唐土の松山

 福建省で行われた、第16回世界華人囲碁大会に参加したついでに、この地の霞浦県赤岸鎮に行って来た。もう少し正確に言うと、空海が遣唐使として上陸したこの地に是非一度行きたいとかねて思っていたので、喜んでこの地で開催される大会のご招待を受けた次第。

 開催地福州市から「動車」(中国の新幹線)で約一時間、プラットホームが二つしかないこの福建省の小駅は、「動車」が停まらなかったら何もない田舎町だ。

 駅前からタクシーで市内の木賃宿へ、そのまま記念堂へ向かったのだが、それはどう見ても田舎町の中心地から5キロはない、更に田舎の畑の一角にあった。

 ここは、海岸から数キロある。実際の上陸地点は分からないが、海岸に向かって三キロほど車を走らせてみた。

 ここは少し入江になっていて、道沿いには廃船となった小船、使い捨てられた建設用車などが見える。海岸には野球場ほどの蘆原があった。

 鄙びた漁村の小高い丘の上には、「妈祖」と呼ばれる土着信仰の廟があった。由来書によると1730年の歴史があるという。

 そしてここの地名が、なんと「松山」なのだ。廟の前の海辺に「南無阿弥陀仏」の石碑があるが、ここが実際の上陸地点を想定して記念したものだと思う。

 「松山」の地名が、1300年の時の流れを現代に引き寄せ、お大師様の困難を身近に思わせてくれた。

 

 恩讐を越えて

 中国東北地方、昔日本人が満州と呼んだところの南の一角に撫順市がある。

 昔から石炭が採れ、当時南満州鉄道株式会社(略称満鉄)が経営する東洋一の巨大な露天掘りで有名だった。今は石炭の採掘量は減ったが、液化石油など今なお中国有数の工業都市である。

 ここには、侵略戦争の負のイメージを代表する「平頂山惨案記念館」と「撫順戦犯管理所跡」がある。

 しかし一方撫順市は、旧撫順駅や学校、炭鉱クラブなどの歴史的施設とともに、かつて日本人が住んだ住宅の保存もしている。

 その瀟洒な洋館が立ち並ぶ一角で、近所の年配の男性がボランティアで草むしりをしていた。

 「私は昔撫順に住んでいた日本人で、父は満州国の官吏でした」と言ったのに対し、男性は慰めるように「日本人にも良い人も居たよ」と言ってくれた。

 私はここに「庶民のぬくもりがある歴史記念館」を作るのが夢だ。中国に住んでいた100万を越える日本人の皆が皆、毎日毎日悪いことをしていたわけではない。多くは普通の庶民として暮らしていた。それも長い日中友好の歴史の一部だ。それを風化させたくないだけだ。甘い感傷で、侵略を美化する気持ちは毛頭無い。
 

 

 後悔

 我が酒は 後悔を横にはべらせて 独りじくじく 飲むぞ楽しき

 こう書くとなにか根暗のようだが、実は私は割り切りが早い。というより割り切りに逃げて後悔はしない。

 こんな私でも、80年生きると立派に生きたとは思わないが、それでも多くの人の運命に少なからず関わってきた。「もし私が居なかったらこの子はこの世に居なかった」と言える子が、子供や孫以外にも居る。不倫の子という意味ではない。例えば留学の世話等で、その人の運命に深く関係した人のこと等である。それ以外にも小さなお世話が、大きな結果に繋がったことはある。

 勿論、当人達は殆ど知らないだろう。私の人生にもあるはずだ。私の知らない所で私の運命に関わるお世話をして下さった人達が、私の知らない所に大勢居て不思議はない。

 私は別の人生を想像するだけで恐ろしい。もし私が別の人生を歩んでいたら、私が関わった人達も皆存在すらしなかったはずだから。

 後悔は運命の神に対して不遜である。我が人生感謝こそすれ悔いは無い。

 それでも、小さなことはいつまでもくよくよする。

 なんであんなことを言ったのだろう。

 もっと優しく出来なかったか。

 胸の刺は、小さいほど痛い。酒で癒すには良い肴だ。  
 

 

 何が変わった

久し振りで中国を旅してきた。西安、敦煌、陽関、呼和浩特、北京、撫順、瀋陽と回って先日帰国した。

今回驚いたのは、中国人が以前に増して皆親切になっていたことだ。

一番の驚きは、空港の搭乗手続きで並んでいたら、若い女性が順番を譲ってくれたことだ。どこへ行っても長蛇の列は相変わらずだが、行列の緊張感があまりない。温度空間が広がって前後左右にゆとりが有る。

一方テレビでは、相変わらず抗日番組をどこかのチャンネルで24時間流している。

敦煌で乗ったタクシーの運転手が、「中国人は皆日本が好きではありません」と、ドキッとすることをケロッと言う。だからと言って中国人の優しさに変化はない。

良くも悪くも、普通の隣人として希薄な関係が定着しつつあるのではないか。

そんなことを考えながら、朝鏡に向かっていて、はっと気が付いた。

そこには、見るからによぼよぼ感一杯の老人が居た。中国が変わったのではない。こちらが変わったのだ。まさに「朝日容顰を看れば、生涯鏡中に在り」。

元々中国人は老人に親切だ。日中関係は私の思惑と関係なく、悠久の大河の中にある。

 

見果てぬ夢

 些か自慢話になるが、瀋陽から北京(800キロ)を自転車で走ったのは、古稀を記念して10年前だった。以来車は乗らないから、日本列島縦断(波照間~宗谷岬3300キロ)を走ったのが、73才の誕生日。遣唐使の道を辿る旅(寧波~西安1800キロ)が74才の時。東北三省自転車巡礼(漠河~葫蘆島2000キロ)が76才。

 今でも東京位なら、それほど構えない。

 実は若い時は、(若いと言っても定年になった58才の時だが)四国一周を走って、恥かしながら川内でお尻の皮が剥げ四苦八苦した。今は要領がよくなって、遅いが疲れない。

 私もやっと80才になった。その後10年、益々老獪になって、一日中でも走れる。

 実際に走っている。このペースなら世界一周も行けそうな気になっている。とは言えテントを担いで行く気はない。あくまでも日常生活の延長で冒険は好まない。

 さて、パートナー探しだが、10年前中国で瀋陽北京を一緒に走った友人が、その後もずっとお付き合いしているのだが、病気で倒れた。また近く中国に居を構え、暮らしの中で新しいパートナー探しから始める。

 中国大陸は、私にとってはある意味「庭」だ。ここに「傘寿の夢」を咲かせよう。

 

 余生を生きる

所用で瀋陽に行ってきた。ここは18年前看護婦学校で日本語の教師をさせて貰ったことがある。「もう無理だろうな」と思っていたら、思いがけずも「日本に研修生を派遣している会社でご経験を生かしてもらえませんか」と声を掛けて下さる方が居た。

 流石にこの年では、中国政府の正式な就業許可は貰えない。だから給料は無理だが、それでも家具付きの住居の提供など、私がここで暮らしていくのに困らない環境整備はして下さるとのこと。何よりも求められる熱意が嬉しい。喜んで引き受けた。

 私が求めた我が儘は、一日3時間週4日以内の授業ということ。余った時間は、周辺の農村を自転車でぶらぶらしたり、囲碁学校で子供達と碁を打ったりして過ごすつもりだ。

 生徒の子供の中には、日本では強豪?を自負している私より強い子も居る。それでも終わったら「謝謝老師」(先生有難うございました)と可愛いことを言ってくれる。

 70才以上は市内バスも無料。パスポートで証明するまでもなく顔パス。乗り降りには手を貸して下さる人も居る。自分ではしっかりしているつもりでも、年は争えない。

 「良い年をして何を今更中国暮らし」と思われるかもしれないが、軽い緊張の中をひたむきに生きて、くたばった所で静かに果てる。求めた道だ。余生を生きる者の夢でもある。
 

 

望郷中国東北路

 遠く真っすぐな道が、私の心を突き刺す

 ポプラ並木、濁り雪、けむり空

 この道の果ては我が青山か

 垂乳根の母もここに眠る

 いつか鎮めん心の骨を

 瀋陽市桃仙空港から市内鉄西区への道は、途中昔の飛行場跡を通る。騰飛街、滑翔路などそれを思わせる地名は残っているが、高層建築が立ち並ぶ風景に、昔の面影はない。

 私達家族は、技術抑留者と共に敗戦後三年中国に残ったのだが、国共内乱の中、国民党の軍用機でここから葫蘆島まで脱出した。

 気丈な母が一度だけ、私の膝で泣き崩れたことがある。「貴方が私の遺骨を抱いて帰る」と。結核を患っていた母は30才で夭折した。白木の箱は私の胸にあった。二人の妹と共に。

 今またこの地に戻って思う。「日中友好」を大上段に振りかぶる気は更々無い。第一私は人格者でもなければ、学識経験者でもない。

 ただかつてこの地で暮らした多くの日本人がそうであっように、私も誠実な一日本人を全うしたい。それ位の心意気は許されるだろう。

 

瀋陽生活

 引っ越し荷物も解き、瀋陽での日本語教師の生活が始まった。

 軽い緊張は楽しむ位の気持ちでいたのだが、まず公共バスでラッシュの洗礼を受けた。

 授業は月水金隔日午後一時半から4時半まで。出勤は楽なのだが、帰りが丁度ラッシュアワーになる。行列から弾き飛ばされて、やっと乗ったらドアがぎりぎりで閉まった。

 ここでは、いくら中国人が優しくても優しさの発揮する場所が無い。30分もみくちゃにされて、やっと我が家にたどり着いた。

 授業は男女合わせて17人。全員二十歳前後と孫みたいに可愛い。私の授業は教材らしい教材も無い。ひたすらおしゃべりを通して会話の練習をする。「何でも聞いて下さい」と言ったら「先生は何故中国に来たのですか?」と鋭い質問がきた。

 私の名前「献」の由来、即ち父が元満州国官吏で、満州皇帝溥儀に我が子を「献上」すると言う意味でつけられたから始まって、私が中国を第二の故郷と思っている気持ちを語ったら、その孫みたいな子供から「先生の中日友好に身を持って貢献される生き方を敬服します」と過分なお褒めを頂いた。中国語でだが。

 

年の功

少年期のトラウマだろうか、ここ中国で暮らすと70年前の記憶が今でも涙が止まらないほど鮮烈である。一方来て一ヵ月にならないのに、手袋を二つ失くした。

早く言えばボケたのだが、年を取るということはそれ程悪い事ばかりではない。

老舎の小説「四世同堂」にこんな一節があった。主人公の老人(80才)が沈黙しているとそれだけで思慮深く見えるということ。実は彼は事態が理解出来ないだけなのだが。

沈黙は金也。私も余計なことは言わない。実は、頭が回転しなくて言えないのだが。

授業をしていても、漢字の度忘れがひどい。文法も少し難しくなると、上手く説明できないことが多い。そんな時は「これは私の宿題」と言って先へ進む。

生徒「先生、宿題が多いですが大丈夫ですか?」私「大丈夫、私はすぐ忘れるから」。

すると「先生は惚けるのが上手い」と言ってどっと笑ってくれる。箸が転んでも可笑しい年頃の娘さん達は、寛大だ。

中国語に少し面白い言葉がある。「馬老了滑」。直訳すると年老いた馬は滑る。この「滑」と狡猾の「猾」が同じ発音。私も老馬にあやかって狡猾老獪である。

 

公害

 瀋陽を中国語で書いたら「沈阳」(沈む太陽)である。だからだろうか、ここ中国東北を代表する人口800万中国第五の直轄都市瀋陽には太陽が無い。

 私が住む瀋陽市于洪区は、市の中心から12キロ程西にある。

 冬季は殆ど雨が降らないから、ここ一ヵ月ほど日記には全て晴れと書いてあるが、実際は曇りかどうか分からない。風の無い日は特に酷い。私の部屋は高層アパートの16階にあるのだが、30メートルほど道を隔てた隣のビルの窓は見えるが、100メートルも隔たるビルは、霞んでいる。数百メートル離れたら全然見えない。

元に沈阳影像」という19世紀末から20世紀初頭の写真集がある。それには抜けるような青空が写っている。

「天蒼蒼、野茫々」(空青く、野果てしなし・・・)これはここでは、子供でも知っている東北大地の美しさを描写した詩の書き出しだ。「風吹草低、見牛羊」と続く。

青い空、母なる大地は何処へ消えた。

工業発展の代償と言うには、あまりに犠牲が大きい。これを取り戻すのは21世紀の急務だ。百年の河清は待てない。

 

中国囲碁事情

30年前「日中スーパー」と銘打って日中囲碁対抗戦が行われた。当時の中国はまだ文革の影響冷めやらず、囲碁もとても日本に太刀打ち出来るような状態ではなく、始めは対抗戦というより指導碁に近かった。それが、中国経済の発展に伴い今やその地位が完全に逆転した。世界タイトル戦の殆どは、タイトルを始め上位の成績は中国と韓国によって占められている。

そんな中で中国囲碁界は、今でもかつての師日本の囲碁を「反哺」(恩返し)と言って大切にしてくれている。私もそれにあやかり「瀋陽樹国囲棋培訓中心」というところの名誉コーチという過分の肩書きを頂き、今回そこの招待状で来瀋した。ここは分校を含めると5千人の子供達で沸き返っている。

この学校の名誉校長に宇宙流で有名な武宮正樹九段になって貰っている。

腹に一物有る私は、ある殺し文句を準備して先生に直接電話し単刀直入にお願いした。

武宮先生「何故私を中国に招待して下さるのですか?」。私「先生は中国の子供に人気が有るのです」。この天真爛漫子供のように純粋な大先生は、簡単に篭絡されて下さった。

囲碁は別名「手談」とも言う。白と黒の烏鷺の世界に言葉の壁は無い。子供が大好きな武宮先生と、武宮先生が大好きな中国の子供達が直接盤上で話をしている。

 

 若者の夢

 教科書に「夢」という一文があった。ここでいう夢は生理的な夢だが、少し話題を変えて、生徒達に将来の夢を語って貰った。

 「日本で、お金を儲けて良い自動車を買って日本を一周したい」

 「日本で儲けたお金で、故郷に喫茶店を開きたい」など、微笑ましい夢の外に「お金持ちになって、美味しい物を食べて、良い服を着て、立派な家に住んで、ねえ楽しいでしょう」と、正直と言えば正直だが、およそ夢の無いことを言う子も居る。

 私の夢のついでに、「こうして皆と勉強をすること自体が楽しい。勉強は楽しいよね」と言ったら、「勉強が楽しいはずがない」と一斉にブーイングを貰った。

 中国の教育は徹底した詰め込み教育である。そしてこの子達はある意味その詰め込み教育の敗北者なのだ。だから日本に行って一旗揚げることが夢になっている。

 私の孫娘と同じ年の娘さんが「良い人と結婚したい」と言ったのには、感動した。

 そこでテレサテンの「時の流れに身を任せ」の中の一節「平凡だけど…♪」と鼻歌で歌ったら「あっ、その歌知っている」と全部歌ってくれた。中国の若者は、挫折を逞しく乗り越えて屈託がない。

 

 八十の手習い

 瀋陽市にある中国の東北大学は、1923年に創立された、中国でも有数の総合大学である。

 この度ここの漢語進修班に、一年の語学留学が許された。本来なら年令制限があるのだが「活到老、学到老」(生涯学習)の見地から特に許された。入学申請書に添える身体検査表も、幸い血圧、血糖、心臓、全て異常無。

 記憶力は減退しているが、それはこれまで80年培って来た忍耐力で補える。

 費用は、学費が一年1万5000元。寮費が一日30元。日本円に換算すると、ざっと計算して、学費30万円。寮費年20万円である。

食費が、やはり年20万円くらいだろうか。勿論航空機運賃などそれ以外にも要るが、雑費交際費全てを含め年150万円位で十分に中国旅行も楽しめる。これは私の年金の範囲内だ。

 授業は午前中だけだから、午後は近くの日本語学校で、日本語を教えさせて貰えば、小遣い以上になる。学生ビザで労働は出来ないから、ボランティアの謝礼程度だが。

 中国語では「学無止境」(学びに果て無し)という。高校一年中退の私は、やっと学びの庭に立つことができた。八十の手習い開始だ。

 

 

大巧若拙

松山市南高井の正友寺の注連石に、三輪田米山の筆になる「大巧若拙」という文字がある。

 老子の言葉「大直若屈、大巧若拙、大弁若訥」に由来する。真直ぐに生きる者は屈する、真に巧みな者は拙く見える、能弁は訥弁の如しというような意味だろうか。

 この老子の教えが私の中国生活で巧まざる処世術になっている。

 歴史認識、尖閣、靖国は日中間では避けて通れない問題である。私も馬齢を重ねてこの種の問題には一家言を持っているが「大直若屈」で、ことさらにそれを振り回すようなことはしていない。しかしそれでも、時にそれが話題になれば、持論を述べさせて貰っている。

例えば靖国問題で「遠くない将来、日中の指導者が、双方の英霊烈士に表敬の参拝をしているでしょう」というのはかなり際どいが、私の下手な中国で訥々と語ると、真剣に聞いて貰える。おまけに私は少し吃音がある。まさに「大弁訥弁」。

 話題が難しくなると、私の中国語では理解出来ないときがある。そんな時は「すみません。私は難しい中国語は分からない」と言う。

 「先生惚けるのが巧いですね」と笑って許して貰えるのは、亀の功か「大巧若拙」か。

 決して惚けている訳ではない。

 

 

 偽善者を生きる

 父の日は、中国でも祝う。今日こちらの「群」と呼ばれる、仲間内の老人会みたいな催しにお招きを受けた。

 「貴方の生き方は、私達の模範です。父親代表として挨拶して下さい」と、お尻がこそばくなるようなことを言われたが、これも最高年齢者への気配りかと、厚かましく引き受けた。

 昔、私の父がよく言っていた「天は二物を奪わず」という言葉を引き合いに出して、「若さの体力は失ったが、耐える心は強くなった」と少し格好良いことを言わせて貰った。

 異国で異国の人と仲良く暮らすということは、耐えることである。いや、耐えなくてすむように、摩擦を少なく生きることである。

 ここで私が接する多くの中国人は、あまり日本人を知らない。特に子供達は、私しか知らない。夢を持ってこれから日本に行くため日本語を勉強している子供達に、行く前から夢を奪うわけにはいかないではないか。

 よって私は、一挙一投足彼等の目を意識して、思い切り偽善者として生きている。

 善人なおもて往生す。況や悪人においておや。(歎異抄)。私は、善人にも悪人にもなれない偽善者だが、南無阿弥陀仏。

 

縁の楽器

今私は瀋陽のアパートの一室で、余暇に近所の子供達に囲碁を教えている。

好奇心の塊のような子供達は、私の部屋に入るなり、目ざとく机の横の尺八を見つける。

その中の一人八才の男の子「大牛君」(体が大きいのでつけられた綽名)は、とくに関心が深く、大きな体を折り曲げるようにして、「是非教えて下さい」と言う。彼は横笛を習っている。

 中国では、琴棋書画と言って音楽も碁も書画と同列の芸術として、習い事の最右翼の人気があるのだ。

 そして、人気は爆発的なブームの中で起こる。それは日本旅行の「爆買」を見て頂いたらご想像がつくと思う。

 私の尺八の師、大萩康喜氏は松山の全国でも数少ない若手の製管師だが、また優れた演奏家でもある。なにより若いから進取の気性にも富んでいる。是非氏に一肌脱いで貰って、当地で最高の邦楽をご披露して貰いたい。そしてブームに火を点けて貰いたい。

古くシルクロードを伝わって来たこの楽器が、中国で途絶えて久しい。こうして里帰り出来たらそれこそ「縁」だと思う。

瀋陽はまた小澤征爾の出生地でもあり、日本と音楽交流の素地はある。音楽に国境は無い。

 

 瀋陽方丈記

中国の新学期は、九月である。この度瀋陽市東北大学の「漢語研修班」に入学を許されて、韓国、ロシア、ベトナム、シンガポールの孫みたいな若者達と机を並べさせて貰えることになった。年令の関係で、正規の留学ビザは下りない。学校関係者のご厚意で聴講生である。

聴講生だから、卒業証書みたいな物は無いが、その代り学費無料という、破格の厚遇。

授業は月水金の午前中だけ。午後は、学校構内の日本語教育機関で、日本語を教えさせて貰っている。これまでのアパートは広くて安いのだが、郊外からバス通学がきついので、学校近くの1LDKの小さなアパートに先週引っ越した。

ここは、日本の新聞もテレビも無い。金を出せばあるが、高くて手が出ない。無ければ無いで、無いのも良いものだ。個人と個人という、一番小さいミニコミの世界で生きている。ここには、靖国も尖閣も無い。

かつてガリレオは、あの粗末な望遠鏡で、宇宙を観察し「それでも地球は回っている」と言った。

私もぼんくら頭で葦の髄から天を覗きながら一言。「それでも庶民は平和を愛している」と。ここには、その確かな手応えがある。

 

 

 致祥

 久し振りに日本に帰って、まず思うのは、乗り物の中が静なことである。

 車内放送で、携帯電話の使用注意が流れる。

 携帯電話は話す為の物だったと思うのだが、電話一つにもこれだけ気遣いをして作られた静寂の中で、却って気疲れがするのは、私の神経が中国化したからだろうか?

 中國のバスに乗ってまず感じるのは、中国人の声の大きいこと。

 携帯電話の声が、端から端まで響き渡る。通学の児童が一斉に乗って来ると、まさに蜂の巣をつついた騒ぎ。年寄が何か独り言をぶつぶつ言っている。子供がむずかると、回りの人達が競うようにあやしている。

 久しぶりで聞く子供の泣き声というのは良い物だ。この生命の騒音の中で、却って癒されるのは、私の神経がすっかり日本化したからだろうか?

 中国化した神経と、日本化した神経はときにせめぎ合う。

そんなとき最近良いおまじないを覚えた。

「誰のせいでもありゃしない、みんなおいらが悪いのさ♪」この歌を口ずさむと、そんなことどうでもよい気になって、不思議に心が和む。まさに「和気致祥」和んだ気持ちが吉祥を招く。

 

 

   九干一水

 中国人観光客の「爆買」が、洪水が引くように去った。

 洪水と言えば、1998年所謂九八大水害の直後、私は内蒙古の通遼を旅してきた。

 草原を地平線の果てまで直線に延びる道路に、奥地から家畜を積んだトラックの列が続く。信じられないが、この大平原が全て水浸しになったのだ。その爪痕は残っていた。

 中国大陸を、飛行機から俯瞰すると、平原の丘陵がお椀のように見える。これが、大河の洪水が流れを変えた砂紋の跡だ。

 土地の人は、この現象を「九干一水」(乾燥と出水の繰り返し)と呼んで100年に一度の大水害も受け入れている。

 出水は、また沃土を運んでくれるから。

 アメリカの大統領が、大方の予想を覆してトランプ氏が選ばれた。

 驚天動地だったのか。巨視的に見れば「九干一水」だったのか。この国の歴史はあまりにも浅い。「欲望という電車」に乗ってひた走りに走った国民だが、電車に乗れなかった国民の不満が、洪水を作った。

 日本にとっては良い機会だ。安保条約は見直しを迫られるだろう。当然だ。安政条約だって未来永劫の条約は無い。

 洪水の跡の沃土を期待する。

 電車に乗れなかった対岸の一日本人として。

 

 渡り鳥雑感

 この度の中国暮らしも、早い物で一年が過ぎた。最近は道を歩いていても、よく中国人に道を尋ねられる。こちらが尋ねたいくらいだが、いかにも物知りそうな年寄と敬意をもって尋ねてくれているのだから、私も誠実に少し耳に手をやって考える振りをしてから首を横に振る。実はよく聞こえているのだが、正直言葉が聞き取れないこともあるのだ。

 話は全然変わるが、私は鳥の鳴き声には和音が無いと思っている。同じ生活圏の中で、鳴き声信号が、和音で埋没したらまずくはないか。人類の言葉の違いも、「それぞれの国の異なる文化を背景に発生した」と考えるのが素直かもしれないが、「テリトリーを守る一面から生まれた違い」も無いだろうか。

 いくら中国語をしゃべっても、日本人であることには間違いない。しかしいくら日本人であっても、中国語を話す限り、この多民族国家では、寛容である。事実中国語は、多数の方言は有っても、この56の民族を繋ぐ大きな横糸になっている。

 ここで中国人に間違われるのは、むしろ喜ぶべきだろう。

 言葉は、文化を守る砦でもあるが、その間を吹き抜ける風でもある。

 老いた渡り鳥は、その風に乗って、今日も飛び回る。いつの日いずこの国で羽を休めることになるのやら。

 

 泣き虫人生

 ここ中国東北地方遼寧省は、長白山系に属し、冬季の吹き下しが厳しい。そしてその冬が長い。

 1946年3月6日~9日にかけて、撫順の旧日本人小学校の防空壕から、2000体を越える凍った遺体が運び出された。それは厳寒の中で、春を待てずに裸で遺棄された人達である。

 そこには、北満北鮮から敗戦後避難して来た人達が大勢収容されていた。筵から凍った手足を突き出したまま、40台の馬車に分散された遺体は、長い列を作った。そして近郊の渾河河川敷に運ばれ、荼毘に付されて、遺灰は渾河に流された。

 私の母は同年2月11日に病死、続いて一才になったばかりの妹が後を追った。幸い私達は避難民でなかったので、まだ恵まれていて、火葬場で焼かれた。それでも火葬場には、棺桶が山のように積まれ、子供は二人並べて焼かれた。

 先日授業で、大失敗をしてしまった。教材の中身その物は、出世して正月も帰郷できない息子に母親が餃子を作り、12時間列車に乗って来て食べさせるという、それだけのお話。予習をしていなかったので、これを見るなり、思わず涙が出た。そして声を上げて泣いてしまったのだ。

 ここで母親の話は止めて欲しい。気障な言葉を許して貰えるなら、私は泣く為に、老いの人生を異国で送っている。

 春を待てずに、この先何回涙を流すやら。

 

 諸行無常

 日本語の授業で、「いろは歌」の説明をした後だった。「何か質問はありませんか?」と、いつもの言葉を言ったら「先生は死ぬのが怖くありませんか?」と思いがけない質問が来た。

 私もどっきりして「死ぬのが怖くない人はいますか?死なない人が居ますか?」と、少し鼻白んだ返事をしてしまった。

 それにしても、いろは歌の無常観が理解できるとは、良い感性をしているなと、思ったのだが、どうも質問の趣旨は違ったようだ。

 最近風邪を引いた。授業の前に鼻水を流していたら、「先生病院に行って下さい」と生徒が言うのを聞き流して、日本の保険の話をした。どうもそっちの話の続きだったのだ。

 強く病院行を勧めてくれたのが、子供達の語学力ではこういう表現になった。

 哲学的瞑想にふけるまでもなく、死は年とともに秒読みに入っている。死も恐怖だが、「命余って金足らず」が更に怖い。三途の川の渡し賃は六文だが、それまで幾ら要るのやら。

 よって、25年前の退職金の一部を僅に蓄えているのが、高額所得高齢者とみなされたのか、年金の減額通知と保険料の増額通知が来ていた。

 諸行無常の「金」の声が老骨に沁みる。

 

 

異性合租

「租」は中国語で賃借りという意味。「合租」は、二人で部屋を借りること。この場合は「異性合租」即ち男女で、一つの部屋を借りることである。

中国語の口語の教科書に載っていた話だ。話題として面白いからかなと思ったのだが、実際によくあることなのだそうだ。

中国は衣食住の衣食と公共施設は安い。市内バスは一元(日本円約15円)で、どこまでも乗り放題である。私の毎朝の朝食は、包子という肉まんの小さな物7個5元と豆腐汁2元。合わせて7元(日本円約100円)。

然し、家賃は日本並みに高い。私の今住んでいるアパートは、2DK55平米で1900元。約29000円。学生にはきついから、「合租」ということになる。

一般に、お互いに故郷に恋人が居るそうだ。

孟子は、「男女七才にして、席を同じくすべからず」と言った。流石儒教の伝統が残っている文明古国。中国の男女は聖人君子?そんなことはないだろう。「背に腹は代えられない」と見るべきだろう。

仲介業者が互いの好みを聞いて、「合租」の相棒も紹介してくれるそうだ。改めて、中国人の融通無碍に感じ入る。

 

好事門を出でず

アパートの下に、いつも朝食に使う小さな食堂がある。包子と豆腐汁で7元(日本円約110円)。

すっかり顔なじみになって、黙っていても同じ物を出してくれる。暇なときは、お喋りの相手をしてくれるのだが、ある日ご主人が「さくらさくら」と、ハミングで歌いだした。思わず拍手をしたら、ソーラン節を中国語で歌った。中国のカラオケで「北国の春」は定番である。滝廉太郎の「花」も中国人が中国の歌と勘違いするほど、よく聞く。「里の秋」もオルゴールで聞いたことがある。

2005年(抗日戦争勝利60年)のとき、私と同年配の男性が歌ってくれたのは、「海逝かば」だった。 

抗日戦争映画は今でも三日にあげずやっているが、内容が大きく変わった。当り前のことのようだが、「日本人」と言うべき所では、はっきり日本人と言っている。以前は全部「小日本」(日本への蔑称)だった。残念ながら今でも「鬼子」は日本兵の代名詞である。

日中関係はキナ臭い問題もあるが、小さなしかし一番大事な所(庶民同士の友好)では確かな手応えがある。報道は往々にして好事門を出でず。悪事千里を走る。

然し何があっても、あの戦前戦中の不幸に比べたら、小さなことだ。

 

 

 文化等高線

 瀋陽の新華書店(中国最大級の国営書店)に日本語の教材を準備する為に行った。その一角に200平米はあろうか、各国の語学教本を専門に置いているコーナーがある。多くは英語の教材で、幼児向けから大学教本まで八割はそうだ。約一割が日本語教本。これを多いと見るか少ないとみるか。残りの一割にヨーロッパを始め各国の教本が並べられているのを見るとき、やはり相対的に少ないとは言えない。この割合は私の知る限り25年前から大きく変わっていない。

 そして中国人は皆高倉健を知っている。カラオケには日本語の歌が必ずある。日本のアニメは、子供にも大人にも大人気である。

 この間に横たわる現象を、仮に文化等高線と呼ばせて貰う。等高線というと文化に優劣があるように思われるかもしれないが、私が言いたいのは、そこに吹いている風の存在だ。日中間には、逆風も吹くが友好のそよ風も確かに吹いている。「反日」とか「反中」とか」政治的感情的視点からはそれを捉えることはできない。「文化等高線」は仮の用語だが、長期的に定点観測をする。それは友好の手法というより、友好そのものだ。

 渡り鳥はそれを肌で感じるが、国として定量的客観的指標を作って欲しい。

 

無為徒食

 敢えて過去形で言わせて貰う。私の中国生活も定年後だけでも25年になるが、昔はよく騙された。北京の白タクで、相場の5倍ぼられたこともある。若気の至り、ナンパしたつもりが篭脱けされ、どこにも言っていく先がない間抜け面をしたこともある。毎日何か一つは騙されていた。

 然し最近は全然それがない。私が賢くなった?全く逆だ。よく一人で旅行するのだが、行く先のタクシーでまず言うのは、「私は日本人で、ここは初めてだ。どこでも良い所が有ったら好きに走ってくれ」それで騙されたことは一度もない。タクシーの運転手は最高のガイドだ。下手な交渉は止めた。

 老子は「無為」を説いた。無為無策、無為徒食のあれである。私は「自然体」と勝手に解釈している。歳をとって財布も体も不自由になると、見栄は張れない。自然体にならざるを得ない。

 そんな私を、まさか老子の化身と思うのではないだろうが、皆さん競うように、ご馳走して下さる。連日のように、誰かのご馳走になっている。先日も食堂で知り合った男性が「メシメシ」と言う。これは彼のたった一つ知っている日本語。一緒に食事を誘ってくれているのだ。ご厚意を有り難く受ける。

 恩は着せる物ではない。着せて貰う物だ。

 無為徒食の弁。

 

 中華思想

 多くの中国人は認めてくれないが、私は、日中国交回復の時周恩来が言った「一衣帯水」は差別用語だと思っている。

 「日中間には不幸な歴史もあったが、友好の歴史は更に長い。両国の親密な関係は、横たわる小川より小さい」

 この言葉は、日本人の心を打った。同時にまだ抗日戦争の熱気が冷めやらぬ中、国内の日中友好反対のうるさ型も黙らせた。

 それは、この言葉は隋の楊帝が、臣下に対して「朕が汝臣民を思う心は、親が子を思うようなものだ。その気持ちの隔たりは、ここに横たわる一条の小川より小さい」と言ったことに起因するからだ。

 君臣の情を引用することで、両国の上下関係をはっきり示した。儒教では三綱五常、従属関係をことのほか重視する。これを一部の日本人は、「中華思想」と言って毛嫌いする。

 明治の元勲を教育した吉田松陰は、中華思想について、「世界の全ての点が中心」と説いた。儒教の重要な経典「中庸」でいう「中」は普遍性を指す。即ち「拘りのない普遍的な定理」である。

 どこの国の世界地図も、自国をその中心に置いている。これは思想と関係ない。

 拘りのない「普遍的な定理」こそが、世界平和の中心である。

 

 

 忠ならんと欲すれど

 私なりに「忠」の一字を解釈するに「中」すなわち真ん中に「心」。心は、ハートの象形。

私は一途に思う気持ちを端的に示した、このロマンチックな文字が好きだ。

 しかし皇室は敬うが、忠義を「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことと教えられた暗い歴史も知っている。だから、「君が代」を歌わないのを理由に、職員を処分した行政の首長なんかナンセンスとしか思えない。

 今私は中国に住んでいる。私のパスポートは、滞在国の首長に「日本国民として安全に暮らせること」を求めている。その代償としての義務は、該当国の法律を守り、風俗習慣を遵守することである。

 私は中国共産党に一定の敬意を払っているが、党に忠誠を誓う義務はない。だから「靖国問題」「尖閣問題」「歴史認識問題」などで、中国共産党と違う意見を、党の公的機関例えば社会科学院のあるシンポジュームなどで言うことは自由である。しかし中国共産党は、中国憲法一条で保障された、一党独政の担い手でもある。そこのけじめだ、

 ひたむきに生きる人忠義の人を、私は尊敬する。

 国への忠誠と、庶民の本音が矛盾しないことを心から願う。

「忠ならんと欲すれば孝ならず」とならない平和な社会を。

 

 小さくなれ

 「千里の堤も蟻の穴から」は、一般的には堅牢な構造物も小さな欠陥から崩壊すると、悪い方の例えに扱われる言葉だが、私は逆の意味でも使えると思っている。

 古来中国で歴代皇帝が最も恐れたのは、蝗と流言飛語だった。このどこからともなく飛来する小さな虫の前に、どんな権力も無力だった。蝗の前には、大地の全てが一変した。

 新中国も蝗が作った。中国共産党の政治局員はまさにその蝗だったのだ。

 先日NHKテレビで、中国の環境問題を扱っている番組を見た。汚染の実態。原因となった経済発展。その間に介在する腐敗。抵抗する市民団体。それらを赤裸々に報道していた。

 中国共産党が外国のメディアを使ってまで蟻や蝗に手を貸す必要に迫られたのか、堤は崩壊しないという体制への自信か。どちらにしろ腐敗と環境が、目下の大問題であることは間違いない。

 それが市民運動という、もう一つの中国の恥部、人権問題の危機を孕んだまま、番組は淡々と報道されていた。

 少し私も自信を持ったことがある。私は日中友好という問題を大きく振りかぶりことは出来ない。しかし目の前の一人の人の心の襞に入り込むことは出来る。

 小さくなれ、小さくなれ、小さくなって蟻さんになれ。

 

 歴史の流れ

 中国のテレビで、「富強」(富国強兵)を賛美する歌を、子供に無邪気に歌わせていた。

 「豊かになって強くなる」これが今の中国の国策の中心で、民心をこれで惹きつけている。

 別の番組で、中国外交部のスポークスマンが、南海問題について「反対する国は、歴史をもっと勉強して欲しい」と言っていた。 

 仮に中国が言う「南海諸島が中国であった昔」を認めるとしよう。そのまた昔は言わない。「中国の言う昔」から中国でなくなった現在までの現実をどう理解したらいいのか。

 歴史は流れている。都合の良い所だけ切り取るのは、「両極から見て判断する」中国古来の伝統的思考法と相容れないのではないか。       

強くなって武力で横車を押したら、それが覇権だ。

 私が教わった社会主義は、「富の偏在という資本主義の矛盾を解消するために生まれた」だった。しかし、今やその社会主義国家に存在する天文学的貧富の格差が、覇権への引き金になっていないか。

 日本の軍国主義は、財閥を喜ばせた。ゴルゴ13ではないが、この危機の背後で喜んでいる者がいる。歴史の勉強は、歴史の流れとその背景を学ぶことだ。格差はどこで生まれた?軍国主義の中で育った一日本老人の感慨である。

 

 異国風情

 今私が瀋陽で住んでいるアパートは、「三好街」(電子機器、楽器などの新興繁華街)と「五里河街」(昔からの生活街)の中間にある。

 三好街には「佳能」(キャノン)「YAMAHA」等日本製品が、各国の最新製品の中で氾濫していると言っても過言ではない。

 一方五里河街は中心地に近いのだが、何故か取り残されたように、良く言えば生活の香りが漂う、悪く言えば昔ながらの薄汚さも残った庶民的な街である。

 この庶民的な街の方に、日本語が氾濫していると言えば少し大袈裟だが、注意深く見れば、至る所に日本語が見られる。元はと言えば日本語は漢字だから、当たり前かも知れないが、「異国風情」に(いこくふぜい)とふりがながつけられていると、これはもう立派な日本語だ。「千恵子足道」(足マッサージ店)、「カレーの家」、「吉野家」「寿司」「伝統の味を堅持する親子丼」等々。極め付きは果物屋の店先の蜜柑に「愛媛」と書いてあった。勿論中国産。食堂のおばちゃんが私に「ピアノを弾くのか?」と聞く。先日近くの楽器店でメトロノームを買ったのが、もう伝わっている。「尺八を吹く」と言ったら今度聴かせて欲しいと言う。ここでは、私の存在そのものが異国風情かもしれない。