台湾第一夜 2015年2月26日 夜 チャイナエアラインは、ビジネスクラスしか空が無くて初めて乗った。料金は割引で、エコノミーと大差無し。しかしビジネスはさすが待遇が良い。 1 搭乗手続きの窓口が違う。 2 搭乗まで1500円の簡単な食事券付き。 3 搭乗も優先登場口からで行列不要。 4 機内食が、特別注文出来る。 空港の待合室に、白タクの客引きが居た。少し情報が欲しかったので、これに乗る。1000台湾$。メーターでも1200台湾$というのを調べていたから、行列が無いだけでも良い。それに自転車に積むパニアバッグに荷物を入れて来たのだが、これは自転車に積むのは便利だが持ち運ぶには甚だ不便というのが分かったので、電車から降りて宿までこれを運ぶ気にならなかった。 早速高雄まで自転車で行く方法を尋ねる。 「なに!本気か?」と目を剥かれた。「貴方は台湾の道路を知らない。宿は有るのは有るが、台湾の治安は日本みたいに良くない。貴方は台湾に幻想を抱いている。絶対に止めろ。もう私は忠告したよ」と、親身で止められた。 宿でも尋ねてみた。「今自転車旅行は一つの流行になっている。しかし少なくとも3人以上の団体だ。田舎道には昼でも野犬が居る。最近は大きな自転車屋が出来たから、却って小さな自転車修理店が無くなった。確かに台湾製の自転車は優秀で世界に輸出されているが、国内向けは、輸出品とは違う。自分で修理が出来るか?」と、全てもっともなことを言われる。 野犬は考えていなかった。中国の農村は、昔から犬を飼っている。大陸は比較的管理がしっかりしているが、ここは違うようだ。犬は走る者を追う習性がある。日本でも時々放している飼い犬にやられることがある。ここではどうも日常的らしい。 とにかく現地でないと分からないことが多い。明日は自転車屋に行ってまた調べてみよう。 台湾棋院にも行ってみよう。何か良い情報があるかもしれない。 理想は、同行してくれる愛好者が居ることだ。実は中国には、この種のクラブが沢山あって、私はそちらの世話になっている。撫順日中自転車愛好会の名誉会長もさせて貰っている。 当たって砕けろ。それが自転車旅行だ。 台湾第2日 2015年2月27日 ○当然のことながら、台湾の首都台北は看板の文字が繁体字である以外、どこから見ても中国である。実はもう少し、先進国に近いと思っていたのだが、それは幻想だった。 ○台湾の人は実に親日的である。多くの人が、一生懸命知っている限りの日本語で話してくれる。タクシーの運転手さんは、アリガトウしか知らなかったが、別れ際に「サヨナラ」を覚えてくれた。 ○ホテルのおじさんは年輩だが、日本語が非常に達者だ。小学校二年まで日本語で話していたそうだ。タクシーで自転車を見に行ったのだが、一緒に付き合ってくれた。 ○薬屋で買い物をしたとき、うっかり100円紙幣を一枚カウンタ置き忘れて出たら、追っかけて戻してくれた。 ○夜食事をした店で、白酒を頼んだら無い。社長がわざわざテーブルまで来て「すみません当店にはお酒は置いておりません」と丁重に断られた。 ●ここで一言言いたいことがある。台湾の親日を引き合いに出して、中国は反日だと言う人が居る。それは少し違う。中国も本質的に庶民は同じだ。親日でもないが反日でもない。 台湾の国だって、少し意地悪い見方をしたら、敵の敵は味方として日本を利用している節が無きにしもあらず。日本人はしっかり肝に銘じておくべきことがある。それは台湾が、もし日本を裏切ることがあっても、中国を裏切ることはない。「血は水よりも濃し」なのだ。同じ中国語を話す限り、同胞である。 第七艦隊が台湾付近に出没し、台湾海峡に実弾演習の花火が上がって緊張状態にあったときも、両国は水面下ではしっかり手を握っていた。 内戦の最中に、一日で国共合作が出来たことを思い起せば、私の言うことも納得して頂けるだろう。 日本は日中国交回復のとき、二つの中国と手を結ぶ不道徳なことは出来なかったから、こうなっているが、台湾も中国も現実的に受け入れている。 台湾第3日 2015年2月28日 実は昨日も行ったのだが、今日また台北故宮博物館に行ってきた。 とにかく量が膨大だ。昨日は、途中で疲れて廊下の椅子で休んだら眠ってしまった。 展示品の素晴らしさはそれとして、私は変なことに感動した。これだけの物を「敗走のどさくさの中でよくぞ運んだ」と。敗軍とはいえまだ軍紀もしっかりしていて、余力を残していたのだろう。 今日は土曜日とあって、大陸からの観光バスが行列を作っていた。日本からの見物客も多く、日本語の説明文が各所にある。例の有名な玉の白菜の展示品の前には長い行列が出来ていて、ガイドの説明禁止の張り紙があった。流れるように見るだけ。 どうも自転車旅行は、今回は諦める。決定的な障碍は、肝心の自転車が無い。ここはGIANTの本拠地だから、何ぼでもあると思ったのだが、10台位しか商品がないしょぼくれた自転車屋が二軒あっただけ。それと奥歯が一本ぐらぐらして調子が悪い。 勇気を出して撤退しよう。少し準備から考え直すことにする。 インタネットはあるので、終日囲碁ばかり打っている。ここまで来て碁を打つか? 台湾第4日 2015年3月1日 高雄まで自転車で行くのは諦めたが、折角来たのだから列車で行くことにした。 隣に座ったご婦人に中国語で話しかけたら、綺麗な日本語を返された。 彼女は台湾の旅行会社の総経理。そして日本語のガイドを専門にしているとのこと。 なんという幸運。自転車旅行のつもりだったから10日の滞在予定で飛行機の切符は買ってある。滞在期間一杯、行き当たりばったりでぶらぶらするつもりだったのだが、彼女が台湾の地図を広げながら日程に合わせて旅行計画を作ってくれた。 3月1日 高雄泊 当地の名所観光 3月2日 台南へ日帰り。ここは日本の京都に当たる台湾文化の里だそうだ。 3月3日 台東へ。ここは台湾有数の温泉地。 3月4日 花連へ。ここでタラコ峡谷観光 3月5日 台北へ。 3月7日 帰国。 幸い連休明けだが、旅行シーズンだから先に切符を買うようにと勧められる。高雄駅で全区間の切符の手配が出来た。 宿は私は心配ない。中国でも行き当たりばったりでどこでも泊まれる。 自転車旅行で大事なことは、なんでも食べれる、どこでも寝れる、誰とでも話せるである。 昔祖母が、「口さえ有ったら江戸まで行ける」とよく言っていたが、まさに然り。土地の人こそ生きた地図だ。幸運はおしゃべりから生まれる。 生きた地図と言えば、私は何処へ行ってもよく道を尋ねられる。台北でも大陸からと思われる人に車を停めて道を尋ねられた。 私が「すみません。私も土地の人間ではありません」と中国語で答えたら、怪訝そうな顔をされた。もしかしたら、私は大陸の中国人に非友好的な本省人と誤解を受けたかもしれない。 おりしもその日は228事件の日だった。1947年2月28日。大陸から来た「外省人」(国民党の軍隊と共に来た人)と「本省人」(元から台湾の居た人」との衝突があり、多くの本省人が殺戮された。まさか日本の爺ちゃんが、台湾を一人旅をしているとは思わなかっただろうし、「不好意志、我不是本地人」と流暢?な中国語は、怪訝な顔をされたのも無理がないほど嫌味に聞こえたかもしれない。 台湾の人、特に若い人は中国人と間違われることを非常に嫌う。30がらみの総経理のご婦人に率直に尋ねてみた。「台湾は親日ですが、それでも貴方達はもし何かがあって日本を裏切ることがあっても、中国の同胞を裏切ることは無いでしょう」と。 彼女曰く「それは分かりません。大陸の人はよく兄弟の兄のように振舞いますが、台湾はいつも大事な時に、大陸から見捨てられてきました。鄭成功の明の時代に始まり、オランダの支配、イギリスの支配、日本の統治と全部そうです。日本の統治は大きく分けて、差別から始まり、懐柔そして最後は同化、特に太平洋戦争が始まってからは完全に日本人扱いでした。」 口調は、淡々と事実を語ったもので、日本の統治が良かったという意味あいはない。 「日本人は、植民地化された経験がない。台湾の歴史は植民地の歴史なのです。」 台湾人としてのアイデンティティの根源はこの辺にあるようだ。 見方によれば、清の割譲も侵略されたというより、爪を切って捨てたくらいの感覚だったかもしれない。台湾人は、捨てられながら生きてきた。 註 日本兵となった台湾人 軍属(1937年ー1945年) 126、750名 軍人(1942年ー1945年) 80、433名 総数 207、183名 戦死者数 30、306名(15%) 日本厚生労働省援護局資料.(1990年発表分) 彼等の多くは戦後復員後国民党軍に強制徴用され、内戦の敗戦で共産党軍の捕虜になり、更に朝鮮動乱に派兵されて戦死した。 台湾第5日 2015年3月2日 別名台湾の京都と呼ばれる、台南に行ってきた。 高雄からは、台湾鉄道で40分ほど。殆ど住宅地が途切れない沿線は、人口密集地帯である。 時々見える田んぼは、もう田植えが終わっていた。台湾は二毛作だ。 途中の駅名、岡山とか仁徳は日本統治時代の駅名の名残でないかと思ったが詳しくは調べていない。 台南駅では早速タクシーに乗り、例によって「私は、ここに初めて来た日本人だけど、貴方がお勧めの場所を適当に走ってくれますか?」と切り出した。 運転手さん暫し考えながら、言う。「包車(借り上げ)ですか?なら1時間300台湾$です。しかしここは小さな街の割りにタクシーはどこでも拾えます。観光ガイドブックを差し上げますから、これを見ながら行きたい所へ行かれたら如何でしょう。無駄使いすることはありません」と、良心的かつ商売気のないことを言われる。まず鄭成功の廟まで乗せてくれた後は、孔子廟と台湾総督府跡は、教えられた通り歩いて観光した。 歴史博物館は残念ながら今日月曜日は休館。 赤坎楼(鄭成功の居城)を見て屋台の店に入った。ここの「小吃」(郷土料理)は有名である。高級料理を緊張しながら食べても全然味が分からないが、気軽に食べるどこが美味いか分からん田舎料理は、本当に美味い。 塩味のスープに小魚の団子汁。それと米の粉を餅状に練って甘辛く味付けしたもの。好みで卸大蒜を入れるが私はたっぷり入れた。値段が又憎いほど安い。二つでセットになっていて50台湾ドル(日本円で約150円)。正式の名前は教えて貰ったが、よく聞き取れなかった。また後で調べよう。 奥歯が少しぐらぐらする。高雄の宿の前に丁度小奇麗な歯医者さんがあったので、行った。院長さんは、25年前愛知大学に留学したそうで、卒業証書が額にあった。私は歯は磨かないが歯医者にはこまめに行く。 「旅行中ですから、簡単に治療にしておきます。本格的な治療は帰国後して下さい」とのことで治療費400台湾$。 台湾第6日 2015年3月3日 5時半モーニングコール、起床。7時10分の列車で台東へ向かう。 南端は平地が無いのか、長いトンネルを幾つか抜けて、やっと太平洋側へ出た。 9時33分台東着。温泉地と聞いてきたのだが、駅前には何もない。大きな無人駅という感じだ。タクシーに乗るなりご当地の名所旧跡を回って欲しいと頼んだのだが、「そんな物はありません」と笑われた。「大陸の人には、海岸線が人気が有ります」ということで取り敢えず走って貰った。 島国の日本人にとって海岸線は面白くもおかしくもないが、大陸の人はバスを連ねて来ている。 温泉は一つ手前の駅の「知本」という所に有るとのこと。道理でそこで大勢の人が下車した。 仕方がない。「知本」までタクシーで戻って貰う。整備された海岸のドライブ道路は快適だが、メータも快適に上がる。海岸観光を含めて1310台湾$。 宿は、運転手さんが予め電話を入れてくれていたので、総経理自らお出迎えの賓客待遇。 嬉しかったのは、WIFIが安定している。高雄では回線が不安定でネット碁を打ったのだが、優勢な碁を時間切れ負けの不愉快な思いをした。 中華料理は、グループで円卓を囲んで食べるには向いているが、一人で食べるのに適当な食堂がない。仕方がない。コンビニ弁当で済ます。コンビニは日本風のおでんもある。 はるばる台湾まで来て、コンビニ弁当でネット碁を打ってるのだから世話はない。 夜按摩を頼んだ。温泉地ということで多少よからぬことを期待したのだが、この道たっぷり30年という貫禄十分のおばちゃんが来た。「大陸からか?」と聞くから、そうだと返事した。しかし会話がすぐ途切れる。分からない言葉は、耳が遠い振りをして、考え考えゆっくり答える。べつに日本人とばれてもいいのだが、少し気持ちに疚しいところがあったので、中国人で通してみた。 台湾第7日 2015年3月4日 台東駅までは公共バスもあるのだが、タクシーを呼んでもらった。 「最近は大陸との関係はどうですか?」と、私が尋ねたのがきっかけだった。64才という、一見不愛想な運転手さんは意外に話好きで、駅までの30分間を教師口調で、エンドレステープの講義が始まった。 正直私は正確には聞き取れない。しかし聞き取れる単語から論脈を推察して相槌を打つ。 例え正確に聞き取れたとしても、正確に理解出来るとは限らない。例え正確に理解出来なくても、一生懸命聞こうという態度は相手に伝わり心の交流は生まれる。逆に触れたくない問題のときは「申し訳ない、私は難しい中国語は分からない」と、惚ける。 私はいつもこの手を使う。 大陸との関係は、彼が使った「分久必合」(三国志の書き出しの一節、分かれること久しければ、必ず合う)から、機が熟せばまた一緒になると理解した。話は発展して日本の統治時代に及んだ。彼の言う「古い記憶は美化される」から、日本語を話す世代の人達にとって統治時代のことは、恩讐の彼方に去っていると、私なりに理解した。更に歴史教育問題と発展しかけたのだが、駅に着いた所で講義は終わり。 今回の台湾旅行は、私にとって世界一周自転車旅行の伏線である。自転車旅行は毎日が大小何かトラブルがある。日本では殆ど問題ないが、外国は私は中国しか経験がない。しかし台湾は、世界旅行から見たら小島だ。だから敢えて何も準備をしないで来た。 臨機応変と言えば聞こえがいいが、毎日が出たとこ勝負である。 だから今日の花蓮ももし、高雄までの車中であの旅行社の総経理に会っていなければ来てないかもしれない。 花蓮の駅の手前で、隣の若者に土地の人かと尋ねたら、そうだというので、更に太魯閣(タラッコ)渓谷への行き方を尋ねたら、駅前の旅游局の案内所を教えてくれた。 駅前のタクシーに太魯閣までの往復を聞いたら2000台湾$という。それはないと思ったから、旅行案内所に行ったら、バス乗り場を教えてくれた。バス乗り場には、丁度「天祥」行のバスが発車寸前だった。「天祥」はどんなところか運転手さんに聞いたら、山の観光地だという。どこでもいいやと乗ったら、「本当に行くのか」と何度も念を押す。「行くよ」と返事をしたら、「なら老人は半額86元です。お釣りは有りません。100元下さい」ということで乗った。隣のご婦人が、「何故本当に行くかと運転手さんが尋ねたのは、こんなに遅く行っても観光の時間がないからです」と言う。では「天祥」に宿が有るか尋ねたら「有るけど一泊最低で5000台湾$します」とのこと。仕方ないなと思っていたら、運転手さんが、「私がお勧めするのは、手前の太魯閣で降りて、そこで観光して天祥から帰りのこのバスに乗って花蓮に戻り、そこで泊まれば良い」と言ってくれる。なんだ、元々私が行きたかったのは、太魯閣なのだ。行き当たりばったりにしては幸運。 太魯閣渓谷は、花蓮から台中へ抜ける山脈横断道路の途中にある。2キロ位ある長いトンネルを歩いて抜けて、更に渓谷を下る。私は渓谷は橋の上から眺めるだけにして戻った、 さて、明日も幸運を祈って。 台湾第8日 2015年3月5日 今日は台湾観光旅行最後の一日。チェックアウトを早めに済ませて、花蓮市内の廟を回ってみた。 どこもみな歴史が浅い。民国紀元で100年無い。中華民国の紀元は1912年1月1日。街の規模はかなり大きいが、マス目になっていない。多分何もない漁村から無計画自然発的に膨張したのだろう。 花蓮から台北までは、台湾鉄道で二時間10分。最初の一時間ほどは停車駅も無い。人家もまばらな荒れ地に近い。 今度台湾の列車に乗ってみて、不思議なことに気がついた。車内が日本の新幹線なみに静かなのである。中国の列車は、端から端まで甲高い声が響き渡っている。日本語は静かに話して美しい。中国語は、大声で話すのに向いていると思っていた。然し台湾も言葉は中国語だ。 台湾は街も道路も静かだ。中国のあのけたたましいクラクションの騒音が無い。 私は日本の神風タクシーもクラクション殺人騒動も知っている。それがいつの間にか静かになった。 静かと言えば公園が静かになった。子供を静かに遊ばせるのが躾?そうだとしたら絶対におかしい。子供は元気に遊ばせるべきだ。 ツイッターで、「乗り物でやかましい子供を放置する親がゆるせない」というのが話題になっていた。そして「親が、すまなそうな顔をしたらゆるせる」と。 娘が母親になったばかりのときに言っていた。「乗り物で子供がむずかると針の筵」だそうだ。 その点中国は子供天国である。子供がむずかると、周囲の人達が挙ってあやす。 中国瀋陽に「五愛市場」という総合市場がある。衣類食料電気製品なんでもあり。ここの騒音が半端でない。「ワーンワーンワーンワーン」と全員で合唱しているように不思議な4拍子の騒音のうねりを作っている。 中国人は、やかましい子供のまま大人になる。 日本人は、子供の時から静かな大人である。 台湾人は、静かだから、中国人とは言えない。 こんな変な結論をだすつもりはない。しかし、中国人は何故やかましいか。これは結構面白い比較人類文化学のテーマになると思う。 台湾旅行帰国の日 2015年3月6日 飛行機の切符は7日までだったのだが、予定を一日切り上げて帰ることにした。 今回の旅行はトラブルテストの意味もあったので、敢えて無計画に行った。世界一周を見据えた場合、台湾は条件が良い。言葉が通じる。親日的である。風俗習慣も見当がつく。治安も良い方。先進国と言える国である。大抵のトラブルは乗り越えられるはずだった。 ところが最初の一歩で躓いた。なんと思った自転車が買えなかった。台湾は世界的にも最大のメーカーが2社ある。何百台もずらっと色々な自転車が並んだメーカーの直売店みたいなものを期待して来たのだが、売れ筋の自転車つまりママチャリに毛が生えたようなのしかない。高級車もあるにはあるが、選べるような種類がない。店の主人が「有るのに合わせて乗れ」と言う。 10年前の若い時(と言っても70才だが)なら、瀋陽~北京をママチャリで走ったこともある。 しかし今回は見送った。一回戦は不戦敗。 これから、組み立て式のミニバイクを日本でテストしてみる。どの程度走れるか。 運搬の負荷はどの程度か。 ミニバイクで、バス旅行を主体に計画を見直す。 関空から特急はるかに乗ったのだが、台湾からの団体客と一緒になった。行く人来る人。すっかり意気投合した。 |