物は成人のそれだ。
好奇心にかられた私は、子犬がじゃれるようにそれを両手でもてあそんだ。
やがて、薄い煎餅布団を突き破るような激しい液体の噴出とともに、動きが止まった。
隣の少女は、とっくに寝ている。
彼が鼾を書き始めるまでの時間も、それほど長くは無かった。
私も長旅で、やはり疲れていた。昼間あれだけ寝たのに、また深い眠りについた。
新しい仲間
翌朝、完全に疲れが取れた私の体は、昨日までの慢性的な気だるさが嘘のように軽い。
空腹さえ、むしろ心地よい。
「ズボンは乾いているよ」と少女がズボンを手渡してくれた。
昨日は、昼も夜も寝ていたので気が付かなかったが、チビが二人いた。八才位のすばしこそうな男の子。まだ尻割れの嬰児服を着ているが、三、四才位の女の子。
「紹介しよう。まず俺は大牛だ。本当の名前もあるにはあるが、通称でいいだろう。俺を呼ぶときは、大哥(兄貴)と呼べ」続いて「俺の妹だ、別嬪だろう」と少女の紹介をしようとしたとき、少女が自ら「私のことは婷姐(婷姉さん)と呼んで」とやや命令口調で言う。彼女は私より少し上か同じ位か。豊かな胸のふくらみも、丸い豊な体つきもすでに女性だった何より当時130センチにも満たない、チビの私に対して150センチ以上ある彼女は、堂々たるお姉さんだった。
「僕は二牛」とすばしこそうな男の子が言う。只横でにこにこしている女の子を指して、
、「僕の妹、小妹だ」と紹介してくれた。そのとき大牛が意外なことを言った。
「俺たちは、この子に食わせて貰っている」と小妹を指さす。
なんのことか分からないまま、私が訝っていると、「俺の妹とこの子二人で、盛り場で他人の情けを受けている。早く言えば乞食だな。俺は彼女らの紐だ」
「金なら少し持っているよ」と腹巻に父がいざというときの為に縫い付けくれていたのをほどいて、差し出した。
「いいだろう。ここでは俺が持っている方が安全だ。要るときはいつでも言え。元々お前の金だ」と大牛が中身も確かめずに、それを懐に入れた。
「遠慮せずに、使っていいよ」
「要るときは使わせて貰う。俺達は仲間だ。皆絶対に仲間を裏切るな。それだけは言っておく」
「そうだ、お前のこと名前も聞いていないな」
「私なら献、貢献の献と言う字」
「ふーん献か。ならこれからは小献だ」
新しい名前と共に、私も新しい仲間として仲間入りした。
大牛が言う。
「俺達の親は死んだ。このチビ達は近所の子だが、父親が死んだら、母親は別の男と何処かへ行った。男が連れて行ったのか、女が付いて行ったのかは知らない。俺は男と女のことは分からない。しかし親が無くても子は育つが、女は一人では生きていけないからな。そうだろう?」と私に同意を求めるが、私に勿論分からない。
「小妹は本当に可愛いだろう。この子の無邪気な笑顔を見ていると、俺も癒される。そして、この笑顔でこの子は稼いでいる。俺はこの親を知らない子供達に、いつも言ってやるのだ。お前のお袋は、優しかったよと。可愛がられずに育った子が、こんなに良い笑顔をするはずがないだろう」と。
大牛がしんみりと語った後、私にも同意を求める。
しかし私は少し別の事を思っていた。これは、親に捨てられた子猫の悲しい笑顔だと。上手く言えないまま黙っていたら、無性に涙が出て止まらなくなった。そして人目も憚らず。手放しで号泣してしまった。
皆は、私がはぐれた親を慕って泣いていると思ったのだろう。そのまま泣かせてくれた。
親を捨てた子の涙。親に捨てられた子の笑顔。親無き子供達が生きていくために、涙と笑顔で、ここに新しい心の結びつきを深めた。
バーベキュー
二牛がとんでもない物を拾ってきた。
「どうだ、凄いだろう!」
「うわ~美味しそう!」婷姐と小妹が歓声をあげる。
「何処で拾ってきた。でかしたではないか」と、大牛が褒める。
それは犬の死骸だった。黒か茶か、昨夜の雨で毛が泥まみれに汚れて、色は定かではないが、体長50センチ位の成犬だ。
腹部に出血があるが、それが致命傷か。すでにそこには蛆がわいている。
「そんな目で俺を睨むな」と言いたくなる無念の形相で、牙をむき出しにして私を睨む。
実は、昨日裏山の墓地みたいになっている所で、私もこれを見つけていた。少し離れた場所に、腹部を食い破られた嬰児の死体があったのは、多分この犬の仕業だろう。
しかし、私にこれを拾って帰る発想は無かった。
大牛と婷姐が、慣れた手つきで犬を捌く。二牛が、火の支度をする。小妹までが、何かそわそわしている。
「お前は近くの畑で葱を失敬してこい」私は、大牛に命ぜられて、野菜の調達に行った。
焼肉の香りが、遠く漂う中を私は一束の葱を手に帰ってきた。
皆、焼きあがった肉を前に円座を作っていた。無念の形相の犬の首は切り取られ無造作に傍らに置かれていた。
「醤油が有っただろう。今日みたいな日に使え。さあ皆思い切り食え」
大牛の弾んだ声を合図に宴は始まった。
「どうした?」
大牛が、あまり箸が動かない私を戒めるように、問いかける。更に、「小献お前、生きるということは何か分かるか?」と、禅問答のような問いかけがきた。私は小さく首を横に振る。
「生きるということは、食うことだ」暫く間をおいて「死ぬいうことは、何か分かるか?」と更に思いがけない問いかけがきた。
私にとって死は、話題にするのも只恐ろしいことでしかない。それが何か、考えたこともない。
母の死、二人の妹の死、私はすでに三人の肉親の死と向きあってきた。
深い沈黙の時間が流れる。
「死ぬということは、食われることだ。さあ、食われたくなかったら食え」と、大牛が香ばしく焼き上がった骨付き肉の塊を、私の前に差し出した。
腸を食いちぎられた、嬰児の死体。傷口に蛆虫がわいた無念の形相の犬。それらがどうしても瞼にこびりついて離れない。
こういうとき、父はそれを食べるまで絶対に何も呉れなかった。
「腹が減ったら何でも食べる」
それが、貧困家庭で育った父の哲学だった。お蔭で、私に偏食はない。何でも食べる。
私は飲み込むように、やっとそれを食べた。
生きることは辛い。しかし食われるよりましだ。
飽食に満ち足りた仲間達が、生きることを学んだ私を、「好!」と笑顔で祝福してくれた。
心なしか、犬の形相にも笑みが浮かんだように見えた。
漢奸
私の貴重品袋には、ハーモニカが入っていた。久し振りでそれを取り出して吹いたら、皆が「好!」と褒めてくれる。
国旗の歌「白地に赤く♪」あの曲を吹いているときだった。大牛が「それは何だ」とせき込んで尋ねる。
「日本の国旗の歌だ」と私が答えると、「そうだったのか」何かを悟ったように彼が大きく頷いて言う。
「この歌を歌うと、日本の兵隊が、飴をくれた」
多分日本軍の宣撫隊が、子供に歌わせたのだろう。
「お前にまだ俺の親父が何故死んだか言ってなかったな」一息おいて,
「俺の親父は、日本兵の手先だった。その歌を歌う子供達を集めるのが親父の仕事だった」また間が空く。
「お前わかるだろう。これは好い仕事だった。金になる仕事だった。金だけではない。当時なかなか手に入らない、砂糖も我が家にはあった。米も唐黍も大豆も不自由したことは無い。親父は器用な男で、簡単な日本語も話せた」
当時の中国人は、文法を無視して中国語の語順のまま日本語の単語を当てはめた言葉と、簡単な中国語をごちゃ混ぜにした、独自の日本語を使っていた。
例えば「ターターデヨウ」(多多的有)。意味は「沢山ある」である。
大牛が一人で語り続ける。
「その後どうも憲兵隊とも繋がりができたようだ。羽振りは更に良くなった。なあこれは悪い事ではないだろう?親父の才覚だ」と私に相槌を求める。
撫順でもあった。撫順の最後の憲兵隊長はH某だ。久保町の我が家の一軒おいて隣りだった。同級生の娘さんが居たから私もよく覚えている。彼は敗戦後一早く撫順を離れたらしい。らしいというのは、無事逃げたまでは風聞で、彼の腹心の部下陳某が、撫順市公署前で漢奸として、公開銃殺されたのは風聞ではない。
罪状は、憲兵隊長の逃亡幇助である。
当時絶大な権力を持った憲兵は、また情報も握っていた。彼等はその権力と情報を、我が身の安全保障に使った。利用されたのが、漢奸と呼ばれた中国人である。狐の抜け道に餌をたっぷり貰った兎が囮として配置された。
大牛の父も戦後人民裁判で、漢奸として公開銃殺された。権力者の恩恵を受けた分だけ、逃げきれない物が有ったのではないだろうか。
母親の死は、もっと悲惨だった。母親は美人だったという。婷姐を見たら分かる。父が殺された後、一ヶ月ほど経ってからだったろうか。ある日大牛の母親は、素っ裸で樹木に括りつけられ殺されていた。その前日彼女はある男の女房と女同士髪を引っ張り合う猛烈な公開バトルをやる。格闘は痛み分けだったが、結果は悲惨だった。
大牛はそれ以上語らなかったが、こういう場合中国人は、女性の局部に棒を突き刺し、野犬の食い荒らすままに放置する。
大牛が言う。
「人は必ず死ぬ。どんな死に方をするのも一つの死に方だ。戦争は必ずどちらかが勝って片方が負ける。親父は負けた方に肩入れして殺された。まあ人生の大博打に負けたようなものだ。もし親父を漢奸というなら、当時の中国人は、皆漢奸だ。皆好い思いをしたかったが、才覚のある者だけがそれを出来た。俺は親父は赦せるが、母親のことは分からない。俺は女が嫌いだ」
大牛の鋭い語気には、少年の潔癖感があった。
泥棒
表通りに、間口10メートルほどの少し大きな雑穀商があった。
私はここで時々落花生を買っていた。
その日は、折よく店には誰も居なかった。ふと帳場を見ると、算盤があった。
私は、それが無性に欲しくなった。父が算盤が得意で、私も教わっていた。
そっと手に取ってみたが、人の気配はない。
それを懐に、さりげなく表へ出た。中で人の気配がする。急ぎ足で表へ出た時後ろから男の大声が聞こえた。緊張で頭の芯がきりきりする。
私は路地裏に逃げ込んだ。入り込んだ胡堂の細道は、すぐ袋小路になった。大きな獅子の門飾りの陰に身を隠したときだった。二牛がどこで見ていたのか、私の傍に来た。
「それを寄こせ」
彼は私から算盤を手にすると、勝手知った路地裏の裏を、素早く駆け抜けた。
手代が私を見つけた。小さな私の胸倉を掴んで、吊し上げて言う。
「太いガキだ。さあ盗ったものを出せ!」
「私は何も盗っていない」
「嘘つけ!何故逃げた!」
「逃げたのではない、小便がしたかった」
騒ぎを聞きつけて、野次馬がたかる。
店の主人も駆け付けて来た。
手代は、更に私を打擲しながら厳しく詰問するが、証拠が無い。
必死に哀願する私に、野次馬裁判官はニタニタ笑って無言だが、雰囲気は無罪判決だった。
最後主人の「もういいだろう、放してやれ」の一言で私もやっと解放された。
小屋に戻ると、思いがけずも大牛にいきなり、一発頬を張られた。
「何故あんな物を盗んだ!」
「欲しかった」
「俺達が市場でかっぱらいをするのも、畑の作物を失敬するのも、乞食をするのもみな必死に生きる為だ。お前みたいに、唯欲しかったなんて甘えた気持ちで盗みはしていない。分かったか」
「うん」
「いいか、盗ったら盗られた者がいる。盗られた者の仕返しが、裁きだ。俺は善悪でお前を説教しているのではない。お前はあのとき、殴り殺されても文句は言えなかったのだ。偶然二牛が通りかからなかったら、どうなっていたか。運の強い奴だ」
私はここでも、自分の悪運の強さを思った。
「お前、何故日本が負けたか分かるか?」
「それは・・・、アメリカの物量作戦にやられたからだ」
「違う違う」大牛がみなまで言わせず「盗ったから盗り返されたのだ」と語気鋭く言う。
軍国少年気分が抜け切れていない私の頭は、ガーンと新鮮な衝撃を受けた。
戦後、半年して再開された学校では軍国主義教育から180度反転した民主主義教育が行われていた。教科書は、「飛行機」という文字すら軍国用語として墨で黒々と塗り消されていたが、以前のままの教科書だった。教える教師自体が、つい数ヶ月前までは「天皇陛下万歳」を教えていた人達だ。
父も「満州国は侵略ではない」といつも言っていた。日本に住む場所を亡くして親の代から中国に住み着いていた父は、本気で「五族共和、王道楽土」の建設を夢見ていた。
満鉄の人達も、その技術でこの土地に貢献してきたことを誇りに思っていたし、私達はその技術を必要とする中国の要請で、敗戦後も抑留していた。敢えて「抑留されて居た」と言わないのは、皆多かれ少なかれ使命感を持って残ったからである。
しかし、大牛の反戦教育は分かり易かった。奪った側が「王道楽土」など、なんと屁理屈を言おうと、ここには奪われた人達が居た。それを奪ったのが日本で、日本は奪い返されただけだ。
寺子屋
ある朝、小妹が壁の棚に背伸びをしていたので、抱き上げてやったら、もっと高くという。
「もっともっと」言うから、肩車をしてやったら、「きゃーきゃー」言ってはしゃぐ。
死んだ妹が元気なら、丁度この年だ。
二牛も加わって、押しくら饅頭のようなことをして、じゃれ合いながら、ちょっとくすぐってやったら、小妹が、もう悲鳴に近い嬌声を上げる。
「何やってるのよ」と婷姐まで騒ぎに加わってきた。
彼女の豊な胸を押し付けられたとき、今度は私が息を詰まらせた。とたん股間に強い衝撃を受けて、思わず「バカ!」と日本語で怒鳴ってしまった。
彼女が私の唐辛子を握りしめたのだ。手を挙げたら、「小東西(ちいさなちん)あかんべー」と赤い舌をペロッと出して逃げられた。
夕食のときだった。彼女が聞く。
「バカてどういう意味?」
「バカはバカさ」
「小献、あんたまだ日本語を覚えている?」
「当然だろう」
「(吃飯)は日本語で何と言うの?」
直訳したら、ご飯を食べるだが、私は「吃饭了吗」が中国語で日常の挨拶だということを知っていた。だから敢えて「こんにちは」と教えたら、彼女が綺麗な日本語で真似してこれを言った。
お世辞抜きで「上手だな」と褒めたら、「本当?」と「これ何?これ何?」と手当たり次第に回りの品物を指さして聞いてくる。
「布団」「茶碗」「箸」「水」「石」など身の周りの物は、すぐ覚えた。
大牛が私に尋ねる。
「小献お前字が書けるか?」
うん、少しなら」
「俺の名前は王XXだが、書けるか?」
「XXの字が私には難しくて書けない」
彼が少しがっかりしたようなので、「大牛なら書けるよ」と、地べたに大牛と大きく書いてやったら、彼すっかり喜んで、「よし、これから俺の名前は王大牛だ、うん、良いい名前だ」と自分で自分の通称を本名にしてしまった。
「俺は学校に行っていない。字を習いたいな」
「自分でも勉強出来るよ。このあいだ、君に預けた金はまだ有るかい?」
「一銭も使っていない」
「ならあの金で、本を買いなよ。それから小妹にズボンを買ってやりなよ。もう赤ちゃんでないのだから」
私が肩車してやるのに、尻割れ服ではどうもまずい。
「そうだな。小妹も喜ぶだろう」
大牛が買って来たのは「三字経」だった。
「人之初」と私が読むと、「性本善」と彼が続ける。彼に取って当然ながら中国は母国語だ。だから読めなくても書けなくても話せる。意味の解釈は無用。私が読めない字が有っても前後の字が読めたら、彼がその字の読み方を推測する。
「お前この間算盤なんか盗んで来たが、出来るのか?」
私がぱちぱちと披露したら、彼すっかり感激して
「お前は何でも知っているな。これからは献老師と呼ばせて貰う」と、私を畏敬の眼差しで眺めた。
大牛の文字学習は、海綿が水を吸うように急速に進歩した。
婷姐の日本語も、語彙が格段に増えていた。食べる、走る、聞く、話すなど簡単な動詞もすぐ使えるようになった。
北京の一角の寺子屋で、私は浮浪児相手に「献老師」と尊敬を受ける身になっていた。
丁稚奉公
朝霜が降りたある日の夕方、寺子屋の噂を聞いて、一人の中年の男性が尋ねて来た。先日私が算盤を盗んだ穀物商の主人だった。部屋の中を見回して、算盤を見つけたが、軽く頷いただけで、それについては何も言わなかった。
大牛に向かって「部屋を綺麗にしているな」と、褒めた後「お前字が書けるか?」と問いかけた。「少しなら」と、大牛がこっくり頷く。
「算盤はどうだ?」
これも、少しなら出来るというように、大牛が小さく頷く。
「今時、字が書けて算盤が出来たら、それだけで立派な人材だ。偉い。誰に習った?」
大牛が、傍らの私を指差す。
「君が噂の日本人少年か。どんな事情があったか知らないが、日本には帰りたくないか?」と私に問いかける。
私が首を横に振ると、そのことについてはそれ以上ふれず、大牛の方へ向いて、
「どうだ、うちの店で働かないか?」と問いかけた。
この思いがけない申し出に、大牛が返事に窮していると、「給料は出せないが、年二回春節と中秋節に小遣いをやろう。飯は腹一杯食ってよい」と言う。
この好条件に対して、大牛に勿論異存はない。満面の笑みを浮かべて頷く。
更に婷姐の方に向いて「飯が作れるか?」と尋ねる。婷姐が頷くと、「掃除洗濯も頼む、条件はお兄さんと同じだ」と言う。これも勿論異存はない。
主人の目が私の方へ向いたとき、私の方から「お願いがあるのですが」と申し出た。
「なんだ?」
「実は、自分で商売がしたいのです」
「ほう、商売?何をする?」
「それはいい。リヤカー、芋釜。燃料、材料、最初の資本は私が出してやろう。しっかり稼いで、ゆっくり返してくれ。そこの坊主はこの人を手伝え」と、二牛へ命令する。
最後に、小妹に向いて「あんたは、何もしなくていいよ」と優しく言う。
「食事は、朝夕二回だ。店で皆と一緒に食べなさい。腹一杯食べていい」と言い残して主人は帰った。
大牛が「やったー!」と大声で万歳をする。「俺たちにも運が向いてきた。これも献老師のお陰だ」
「そんなことより、残っている金で服を買おうよ。寒くなったけど、私は夏服しかない」
「俺達はいい。去年のが有る」
「みんなで買おうよ、もうお金は要らないのだから」
「そうだな、お祝いだ。全部使わせて貰うぞ」
明日から働ける。食べる心配も寒さの心配も要らない。これから冬だというのに、皆冬を通り越して春が来たような、幸福感に浸っていた。
新生活
大牛は、衣服も新調してすっかり店の若い衆として張り切っている。婷姐は、黄色い襟巻きを買ってきたのが、よく似合う。二牛は靴と帽子を新調した。小妹は、新しい綿入れにくるまってにこにこしている。私は、綿入れの上下に帽子靴下全て買い整えて冬が待ち遠しい気分になった。
これを見て、店の主人が一番喜んだ。
「馬子にも衣装だな。お前達のやる気を見て、私が一番嬉しい。私は子供が居なかったが、一度に子福者になった。これは皆にご褒美だ」と、代表して大牛に紅い包み紙をくれた。それには、今回の衣装代に十分な額が包まれていた。
大牛は、まず米、麦、大豆、高粱、粟、等多くの穀物の品名、等級、価格、更には産地別の特徴等学ぶことは沢山あったが、学ぶことが楽しかった。
婷姐は、あまり丈夫でない奥さんを手伝って、炊事洗濯など店の裏方を手伝うことになった。店の店員は、これまでも四人居て結構忙しい。合間に店の自転車を借りて練習をするのを楽しみにしている。
小妹は、これまで通り唯ニコニコ笑って婷姐の後について回っている。
さて私だが、焼き芋屋は順調だった。二牛は本当に頼りになる。燃料拾い、落ちている物は全部貴重品だ。紙一枚簡単には手に入らなかった。そして何より仕入れは、二牛が居ないとまず無理だった。彼はもともとこの辺りの地理と農家に詳しい。近所の農家との折衝は、全部彼任せだった。
私は敗戦直後、職を失った父に代わって露店で粟餅を焼いて売ったり、パンを仕入れてきて売ったり、家不要品を売ったり、子供ながらに露天商の経験はあった。
始めて粟餅を売ったとき、1円50銭で仕入れて2円で売る餅がなかなか売れない。売れ残るのを心配した私は、1円で売ったらすぐ売り切れた。
得意顔をしている私に、父があきれ顔で言った。「あのね、けんちゃん。商売は仕入れた値段より高く売るから儲かるのだよ。仕入れ値より安く売ったら損じゃない」
私は、そうして商売を肌で覚えていた。
焼き芋屋は、仕入れ値の三倍で売った。原価、燃料費、利益、償却費を、経験的直感で判断したら、そうなった。それでもよく売れた。芋の大きさを見ながら、釜の中の配置を考える。そんなことが楽しかった。自分で食べても美味しかった。
二牛が私のハーモニカを羨ましそうに見ていたので、ある日貸してやったら、喜んで練習を始めた。何も教えなくても、子供はすぐ習得する。子供二人のハーモニカの焼き芋屋は、評判の焼き芋屋になった。
初デート
ある少し暖かい日、婷姐が自転車に乗って焼き芋屋の前に来た。
「小献見て!私自転車に乗れるようになったよ。一緒に何処かへ行こう」
「店もあるし・・・」と私が返事を渋っていると、二牛が「行っておいでよ、店は僕が見ているから」と勧めてくれる。
婷姐が「さあしっかり掴まって」と、小さな私を後ろの荷台に積んで元気よく走り出した。この半年程の間に、私も大分大きくなっていたが、それでも婷姐の腰は大きく頼もしかった。
「どこへ行くの?」
「北海公園にいくわよ。すこし遠いけど、夕飯の支度までには帰れるから」
三寒四温。その日の北京は小春日和だった。
北海公園には、自転車に二人乗りのカップルが、茣蓙を抱いて幾組か散見された。私達は茣蓙こそ持っていなかったが、カップルであるのは間違いなかった。少し若すぎただけである。
日だまりの草のしとねに、私達は腰をおろした。
「小献、泣きたかったら泣いていいのよ」と、婷姐がすこしいたずらっぽい口調で、両手を胸の前で広げた。
「バカ」と、小声で言って私は横を向いた。
「さあ」と、もう一度婷姐が言ったとき、私はくしゃくしゃの顔を彼女に見られないようにして、その大きな胸にむしゃぶりついた。
彼女は、母親のことが話題になる度、私が必死に泣き顔を堪えていることを知っていた。
顔を上げたら、婷姐の横顔と格好の良い耳たぶがあった。そっとそれにしゃぶりついたら、彼女が「バカ」と小声で身をよじらせた。もう一度強く吸い付いたら、今度は私のなすがままに身を任せてくれた。
どれくらい時間が経っただろうか。「晩の支度があるから」と、婷姐の声とともに私達は立ち上がった。
初恋は、早熟な少年の思春期の始まりだろうか。いや、婷姐の大きな胸と豊かな耳たぶは、私の少年期を永遠に終わらせてくれない。それは今でも思い出す度、母の思い出と重なり私を少年の日の号泣に誘う。
再び別れ
1949年1月31日。旧暦正月3日。春節が過ぎると共に北京は解放された。
無血入城だった。これは撫順に国民党が入ってきたときもそうだった。正確な記憶はないが、1946年のある夏の日、私は東一条通りの我が家の二階から見ていたのだが、トラックに分乗した国民党の兵士が来る。街角に機銃を設置している。騎馬に跨がった八路軍の殿が単騎で駆け抜ける。ややあって、裏の河(渾河)鉄橋の爆破音がする。多分先の殿騎馬兵の最後の仕事だろう。その間銃声らしい銃声無し。
三国志を見てもそうだが、城の攻防戦では無血入城は珍しくない。勿論血で血を洗う決戦もあっただろうが、むしろそちらの方が稀なのではないだろうか。決戦を前にして双方の諜報戦が、勝敗を左右して、無益な流血を避ける。
北京の方式も、十分に練られた諜報戦が先に有ったはずだ。私が林中尉の密書を運んだのも、その後の瀋陽の無血解放に貢献したかもしれない。したはずだ。
中国の大洪水を見る度に思う。それは地平線一帯を覆い尽くす大洪水で、避けることはできない。しかし、洪水が来るのは、一ヶ月も前から分かる。洪水は起こるが、濁流から逃れることは出来る。
北京でも現実を見る人達の力で、無駄な血は流されず、新中国は建国へ向けて大きく前進した。
別れはいつも唐突に来る。
父は、帰国後もずっと私を探していた。父には昔の同僚もいた。しかし北京の情勢が混沌としたままでは動きがとれなかったのだが、北京解放後明るいニュースも入って来た。
「小献」と呼ばれる日本少年が、そうではないかというのだ。
ある日、北京市のお役人と解放軍の将校がやって来た。
父の名前が書かれた紙切れを私に見せて「知っているか?」と尋ねる。
私が頷く。
「お父さんは、君に帰ってこいと言っている。帰るか?」
私はもう一度頷いた。
最後の日が来た。
気持ちだけなら、100%帰りたくなかった。婷姐とも皆とも別れたくない。しかし帰らなくてはならないと思っていた。私は溥儀の子である以前に父の子なのだ。父を欺して北京まで逃れてきたが、やはり帰らなくてはならないともう一度思った。
店の主人は「又来い」と言って呉れたが、それが気休めであるのは、皆分かっていた。
大牛が「これも宿命だ」と、彼らしい達観したことを言う。
婷姐は、大きな目を大きく見開いて、必死に無言で涙を堪えていた。
二牛が「ハーモニカを有難う」と礼を言う。
小妹は、いつものように、唯ニコニコ笑っている。
母の形見の珊瑚の簪を婷姐にそっと握らせて最後の別れをした。
再見北京
日本で待っていた父は、言葉は少なかった。父も私もこういうとき、あまり多くを語るには、感情表現が苦手だった。祖母は「あんた、北京まで行っとんたんと?ずつなかったろう」と広島弁で慰めて呉れた。 日本の落ち着いた生活の中で、祖母も普通の祖母になっていた。弟は勿論私を覚えていたが、「信じられなかった」と後日語った。
私は、その後日本で結婚し、就職も子供にも恵まれた。58才で希望して早期退職。私は一刻も早く中国に行きたかった。まずしたのは中国望郷の旅である。
北京。何度も夢に見て、その度に「これは夢でないのだ」と、夢の中で自問自答した北京。
まずあの焼き芋屋の場所に行った。何も変わっていないその場所には、紅いレンガの建物を背景にしんしんと雪が降っていた。いつも夢の中で見た景色だ。
一人の小柄な私と同年配の老婦人がいた。髪には珊瑚の簪があった。婷姐だった。彼女が小さくなったのではない。私が大きくなっていたのだ。
彼女は私を見ても驚かなかった。笑顔で「お帰り」と言った。
「何年になるかな・・・」
「44年」と彼女は正確に覚えていた。
「これは夢でないのだよね?」
「夢でないよ」と彼女が私の頬をつねった。
痛かった。
北海公園の白塔も雪の中だった。
私は粉雪の中に舞う一枚の病葉を拾って、そっと懐に入れた。
「これは夢でないよね」
「夢でないよ。ほらっ」と、彼女がいたずらっぽく笑ったとき、私の股間に痛みが走った。
「バカ!」と私はつぶやいて、もう一度懐の病葉を強く抱きしめた。
「今度は、君が僕の胸で思い切り泣いていいのだよ」
私はやっとそれだけ言うと、少年の涙で、いつまでも旅の枕を濡らしていた。
完
再見!北京 作詞作曲けんさん 訳詞賀亦
一
白塔に雲遠く棚引き 白云绕绕着白塔
馴れ初めの北海 我们在北海初恋
淡き想い胸に芽生えど 谈谈爱情在心中点点萌生
言うべき言葉知らず 不知应该说什么才好
あ!閉じないでくれ 啊!请别关上
昨日の扉を 昨天的那扇门
北京よ 再見 北京哟!再见!
二
千頭椿薄く頬染め 红叶淡淡映照脸颊
さすらいの香山 我们在香山缠绵
幼き日の想い語りて 谈起幼儿时代的故事
ときの過ぎるを知らず 忘记了时光的流逝
あ!叩かないでくれ 啊!请别敲上
今日の扉を 今天的这扇门
北京よ 再見! 北京哟!再见!
三
夜汽車の汽笛細く尾を引き 夜行火车的汽笛曳尾远去
うつろいのいわ園 颐和园景物朦胧
たぎる心千々に乱れど 心情如此激动忐忑不宁
抱くべきすべを知らず 不知道怎样表白爱情
あ!開けないでくれ 阿! 请别打开
明日の扉を 明天的那扇门
北京よ 再見! 北京哟!再见!
四
梢に一葉散り惜しむポプラ 白杨树梢的黄叶飘落
病葉の天壇 天坛一片萧索
去るべきとき来るを知れど 我知道我们即将分手
行くべきところ知らず 却不知我将何去何从
あ!閉じないでくれ 阿!请别闭
潤む瞳を 湿润的眼泪
北京よ再見!再見!再見! 北京哟!再见!再見!再見!
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