◇「けんちゃん」の中国大陸放浪記◇ === 我が家の歴史 === _ 没落 _ 我が家と中国の関わりは、日露戦争(1905年)まで遡る。 「今度入隊したお前の中隊の山本敬一に少し目を掛けてやれ」と連隊長に言われた中隊長は、その旨を小隊長に伝えていた。 山本敬一がどんな男か、小隊長が食事をしている隊員の前に来て驚いた。 敬一の前に置かれた皿の魚は、小骨まで綺麗に選り分けられ、それらが、一本一本猫がしゃぶったように光っていた。 「お前器用な男だな!何が出来る?」 「はい。木工細工を少々」 「他には?」 「はい。縄を使った工芸品と、編み物を少々」 縄ないという変わった趣味と、編み物というおよそ男児にふさわしくない芸に、周囲は失笑したが、小隊長は構わず「飯が済んだら俺の部屋に来い」と言って去った。 山本敬一は、私の祖父である。 山本家は、広島郊外の庄屋として、「お城下まで他人の土地を踏まずに行けた」と、祖母が豪語していた資産家だった。 そして祖母の実家、中田家も又広島の材木商として大正時代、貴族院多額納税者議員互選人名簿にも当主の名前が載っている資産家だった。 連隊長に祖父の件で依頼したのは、広島出身の有力な貴族院議員である。 時は明治末。日露戦争開戦、国民皆兵の中で祖父も召集されたが、そのとき満二十九才。既に三人の子持ちだった。 この隊員の中では最年長という年齢と、祖父の器用さに加えて、有力貴族院議員の口利きが、祖父を連隊付き衛生兵という比較的恵まれた軍務に就かせた。 祖父は旅順港を含む関東州一帯の戦から、遼河河畔沈旦堡の奉天大会戦まで、多くの戦いに参加した。日本側だけで六十五万人が参戦し、その内八万人を越える戦没者が出た激戦の中で、祖父がかすり傷一つ負わず無事凱旋出来たのは、この恵まれた軍務のお陰が大きい。 復員した祖父は、祖母の実家の材木商から暖簾分けして貰い、材木商を営んだ。 凱旋の勇士祖父は、本来の小心を忘れて、初めての商売にも勇敢に取り組んだ。 我が家にたった一枚残っている祖父の写真は、軍刀を提げ見事なカーゼル髭で威風堂々と写っている。実は、この髭は写真館で借りた付け髭だった。 編み物を趣味にする祖父は、物静かな優しい庄屋のぼんぼんだった。 家業は、最初は順調だった。それが何故急に没落したか。 後年、私が広島を離れ、松山に墓地を移転するとき登記手続きの必要があって、広島法務局の土地台帳を閲覧して初めて知ったのだが、大正8年のある日、全ての土地田畑山林が、僅かに墓地二十平米程を残して、祖母の実家の長兄、中田寿太郎に名義変更されていた。 何があったのか。父は亡くなる前、そのことに関しては「中田家も色々なことがあって、皆さん東京に出て消息不明で、その後のことは何も分からん」と言っていた。 しかしこれはずっと後の話だが、私も定年後、広島郊外を自転車で走っていて、偶然見つけたのが、「中田寿太郎顕彰碑」である。 それは綺麗に手入れされて建っていた。中田寿太郎は、祖母の長兄である。 勿論、父は全てを知っていて?を言ったに違いない。事実はその?の裏にあった。 やはり、父が亡くなった後、広島のある方から、「インターネットで貴方の事を知りました」とお手紙を頂いた。 その方は私より十才年長だった。その方のことは、父が亡くなる前「昔満洲でお世話になった方」と言って、瀬川という姓だけは存じ上げていた。 お訪ねした家は、中国山脈の中腹に長い白塀を連ねた、お城のような豪邸だった。 ここも何か事情があった家だろう。昔大連で、母とお訪ねした家がある。そこでグランドピアノを前にして、私が一本指で童謡を弾いたのをよく覚えている。そこは、多分瀬川さんの一族の何方かが、大連に住んでいた家だったと思う。瀬川家は祖母の母(私の曾祖母)の実家だった。 「昔ご先祖がご迷惑をおかけしたようで・・・」と、実は何も知らない私が、鎌を掛けるようにご挨拶したら、「済んだことです」と詳しくは何も語って下さらなかったが、否定もしなかった。やはりこちらにも、昔お世話になっているのだ。 祖母方の親類縁者が、祖父と親類の縁を切ったのは、決して皆さんが山本家に冷淡だったのではない。むしろ逆だ。昔祖母が「相場には手を出されんで」「借銭(しゃくせん)はせられんで」「兄(あに)さんには足を向けて寝られん」と、いつも言っていたのが、全てを物語っている。 祖父は、米の先物取引に手を出して失敗した。最初は軽い気持ちで手をだしたのだが、少し儲けもして面白くなった。祖父は金儲けより、身代を増やして親族一同の賞賛が欲しかった。 大正七年米相場は、米騒動を挟み上下に大きく変動していた。祖父は売り買いどちらに回っても裏目に出た。損を取り戻そうと、大きく張れば張るほど、借金は雪だるまで増え、それが高利を生み、もがけばもがくほど、あっという間に泥沼に陥った。年末の総決算は、山本家を押しつぶした。 二十町歩の田畑と、二百町歩の山林。それに広大な宅地の全てを手放しても足らない負債の総額は、今の金にして幾らだろう。連帯保証人になっていた祖母の兄も、一度に全ては払いきれなかった。 それでも、後始末をなんとかしてくれ、その後も祖父一家の生活の面倒をみてくれたのは、祖母の長兄を始めとする祖母方の親類一族である。 我が家の過去帳に、祖父の弟が没年不詳のまま、ある日を命日とみなされて記載されている。彼はまた、除籍謄本に失踪人として記載されている。その日にちは、命日と必ずしも符合しない。真相は入り組んで、不明なのだ。 ハワイで、他殺体として発見された彼は、我が家の暗い歴史の中で闇の中に閉ざされているが、山本家の没落と深い関係があることだけは間違いないだろう。 祖父に対するその道の人達の取り立ては、過酷だった。祖父の弟への酷い仕打ちは、過激な言葉が、只の脅しで無いことを示す見せしめだった。縁を切らないと、祖父一家は生命すら危険だったのだ。中田家は、まず山本家と縁を切り、一定の距離を保つ中で、祖父一家を安全な場所に逃がした。 当時ハワイには、広島県人が多く行っていた。我が家の親類、祖母の妹二人の一家もハワイで一旗揚げていた。しかし日本はおろか、ハワイにも祖父の逃げ場は無かった。 祖父一家が満洲へ夜逃げをしたのは、前後の事情から見て大正7年末だと思う。一家には、一刻の余裕も無かった。 当時瀬川家の長男が、大連で貿易会社を営んでいた。追い詰められた祖父は、満洲しか逃げ場がなかった。まさか、日露戦争で、命がけで戦った大陸で、再び別の事情で命を賭け彷徨うことになろうとは、思いもよらなかった。 _ 夜逃げ _ まず逃げ込んだのが、瀬川さんのご家族を頼って大連。しかし、ここも安全ではなかった。脅迫状はここにも来ていた。日本人の居るところに安全はなかった。 次に祖父一家が逃げたのは、瀬川さんの口利きで、遼寧省の地方都市開原である。 開原は奉天(現瀋陽)の北百キロにある、古くは一千年前、金の時代の商工業都市として栄えた所。 今は、地場産業はニンニクだけという、田舎の人口十五万程の農村都市である。祖父が行った当時は、古い城郭に囲まれていたが、今はそれも無い。 当時城内の人口はせいぜい、数千人程度。日本人は居たとしても、ほんの僅か。 祖父は衛生兵の経験があるということで、診療所みたいな所を世話して貰ったが、衛生兵の経験は包帯巻き程度。言葉もままならない中で、一家の生活は困窮を極めた。 ある日、あばら屋に風が吹き込んだ。仏壇なんか無いが、祖父が窓辺に棚を作り、親鸞聖人の座像を置いていた。お供え物を狙って野鼠が侵入した。お聖人の鼻が野鼠にかじられていた。 風に吹かれてか、野鼠が悪さをしたのか、仏壇に立てていた蝋燭が倒されて、座像の前に置いていた仏教聖典に燃え移り、燃え上がった。 危うく小火になるところを、祖母は必死で叩き消し、そこに、ヘたりこんだ。 やっと起き上がった祖母が、幼い父を背負い、父の兄と姉の手を引いて向かった先は、開原駅前の居酒屋である。 そこには、あまり酒の強くない祖父が、火が付くほど強い中国酒を前にして、蹲るように独り座っていた。 いつまでも帰らない祖父を前にして、祖母と幼い子三人は、いつまでも佇んでいた。 その後一家の生活費は、祖母の長兄から、大連の瀬川家の人へ送金され、それを中国人の使用人が、列車に乗り祖母の所まで届けてくれていた。額は一家が暮らして行くには、十分あった。その上子供達の三人の学資も十分にあった。 父の兄は、奉天の中学、姉は奉天の女学校に進学する。父はその後大連に移り住んだ祖父母と共に大連商業学校に進学する。 そのとき、兄は中学を卒業し台湾の台南市で警察官として奉職していた。 父の姉も女学校を卒業し、本願寺派の僧侶の人と交際していた。その人は派遣僧として、満洲に来ていて、後に二人は結婚する。 祖父に定職は無かったが、器用さを生かして大工の手伝いなどをしていた。 父の通っていた大連商業の校舎は、今も健在である。現在は、第三十六中学になっている。 父は学業も優秀。成績はいつも学年でトップだった。特に算盤が得意で六桁の数字の暗算も出来た。英語は元々好きだった。 日本の没落のときのトラブルも、祖母の兄さん達の努力で、一家の命の危険は去っていた。 山本家は、遠い異国でやっと春を迎えようとしていた。 _ あざなえる鞭 _ 満洲の冬は長い。そして春は短い。灼熱の夏。短い秋の後にすぐ来る冬。冬と夏しかないような大陸性気候。 大正14年、長い冬が終わり、名ばかりの春、春節が過ぎたある日、敬一が死んだ。 享年五十才。人生五十年の当時としては、夭折とは言わないが、それでも敬一の後年、春の無い人生は、長いとは言えなかった。 「わしもそろそろ五十じゃ、生きててもつまらん」 「何を言うとる。日本に帰らんとつまらん」 「日本に帰ってもつまらん。家も無い」 初老を目前にして、祖父母二人は、いつも同じ言葉を繰り返していた。 祖父が、風邪をこじらせて高熱を出して入院した。急性肺炎である。 病床で、祖父が祖母に頼んだ。 「端切れを、余計買ってきてくれ」 「何にするんの?」 「縄をなう」 祖父の日頃の趣味を知っている祖母は、色とりどりの端切れを、どっさり買ってきた。 祖父はそれを撚り合わせて、何本かの縄をなった。 その内の一本、太さ直径二センチ、長さ一メートル五十程の三原色で撚り合わされた物は、特に気に入って「これは我が生涯最高の傑作だ」と言いながら、その縄を何回も掌の中で丸めたり伸ばしたりしていた。 その頃祖父と祖母は、いつもの祖父の「生きててもつまらん」から始まる会話の後に「わしは、もう死にたい」という言葉が加わっていた。 人が「死にたい」という言葉は、その人が「生きたい」という強い願望の、魂から絞り出された裏メッセージである。 祖父は安芸門徒だったが、地獄極楽を信じていなかった。 死んだら何も無い。地獄も極楽もこの世に有る。そしてここが地獄だと思っていた。 死は何も無い世界。だから恐ろしくもない。 死そのものを、祖父は怖れていなかった。 衛生兵として、数多くの死と向き合い、戦場で朝元気だった戦友が、次々に戦死をするのを見て、「朝(あした)に紅顔ありて、夕(ゆうべ)に白骨となる身」人の世の無常を身近に体験していた。 しかし、悟りの境地で全てを達観していたわけではない。やはり、死の瞬間という未知の世界が恐ろしかった。 祖父は迷っていた。首吊りは嫌だった。 ぶら下がったその瞬間、もし止めたいと思ったら・・・。それは想像するだけでも恐ろしかった。 飛び降りも服毒も、死ぬ前の一瞬の迷いが恐ろしかった。 祖父の迷いは、甘えた自殺願望と、異国の苦しい生活の中で生きたいという強い気持ちの谷間で、揺れ動いていた。 周囲が寝静まった丑三つ時、病床で編んだ「生涯最高の出来栄え」の美しい布縄の端に拳が通るほどの輪を作り、反対側をべッドの隅に括り付けた。 そしてその縄を首に巻き付け「これはいい」と思った。縄は祖父の掌の脂を含み、適度に滑らかだった。 それを首に巻き輪に腕を通し、軽く引っ張ると軽く首が締まった。「これはいい」と、もう一度思った。後一息締めたら死ねるはずだ。迷って嫌なら自分で自分の手を放せばよい。 密かな楽しみ「自殺ごっこ」を覚えたある日、また高熱が出た。 高熱にうなされる中で、迦陵頻伽の鳥の声がした。庭の小鳥の声である。消毒液の匂いが蓮の台の回りに甘く漂い、お釈迦様の横で、ハワイで死んだ弟が手招きしている。 その日の自殺ごっこは、幻聴と幻覚の中で、最後の一息に力が入った。輪に通された腕に祖父が自分の体重を掛けた。 次の瞬間祖父の魂は、彼岸を越えていた。迷う間も無かった。 そして向こう岸から、首に縄を巻いてベッドに横たわる自分を眺めていた。 「余程のお覚悟だったのですね」と臨終を宣告した主治医が言ったが、祖父の死に顔は、自分の手で自分の首を絞めるという、壮絶な死に方にそぐわない穏やかな、眠るような笑顔だった。それは、遊びの中に死んだ人の顔だった。 亡骸には「なんでや!」「なんでや!」と、何が起こったか納得がいかない祖母が、いつまでも取りすがっていた。 迎春花の咲く雪解けのぬかるむ道を、祖父の棺は運ばれた。 遠く渤海湾に沈む夕陽、それは日露の戦いの中で多くの戦友が眺めながら息を引き取った最後の眺めだった。 我が家に一瞬訪れたかと思われた、見かけの春は、あまりにも短かった。 「禍福はあざなえる縄の如し」というが、山本家を襲った運命は、福の無い禍だけの縄だった。祖父の編んだ端切れの縄は、鞭となって山本家の人達を苛なみ、又厳しい冬へ引き戻した。 祖父の没後四年、昭和4年の秋、続いて父の姉ゆりえが死んだ。 恋仲の本願寺派の派遣僧は、いつも法話の後に大谷光瑞のシルクロード探検を語っていた。二人はここに、金の鞍、銀の鞍を並べる夢を見ていた。 満20才結婚。新婚僅か二年、享年二十三才で夭折する。コレラだった。隔離病棟の病床に残された大谷光瑞全集の中の、特にゆりえが大事にしていたシルクロードを書いた一巻は、祖母への形見になった。 愛する夫を思いがけない事で亡くし、また一番頼りにして良き話相手でもあった、しっかり者の娘をあっと言う間に亡くし、祖母は三日三晩泣きもだえた。 戻り冬は、更に厳しかった。翌昭和5年、台湾の台南で警察官をしていた父の兄が、急逝する。 台湾の近世の歴史は、オランダとイギリスの植民地を経て、今また日本の植民地となっていた。日本の同化を柱とした植民地政策は、これまでも植民地として厳しい生き方を強いられてきた台湾の人達に、まあまあ受け入れられていた。 岡山、松山、仁徳など日本の統治時代の地名がそのまま残っている。「嘉義農林」は日本人の指導者の下、甲子園の強豪校として日本でも人気があった。 日本の統治時代を、ある台湾の友人が「思い出は美しい」と、微妙な言葉で表現したことがある。 日本人に同化したということは、その後の大戦で日本人として死んだと言うことだ。軍人軍属として二十万人強の人が参戦し、三万人の方が亡くなった。 父の兄も、日本人に好意的な人達の中で勤務し、仕事は楽しかったが、風土病が厳しかった。除籍謄本では、亡くなる一年前に同郷の女性と結婚している。 病気は、チブスだった。父の兄にも春は無かった。 打ちひしがれた祖母は、もう流す涙も無かった。 祖母は、只一人残された父を「あんたは絶対に放さん」と強く抱き締めた。 _ 溥儀の子誕生 _ そんな我が家に、少しだけ暖かい風が吹いた。大連商業を卒業して満鉄(南満洲鉄道株式会社)に入社したばかりの父に、満鉄の委託研修生として、日本留学の話が舞い込んだのである。行き先は「長崎高等商業専門学校」(現長崎大学経済学部)。 当時の父を知る人の話によると、父のあだ名は「秀才」だった。そしていつも母親が影のように寄り添っている姿は、今で言うマザコン。かなり目立つ存在だったらしい。 後に母となる人の実家、小島家は長崎高商の正門すぐ近くだった。 母は女四人男三人の七人兄弟の長女。ミッションスクールを卒業したばかりの才媛。母方の祖父は長崎造船三菱工場の設計技師。後にここで戦艦武蔵を造ったときの偽装課長もする。定年後は、海難審判庁の判事もしたインテリだった。 長崎は坂の街。父と祖母が下宿したのは、道路に近い母の実家から少し登った、山腹にあった。 狭い坂道で、いつも挨拶する仲睦まじい親子連れのことは、小島家でも話題になっていた。 「立派なご子息ですね」いつもの坂道で小島の祖父は、いつもの親子連れに挨拶をした。 更に、軽く会釈を返す二人に向かって「一度お茶でも飲みに如何ですか?」と誘った。 小島家は、豪邸では無かったが、七人の子供と併せて九人の大家族が暮らすに必要な空間を持つ家は、それなりの規模があった。 当時長崎造船所では、戦艦霧島を始め、数々の軍艦を造っていた。祖父はエンジニアだったが、海軍さんの接待係も大事な仕事だった。 海軍さんは、皆遠洋航海で世界の港を知っていた。彼等は軍人だったが、当時の日本で、数少ない世界を知る文化人でもあった。祖父も、当時としては珍しいコーヒーを、自宅でドリップして飲んでいた。 やがて、父は一人で遊びに来るようになった。母は十八才。自宅で花嫁修業中だった。 母が入れるコーヒーをご馳走になりながら、文学青年だった父は、満洲の風物を面白おかしく母に語って聞かせた。蓄音機を聴きながら、歌謡曲も歌った。 秀才青年は、母に一目惚れした。そして彼女の心も掴んだ。 小島の祖母は、母と十七才しか違わなかった。祖母は、妹のような我が子の恋心にも、すぐ理解を示した。 父が来た日は、姉のような母はさりげなく家を留守にして、二人の逢う瀬の場を作った。若い二人は、健康だった。 付き合って翌年、昭和9年11月結婚。母のお腹には、目立たないように、岩田帯が結ばれていた。 翌昭和10年(1935年)5月。長男が誕生。ここから、私の歴史が、この物語に加わる。 その三年前、昭和7年(1932年)旧満州国建国。昭和9年(1934年)満州国皇帝溥儀が即位。 そのとき、生涯を満州国に捧げる決意をしていた父は、わが子に「獻」と命名した。 我が子を、満州国皇帝溥儀に献上するという意味である。 父は「獻」と書いて「ささぐ」と読ませたかったのだが、小島の祖父の「けん」と素直に読ませる方が良いという意見が通って、「けんちゃん」が生まれた。 しかし、この名前が山本家を更に不幸にし、私の運命を決定的に大陸に縛り付け、大陸を放浪させることになろうとは、そのときは誰も夢にも思わなかった。 俗に「母一人子一人に嫁やるな」と言う。一人息子への母の盲愛が、嫁を苦しめるという意味である。 資産家の深窓の令女として育った祖母は、はしたない声を上げて、嫁をいびるような女性ではなかった。むしろ表面は穏やかに母に接する祖母を見て、周囲も父も安心した。 母は賢母だったが、必ずしも良妻ではなかった。 祖母は、食事のときの食卓を銘々別にした。 父の箱膳の横に祖母がお相伴と称して座り、父の茶碗には、祖母が自分の手でご飯を盛り、母は父の食事が終わってから、お下がりを一人で食べることが許された。 祖母は「これが山本家の作法だ」と言って、母が食事の団欒に加わることを許さなかったのである。祖母の嫁いびりは陰湿だった。 最初はこれに素直に従っていた母だが、大家族の団欒の中で育った母は、すぐそれに従わなくなっていた。父もそれを支持するのを見て、祖母は何も言わなかったが、内心の不満は大きかった。 _ 柔らかい棘 _ 当時奉天(現瀋陽)に居た一家は、丁度父が大連に用事が出来たついでに、新婚旅行を兼ねて一家で大連に行くことになった。 大連には、お世話になった瀬川家の縁者も居る。当然のように祖母も同行することになった。私は勿論一緒。この新婚旅行は、こぶ付き、大こぶ付きの、およそ新婚旅行とは言えないものになった。 その日、父は大連商業の旧師旧友と会い、夜は皆と会食することになっていた。 ホテルの部屋には、祖母と母、それに私の三人だけだった。 首もしっかり座り、誰を見てもにこにこ笑う私を母があやしていた。祖母も「やれ可愛いのう」と言った後、続けて母に向かい、笑いながら「これは誰の子の?」と、あっけらかんと問いかけた。 母は一瞬、何を言われたのか分からなかった。 そして、父が溥儀に献上するという意味で「獻」と名付けたことを思い出し「溥儀の子」と言いかけて、はっと口をつぐんだ。祖母は「不義の子」と言わそうとしたのだ。 更に「月足らずにしては、よう丸々肥えてるのう」と追い打ちが来た。 父と母は、今で言う出来婚だった。当時農村では、足入れと言って婚礼前の女性が夫となる人の家に泊まること、又はその逆もあったが、婚前交渉は不義密通とまでは言わなくても、道徳的に「ふしだら」と後ろ指をされることだった。 その母の気持ちの負い目の襞に、祖母は鋭く切り込んだ。祖母の柔らかい言葉には、言われた人にしか分からない鋭い棘と猛烈な毒があった。 母は前後の見境もなく、私を抱いて宿舎の大和ホテルから近い大連埠頭に向かった。 元々新婚旅行で来たのだ。旅支度は出来て居る。ボストンバッグ一つで十分だ。 当時大連長崎には、定期航路があり、「淡路丸」という一本煙突の客船と、その姉妹船と合わせて4隻が就航していた。その日は丁度、定期便が有った。長崎は、満洲から隣町だったのである。 その晩父は、泥酔してホテルに帰ってきた。明くる朝、母と私が居ない。机の上の母の置き手紙「日本に帰ります。お元気で」という簡単な走り書きを見ても、なんのことやら意味が分からなかった。 祖母に尋ねても「わしゃなんも知らん。あれが勝手に出て行った」としか言わない。 当時異国との意思疎通は、それほど簡単ではなかった。 しかしなにはともあれ、父は自分になんの相談もなく勝手に帰った母を赦せなかった。 互いが互いを赦せないまま、離婚話はとんとん拍子で進んだ。 母が日本に逃げ帰ったのが、いつか? 私が満一才の誕生日、母の実家小島家の座敷で一人座って写った記念写真がある。 これから見て、逃げ帰ったのは、少なくとも私の誕生日前、誕生日の時は、もう母は私の側に居なかった。 華やかな結婚式を挙げて貰って、一年足らずで、子連れで逃げ帰ってきた母は、居場所がなかった。 母は、ミッションスクールの時の教師の紹介で、修道院に入る。私は乳母をつけられて、小島家の祖父母を、父母と呼んで育った。 母は、その後結核サナトリウムで奉仕作業をしていて、結核に感染した。後にこの病が母の命取りになる。 離婚が成立した後、父は真相を知って愕然とする。マザコン息子は、初めて母に手を上げた。 祖母の顔は、内出血の痣で真っ黒になった。しかし「覆水盆に返らず」 父にとって母は、元々が恋女房である。父は全面的に母に謝罪したが、一瞬でこじれた関係は、戻すのに三年かかった。 昭和 9年 11月結婚 昭和10年 5月私が誕生 昭和11年 9月離婚 昭和14年 1月再婚 慌ただしくそして重たい三年が過ぎ、最悪の状態から回復の兆しが少しずつ芽生えていた。 母方が出した復縁の条件は、祖母の別居だった。それは祖母の妹が祖母を引き取ることで話しがついた。 母の一番下の弟は、私と三才しか違わなかった。大家族の末っ子として、私は甘えるだけ甘えて、幼年期を過ごしていた。 _ 本当の父 _ 母方の小島家の祖父を、「大きいお父さん」と呼んで育った私は、「本当のお父さんに会うよ」と言われて、小島の祖母と母と三人で新京(現長春)へ来た。 子供心に、本当のお父さんに会えるということは浮き立つことだった。 新京の官舎で復縁の二人が再会の場は、小島の祖母は席を外し、父と母、それに私の三人だけの水入らずだった。 物心ついて始めて父に会ったとき、私はまだ満4才になっていなかった。しかしそのときの記憶は、今も鮮明である。 父は書斎の黒檀の大きな机の前に座り、何故か背を向けていた。矢絣の着物を着た母が、敷居に三つ指を突き「只今帰りました」と頭を下げる。それは、私の浮き立った心に冷水を浴びせる固い光景だった。 父も母も再会の喜びより、三年の間に横たわった気持ちのわだかまりをどう処理していいのか、まだ戸惑っていたのだ。父二十九才母二十三才、二人は若かった。 本当のお父さんの頬ずりは、少し痛かった。 戸籍上の正式な復縁手続きも終わり、二人はもう、新たな誓いから逃れる道は無かった。 私は幼稚園に行った。新しい友達とは喧嘩もしたが仲良しも出来た。今でも顔と名前が一緒に、はっきり思い出せる子が三人いる。 翌年弟も出来た。紀元は二千六百年。「見よ東海の空開けて♪」の明るいメロディー。 児玉公園(現西公園)の夏祭りに、一家で行って金魚掬いをしたことなども、懐かしい思い出である。 私が幸せだったということは、家庭が幸せだったということだ。 「溥儀の子」が原因で分かれた二人だが、「子は三界の首枷」「子は鎹」とも言う。私はまた、二人の仲も取り持った。 建国したばかりの満州国は、人材を求めていた。父はそのとき「大同学院」七期を卒業していた。大同学院は、原則大学、高専の卒業者を、満州国官吏として養成する機関である。 第一期生は、応募者二千人の中で五十七名合格という狭き門だった。 歴代の卒業生の中には、後の韓国大統領になった崔圭夏氏も居る。 試験は、口頭試問のみ。堅固な思想と、高い理念が求められていた。 試験は時に死生観まで含み、宗門の宗教論争のような形で行われた。 求められた思想堅固、それは反共思想である。求められた理念は何だったか。一口に言って「王道楽土」の建設である。 満州国とは何か。それは日本から見て反共の砦であり、五族「日、韓、満、蒙、漢」協和して、国家社会主義とも言うべき、理想国家の建国だった。 選抜基準は勿論部外秘の内部規定だが、その中の一項目に「多血質より胆汁質の者」というのがあった。アジテータより、オルガナイザー。実務能力が求められていたのである。 父はその全てを満たし、それに語学能力も買われて、満洲国官吏登竜の狭き門をくぐる。 卒業後「地籍整理局」後の「地政総局」に配属され、地籍整理事業に従事する。 地籍整理は、広大な満洲大地を航空写真に摂り、その上に手書きの一区画毎に、境界、地目、地積、所有者を調査して記入するという、気が遠くなるような、膨大で地味な作業の積み重ねである。しかしこれは、全ての行政の基礎となる貴重な資料作りだった。 大同学院で、拳銃の携行の是非について議論されたことがあった。結論は出なかったが、父は不携行派だった。 「殺されても殺すな」は、大同学院で学ぶ、牧民官の信条である。実際問題として、本当に襲われたら拳銃で身を守れるか?それよりは、襲われないように、緊張を作らない知恵と、摩擦を生まない用心が肝要だった。 地籍整理の現場は、匪賊の出没する辺境の地が殆どだった。そんな場所だからこそ、地籍整理の必要があったのだ。 父は身に寸鉄を帯びず、任務を遂行した。幼いときから、この地で暮らし、中国語も堪能だった父には、それが自然体だったのかもしれない。 昭和15年、父三十一才。副参事に任官。熱河省承徳市の地政課長として栄転する。 副参事は時に市長代理として、小学校の祝典で祝辞を述べることもある、ちょっとした地方の名士である。 そんな時、カーキ色の軍服に似た協和服の胸に略章を付け、サーベル長靴姿の父は、凜々しかった。 母はまだ発病していなかった。熱河の写真はいつも家族一緒。郊外を流れる武烈河の河原で父と私が相撲をとっている。横で母と弟がパラソルの中に座っている。 一度父に連れられて、郊外のある農家に行ったことがある。門外から「看狗!」(犬を繋いでくれ)と、大声で言ってから入ったのが、今も新鮮な感覚として覚えている。 これも中国の正式な習慣だそうで、主人は、客の私達の顔をみてから、料理をする。その間私達は、西瓜の種やひまわりの種をかじりながら雑談をする。煙草を吸う人は煙草を吸う。 一説によると、客の面前で料理するのは、「毒は入っていません」と、客に見せる為とか。 別の説によると、例え約束していても、約束通り来られるかどうか分からない。だから料理が無駄にならないように、客の顔を見てから作るのだそうだ。実際は、会食は食べること自体より交際が目的なのだから、料理を作る時間は、その交際時間作りにもなっていた。 中国料理は、一品ずつ料理が運ばれる。その一品の中に、白いご飯だけ出されたのには、戸惑った。おかずが無い。 実は、白いご飯はそれだけで高級料理だったのだ。当時の中国人は、お米を持っているだけで、経済犯として捕らえられた。お米は統制経済で、日本人でも配給制だった。 宴席の最後に子供が出てくる。その子供にお小遣いを上げる形で、料理の代金を支払うのも大事な習慣だった。 子供の居ない家庭では、近所の子供を借りて来るそうだ。こういう実際の習慣を、父は丁寧に実地で教えてくれた。 航空写真撮影の飛行機に、同乗させて貰ったこともあった。 何を思ったのか、父と二人でキャバレーに連れて行って貰ったことがある。 当時も、こんな僻地でかなりの日本人女性が、女給として働いていた。そこで幼い私は、彼女達のマスコットだった。 何事も経験。父は、全て実地教育派だった。 熱河省の省都は承徳。清朝の夏の離宮が置かれた北京からも近い観光地である。 承徳の思い出は全て甘い。母の短い人生の中で、僅かに幸せな時間だった。 _ 偽満 _ 我が家の甘い思い出はともかく、熱河省は最後まで治安騒然としていた。場所的に今は河北省に組み入れられている元熱河省は、隣接する河北の蒋介石の国民党軍、毛沢東の共産党軍の支援を受けた匪賊に脅かされていた。 捕らえられた匪賊も「お前達は俺達を匪賊呼ばりするが、どちらが匪賊だ。ここは俺達の土地だ。言うことは言った。さあさっさと首を刎ねろ」と言い放つ筋金入りだった。 宣撫工作が終わったとされる地域も、壁に大きく描かれた日の丸に水をかけて洗い流すと、下から国民党の青天旭日旗が現れた。 社宅の前の道を、駱駝の隊商が通るのも珍しくなかった。ここは遠く北の蒙古砂漠に連なる僻地なのだ。社宅には、蠍の入った瓶詰めが置かれていた。前の住人が、厳しい自然環境へ注意喚起の為に置いてくれた物だ。 それと、熱河は阿片の原料芥子の産地である。阿片は当時も禁止されていたが、裏社会で莫大な利益を生む産業として秘密里に存在した。 阿片はまた、モルヒネの原料として貴重であり、一部で芥子の栽培が容認され、満洲国の裏で活躍する右翼系日本人の財源にもなっていた。それがまた、この地の政情不穏を複雑にしていた。 麻薬勢力は、どの政権の支配下にも属さない隠然たる独自の武力を持っていた。彼等はときに日本軍に協力し、すぐ寝返った。 匪賊討伐の日本軍は、残酷だった。しばしば農民匪賊の見境なく殺戮した。 見分けがつかなかったのである。便衣隊と呼ばれたゲリラは、農民の身形のまま銃を取っていたから。 今でも、毎日中国の何処かのチャンネルで流されている抗日ドラマの中の「鬼子」は、実在した。 生前、満洲の侵略をなかなか認めなかった父も「酷いことをしたからな」と、この事実は事実として認めていた。 父の回顧の中には、こんなのもあった。 当時の部下の中国人は、少しくらい無理な命令にも、「仕方ありません、現在は満州国ですから」と、唯々諾々と従った。 「現在は」と言うところが耳障りだった父は、「現在はではない。満州国は未来永劫だ!」と説教したが、満洲国は未来永劫どころか、僅か13年半で消滅した。 満洲国国歌の中の一節に「頂天立地無苦無憂、造成我國家」というのがある。 素直に読めば(苦労も憂いも無い我が国家が造られた)だが、実はこの歌詞には、作者である関東軍も一目置く硬骨漢、当時の国務大臣鄭孝胥の怨念が込められていた。 「造成」は日本語では宅地造成など良い意味で使われるが、中国語では、望まない事が起こったときに使われる動詞である。正しくは「建立我国家」と書かれるべきだ。 凄いなと思うのは、この恨み節の真意も意図的な間違いも、当時の中国人官僚は皆知って居たはずだ。それを誰一人日本人に教えていない。 漢字の国中国では、こんなことがよくある。例えば「南京陥落」。中国人は、「南京没落」と書いて提灯行列に参加した。この場合没落の「没」は否定語。南京はまだ落ちていないと反骨精神をこの文字に籠めていた。 中国通をもって自認する父も、「造成」に含まれた意図は知らなかったのではないか。しかし「現在は」という言葉の背後にある「今に見ていろ」という反骨の精神は、薄々感じていた。 面従腹背こそ、武力で制圧されながら、文化で征服者を包み込んできた中国人の真骨頂である。広い大陸の長い歴史は、全てを、侵略者さえも包み込んだ。 今中国では、「満洲」という言葉は使わない。「偽満」と言う。傀儡国家満洲の存在その物を、認めていないのだ。 父は、中国を肌で学んでいた。しかし時局は、父の学習速度を遥かに超えて急速に動いていた。 1931年9月18日 瀋陽郊外柳条湖で、日本で言うところの満州事変勃発。日本の中国侵略が始まったこの日を、中国では「国恥日」と呼ぶ。 1932年3月1日 満洲国建国。 1932年3月 リットン調査団が満洲に派遣される。 1933年3月 国際連盟脱退。 全十章からなるリットン調査報告書は清の没落から説き起こし、満洲のこれまでの発展は日本の寄与によるところが大きいと、日本の満洲における権益を認めていた。しかし満州事変は日本の正当防衛と認めず、満洲国も自発的な建国ではない、と独立国家として認めていなかった。具体的な解決方法として特別憲兵隊を組織し、外国部隊は全部撤退し行政長官は外国人顧問を任命しその大部分は日本人とする。となっていた。 ソ連の権益もはっきりと認めていた。張学良の武力を背景に葫蘆島などに進出していた米国資本の存在も否定していなかった。悪く言えば玉虫色、良く言えば良識的穏健なこの調査報告に基づく提案は、「公正かつ適当」と、国際連盟で日本以外の全ての国に支持された。 今冷静に見れば日本も名を捨てて実を取れば十分に飲める案だったが、「満洲国の主権を認めない」という一点が譲れず、日本は国際連盟を脱退した。調査報告の採決は42対1。以来日本は国際的に孤立の道を歩む。溥儀の子誕生の舞台はここに出来た。 _ 大東亜戦争開戦 _ 昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発の大本営発表は、承徳で聞いた。 大東亜戦争とは何だったのか。「大東亜共栄圏の建設」アジアを舞台にした共通の経済圏の構築。その限りにおいてはEUの舞台をアジアにしただけで理念は殆ど同じである。 どこが違うか。大東亜戦争の遂行理念に「八紘一宇」というスローガンがあった。八紘一宇とは、一口で言って天皇の御稜威を広めることである。 ここには常に「皇軍」天皇の軍隊がいた。大東亜共栄圏の構築は武力を背景にしていた。アジアには既に西欧列強が植民地を形成し、ここに新たな経済圏を作るということは既成勢力を追い出すことだったから。それを聖戦と呼んだ。 聖戦を戦っている限り皇軍は強かった。アジアの片隅の小国が、開戦初頭ハワイ、マレー沖、シンガポールと西洋の強国を次々に打ち負かした。そして「西洋列強の東亜侵略百年の野望を打ち砕いた」。聖戦がアジアの幾つかの国を、列強からの解放と独立に寄与し たことも事実である。 中国から見れば日本は、十九世紀から二十世紀にかけて中国を「瓜分」してきた国の一つに過ぎなかった。「瓜分」とは、文字通り瓜を分けること。それは広い中国に勝手に入ってきて、お互いに好きなように分捕り合いすること。日本はその中で満洲という一番大きい瓜を手にした。時の日本政府は、日中戦争不拡大方針を打ち出したが、中国はその瓜「満洲」を手放さない限り、盗り逃げは許してくれなかった。 結局大日本帝国は、片足を中国大陸の泥沼に入れたまま、米英の強国と戦うことになる。そこに、独ソ戦線に勝利したソ連が加わり、あっという間に大日本帝国は崩壊し、本来の日本「小日本」になった。 ソ連の参戦を、不可侵条約の一方的破棄と非難するのは難しい。そもそも日本が北進論を採らず南進したのは、ソ連との不可侵条約を守るという道義的関係を重視したと言うより、日本の戦略的方針による事が大きい。資源の無い日本はまず南の石油が必要だった。 関特演(関東軍特別演習)は独ソ戦線に後方から圧力を掛けていた。それ以上深入りしなかったのは、それ以上戦線を拡大する力がなかったからに過ぎない。 あらゆる戦争に、道義も正義もないと思う。 天皇の軍隊は、強かったが人民の軍隊に勝てなかった。日本が列強にとって代わろうとする日中戦争には大義名分が無かったからである。日本は結局列強にも負けた。 「満洲は侵略では無い」という人達の意見は、大別して二つある。 一、当時侵略は先進国と言われる全ての国が行っていた。 二、満洲で日本は中国に貢献したことも多い。 確かに産業の振興、民政の安定、教育の普及、治安の維持、など良い事も行った。私は二つとも否定しない。 ただ侵略とは他国の主権を武力で侵害することである。満州事変の武力行使が正当防衛でないと否定され、満洲国に主権が存在しない、即ち中国の主権侵害であると国際的に断罪されたとき、日本の立場は苦しくなった。 満洲に対する国際連盟によるリットン調査団の派遣と、その調査報告に基づく提案の内容概略については、既に前項で述べた。 「溥儀の子けんちゃん」としては、「確かに私は貴女と略奪結婚しましたが、貴女を幸せにしますからお許しください」と日本政府に言って欲しかった気もするが、もしそう言っていたら、別の歴史があった。ということは、溥儀の子は生まれていないし、この物語も無い。 ― 撫順生活 ― 翌昭和17年春、父は撫順へ転勤する。 戦局は、軍艦マーチで始まる輝かしい戦果発表の最後に「我が方の損害軽微なり」の決まり文句で終わる間は良かったが、その大本営発表が、軍艦マーチに続いて「海逝かば」の調べが流され玉砕ニュースが放送されるようになったのは、いつからだったろうか。 昭和19年、本土も空襲を受けるようになり、内地も危ないということで、広島の祖母を、父が引き取る事になった。 時を同じくして、母の肺結核が発病。母の看病と、私と弟の世話をするため、母の末の妹が長崎から来てくれていた。 「おばあちゃん」と、弾んだ心と声で玄関に出迎えた私に対する祖母の第一声は、「この子は何処の子の?」だった。 生まれてから九才まで、会っていないのだから、祖母が私を認識出来ないのは当然だったかもしれない。しかしその口調には、あの生まれて間もない私を抱く母に対して「その子は誰の子」と言ったときの棘が残っていた。 祖母にとって、父の愛情の対象となる人間は誰であれ、孫すらライバルだったのだ。 ある日私は、祖母が奇妙な行動、丼に蓋をしたご飯を布団の中に隠しているのを見つけた。 祖母は、祖母の言うところの山本家の作法、父と二人だけの食事に執着していた。 それを母に告げ口した私は、完全に祖母の敵になった。 母も祖母も、父の前では何も言わなかったから、我が家は表面上一見平穏だった。 母は病の中で、妹も生まれていた。 父は、琴と三味線を買ってきた。それで父は祖母から「六段」を習い、祖母は三味線で、「黒髪」を弾きながら、黒髪の中の唄を「妻じゃと、言うて~♪」と、渋い喉で聞かせていた。 祖母にとっては、久し振りの愛しの我が子との二人だけの水入らずの幸せな時間だった。一方母の病は、益々重くなっていた。 戦局も末期症状を呈していた。しかし庶民はその真実を知るよしもない。8月9日ソ連参戦は、満洲に住む日本人を直撃した。 _ 敗戦 _ 昭和20年8月15日、敗戦の玉音放送は、撫順(中国遼寧省撫順市)で聞いた。 灯火管制が解けて、夜空一杯の光。戦勝を祝う中国人の打ち鳴らす爆竹。 僅か十才になったばかりの、ガキが「これで「天皇陛下万歳と叫んで死ななくて済む」と、本当にそう思ったのである。 「平和」という言葉さえ知らなかった平和が、訪れた瞬間である。 一方で、「男はみんな鼻輪を通されて奴隷に、女は皆中国人の妾にされる」という不穏な噂もあったが、十万人の日本人が暮らし、満鉄の自治組織も機能していた撫順は、敗戦後の満洲の中で最も治安が保たれていた都市の一つだった。 玉音放送の後のある暑い日、私は裏の渾河で水遊びをしていて溺れた。そのとき、橋の上からそれを見つけて危険も顧みず着の身着のまま跳び込んで、私を助けてくれたのは中国人だった。「クビ持て!クビ持て!」の独特の日本語は、彼が私を日本人の子供と知っての善行だった。今でも感謝する忘れられないことだ。もしこの幸運が無かったら、この物語は無い。 敗戦後住んでいた、東一条通り(現東一路)の裏は、朝鮮人が多く住んでいた。 五才違いの私の弟は、金髪ではないが、少し髪の毛の色が薄かった。それがなんとも言えない可愛らしさを醸していた。 ある日、弟が数人の朝鮮人の子供に「チェンネビー、チェンネビーと囃されながら、取り囲まれていた。てっきり苛められていると思った私が、頭からその群れの中に飛び込み、二、三人倒したそのときだった。群れのリーダー格の少年が、皆を制して私を手招きした。 連れて行かれた先は、誰もいない路地裏。ここでやられるのだなと、私が身構えたとき、少年が静かに言った。 「お前、チェンネビーの意味が分かるか?」 「???」私無言。 「チェンネビーは小猿という意味だ。お前の弟は可愛いから、皆で少し揶揄っていただけで苛めていたのではない。お前は勇敢な良い兄さんだ。仲良くしよう」と、右手を差し出した。 少なくとも、ここには「日本人と見たら殺せ」という雰囲気は無かった。 _ 実地学習 _ 私は敗戦直後、職を失った父に代わって露店で粟餅を売ったり、パンを仕入れてきて売ったりした。 それは私だけでない。職を失った親に代わって、何処の子供もやっていた。 画板のような板の四隅を紐で縛り首に吊して、その上に煙草を並べて売るスタイルもよく見た。 始めて粟餅を売ったとき、一円五十銭で仕入れて二円で売る餅がなかなか売れない。売れ残るのを心配した私は、一円で売ったらすぐ売り切れた。得意顔をしている私に、父があきれ顔で言った。「あのね、けんちゃん。商売は仕入れた値段より高く売るから儲かるのだよ。仕入れ値より安く売ったら損じゃない」私は、そうして商売を実地で覚えていた。 八円で仕入れて十円で売るパンは、一日に六十個を売って仲間内ではトップだった。 学校は無い。商売をしながら現金を扱う魅力の中で、私は更に盗みを覚えていた。 集合住宅の台所から、炊事道具を盗む。戸締まりをしていない玄関から履物を盗む。アパートの窓伝いに侵入して、めぼしい物を盗む。 私は少年窃盗団の頭のような役回りで、盗んだ物の売り捌きもしていた。道端には、泥棒市場が並んでいた。盗品はそこですぐ売れた。泥棒市場には、片足だけの靴すら並べられていた。 家庭の不用品を道端で売ったりもした。 「欲しがりません、勝つまでは」の戦争は終わったが、生活に関する物はマッチ一本不足していた。欠けた茶碗、折れた鉛筆、何でも売れた。 店開きの瞬間、何を持っているかの期待と、好奇心に溢れた人の群れが出来る。銘々が好きな物を手にして口々に値段を聞く。もたもたしていたら、どんどん勝手に持って行かれる。そのとき一人の男が、玩具の太鼓を持ち去ろうとした。それは私が小さいときから大事にしていた物だ。 私は、店をほったらかして男を追った。 「金は後で払う」と言う男にむしゃぶりついて、太鼓を取り戻した。 店番が居ても盗られるのだ。「誰も居ない店は、空っぽだろうな」と覚悟して戻ったら、なんと、何も無くなっていない。お互いがお互いを監視する形で、秩序が保たれていた。 店を開けた瞬間のあの混乱は、何だったのだ。群集心理という言葉は知らなかったが、私はそれを実地で学んでいた。 ある日、人品卑しからぬ初老の男性が、店の隅の一本の錆びた針金を手にして「幾らか?」と尋ねる。何故そんなところにそんな物があるのか。値のつけようもない物を前にして、私は「不要銭拿去!」(金は要らん持って行け)と叫んだ。次に男が手にしたのは、古い湯飲みだった。私は(三百)と値をつけた。男が(百)と値切り、(二百)で商談成立のはずだった。ところが男は黙って三百差し出した。ポカンとする私を尻目に立ち去る男の後ろ姿には、尊厳みたいなものがあった。これが面子なのだ。「金は要らん持って行け」と公衆の面前で乞食扱いをされたことに対して、男は値切らず鷹揚に買う事で面子を保ったのだ。これも実地学習だった。 いつも泥棒をしている私にとって、畑から唐黍や瓜を盗むくらいは泥棒のうちに入らなかった。あきらかに盗んで食べていると分かっても、現行犯でない限り、中国人は大目に見てくれた。 しかし現行犯で捕まったら容赦なかった。ビンタを食らうくらいは屁とも思わなかったが、小さな体にボディーブローは堪えた。ある日、血尿が出るくらい、睾丸を蹴り上げられたこともあった。 その後少年窃盗団の手下が捕まって、父は私がその頭だと知って驚いた。しかし父は一言も叱らず、大きな箱に一杯お菓子を買って来てくれた。私の盗癖も治った。 母は結核を患っていたのだが、薬も治療方法も無い中、病状は益々悪くなっていた。関東軍の払い下げの葡萄糖を、滋養強壮剤として静脈注射していたのだが医者は居ない。私が静脈注射をした。子供が一番大胆で器用だったから。 翌昭和21年2月の春節を過ぎたある日、春を越せないで母が永眠。享年三十一才。すぐその後、満二才になったばかりの妹が続く。母乳も離乳食も無い中私が、粟餅をかみ砕いて口移しで食べさせていたが、お腹を壊して餓鬼のように大きな目と大きな腹を膨らませて死んだ。 火葬場は一杯で、子供は棺桶も無く二人並べて焼かれた。それでも火葬場で火葬出来るだけましだったのだ。 敗戦後の撫順で、決して我が家だけ不幸だったわけではない。 撫順の小学校には、避難民と言われた辺境の地から逃れて来た人達が収容されていたが、飢えと寒さと疫病の中で、まさにばたばたと亡くなった。 防空壕に遺棄されていた人達が、翌年雪解けの3月9日四十台の馬車に積まれ、渾河の河原で荼毘に付され、遺骨は河に流された。その数二千数百体と、撫順市の正式な記録に残っている。その記録に残っていない人は、もっと多いはずだ。撫順だけでも数倍は居ただろう。 _ 抑留 _ 当時撫順は、東洋一の露天掘り炭鉱があり無煙炭という良質の石炭を大量に産出していた。他に油母頁岩(オイルシェール)から採る液化石油工業、セメント産業、製鉄業、機械製作所など多くの工業施設が、一大コンビナートを作り、満鉄(南満洲鉄道株式会社)の中核都市だった。 鉄道租借地も巨大で、そこに十万人の日本人が居住していた。鉄道租借地とは、本来鉄道運行の便を図る為の土地だが、日本は拡大解釈して満鉄の人達を住まわせ、巨大な治外法権地域を構成していた。 最初に入ってきたソ連は、その施設から多くの物を奪い、鉄道で本国に運び去ったが、その後に入って来た、共産党軍、国民党軍にとっては、今後の建国事業にとって重要なこれらの設備の維持管理の為にも、治安維持は重要だった。工業設備施設もだが、それを維持管理する技術者も、もっと重要だったからである。 中国側の支援の下に満鉄の人達が作った居留民会という、日本人で作った自治組織も機能し、その限りでは治安は良好だった。治安維持に力を入れたのは、共産党国民党どちらも同じだった。但し治安維持をしたのは、政権定着後である。戦闘下で行われる政権交代は、戦闘状態の中で一瞬無政府無警察のエアーポケット状態が生まれる。盗んでも殺してもそれを捕らえる人がいない。更に敗走する側が、意図的戦略的に撹乱分子を扇動し暴動が生まれる。これが怖い。庶民は力には力で防備するしかない。日本人が大勢居て力で自衛出来る所は良かったが、そうでない所は、暴動に襲われた跡は竜巻が通った跡のように箸一本残っていなかった。暴動は、通常命は取らないといわれたが、混乱の中で落命する人もいた。その中に玉井某という同年配の子供が居た。愛媛県の人だった。 嵐の跡の晴れ間はあった。どの政権も交代と同時に治安回復に努力した。結果比較的治安の良い撫順には、避難民が多かった。 敗戦直後、自治組織で出していた「居留民会報」というガリ版刷りの情報誌があった。そこに元撫順炭鉱長久保孚氏が、「石山灰一」というペンネームで、民主主義に関する一文を寄稿していた。「人民の人民による人民の為の政治」新鮮な教えだった。当時デモクラシーについて語れる人は、この人しか居なかった。 久保孚氏は。平頂山事件の時の炭鉱次長だったのだが、BC級戦犯として処刑される。他に七人の方も処刑された。この事件については、稿をあらためてもう少し語らせて頂く。 居留民会報で思いだすのは、もう一つある。「女子挺身隊」という何だこれは?と言う言葉があった。大人に聞いても誰もその意味を教えてくれなかったが、眉を顰めて答えてくれない大人の態度から、これがあまり良い意味の言葉で無いのは、子供心に察しがついた。北大町の高級住宅街は、ソ連軍の高級将校の宿舎になっていた。そこに日本人女性が居た。歴史の表舞台に永久に登場しない彼女達が、ある意味で日本人社会への治安維持に貢献していた。 ソ連の軍票の時期使われた時期は短かった。内戦の中八路軍も、ソ連が去るとすぐ国民党が進駐してきた。 翌年はもう蒋介石の国民党統治下だったが、蒋介石は、工業施設の維持管理と技術教育の為技術抑留者を求めた。 元満洲国官吏の父は、技術者ではなかったが自ら希望して抑留した。 そして、技術抑留者子弟の学校で、教育に従事した。父は英語と中国語が堪能だった。 最後の日本人学校の名称は「日僑浮子弟小中学校」(日本人捕虜子弟小中学校)と言ったから、私達のここでの正式な身分は、捕虜だった。 父が何故自ら捕虜となってまで、抑留を希望したか。 夜逃げのときの親類一族への不義理がまだ父の拘りになっていたのもだが、父にとっては、幼少以来三十年近く住み育ち、その中で父、妻、子、姉、多くの愛する人が眠る満洲。王道楽土の建国の夢と青春を捧げた満洲。満洲こそ祖国だった。 「溥儀の子」私にとっても、満洲こそ育ちの故郷。「日本は行く所」であって「帰る所」ではなかった。 抑留というと強制の響きがあるが、残った人達は多かれ少なかれ、皆「満鉄魂」の持ち主で自分達が作った物への愛着と使命感を持っていた。最後は、その数何人だったのだろう。 学校の生徒は、小中合わせて二百人は居たと思う。その両親、他に独身の若い人も居たから、最後の日本人は全部で一千人近かったのではないか。 1948年8月、国民党の敗色濃厚となる中、最後の抑留者も全員引き揚げることになる。 我が家の引揚荷物の中には、夜逃げのときも一緒だった親鸞聖人の座像が入っていた。お聖人の鼻には、野鼠がかじった跡があった。 父の見果てぬ夢「王道楽土」は、見果てぬままここに閉じた。 落ちる夕陽を背にして望む日本。父の故郷広島、母の故郷長崎。奇しく両方とも原子爆弾でやられていた。原爆の悲惨なニュースは伝わっていたが、詳しいことは何も分かっていなかった。 霧島昇の「誰か故郷を想わざる」を短波放送で聞くことが出来た。この心に染み入る古賀メロディーは、異国で亡国の民となった全ての日本人の胸を打った。 _ 平頂山事件 _ 平頂山事件とは、1932年9月16日撫順に匪賊の襲撃があったのだが、そのとき平頂山部落の人達が、匪賊に内通したとして、部落民全員(三千人とも言われる)が虐殺された事件。 今虐殺現場は掘り起こされ、累々たる白骨の山がそのまま保存され、平頂山惨案記念館となっている。 「写真を摂ってやる」と騙して崖を背景にした一カ所に部落民を集め、覆いを外された機械は写真機ならぬ機関銃だった。写真はまだ珍しかったのもあるが、そんな言葉で騙せる純真な人達を、機関銃の一斉射撃で撃ち殺し更に銃剣で突き殺し、死体にガソリンを撒いて焼き、更に崖を壊して埋めて証拠隠滅を図ったという惨劇。 先に述べた久保孚氏は虐殺に反対した人だが、BC級戦犯は、満足な裁判も無い中その罪を負わされて処刑された。 一番責任を負うべき人、実際に指揮命令した人は、既に帰国して居なかった。 この一口で語り尽くせぬ惨劇について述べるのは、本稿ではここまでにする。 しかしこの事件のその後について、もう少し述べさせて貰いたい。 父はこの事件を、知らないと言った。父と同じ地籍整理事業に携わった人達で作る「地友会」の人達も、戦後昭和四十六年この地を訪れて初めて知り衝撃を受ける。 李香蘭(山口淑子)は撫順育ちである。当時女史が住んでいた東六条通りに近い女学校の校庭で後ろ手に縛られた男を目撃している。 その男の写真は、戦後公開された数少ない平頂山事件関連の写真だった。 2010年、平頂山惨案記念館と館長さんと、撫順社会科学院の院長さんと、当時90才だった。李香蘭さんのお宅を訪ねたことがある。 そのとき女史も「当時平頂山事件についてはなにも知らなかった」と言われた。 当時日本政府は、国際社会で非難されても「事実無根」と突っぱねていた。 日本国憲兵の箝口令は徹底していた。この事件があった5月15日所謂5.15事件があり、犬飼首相がクーデターを首謀する青年将校に「問答無用」と射殺されている。 以来日本は軍国主義の道を突き進み、国民は口を閉ざされたまま軍部独裁の道を暴走する。 父も李香蘭女史も、私に?を言うような人ではない。しかし当時国民は、目を覆われ耳を塞がれ口を閉ざされていた。 今もこの事件の多くの部分が闇の中にある。闇がまた一部に変な憶測を生んでいる。「日本は、この事件を戦意高揚に利用し、その後の日本の虐殺行為に免罪符を与えた」という主張である。全く逆だ。厳しい箝口令をひいたということがそれを示している。日本政府としても、この事件は望ましいことではなかった。関係者は秘密裏にだが、軍事法廷でも裁かれている。 権力者が国民の目耳口を塞ぐのは、恐ろしい。しかし権力者が己に都合の良い物だけを見せ聞かせ、己に都合よいように言わせることは、もっと恐ろしい。 撫順には、平頂山惨案記念館と並ぶもう一つ旧満州国時代の負の遺産がある。それは戦犯管理所。満洲国時代は、撫順監獄。抗日運動家が収容されていた。今は周辺に家が建ち並んでいるが、私が子供の時は、田んぼの中にあるという印象だった。日本人が住んでいた渾河南岸からは対岸の旧城内にあり、三キロくらい離れていたが芹を採りに行ったことがある。そのとき拷問を受けているような、異様な悲鳴を聞いた記憶がある。 ここが、敗戦後戦犯管理所となり溥儀始め約一千人の主に日本人戦犯が収容されていた。特筆すべきは、誰一人処刑されていない。全員が帰国している。改悛の経緯は「撫順の奇跡」と言われている。これは周恩来の偉大さだと思う。「使える」というと言葉は悪いが、彼の長期的な日中友好を見据えた展望が、その根底にあった。 帰国した彼等は「中帰連」を作り積極的に日中友好活動の先頭に立った。彼等亡き後も「撫順の奇跡を引き継ぐ会」の人達がその運動を引き継いでいる。 _ 放浪前夜 _ 1948年、国共内戦は最後の決戦の場として、遼寧省錦州一帯に双方の主力が着々と終結していた。後に言う「沈遼戦役」である。戦場は広い。庶民の暮らしにも直接影響する。まず穀物が市場から姿を消した。 リュックに一杯の紙幣を詰めて市場に行ってもそれと同量の穀物が買えなかった。やっと手に入ったのは、油を絞った後の大豆滓。これを削ってスープにし、少量の岩塩を加えて口にする。 この餌は不味かった。苦痛だった。まず下痢をする。 あれは、八月に入ったある日の夕食の食卓、父と弟の膳には高梁の粥があった。 母亡き後、母の看病に来ていた母の妹も最初の引揚船で帰国して、食卓は祖母が牛耳っていた。 祖母の言うところの「我が家の作法」に基づく食卓は、父が上座に座りお相伴の祖母が父の横に侍り、幼い弟は別にして祖母の敵の片割れ私は、団欒の席から遠ざけられていた。 「僕もあんなのを食べたい」と言ったとき、父がきっと居ずまいを糺し、激しい怒りの声を上げた。祖母に対してである。 「この子に何を食べさせている!」 「もうあの子はすんどる。同じ物を食べさせてますがな」と祖母は取り合わない。 父は私に粥を分けてくれた後、祖母に手を上げた。祖母は黙って父のなすままに任せていた。母のときもそうだった。父は祖母の盲愛を強く拒絶していた。私は、この光景を見るのが大嫌いだった。 明くる日父の居ないとき、祖母が私に対して憎々しげに言った。 「あんたは、あれに似て意地が汚い」 「あれ」とは、死んだ私の母親のことである。祖母は、母を名前でも人称代名詞では呼ばなかった。物に対するように「あれ」と呼び捨てた。二言目には、「あれに似て」と言われるのが、私にとって辛かった。 更に「あんたが、弘さんを苦しめる。これ以上弘さんを苦しめるなら一緒に死のう」と包丁を振り上げた。弘は父の名である。祖母は自分の子供の名前を、さん付けで呼んだ。 最初は、祖母も本気ではなかったかもしれない。しかし、小さな私を追い回しているうちに、目が充血し、眼から炎が燃え上がってきて鬼の形相になった。私は怖くなって、表に飛び出した。 その晩、私は玄関脇でうずくまって寝て、家にはついに帰らなかった。 撫順の八月は既に日本の秋である。年間の平均気温は七度無い。夜は冷える。その日は特に寒かった。 私は凍えた体で、天空の月に幾度も母の顔をなぞらせていた。そして、遠くへ行きたい、北京へ行きたいと思っていた。そこで母が待ってくれているような、一途な思いにとらわれていた。 敗戦後一年学校も無かった。私は中国人の中で、少年窃盗団の団長まがいのことまでして、逞しくなっていた。 中国語も、中国人の中でもまれながら上達し実生活に不自由はしなかった。 十三才になったばかりの私は、顔も体も見た目は子供だが、生活力は、なまじの大人より大人だった。 「初生犢牛不怕虎」(生まれたばかりの仔牛は虎をも怖れない) 怖れを知らない純真無垢無知な私の妄想は、母への思いと共にどこまでも広がった。 教科書でしか知らない北京は、心地よい響きで、私の心からいつまでも離れなかった。北京行きは、本気になっていた。本気になったら行けると思っていたのである。 次の日の食卓、この強情な息子に父は多くを問わなかった。この時期私は父に反抗して物を言わないのではなく、酷い吃音で、物言えぬ子供になっていた。 「口から先に生まれて来た」と言われたおしゃべりな子供が、口ごもることで、周囲の同情を引く術を無意識のうちに、身に付けていたのである。 中国語には声調がある。私の中国語は声調を意識して、音楽を歌う感覚で喋っていたから吃音に関しては、日本語よりましだった。 強情な息子を前にして、父がため息をつく。 祖母がぽつりと言う。「業やのう」 父が言う。「あんたが、一番業や」 母性愛と業の化身。祖母。 その母の盲愛を受け入れられない子。父。 実の母の愛に飢えている子。私。 それともう一人母の愛を知らない子。幼い弟が居た。 四人がそれぞれの思いで、撫順最後の秋の食卓についていた。 +++ 大陸放浪 +++ _ 別れ _ 1948年8月10日。撫順駅には、最後の引き揚げ列車が停車していた。 我が家の、四人も、それに乗り発車待ちしていた。 無蓋貨車、屋根が無い貨物列車は、平たい頑丈な板に車輪が付いているだけで、敷物などは勿論無い。 まず貨車の四隅の柱の間にロープを張り、人や荷物が落ちないように、安全を確保する。 勿論それ位では安全は十分とは言えない。トイレは原則停車中に線路脇で用を足すが、緊急の場合は隅の柱に手を添えて自分で自分の身体を確保しながらしなくてはならない。揺れる列車上では、かなり危険だ。年寄や女子供は、大人の助けを受ける必要がある。 荷物を貨車の端に積み上げて、銘々がそれぞれに座席を拵えたそのとき、父がはっと気が付いたように「茣蓙を忘れた」と、言った。 「僕が取ってこよう」 「何処で?」 「家の畳を剥がしてくる。剃刀を貸して」 発車までまだ三時間くらいはあったが、南台町の元の家までは、片道2キロ以上ある。 いつ発車するか分からない列車だ。危険な賭けだ。 「もういい」と、渋る父から剃刀を無理やり借りると、貴重品が入った小さなリュックを背負って貨車から飛び降りた。 「それは重いから置いていきなさい」父がリュックを置いて行くように勧めるが、「貴重品は肌身離すな」と父のいつもの口調を真似て、リュックを背負ったまま駆け出した。 このときは、私はまだ祖母から逃げ出す気持ちは、半々だった。祖母から逃げ出すということは父と別れることだが、それも止むを得ないとは思っていた。 漠然と憧れていた北京、そこには少なくとも祖母のような鬼は居ないはずだ。 私は、戻るまで列車が発車していることを願った。もし、列車が発車していたら一人で北京に行くつもりだった。 南台町の元の家は、当然ながらもう他人の家だ。幸い裏の戸が開いていたので、そっと入る。畳を二枚剥がしたところで、家人に見つかった。三十才からみの男性が、出口を塞ぐように立ちはだかり大声で怒鳴る。 私は、血の気が失せたがまだ冷静だった。 次の瞬間を待つ。男が殴り掛かったその時だ。素早く身をかわし、体勢が崩れた彼の脇の下を潜るように、表に飛び出した。後は一目散に逃げるだけ。 列車は、まだ発車していなかった。 私は、迷った心のままもう一度賭けを試みた。茣蓙と剃刀を貨車の近くに置いて、物陰に身を隠したのだ。 ポプラは既に葉を散らし始めていた。 その葉陰で、短い夏の短い命を惜しむように、油蝉がじりじりと鳴いている。私もその蝉の鳴き声に合わせて、じりじりと発車を待った。 「けんちゃーん!けんちゃーん!」と狂気のように叫ぶ父の声が聞こえる。 父が茣蓙とカミソリを見つけたのだ。しかし私の姿が無い。まさか逃げる気で隠れているとは思わないから、道路を只うろうろと走り回る。 私は見つけて欲しいような、見つけて欲しくないような、半々の気持ちで息をひそめて運命の神に身を委ねた。 動き始めた貨車に、父が飛び乗った。年老いた母、幼い弟。どちらも父を必要としている。 「けんちゃんなら、しっかりしているから大丈夫だよ」誰かが慰めるように言う。 「けんちゃんは、いつも北京に行きたいと言っていたよ」と、同級生の子供が言ったとき、父ははっと思い当たった。貴重品の入ったリュックを何故私が持って行ったか。 まさかとは思いながらも、今は唯この向こう見ずな息子の無事を祈るしかなかった。 ここはお国を何百里。敗戦後三年、祖国にも見放された人達が、ソ連軍の侵攻による、徴用,避難、抑留、玉砕、虐殺、残留、遺棄、自殺、餓死、刑死、病死、凍死等々多くの悲劇的な別れをしてきた。 それらに比べたら、この別れは喜劇かもしれない。子が親から自らの意志で離れたのだから。 獅子の子は、自ら千尋の谷に身を投げた。 _ 北京への一歩 _ 父と別れた私は、とにかく線路沿いに西へ向かった。 大官屯、発電所、この辺までは、遠足で来たことがある。望花、古城子もよく耳にした地名だ。撫順から奉天までは、撫順中学の学生の、軍事訓練の行軍コースで、背嚢を負いゲートル巻きの少年が夜間行軍で歩いているのを見たことがある。 撫順奉天は、遠足の延長位の軽い気持ちだった。そこから北京までは、想像も出来なかったが、地図で見る限り、それほど遠くもなさそうに思えた。 実際は、撫順奉天が約50キロ。奉天北京が約700キロある。それがどれ位の距離か、距離の実感が無いまま、とにかく歩くしかない。 八月は、この辺はにわか雨が多い。驟雨に時々襲われるが、幸い長雨は無かった。ぬかるみで靴やズボンが汚れたのは、むしろ望む所だった。旅支度の私は、あまりにも身綺麗にしていたから。目立つのは困る。 撫順から瀋陽にかけては、まだ未開放だった。国共内戦最後の決戦の幕はやがて切って落とされようとしている。 私達の引き揚げ列車も、撫順から瀋陽までで、瀋陽から錦州までは、国民党の軍用機が用意されていた。瀋陽を離れたら列車の安全が確保できなかったからである。 私達最後の引き揚げ者は、国民党の要請で残った技術抑留者の一団だったから、蒋介石は安全帰国の約束を守って、軍用機を用意してくれたのである。 軍用機は国民党の本拠地南方から東北へは軍需品の輸送で満杯だったが、戻り便は空いていたからそれが出来た。 葫蘆島からの引き揚げ船もそうである。 南方から葫蘆島へ兵士の輸送。 葫蘆島から日本へ引き揚げ者の輸送。 日本から南方へアメリカの援助武器を輸送。 三角輸送の一辺が日本人の引き揚げ船に使われた。 都市部には、農村から食料が入り難くなり、穀類は暴騰していた。しかし毎日の最低の食品、煎餅(高粱や唐黍の粉を、鉄板で薄く焼いた物)や、饅頭はまだ路上で売っていた。 沿線のトーチカには、兵士の動きが慌ただしい。しかし治安はそれほど悪くない。どこの軍隊も平時の統治下では、占領政策を円滑に進める為にも、作戦の遂行上も無用の混乱は好まない。住民の宣撫と治安維持にはそれなりに力を注いでいた。 両軍とも軍紀は保たれていた。人心を失ったら負けということを両軍とも心していたから。八路軍は「人民の物は針一本奪わない」と宣伝していたが、それは事実だった。 蒋介石の言葉「以徳報怨」は、国民党の一般の兵士にも浸透していた。 そこは何処だったろう。子供の足で五時間ほど歩いた所で、小さな廟のような所があった。かなり荒れているが、夜露くらいはしのげそうだ。少し早いが大分疲れた。今日はここで寝ることにする。 当時多くの中国人は、貧困の極限にいた。 この辺には、山東省から流れてくる労働者が多く、彼等は「山東苦力」(サントンクリー)と呼ばれ、炭鉱など文字通り地下労働に従事し最低の生活をしていた。真冬でも吹き溜まりの中軒下など屋外で、寒風を避け煎餅蒲団一枚にくるまって、やどかりのような姿で寝ていた。煎餅蒲団一枚が、彼等の全ての財産であり、家だったのだ。 ここは彼等にとっても良い宿だったのか、日が暮れると、風体の怪しい男性共が三々五々集まってきた。 その中の一人が、私に問いかける。 「見かけないガキだな。どこから来た?」 「あっち」と、東の撫順の方角を顎でしゃくる。 「どこへ行く?」 「あっち」と、西の瀋陽の方角をまた顎でしゃくる。 「ふーん」男はそれ以上聞かなかった。 「俺も故郷(くに)にお前と同じ位の息子がいる。この辺は物騒だ、気を付けろ」更に「寒いだろう、入るか?」と、煎餅布団の脇を空けてくれた。 間もなく男性は、鼾をかき始めた。 私も、貴重品を腹の下に包めて寝た。 「人之初、性本善」(人の本性は、本来善である)これは三字経の書き出しだが、性善説をとるか、「人を見たら泥棒と思え」と性悪説をとるか。 その賛否はともかく、哺乳類が種を越えて、幼児を可愛がるのは、事実である。虎の子も狼の子も、子供は皆可愛い。 戦乱のこの時節、浮浪児は珍しくなかった。その子達は生きるため、時に盗みも悪事も働いたが、ひたすら可愛く生きた。私も捨てられた子犬のように可愛かった。無意識に可愛く振る舞った。その限り安全だった。 闇の中に梟だろうか。蝙蝠だろうか。鳴き声と異様な物音がする。子供にとって闇は死を意味する。恐怖の中、私は見知らぬ男の懐に抱きついた。 明くる朝、男は更に優しかった。 「窮鳥懐に入らば、猟師もこれを射ず」 第一夜は、ともかく無事に過ぎた。 _ 地獄で仏 _ 二日目は、東稜近くの荒れた建物。三日目は更に西へ二十キロほど行って野宿する。 私が野宿に選ぶ場所は、宿無しの浮浪者達にとっても良い場所だった。 狼の群れの中の一匹の小羊。ライオンの群れの中の迷える縞馬。 それでも、一人で彷徨うよりはそこが安全だった。猛獣と雖も無益な殺生はしない。それとここにも「盗むなかれ、殺すなかれ」という最低の法以前の法は存在し、相互監視の中でその法は機能していた。その意味で、弱い者は、群れの中に身を置く方が、まだ安全だったのである。 四日目、只ひたすら西に向かって歩いていたのだが、だんだん人通りが少なくなり、やがて西には何も無くなった。果てしなく広がる高粱と唐黍。僅の緑は、瓜畑か。 まだ陽は昇って間もないというのに、足に豆が出来て痛む。貴重品袋からメンソレを出して傷口に厚く塗る。 「ああ満洲はひろいなー」国民小学校一年生の最初に習う「満洲」という副読本の書き出しである。 天蒼蒼 天どこまでも蒼く 野茫茫 野果てしなく広し 風吹草低 風吹き草低きところ 見牛羊 牛羊の見ゆる 満洲の美しさは、この果てしない広さだ。いつもは列車の窓などから見て大好きな景色だが、今日は心細さを誘う。道端の池のほとりで、腰を下ろしているときだった。 「何処へ行く?」と農作業の馬車の主が声を掛けてくれた。 「飯は食ったか?」 私が首を横に振ると、「乗れ」と座席を空けてくれた。 以前父に「美味しい物をあげるとか、良い物をあげるとか、優しそうな言葉で言う人間には絶対に付いて行ってはいけない」と厳しく言われていた。 「これが人攫いだな」と、私の危機察知アンテナはアラームを出したが、私に危機感は無かった。彼にも罪悪感は無かったようだ。 人の良さそうな農夫の笑顔は、私を安心させた。 「孤児か?」 「うん」 「俺と一緒に行くか?」 彼は私の身形と言葉の訛りから、とっくに私を残留孤児と見抜いていた。厳密に言うと私は家出少年だが、まあ似たようなものだ。 日本人の子供は高く売れるだろう。彼は胸算用をした。 「あの農家なら人手を求めていたし、この子を高く買ってくれるはずだ」 彼は、たまたま子犬を拾った。それを欲しい人に譲って小遣いを稼ぐ。自分も子犬も買い手も三方全て好。 私も彼を「人攫い」などと人聞きの悪い言葉は使うまい。彼は地獄で仏だった。 少し余談になるが、確か老舎の何の小説だったかの一節に、麦わらを簪にした少女の話がある。麦わらは「私を攫って下さい」というシグナルだった。 敗戦後の撫順でも多くの少女が、私の回りから姿を消した。彼女達は麦わらの簪はしていなかったが、明らかにシグナルを出していた。彼女達は私から見て玉の輿だった。 私は攫われて、むしろほっとした。 馬車が着いた先は、菜園と家畜小屋の周囲を広く柵で囲み、幾つかの広い母屋と作業小屋、作男部屋がある富農だった。 商談はすぐ成立した。農夫がにこにこ顔で去った後、主人が作男に「何か食わせてやれ」と命じ、私には「畑のトマト、キュウリ、ナスは好きに食べて良い」と優しく言ってくれた。 作男頭のような男が、塩で茹でたじゃが芋を呉れて、「欲しければまだ有るぞ」と言ってくれる。 主人が作男頭に「色々教えてやれ」と言った後、私に対しては「明日から思い切り働いて貰う」と言い残して立ち去った。 「北京はまた行けるだろう。ここも悪くない」私は、この親切な農家に身を寄せてもよいと言う気になっていた。 _ スパイの手先 _ 翌朝、作男頭から農場の中のことを色々と教えて貰っているときだった。サイドカーに乗った国民党の将校が来た。あの林中尉だった。 「何故君がこんな所にいる?」と驚いたのは向うだった。 林中尉については少し説明がいる。近所に、秀子姉さんと呼んだ年頃の綺麗な娘さんが居た。母亡きあと彼女は、私に駄菓子をくれたり、文房具をくれたり、何かと優しくしてくれた。 やがて国民党の進駐と同時に白馬の王子が現れた。サイドカーに乗った若い将校林中尉である。 私は二人の通訳みたいなことをして、キューピット役を務めた。林中尉は、私にもお土産を持って来てくれた。 私が「引き揚げ列車からはぐれて、北京に行きたいと思っている」と半分本当半分作り話をすると「北京は遠いぞ。子供の足では無理だ。どうしても行きたいか?」と聞く。 「うん」と頷くと、「一寸二人だけにしてくれと」と作男頭を遠ざけた。 「これから私の言うことは、一度聞いたら、断ることは出来ない。断ったら私は君を殺さなくてはならない。その代わり聞いて呉れたら北京行きは私が保証する。聞くか?」 「うん」と、私はもう一度小さく、しかしはっきり頷いた。 「二度は言わないからしっかり聞け」と林中尉がゆっくりと、語り始めた。 「これから西へ二十キロほど行ったらトーチカがある。その近くまでは人を付ける。このトーチカには絶対に近づくな。トーチカに沿って鉄条網があるが、南へ五百メートル行くと、石ころと枯草の塊がある。その下が抜け道だ。君なら通れる。向うへ出たら西へ行け。集落がある。そこで誰でもよい、「馬大人」を探していると言え。誰かが水滸伝を持っているかと君に尋ねるがそれが合言葉だ。男にこの本を渡せ。そして北京に行きたいと言え。それで終わりだ」 二度は言わないと言ったが、林中尉は要点だけ繰り返し言ってくれた。 時は新中国建国一年前。国共内戦最後の決戦を前にして、国民党はすでに面としての支配地域を失い、辛うじて保った防衛線も各地で分断されて、グレーゾーンとも言うべき点が各地に存在していた。 撫順は国民党の支配下だったが、共産党の政治工作員と思しき人物が出没していた。 人だかりの後ろで、誰かが親指と人差し指で、「八」の字を作って尻の下でサインしている。「八路」(共産党軍)の意味だ。 共産党の都市包囲網の中で、人々は食料と情報に欠乏していた。「八」の人達は、情報の運び屋でもあった。そしてグレーゾーンは、 双方の諜報戦の最前線でもあった。 内戦はまた、同族同士骨肉の争いだ。双方に、水源を同じくする伏流水が存在しても不思議はない。それらが、地下で密かに繋がっていた。 林中尉がどちらに水源を持っていたかは知らない。或は両方に持っていたかもしれない。 グレーゾーンでは、庶民は優劣が決定的になるまで旗色を鮮明にしていなかった。両方の旗を持っていたのである。その時々の支配者に敢えて逆らわず生きていた。信じられないだろうが、敗戦後暫くはまだ日の丸を持って居る人もいた。いつ日本軍が戻ってきてもいいように。 トーチカと鉄条網の向こうは、そのグレーゾーンだった。 林中尉は、グレーゾーンと連絡の任務を持ってきた。しかし何等かの手違いで、連絡員が来なかった。そこで私をその連絡員として利用しようと考えた。 私は悪運があった。 _ 脱出 _ あくる日、林中尉がまた来た。 「この馬車で行け」と、中尉が指示した馬車の主は、先日の農夫だった。 「さあ行くぞ」屈託のない人の良さそうな笑顔は、あの仏の人攫いのそれだった。 彼は私が何をしに行くのか、何も尋ねなかった。聞いても答えられないことを知っていたのだろう。 高粱畑の間の道を五時間ほどで、遥か右にトーチカが見える所に着いた。 「俺が言われているのは、ここまでだ。腹が減ったら食え」と大きな饅頭を二個呉れて、農夫はもと来た道を戻って行った。 まだ陽は高い。私はトーチカの銃眼から隠れるように、高粱畑の中に身を横たえた。高粱畑の中を南へ、トーチカの鉄条網に沿ってゆっくりと五百メートルほど移動する。しかしこの一帯は、高粱が刈り取られていて、それ以上鉄条網へ近付けない。 闇を待つしかない。饅頭を食べ、非常袋の中の水筒の水を飲み眠ろうとするが、却って頭が冴えて眠れない。 私は、母に抱かれた記憶がない。母が亡くなる前、一度だけ「あなたが、私の遺骨を抱いて日本に帰る」と私を膝に抱きしめて泣き崩れたことがある。結核を患っていた母は、感染を恐れて私をあまり近づけなかった。私を抱かないのが、母の愛情だった。 満洲の夕陽は、膨張しながら沈む。大気中の埃に乱反射しながら最大に膨れ上がった太陽が、西の地平線に揺らぐように消えた。 幸い月は無い。星明りだけを頼りに、昼間目星を付けていた地点に這うように身を屈めて進む。抜け道はすぐ見つかった。 それを潜り抜け、やれやれとほっとしたときである。 「誰か!」と大声がした。 歩哨の巡回に見つかったのだ。これは、林中尉の教えてくれた筋書きに無かった。 「我!我!我!」と私は中国語でやっとそれだけ言うと、両手を挙げて立ち上がった。 恐怖にひきつって、それ以上は言えなかった。余計なことを言えなかったのは、却って幸いだったかもしれない。 歩哨がカンテラで私の顔を照らすと「なんだ子供か。行け!」と見逃してくれた。 私は転がるようにその場を離れると、集落の近くの、僅に樹木が茂る小さな丘陵の下で、今度は夜明けを待って身を横たえた。 地平線に朝日が射した。その一瞬小鳥達が一斉に囀り声を上げた。どこにそんなに居たと思えるほど、多種多様な不協和音だ。 タンバリンのような小鳥の囀りに混じって、とても鳥の声とは思えない、金切り鋸を引いたような不思議な声もある。 それも短い時間だった。小鳥達がそれぞれに群れを作り、餌を求めて飛び立つと、また元の静寂が戻った。 集落の竈にも煙が見える。そこはここから近い。私も起き上がり、そちらへ向かって歩いた。 _ 八路軍少年兵 _ 農家三十戸ほどの小さな集落には、屈強な若い男の十人足らずの武装集団が居た。彼等に「馬大人」を尋ねたらすぐ分かった。腰に拳銃を下げた三十前のリーダー風の男性が、「水滸伝を持っているか」と私に聞いた。私の大役は無事終わった。 「北京に行くのだな。俺達は明日阜新に行く。そこから北京へ行くよう手配してやろう。朝飯はまだだろう」と、粥と豆乳を用意してくれた。 阜新は、三月に解放されたばかりだったが、市内には八路軍の正規兵が満ちあふれていた。正規兵と言っても服装はまちまちで、面構えだけが逞しかった。輜重兵は、素足で天秤棒を担いでいた。 部隊長風の男性が、「ここには日本人も居るぞ。と連れて行ってくれた先に居たのは、なんと門脇さんだった。 門脇さんは、宮城県出身の元満蒙開拓団の青年隊員だが、敗戦後撫順郊外龍鳳のある富農の家に寄留していた。日本人が居る農家があるということを聞きつけて、私達はこの農家に野菜や食料の買い付けに行っていた。 「お前達知り合いだったのか。丁度良かった。門脇お前この子の面倒をみてやれ」と部隊長が言い残して立ち去った。 門脇さんも、北京を目指したらしい。何とか瀋陽を抜けたところで、捉えられるようにして八路軍に入ったと言う。 「革命教育を受けている。こないだ、地主富農の公開処刑があった。おれも一人やらされた」と、浮かぬ顔で言う。 人民裁判で有罪になった地主富農が、予め自分で掘らされた穴の前に手足を縛って並ばされ、それを銃剣で一人一人突き殺す。 門脇さんがやらされたのは、父親くらいの五十才前後の男性だった。男性は、命乞いも泣きわめくこともしなかった。「さあ、しっかり突け」と後ろ手に縛られたまま、胸を前に出した。返り血のにおいがまだ離れない。 門脇さんの表情は、暗く浮かなかった。あの親切な龍鳳の農家の主はどうなるのだろう。 私も、仏の人攫いに連れて行かれた農家の主の身の上が心配だったが、どうしようもない。 又部隊長が来た。 「どうだ、お前もここで少年兵になるか?」 「私は北京に行きます」 「北京に行ってどうする」 「それは分かりません」 彼は私が北京でまだ別の任務があると思ったのか、それ以上引き留めなかった。 ここでは、林中尉の密書を命がけで届けた私は「勇敢な少年諜報員」として、皆の敬意を集めていた。それは私も肌で感じていた。 「いつでもその気になったら来い。俺達は歓迎だ。明日列車を手配してやろう。ここから北京は、列車ならそれ程遠く無い。一日も乗ったら着くだろう」と言い残して、又立ち去った。 明くる日列車は、山間部の山並みを縫うように走る。途中駅で幾度か長い臨時停車をしたが、ほぼ一昼夜走った所でここは何処だろう。まだ明けやらぬ中、列車は駅の無い収穫前の唐黍畠の中で停まった。 星空の中一台の馬車が待っていた。阜新からついて来てくれた若い兵士が、農民の姿で一緒に横に乗った。「北京は何処へ行く?」「天安門」と私が短く答える。実は何処でも良かったのだが、北京の地名を天安門しか知らなかった。 太陽がやっと昇ろうとした頃、馬車は停まった。「天安門はまだ遠いが、俺達が送れるのはここまでだ」と言う。私も子供ながら、ここが内戦の舞台の一角であるのは分かった。北京はまだ未解放だった。ここも双方の境界を接するいわばグレーゾーンなのだ。 「子供の足でも、昼までには着くだろう。とにかく南へ行け」と男が言った後「水筒を出せと」と水を補給してくれた。更に一包の紙袋をくれ「饅頭とネギと味噌が入っている。これは隊長からの選別だ」と、小銭の束を懐に入れてくれた。 諜報に従事する者は、任務の遂行に必要な事以外は教えられていない。相手も必要な事以外は問わない。お互い出身地はもとより、本名すら名乗らなかった。私は子供ながら、ここでは立派な中国共産党の諜報員だった。 「気をつけて行け」最後に男はそれだけ言って、また馬車で去った。 _ 北京第一夜 _ 北京の朝靄は、夏とはいえ少し肌寒い。日差しが昇るにつれてさわさわと吹き始めた風は、ポプラの葉を落とし秋の香りさえした。 私の北京に対する知識は、「中心が故宮で、天安門という大きな門がある」それ位しかない。私は昇る太陽を左手に見ながら、ひたすら歩き始めた。 京に田舎在り。人通りもまばらになり始めたころ、四方に畑が点在し、農家の幤屋、アンペラ小屋が散見された。アンペラ小屋とは、レンガ小屋の屋根をコールタールで塗り固めた壁の回りに、アンペラと呼ばれる高粱殻で編んだ筵が立てかけている、最低の住居とも呼べない住居だ。 馬車を降りて何時間経っただろう。一人中心方向へ向かって歩いていたとき、朝の便意を催した。何か食べた物が悪かったのか、水が悪かったのか、昨日から便が柔らかい。 幤屋の物陰で用を足そうとしたとき、ズボンを脱ぐ間ももどかしく、大便をズボンの中にし被ってしまった。 汚れたズボンから大便を拭きとっているとき、隣に年の頃十六,七才の大柄な少年が座った。 「腹を壊したのか?何処から来た?」 「撫順」とその方角を指さす。 「えーっ!ほんとか」 私の満洲訛りの中国語から、信じられないという顔で信じてくれた。 「何処へ行く?」 「北京」 「ここが北京だ。北京の何処だ」 「天安門」 「天安門はまだ遠いぞ。お前行く所が無いようだな。俺について来い」と、少年が先に立って歩き始めた。 少年の行き先は、すぐ近くのアンペラ小屋だった。広さ二十平米はあろうか。中は意外に小奇麗にしていて、オンドルと呼ばれる、竈と暖房を一つにしたような高床の上に、煎餅蒲団が数枚畳まれているが、家具らしい家具は何も無い。 私と同じ位か、少し年長かと思われる少女が居た。 「新入りだ。腹を壊している。お前面倒見てやれ」と少年が少女に命ずる。 「うわー臭い!さっさと脱ぎなさい」と少女が私のズボンを手早く引きずり下ろす。 きまり悪そうに、縮こまっている小さな「おちんちん」を隠す場所も間も無い。 少年が私の額に手をやる。 「熱が有るな。休め」と蒲団を引き始めた。 「こういう時は、暖かくして寝るのが一番だ。腹は一日食わなかったら治る。明日の朝お粥を作ってやるから、ひもじいのは我慢しろ」 更に少女に向かって「お湯を沸かして飲ませてやれ」とてきぱき適切な指示を出して、何処かへ出かけた。 夕方少年が帰って来た。 秋にはまだ早いが、日は大分短くなっていた。辺りが暗くなると、少年が私の蒲団に潜り込んできた。正確に言うと、私が少年の蒲団に寝ていたのだが。 少年が「お前まだ毛が生えていないのだな」と小声で言うと、私の手を取り、自分の一物を握らせた。本日心ならずも公衆の面前に晒す破目になった私の十三才のおちんちんは、まだ白い唐辛子だった。 少年の陰毛は見えないが、ふさふさと手首に当たる。一物は成人のそれだ。 好奇心にかられた私は、子犬がじゃれるようにそれを両手でもてあそんだ。 やがて、薄い煎餅布団を突き破るような激しい液体の噴出とともに、動きが止まった。 隣の少女は、とっくに寝ている。彼が鼾を書き始めるまでの時間も、それほど長くは無かった。 私も長旅で、やはり疲れていた。昼間あれだけ寝たのに、また深い眠りについた。 _ 新しい仲間 _ 翌朝、完全に疲れが取れた私の体は、昨日までの慢性的な気だるさが嘘のように軽い。 空腹さえ、むしろ心地よい。 「ズボンは乾いているよ」と少女がズボンを手渡してくれた。 昨日は、昼も夜も寝ていたので気が付かなかったが、チビが二人いた。八才位のすばしこそうな男の子。まだ尻割れの嬰児服を着ているが、三、四才位の女の子。 紹介しよう。まず俺は大牛だ。本当の名前もあるにはあるが、通称でいいだろう。俺を呼ぶときは、大哥(兄貴)と呼べ」続いて「俺の妹だ、別嬪だろう」と少女の紹介をしようとしたとき、少女が自ら「私のことは?姐(?姉さん)と呼んで」とやや命令口調で言う。 彼女は私より少し上か同じ位か。豊かな胸のふくらみも、丸い豊な体つきもすでに女性だった。何より当時百三十センチにも満たない、チビの私に対して百五十センチ以上ある彼女は、堂々たるお姉さんだった。 「僕は二牛」とすばしこそうな男の子が言う。只横でにこにこしている女の子を指して、「僕の妹、小妹だ」と紹介してくれた。そのとき大牛が意外なことを言った。 「俺たちは、この子に食わせて貰っている」と小妹を指さす。 なんのことか分からないまま、私が訝っていると、「俺の妹とこの子二人で、盛り場で他人の情けを受けている。早く言えば乞食だな。俺は彼女らの紐だ」 「金なら少し持っているよ」と、腹巻に父がいざというときの為に縫い付けくれていたのをほどいて、差し出した。 「いいだろう。ここでは俺が持っている方が安全だ。要るときはいつでも言え。元々お前の金だ」と大牛が中身も確かめずに、それを懐に入れた。 「遠慮せずに、使っていいよ」 「要るときは使わせて貰う。俺達は仲間だ。皆絶対に仲間を裏切るな。それだけは言っておく」 「そうだ、お前のこと名前も聞いていないな」 「私なら献、貢献の献と言う字」 「ふーん!献か。ならこれからは小献だ」 新しい名前と共に、私も新しい仲間として仲間入りした。 大牛が言う。「俺達の親は死んだ。このチビ達は近所の子だが、父親が死んだら、母親は別の男と何処かへ行った。男が連れて行ったのか、女が付いて行ったのかは知らない。俺は男と女のことは分からない。しかし親が無くても子は育つが、女は一人では生きていけないからな。そうだろう?」と私に同意を求めるが、私には勿論分からない。 「小妹は本当に可愛いだろう。この子の無邪気な笑顔を見ていると、俺も癒される。そして、この笑顔でこの子は稼いでいる。俺はこの親を知らない子供達に、いつも言ってやるのだ。お前達のお袋は、優しかったよ」と。「可愛がられずに育った子が、こんなに良い笑顔をするはずがないだろう?」大牛がしんみりと語った後、私にも同意を求める。 しかし、私は少し別の事を思っていた。これは、親に捨てられた子猫の悲しい笑顔だと。上手く言えないまま黙っていたら、無性に涙が出て止まらなくなった。そして人目も憚らず。手放しで号泣してしまった。 皆は、私がはぐれた親を慕って泣いていると思ったのだろう。そのまま泣かせてくれた。 親を捨てた子の涙。親に捨てられた子の笑顔。親無き子供達が生きていくために、涙と笑顔で、ここに新しい心の結びつきを深めた。 _ バーベキュー _ 二牛がとんでもない物を拾ってきた。 「どうだ、凄いだろう!」 「うわ~美味しそう!」?姐と小妹が歓声をあげる。 「何処で拾ってきた。でかしたではないか」と、大牛が褒める。 それは犬の死骸だった。黒か茶か、昨夜の雨で毛が泥まみれに汚れて、色は定かではないが、体長50センチ位の成犬だ。 腹部に出血があるが、それが致命傷か。すでにそこには蛆がわいている。 「そんな目で俺を睨むな」と言いたくなる無念の形相で、牙をむき出しにして私を睨む。 実は、昨日裏山の墓地みたいになっている所で、私もこれを見つけていた。少し離れた場所に、腹部を食い破られた嬰児の死体があったのは、多分この犬の仕業だろう。 中国では、嬰児の死体を野晒しにして野犬に喰わせる風習がある。何の親孝行をしないで死んだ者が犬に食われるのは、せめてもの功徳とされていた。 だからこの犬は、嬰児を食べたことを咎められたのではなく、その後何か別の不行跡をやらかして、例えばお供え物を荒らすとか、人を襲うとかして、お仕置きを受けたのだろう。 当時市街地でも、少し中心を離れた荒れ地では、犬猫嬰児の死骸どころか、人の生首すら珍しくなかった。しかし、私にこれを拾って帰る発想は無かった。 大牛と?姐が、慣れた手つきで犬を捌く。二牛が、火の支度をする。小妹までが、何かそわそわしている。 「お前は近くの畑で葱を失敬してこい」私は、大牛に命ぜられて、野菜の調達に行った。 焼肉の香りが、遠く漂う中を私は一束の葱を手に帰ってきた。 皆、焼きあがった肉を前に円座を作っていた。無念の形相の犬の首は切り取られ無造作に傍らに置かれていた。 「醤油が有っただろう。今日みたいな日に使え。さあ皆思い切り食え」大牛の弾んだ声を合図に宴は始まった。 「どうした?」 大牛が、あまり箸が動かない私を咎めるように、問いかける。更に、「小献お前、生きるということは何か分かるか?」と、禅問答のような問いかけがきた。 暫く考えて、私は小さく首を横に振る。 「生きるということは、食うことだ」と大牛が言う。 又間をおいて「死ぬということは、何か分かるか?」と、更に思いがけない問いかけが来た。 私にとって死は、話題にするのも只恐ろしいことでしかない。それが何か、考えたこともない。 母の死、妹の死、私はすでに二人の肉親の死と向きあってきた。深い沈黙の時間が流れる。 「死ぬということは、食われることだ。さあ、食われたくなかったら食え」と、大牛が香ばしく焼き上がった骨付き肉の塊を、私の前に差し出した。 腸を食いちぎられた、嬰児の死体。傷口に蛆虫がわいた無念の形相の犬。それらが瞼にこびりついて、どうしても離れない。 こういうとき、父はそれを食べるまで絶対に何も呉れなかった。 「腹が減ったら何でも食べる」それが、貧困家庭で育った父の哲学だった。お蔭で、私に偏食はない。何でも食べる。 私は飲み込むように、やっとそれを食べた。 生きることは辛い。しかし食われるよりましだ。 飽食に満ち足りた仲間達が、生きることを学んだ私を、「好!」と笑顔で祝福してくれた。 心なしか、犬の形相にも笑みが浮かんだように見えた。 _ 漢奸 _ 私の貴重品袋には、ハーモニカが入っていた。久し振りでそれを取り出して吹いたら、皆が「好!」と褒めてくれる。 国旗の歌「白地に赤く♪」あの曲を吹いているときだった。大牛が「それは何だ」とせき込んで尋ねる。 「日本の国旗の歌だ」と私が答えると、「そうだったのか」何かを悟ったように彼が大きく頷いて言う。「この歌を歌うと、日本の兵隊が、飴をくれた」 多分日本軍の宣撫隊が、子供に歌わせたのだろう。 「お前にまだ俺の親父が何故死んだか言ってなかったな」 一息おいて,「俺の親父は、日本兵の手先だった。その歌を歌う子供達を集めるのが親父の仕事だった」また間が空く。 「お前分かるだろう。これは好い仕事だった。金になる仕事だった。金だけではない。当時なかなか手に入らない、砂糖も我が家にはあった。米も唐黍も大豆も不自由したことは無い。親父は器用な男で、簡単な日本語も話せた」 当時の中国人は、文法を無視して中国語の語順のまま日本語の単語を当てはめた言葉と、簡単な中国語をごちゃ混ぜにした、独自の日本語を使っていた。 例えば「ターターデヨウ」(多多的有)意味は「沢山ある」である。 大牛が一人で語り続ける。 「その後、どうも憲兵隊とも繋がりができたようだ。羽振りは更に良くなった。 「なあ、これは悪い事ではないだろう?親父の才覚だ」と、私に相槌を求める。 撫順でもあった。撫順の最後の憲兵隊長はH某だ。久保町の我が家の一軒おいて隣りだった。同級生の娘さんが居たから私もよく覚えている。 彼は敗戦後一早く撫順を離れたらしい。らしいというのは、無事逃げたまでは風聞で、彼の腹心の部下陳某が、撫順市公署前広場で漢奸として、公開銃殺されたのは風聞ではない。罪状は、憲兵隊長の逃亡幇助である。 当時絶大な権力を持った憲兵は、また情報も握っていた。彼等はその権力と情報を、我が身の安全保障に使った。利用されたのが、漢奸と呼ばれた中国人である。狐の抜け道に餌をたっぷり貰った兎が囮として配置された。 大牛の父も戦後人民裁判で、漢奸として公開銃殺された。権力者の恩恵を受けた分だけ、逃げきれない物が有ったのではないだろうか。 母親の死は、もっと悲惨だった。母親は美人だったという。?姐を見たら分かる。父が殺された後、一ヶ月ほど経ってからだったろうか。ある日大牛の母親は、素っ裸で樹木に括りつけられ殺されていた。その前日彼女はある男の女房と、女同士髪を引っ張り合う猛烈な公開バトルをやる。格闘は痛み分けだったが、不義密通の結果は悲惨だった。 大牛はそれ以上語らなかったが、こういう場合中国人は、女性の局部に棒を突き刺し、野犬の食い荒らすままに放置する。 大牛が言う。「人は必ず死ぬ。どんな死に方をするのも一つの死に方だ。戦争は必ずどちらかが勝って片方が負ける。親父は負けた方に肩入れして殺された。まあ人生の大博打に負けたようなものだ。もし親父を漢奸というなら、当時の中国人は、皆漢奸だ。皆好い暮らしをしたかったが、才覚のある者だけがそれを出来た。俺は、親父は赦せるが、母親のことは分からない。俺は女が嫌いだ」 大牛の鋭い語気には、少年の潔癖感があった。 _ 泥棒 _ 表通りに、間口十メートルほどの少し大きな雑穀商があった。私はここで時々落花生を買っていた。 その日は、たまたま店には誰も居なかった。ふと帳場を見ると、算盤があった。 私は、それが無性に欲しくなった。算盤の得意な父から、私も教わっていた。 そっと手に取ってみたが、人の気配はない。それを懐に、さりげなく表へ出た。中で人の気配がする。急ぎ足で表へ出た時、後ろから男の大声が聞こえた。緊張で頭の芯がきりきりする。 私は路地裏に逃げ込んだ。入り込んだ胡同の細道は、すぐ袋小路になった。大きな獅子の門飾りの陰に身を隠したときだった。二牛がどこで見ていたのか、私の傍に来た。 「それを寄こせ」彼は私から算盤を手にすると、勝手知った路地裏の裏を、素早く駆け抜けた。 手代が私を見つけた。小さな私の胸倉を掴んで、吊し上げて言う。 「太いガキだ。さあ盗ったものを出せ!」 「私は何も盗っていない」 「嘘つけ!何故逃げた!」 「逃げたのではない、小便がしたかった」 騒ぎを聞きつけて、野次馬がたかる。 店の主人も駆け付けて来た。 手代は、更に私を打擲しながら厳しく詰問するが、証拠が無い。 必死に哀願する私に、野次馬陪審員はニタニタ笑って無言だが、雰囲気は無罪判決だった。 最後、主人の「もういいだろう、放してやれ」の一言で私もやっと解放された。 小屋に戻ると、思いがけずも、大牛にいきなり一発頬を張られた。 「何故あんな物を盗んだ!」 「欲しかった」 「俺達が市場でかっぱらいをするのも、畑の作物を失敬するのも、乞食をするのもみな必死に生きる為だ。お前みたいに、唯欲しかったなんて甘えた気持ちで盗みはしていない。分かったか」 「うん」 「いいか、盗ったら盗られた者がいる。盗られた者の仕返しが、裁きだ。俺は善悪でお前を説教しているのではない。お前はあのとき、手足の一本くらい折られても半殺しにあっても、文句は言えなかったのだ。危なかったのだ。偶然二牛が通りかからなかったら、どうなっていたか。運の強い奴だ」 私はここでも、自分の悪運の強さを思った。 「お前、何故日本が負けたか分かるか?」 「それは・・・、アメリカの物量作戦にやられたからだ」 「違う違う」大牛がみなまで言わせず「盗ったから盗り返されたのだ」と、語気鋭く言う。 軍国少年気分が抜け切れていない私の頭は、ガーンと新鮮な衝撃を受けた。 戦後、一年して再開された学校では、軍国主義教育から百八十度反転した民主主義教育が行われていた。教科書は、「飛行機」という文字すら軍国用語として墨で黒々と塗り消されていたが、以前のままの教科書だった。教える教師自体が、つい一年前までは「天皇陛下万歳」を教えていた人達だ。 父は「満州国は侵略ではない」といつも言っていた。しかし、大牛の反戦教育は分かり易かった。奪った側が「王道楽土」など、なんと屁理屈を言おうと、ここには奪われた人達が居た。それを奪ったのが日本で、日本は奪い返されただけだ。 「お前何故中国が侵略されたかわかるか?」 「侵略された中国は悪くない。侵略した方が悪い。」 「そんな事は言っていない。強い者が勝つ。勝った者が偉い。中国は弱いから侵略されたのだ。お前何故中国が弱いか分かるか?」 「???」 「貧しいからだ。貧しい人民が強い国をつくれるか?昔から中国では、良い鉄は釘にならない。良い人間は兵隊にならないと言う。おれは貧乏だが進んで軍隊に入って強い中国を作るぞ。お前は頭が良さそうだから、もっと勉強して豊かな中国を作ってくれ」 更に「俺は日本の侵略に感謝している」と、意外なことを言う。何のことやら分からないで黙ったまま聞いている私に対して、彼が続けて言った。 「もし日本の侵略が無かったら、親父の運命も変わっていた。親父の運命がどこでどう変わっていても、俺は生まれていない。そもそも俺の居ないところに歴史があるのか?分からん。歴史は運命だ」 大牛の反戦教育は分かりやすかったが、彼の歴史認識は、今以て私にも、分からない。 あの侵略以後広くこの地に生まれた人は、全てと言っていい。あの侵略が無かったら、誰一人この世に存在すらしていない。それは、溥儀の子私も同じだ。 _ 寺子屋 _ ある朝、小妹が壁の棚に背伸びをしていたので、抱き上げてやったら、もっと高くという。「もっともっと」と、言うから、肩車をしてやったら、「きゃーきゃー」言ってはしゃぐ。 死んだ妹が元気なら、丁度この年だ。 二牛も加わって、押しくら饅頭のようなことをして、じゃれ合いながら、ちょっとくすぐってやったら、小妹が、もう悲鳴に近い嬌声を上げる。 「何やってるのよ」と?姐まで騒ぎに加わってきた。 彼女の豊な胸を押し付けられたとき、今度は私が息を詰まらせた。とたん股間に強い衝撃を受けて、思わず「バカ!」と日本語で怒鳴ってしまった。 彼女が私の唐辛子を握りしめたのだ。手を挙げたら、「小東西(ちいさなちんちん)あかんべー」と赤い舌をペロッと出して逃げられた。 夕食のときだった。彼女が聞く。 「バカてどういう意味?」 「バカはバカさ」 「小献、あんたまだ日本語を覚えている?」 「当然だろう」 「(吃飯)は日本語で何と言うの?」 直訳したら、ご飯を食べるだが、私は「吃?了?」が中国語で日常の挨拶語だということを知っていた。だから敢えて「こんにちは」と教えたら、彼女が綺麗な日本語で真似してこれを言った。 お世辞抜きで「上手だな」と褒めたら、「本当?これ何?これ何?」と手当たり次第に回りの品物を指さして聞いてくる。「布団」「茶碗」「箸」「水」「石」など身の周りの物は、すぐ覚えた。 大牛が私に尋ねる。「小献お前字が書けるか?」 「うん、少しなら」 「俺の名前は王XXだが、書けるか?」 「XXの字が私には難しくて書けない」 彼が少しがっかりしたようなので、「大牛なら書けるよ」と、地べたに大牛と大きく書いてやったら、彼すっかり喜んで、「よし、これから俺の名前は王大牛だ、うん、良い名前だ」と、自分で自分の通称を本名にしてしまった。 「俺は学校に行っていない。字を習いたいな」 「自分でも勉強出来るよ。このあいだ、君に預けた金はまだ有るかい?」 「一銭も使っていない」 「ならあの金で、本を買いなよ。それから小妹にズボンを買ってやりなよ。もう赤ちゃんでないのだから」 私が肩車してやるのに、尻割れ服ではどうもまずい。 「そうだな。小妹も喜ぶだろう」 大牛が買って来たのは「三字経」だった。「人之初」と私が読むと、「性本善」と彼が続ける。彼に取って当然ながら、中国語は母国語だ。だから、読めなくても書けなくても話せる。意味の解釈は無用。私が読めない字が有っても前後の字が読めたら、彼がその字の読み方を推測する。 「お前この間算盤なんか盗んで来たが、出来るのか?」 私がぱちぱちと披露したら、彼すっかり感激して「お前は何でも知っているな。これからは献老師と呼ばせて貰う」と、私を畏敬の眼差しで眺めた。 大牛の文字学習は、海綿が水を吸うように急速に進歩した。?姐の日本語も、語彙が格段に増えていた。食べる、走る、聞く、話すなど簡単な動詞もすぐ使えるようになった。 北京の一角の寺子屋で、私は浮浪児相手に「献老師」と尊敬を受ける身になっていた。 _ 丁稚奉公 _ 朝霜が降りたある日の夕方、寺子屋の噂を聞いて、一人の中年の男性が訪ねて来た。先日私が算盤を盗んだ穀物商の主人だ。部屋の中を見回して、算盤を見つけたが、軽く頷いただけで、それについては何も言わなかった。 大牛に向かって「部屋を綺麗にしているな」と、褒めた後「お前字が書けるか?」と問いかけた。「少しなら」と、大牛がこっくり頷く。 「算盤はどうだ?」これも、少しなら出来るというように、大牛が小さく頷く。 「今時、字が書けて算盤が出来たら、それだけで立派な人材だ。偉い。誰に習った?」 大牛が、傍らの私を指差す。 「君が噂の日本人少年か。どんな事情があったか知らないが、日本には帰りたくないか?」と私に問いかける。 私が首を横に振ると、そのことについてはそれ以上ふれず、大牛の方へ向いて、「どうだ、うちの店で働かないか?」と問いかけた。 この思いがけない申し出に、大牛が返事に窮していると、「給料は出せないが、年二回春節と中秋節に小遣いをやろう。飯は腹一杯食ってよい」と言う。 この好条件に対して、大牛に勿論異存はない。満面の笑みを浮かべて頷く。 更に?姐の方に向いて「飯が作れるか?」と尋ねる。?姐が頷くと、「掃除洗濯も頼む、条件はお兄さんと同じだ」と言う。これも勿論異存はない。 主人の目が私の方へ向いたとき、私の方から「お願いがあるのですが」と申し出た。 「なんだ?」 「実は、自分で商売がしたいのです」 「ほう、商売?何をする?」 「焼き芋屋をやりたいのです」 「それはいい。リヤカー、芋釜、燃料、材料、最初の資本は私が出してやろう。しっかり稼いで、ゆっくり返してくれ。そこの坊主はこの人を手伝え」と、二牛へ命令する。 最後に、小妹に向いて「あんたは、何もしなくていいよ」と優しく言う。 「食事は、朝夕二回だ。店で皆と一緒に食べなさい。腹一杯食べていい」と言い残して主人は帰った。 大牛が「やったー!」と大声で万歳をする。「俺たちにも運が向いてきた。これも献老師のお陰だ」 「そんなことより、残っている金で服を買おうよ。寒くなったけど、私は夏服しかない」 「俺達はいい。去年のが有る」 「みんなで買おうよ、もうお金は要らないのだから」 「そうだな、お祝いだ。全部使わせて貰うぞ」 明日から働ける。食べる心配も寒さの心配も要らない。これから冬だというのに、皆冬を通り越して春が来たような、幸福感に浸っていた。 _ 新生活 _ 大牛は、ズボンも上着も新調してすっかり店の若い衆として張り切っている。?姐は、赤い襟巻きを買ってきたのが、よく似合う。 二牛は靴と帽子を新調した。小妹は、新しい綿入れにくるまってにこにこしている。私 は、綿入れの上下に帽子靴下全て買い整えて冬が待ち遠しい気分になっていた。 これを見て、店の主人が一番喜んだ。 「馬子にも衣装だな。お前達のやる気を見て、私が一番嬉しい。私は子供に恵まれなかったが、今回一度に子福者になった。これは皆にご褒美だ」と、代表して大牛に紅い包み紙をくれた。それには、今回の衣装代を上回るに十分な額が包まれていた。 大牛は、まず米、麦、大豆、高粱、粟、等多くの穀物の品名、等級、価格、更には産地別の特徴等学ぶことは沢山あったが、学ぶことが楽しかった。 ?姐は、あまり丈夫でない奥さんを手伝って、炊事洗濯など店の裏方を手伝うことになった。店の店員は、これまでも四人居て結構忙しい。合間に店の自転車を借りて練習をするのを楽しみにしている。 小妹は、これまで通り唯ニコニコ笑って?姐の後について回っている。 さて私だが、焼き芋屋は順調だった。二牛は本当に頼りになる。燃料拾い、落ちている物は全部貴重品だ。紙一枚簡単には手に入らなかった。そして何より仕入れは、二牛が居ないとまず無理だった。彼はもともとこの辺りの地理と農家に詳しい。近所の農家との折衝は、全部彼任せだった。 焼き芋は、仕入れ値の三倍で売った。原価、燃料費、利益、償却費を、なんとなく直感で計算したら、そうなった。周りも見てもそれが相場だった。それでもよく売れた。芋の大きさを見ながら、釜の中の配置を考える。そんなことが楽しかった。自分で食べても美味しかった。 二牛が私のハーモニカを羨ましそうに見ていたので、ある日貸してやったら、喜んで練習を始めた。何も教えなくても、子供はすぐ習得する。子供二人のハーモニカの焼き芋屋は、評判の焼き芋屋になった。 _ 初恋 _ ある少し暖かい日、?姐が自転車に乗って焼き芋屋の前に来た。 「小献見て!私自転車に乗れるようになったよ。一緒に何処かへ行こう」 「店もあるし・・・」と私が返事を渋っていると、二牛が「行っておいでよ、店は僕が見ているから」と勧めてくれる。 ?姐が「さあしっかり掴まって」と、小さな私を後ろの荷台に積んで元気よく走り出した。この半年程の間に、私も大分大きくなっていたが、それでも?姐の腰は大きく頼もしかった。 「どこへ行くの?」 「北海公園に行くわよ。すこし遠いけど、夕飯の支度までには帰れるから」 三寒四温。その日の北京は小春日和だった。北海公園には、自転車に二人乗りのカップルが、茣蓙を抱いて幾組か散見された。私達は茣蓙こそ持っていなかったが、カップルであるのは間違いなかった。少し若すぎただけである。日だまりの草の褥に、私達は腰をおろした。 「小献、泣きたかったら泣いていいのよ」と、?姐がすこしいたずらっぽい口調で、両手を胸の前で広げた。 「バカ」と、小声で言って私は横を向いた。 「さあ」と、もう一度?姐が言ったとき、私はくしゃくしゃの顔を彼女に見られないようにして、その大きな胸にむしゃぶりついた。彼女は、母親のことが話題になる度、私が必死に泣き顔を堪えていることを知っていた。 顔を上げたら、?姐の横顔と格好の良い耳たぶがあった。そっとそれにしゃぶりついたら、彼女が「バカ」と小声で身をよじらせた。もう一度強く吸い付いたら、今度は私のなすがままに身を任せてくれた。 どれくらい時間が経っただろうか。「晩の支度があるから」と、?姐の声とともに私達は立ち上がった。 初恋は、早熟な少年の思春期の始まりだろうか。?姐の大きな胸と豊かな耳たぶは、私の少年期の幕を開け、そして永遠に終わらせてくれない。それは今でも思い出す度、母の思い出と重なり少年の日の号泣を誘う。 三日後、また?姐が来た。 「今日は遠くに行けないけど、さあ乗って」と、私を荷台に積むなり走り出した。 「ここでもいいわね」と自転車を停めた所は、荒れた小さな道教の廟の前だった。 道路脇に自転車を置き、二人でしゃがみこんでいたら、飴売りが来た。糖(たん)胡(ふ)芦(る)と言って串刺しにした山査子に水飴をまぶした飴菓子である。 甘酸っぱい山査子を舐めながら「ああ、これお母さんの味だ。でもお母さんはね、これ埃が付いて汚いと言って買ってくれなかったよ」と、私が母を懐かしみながら話したら、?姐が言った。 「小献は、懐かしいお母さんが居るから羨ましい」 「僕のお母さんは死んだよ。どういう意味?」 「大牛に聞いたでしょう。私もお母さんは死んだよ。でも私には悲しいお母さんしか居ないの。小妹も同じだよ」 そして、彼女が「小白菜」を歌い始めた。小白菜」は、この辺河北省の民謡である。 三才で母を亡くした女の子「白菜ちゃん」の悲しい物語が、彼女の歌う悲しい調べに乗って続く。 ++++++ 白菜ちゃんよ 幾つになった 三つになったか 二つか お母さんは死んだのか お父さんと二人で 仲良くしているか お父さんは再婚するの それが心配 再婚して三年 弟が出来た 弟は私よりえらい 弟は?を食べる 私は汁をすする 抱えるお椀に あふれる涙 +++++ 盛り場で彼女がこの歌を悲しく歌い、横で小妹が悲しく笑い、二人は稼いでいた。 大牛始め私達仲間は、その稼ぎで日々を過ごしていたのだ。 私は、放浪前夜大豆粕のスープをすすりながら、弟の食べる高梁の粥を羨ましく思ったことを思い出し、涙が止まらなくなった。 二人は互いの胸に互いの頭を埋めて、人目も憚らずいつまでも涙を流していた。 ?姐は、その後も三日に上げずやって来た。 「お前、可愛い顔に似合わず、ませてるな」と例の泥棒のとき捕まった手代に、揶揄い半分嫌みを言われたが、周囲は皆この幼いロミオとジュリエットを暖かく見守ってくれた。 _ 再び別れ _ 1949年1月31日。旧暦正月3日。春節が過ぎると共に北京は解放された。 無血入城だった。これは撫順に国民党が入ってきたときもそうだった。正確な記憶はないが、1946年のある夏の日、私は東一条通りの我が家の二階から見ていたのだが、トラックに分乗した国民党の兵士が来る。街角に機銃を設置している。騎馬に跨がった八路軍の殿が単騎で駆け抜ける。ややあって、裏の河(渾河)の鉄橋の爆破音がする。多分先の殿騎馬兵の最後の仕事だろう。その間銃声らしい銃声無し。 三国志を見てもそうだが、城の攻防戦で無血入城は珍しくない。勿論血で血を洗う決戦もあっただろうが、むしろそちらの方が稀なのではないだろうか。決戦を前にして双方の諜報戦が勝敗を左右して、無益な流血を避ける。 北京の方式も、十分に準備された諜報戦が先に有ったはずだ。私が林中尉の密書を運んだのも、その後の瀋陽の無血解放に貢献したかもしれない。したはずだ。 中国の大洪水を見る度に思う。それは地平線一帯を覆い尽くす大洪水で、止めることは出来ない。しかし、洪水が来るのは、一ヶ月も前から分かる。 洪水そのものはどうしようもないが、濁流から逃れることは出来る。 北京でも現実を見る人達の力で、無駄な血は流されず、新中国は建国へ向けて大きく前進した。 別れはいつも唐突に来る。 父は、帰国後もずっと私を探していた。父にはそれを頼める昔の同僚もいた。しかし北京の情勢が混沌としたままでは動きがとれなかったのだが、北京解放後明るいニュースも入って来た。 「小献」と呼ばれる日本少年が、そうではないかというのだ。 ある日、北京市のお役人と解放軍の将校がやって来た。父の名前が書かれた紙切れを私に見せて「知っているか?」と尋ねる。私が頷く。 「お父さんは、君に帰って来いと言っている。帰るか?」私はもう一度頷いた。 「やっぱり君だったか!」 私の顔をしげしげと覗き込んだ後、解放軍の将校が、大きな声を上げた。 彼は私が林中尉の密書を運んだ時の、阜新の部隊長だった。 「惜しいな!君も日本に帰るか。今少年兵で入って勉強したら、君なら将来の幹部は間違いないのだが・・・」続いて「日本までの帰国の便は、私が手配してやるから心配するな」と、言ってくれた。 横で聞いていた大牛が思い切った口振りで口を開いた。 「私を解放軍に入れて下さい。体には自信があります。私は字が書けます」 「ほう!字が書ける。偉い。宣伝部に紹介してやろう。いつでもいい。私を訪ねて来なさい。これが私の名前と所属だ」と、メモを渡した。 最後の日が来た。 気持ちだけなら、百%帰りたくなかった。?姐とも皆とも別れたくない。しかし一方で「帰らなくてはならない」と、父への義務感みたいな思いがあった。私は溥儀の子である以前に父の子なのだ。父を騙して北京まで逃れてきたが、やはり帰らなくてはならないともう一度思った。私は運命を受け入れた。 店の主人が「又来い」と言って呉れたが、それが気休めであるのは、皆分かっていた。 大牛が「これも宿命だ」と、彼らしい達観したことを言う。 ?姐は、大きな目を大きく見開いて、必死に無言で涙を堪えていた。 二牛が「ハーモニカを有難う」と礼を言う。 小妹は、いつものように、唯ニコニコ笑っている。 私は、母の形見の珊瑚の簪を?姐にそっと握らせて、最後の別れをした。 _ 再会 _ 日本で待っていた父は、言葉は少なかった。父も私もこういうとき、あまり多くを語るには、感情表現が苦手だった。 祖母は「あんた、北京まで行っとんたんと?ずつなかったろう」と、広島弁で慰めて呉れた。 日本の落ち着いた生活の中で、祖母も普通の祖母になっていた。 「あんた、これが好きだった」と、小さく刻んだ豆腐の味噌汁を作ってくれた。 弟は勿論私を覚えていたが、「信じられなかった」と後日語った。 私は、その後人並みに結婚し、就職も子供にも恵まれた。 退職してまずしたのは、中国望郷の旅である。「北京三泊四日のツアー」に応募した。 まずあの焼き芋屋の場所に行った。一人の小柄な私と同年配の老婦人が居た。 髪には珊瑚の簪があった。?姐だった。彼女が小さくなったのではない。私が大きくなっていたのだ。 彼女は、私を見ても驚かなかった。「お帰り」と微笑んだ。 「何年になるかな・・・?」 「四十六年」と、彼女は正確に覚えていた。 「大牛は?」 「二年前に死んだ。大牛とはいつもあんたのことを話していたよ。二牛と小妹は元気なはずだが、連絡がとれていない」 「今回は皆と一緒だから、ゆっくり出来ない。これで大牛の霊を弔って欲しい。又来るよ。元気でな」と、兌換券を数枚渡した。 「また四十六年待つよ」と、彼女の表情に?姐らしい明るい笑顔が戻った。 「これは夢でないよね」と、私が自分で自分の頬をつねったら、「夢でないよ」と彼女が私の股間を、ぎゅっと握りしめた。 「バカ!」と、私は応じた。痛かった。 赤いレンガの敷石に津々と降る雪。 一枚の病葉が、レンガの下で風に飛ばされそうになっていた。 私は、それをそっと拾い上げ懐に抱いて「今度は君が、思いきり泣いていいのだよ」と、胸を震わせながら、やっとそれだけ言った。 旅の宿の枕は、ぐしゃぐしゃに濡れていた。 (完) 「再見!北京」 作詞作曲 けんちゃん 一 白塔に雲遠く棚引き 馴れ初めの北海 淡き想い胸に芽生えど 言うべき言葉知らず あ!閉じないでくれ 昨日の扉を 北京よ 再見! 二 千頭椿薄く頬染め さすらいの香山 幼き日の想い語りて ときの過ぎるを知らず あ!叩かないでくれ 今日の扉を 北京よ 再見! 三 夜汽車の汽笛細く尾を引き うつろいの頤和園 たぎる心千々に乱れど 抱くべきすべを知らず あ!開けないでくれ 明日の扉を 北京よ 再見! 四 梢に一葉散り惜しむポプラ 病葉の天壇 去るべきとき来たるを知れど 行くべきところ知らず あ!閉じないでくれ 潤む瞳を 北京よ再見!再見!再見! 2 |
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