唐土遍路(前書き)

 私も馬齢を重ねいつしか83年。父が旧満州国で官吏をしていたので、生まれて間もなく旧満州国に渡り、以来なにかと中国に関わってきた。だから私の生涯は、旧満州国から始まり、日中戦争、内戦、新中国の建国、その後の改革開放、一帯一路・・・それは中国の近代史とそのまま重なる。

 思えば我が家は、家庭の事情で祖父の代から中国で暮らし、子供の頃から中国で育った父もまた中国の申し子だった。

 だから、大同学院(旧満州国官吏養成所)を卒業して、旧満州国資材局に奉職した父は、「王道楽土」の建国を心から夢見ていた。我が子即ち私に、「献 」(献上の献)と名付けたのは、皇帝「溥儀」に愛しい我が子を献げるという意味である。そしてこれが「けんさん」の名の由来である。

 

 この名前が私の生涯の運命を支配する。

満州国を最後まで侵略と認めなかった父と、戦後教育民主教育を受け、労働組合の運動の中で歴史を学んだ私と、この面では最後まで二人の意見が合うことはなかった。しかし議論することもなかった。お互いに言いたいことは痛いほど分かっていたから。

 退職後、私はこの宿命の名前を引きずって、北京語言学院に語学留学をした。そのとき父が喜んで、留学費用とそれ以上の物を出してくれた。

 父にとって我が子「献」が新中国と関わって生きていくことは、心ならずも「侵略者」と呼ばれて実現しなかった王道楽土の夢を、違う形で叶えてくれることに他ならなかった。

 こうして、私の献上の対象は、溥儀から新中国に変わった。

 

 いい年をして中国で一人暮らしをしていると、「何故中国で暮らすのですか?」と素朴でもっともな質問をよく受ける。

それに対しては、私も「私は子供のとき中国で育って、中国は私にとって第二の故郷です」と、素朴に答えている。古い思い出は、ともすれば甘くなる。敗戦後の旧満州の思い出は、必ずしも甘い物ばかりではない。むしろ辛い思い出しかない。それでも第二の故郷であることは間違いない。少年期の強烈な印象と「献」という名前の宿命から言えば、そこはむしろ第一の故郷と言うべきかもしれない。

素朴に答えるのは、自分でもこれ以上の答えは分からないからである。

 

ここで暮らしながら、「庶民同士の本音の交流」を目指したこともある。しかし庶民の本音は「是々非々」で」ある。

侵略が是か非か。ここに議論の余地はない。殺人が悪という自明の理と同じく、侵略は言うまでも無く非である。しかし最近はこのことで直接中国人と語り合うことはない。 

私の下手な中国語で話してもあまり上手く思うことが言えないし、優しい中国人は皆さん「過ぎた事です。歴史になりました」と言ってくれて、それ以上の話になかなかならない。

インターネットの掲示板で、「けんさん」のハンドルネームで幅広く愚見を述べさせて頂いたのだが、私が真剣になるほど敵ばかり作って、ある掲示板では「アクセス禁止」という追放処分まで受けてしまった。

だから自分の掲示板を含め、新聞投稿などでもっぱら書いている。

 

2005年に「けんさんの中国ぶらぶら」と題して、拙著を文芸社から出版して貰ったのだが、今回の「唐土遍路」はその続編の意味合いもある。

愛媛新聞に、「へんろ道」という一般投稿欄がある。そこに投稿した物が本編の中核を成している。本編の各項目が500文字程の構成になっているのは、「へんろ道」の投稿スタイルに合わせた物である。

一般投稿欄だから、扱われている内容は必ずしも中国関係だけではない。しかし私は主に中国関わることを投稿させて貰った。

 

とは言え中国は広い。歴史も長い。人口も民族の数も多い。最近の変化も激しい。

浅学非才の身を顧みず、敢えて独断と偏見に近い愚見を並べさせて貰ったのは、「献」の熱い思いからである。

浅学非才は、形容でも謙遜でもない。私の最終学歴は、正式には新制中学卒である。それも戦後の混乱と家庭の事情で三年間に満州、本州、九州、四国と五つの学校を転校してやっと卒業したから、まともに勉強していない。小学校に到っては、国民小学校で入学したのだが、終戦後学校そのものが無くなったから、日僑浮子弟小中学校という国民党政府の学校みたいな所で学んだ。勿論卒業証書なんか無い。

だから私の学問は、全て実社会の中で学んだ耳学問である。よく言えば自分で無い頭を絞った意見だが、独断とか偏見とかのご批判も甘んじて受ける。それが耳学問だから。

しかし自負もある。それは耳学問の一つ一つが、目の前の一人一人の人をそれが誰であれ、師としてと誠実に接し、今の一瞬をひたむきに生きた結果だということだ。

 

大きなことは言わない。言えない。学も力も金も無いから。しかしミクロ法則とマクロ法則はどこかで一致するはずだ。一人と一人という一番小さな社会に国と国という関係の分子があるはずだ。今の一瞬が、歴史の中にあることは間違いない。

遍路は歩きながら考える。一歩一歩見える景色の中で、感動は変わる。変わらないとおかしい。然し思想まで変えるのは難しい。

「唐土遍路」も一編一編はとりとめもない話しで、矛盾だらけかもしらないが、それも一瞬一瞬をひたむきに生きた結果である。

 

 矛盾と言えば、所謂歴史認識も一筋縄ではいかない。先に「侵略の非」は自明の理と言った。しかし侵略のプロセスを歴史としてどう見るか。これが広義の歴史認識だと思うのだが、こういう風に考えること自体がタブー化されている。政治に利用された善悪正邪が前面に出て誇張された狭義の歴史認識はともすれば、歴史その物を捻じ曲げていないか。それが今の歴史と次の歴史の障害になっていないか。

 はっきり言う。日中間に横たわる歴史認識に限るなら、南京問題と靖国問題はその最たる物である。

 そしてその元凶は東京裁判だ。

 

 東京裁判は何だった。正義が戦争を裁いたのか?もしそう言うならノーである。

 何が正義か。少なくとも侵略問題に限って正邪を判断するなら、被告席に座るべき人が、検事席に居た。戦争を裁いたのか。これも疑問だ。核が裁かれなかった。これも被告席と検事席が逆転する問題だったから。

 東京裁判の功罪を、功の一面で言うなら、とにかく戦争を終結させたことである。それを勝者が行った。これもある意味当然だ。それが戦争だから。あらゆる戦争に勝者はいても、正義は無い。

 これ以上書くのは前書きの範疇を越える。その一つ一つに対する私の「耳学問」は、本編の中で述べさせて頂く。遍路は今日も唐土の道を歩いている。

 「ニーハオ広場」で、ご指導を頂けると有難い。

 
 

     唐土遍路  目次

0010  唐土の松山     弘法大師の上陸地点
0020  恩讐を越えて  庶民のぬくもりがある歴史記念館
0030  後悔   一人じくじく飲む酒
0040  何が変わった?   生涯鏡中に在り
0050  見果てぬ夢   傘寿の夢
0060   余生を生きる   くたばった所で静かに
0070  望郷中国東北路   曇り空 濁り雪 ポプラ並木 
0080  瀋陽生活   日本語教師
0090  年の功   年老いた馬は滑る
0100  公害   工業発展の代価
0110  中国囲碁事情   樹国囲碁学校
0120  若者の夢   時の流れに身をまかせ
0130  八十の手習い   中国東北大学留学
0140  大巧若拙   真に巧な者は拙きが如し
0150  偽善者を生きる   偽善者とて往生をとぐ
0160  縁の楽器   尺八教育で交流
0170  瀋陽方丈記   一番小さいミニコミの世界
0180   二十一世紀の若者   スパルタ教育の中で
0190 和気致祥   中国人の声は大きい
0200 九干一水   爆買い去って
0210 渡り鳥雑感   中国三カ月日本一ヵ月の渡り鳥
0220 泣き虫人生   2000体の凍った遺体
0230 諸行無常   命余って金足らず
0240 異性合租   男女相部屋
0250 好事門を出でず   ソーラン節を歌ってくれた
0260 文化等高線   文化の流れ 
0270 無為徒食   恩は着せて貰うもの
0280 中華思想    一衣帯水は差別語?
0290 忠ならんと欲すれば    ひたすら思う
0300 小さくなれ   蝗と流言飛語
0310 歴史の流れ   格差は何処で生まれた
0320 異国風情   中国に伊予蜜柑
0330 和製漢語  逆輸入日本製の漢字
0340 マンモスの牙   牙で滅びるも
0350  一帯一路  現代版シルクロード
0360  郷に入る者来る者  日本被侵略の歴史
0370  自由という幻想   マスコミの権力
0380  中国の敬老   儒教の伝統
0390  耐える眼差し   中国の人種差別
0400  奢る者   無冠の帝王
0410  恣意と人治   中国の汚職の本質
0420  命とコンピューター   人は何処から来て何処へ去る
0430 戦争よ去れ  抗日坊やとおしゃべり
0440  仙人の悩み   仙人は120才まで生きられる
0450 ソクラテスの悩み   飢えたソクラテス
0460  直線と社会    原始社会に直線は無い
0470  瀋陽駄句日記   白菜の枕を並べニーハオマ
0480  一句成仏   一日一句、明日は明日の感性で
0490  金魚の目   金魚は挨拶したら長生きする
0500 人生春夏秋冬    人生の冬景色
0510 愛と憎しみ   歴史は風化する