「おい、リト」
「……」
「おいって。何ふくれてるんだよ、お前」
「……」
「…──無視すんなよなあ」
最後の言葉がやけに近くで聞こえたかと思うと。
「!?」
不意に二本の腕が背後からにゅっと伸び、次の瞬間には抱き竦まれるような形で捕まっている自分に気付いた。
「〜〜〜っ、カティル!?」
怒りを込めて腕の持ち主を睨みつけると、彼──
カティルは人を食ったようないつものにやにや笑みを浮かべてリトを見下ろしていた。
身長差があるので、リトは首を限界にまで捻らねばならなかったが、それも気にならない。
今日という今日は我慢出来ないと思った。
「…離してよ」
「へいへい」
あっさりとリトを開放し、カティルは悪い事などしなかったとばかりに肩を軽く竦める。
「ったく、ガキは扱い辛いぜ」
「悪かったわね、ガキで」
敵意を込めて答えれば、カティルはへらりと笑う。
「ま、仕方がねえけどなあ。安心しろ、お前が育つまでちゃんと待ってやるって」
いかにも感謝しろと言わんばかりの言葉に、リトはかっとなって叫ぶ。
「余計なお世話っ! もう構わないで!!」
すぐにカティルは大人ぶる。彼だって、世間常識の範疇(はんちゅう)で行けば、十分子供のくせに。
そう思うのだが、口にはしない。
言ったら最後、またカティルのペースに乗せられてしまうに違いないのだ。実際、今まで彼に口で勝てた例はない。
だが、確かに成長期の十代での三年の差は大きい。身長差だって力の強さだって、男女の差と言うだけでなく存在する。
それに三つしか離れていないとは言っても、十歳のリトと十三歳のカティルには、単純に三年という時間の壁以上の差が確かにあった。
多分それは人生経験の差と言うのだろう。
物心つく頃からほとんど自分の力だけで生きてきたカティルと、ついこの間まで母親の庇護の下にあったリトとでは、どちらがより『大人』かなど比べるだけでも愚かしい。
「そう、とんがるなって」
にやにや笑って、カティルの手がリトの頭をポンポン、と軽く叩くように撫でる。
子供扱いするなと言った端からこの扱いだ。もはや怒る気も失せた。
「折角会えたんだし、仲良くしようぜ?」
見下ろしてくる空色の瞳は何処か懐かしい。死んだ母親を思い出させるからだろうか?
リトの母親── エレンも空を映し取ったような瞳を持っていた。リト自身は受け継がなかった、空の瞳。
もっともエレンの瞳が春の空なら、カティルの瞳は冬の空だとリトは思う。それ位、印象が違う。
エレンの瞳は包み込むような穏やかさと優しさがあった。でも、カティルの瞳は鋭くて強くて──
そして遠い。
性別の違いだと言われたらそれまでだけども。
「── わたしは、カティルなんて嫌い」
乱暴で、意地悪で。
「大嫌い。だから、仲良くなんてなりたくない」
「へえ?」
カティルが軽く片眉を持ち上げる。その表情はやはり何処か人をばかにしている感じだ。
「本当に嫌いなんだから!!」
本気で取り合って貰えない腹ただしさから怒鳴れば、カティルは呆れたようにため息をつく。そして苦笑混じりに口を開いた。
「わーかったって。…ったく、だからガキだって言うんだよ」
けれどその口調は、ばかにしていると言うには何処か優しい。
「初めに言っただろう? お前の意志なんか関係ないって」
冬の瞳が自嘲するように細まる。何故だかリトはその瞳から目を離せなかった。
「…俺は、俺自身の為にお前を守るって決めたんだよ」
+ + +
「…おかあさん、また気分が悪いの?」
舌足らずな声で、リトは目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、先程まで見つめていたものに良く似た、空を映した瞳。
「…── フルール」
それが自分の幼い娘のものである事に気付くのに、少し時間がかかった。
夢と現実が曖昧になって── いや、心の何処かで夢が覚めるのを拒んでいたからだろう。
「だいじょうぶ?」
娘── フルールが心配そうに覗き込んでくる。リトは心配を取り除くように微笑んで見せた。
「大丈夫よ、フルール。…ちょっと夢を見ていただけ」
「…こわい夢?」
子供らしい問いかけに、リトは頭を振る。
「違うわ。そうじゃないの、昔の夢よ。…フルールのお父さんの夢」
「おとうさん?」
今年で三歳になる少女はきょとんとした顔で反芻する。
おそらく、自分が産まれる前には死んでしまっていた父親の事など、想像も出来ないからだろう。
かつての、自分と同じに。
(…会わせてあげたかった)
カティルに。この子を。
彼は何も知らずに死んでしまったのだ。リトの中でこの小さな生命が育まれていた事を。
(── 会いたい)
望んでも叶う事のない願い。
あの遠かった冬の瞳が、本当は優しかった事をリトだけは知っている。
嫌いだったのに。口を開けばいつだって喧嘩腰で。でも──
いつの間にか何よりも大事な人になっていた。
あんなに呆気なく失ってしまうだなんて、夢にも思わなかったから…自分から好きだと言えないままだった。
どんなに呼んでも、乱暴に揺すっても、二度と開く事のなかった瞳──。
「おかあさん?」
「…フルール、あなたは後悔しないでね」
「?」
不意に抱き締められ、少女は訳がわからず目を丸くする。
「大事な人が出来たら、大切にするのよ」
「…うん」
果たして言われた事をちゃんと理解出来たのかはわからない。多分、よくわかってはいないだろう。
それでもリトは言わずにはいられなかった。
自分の死期が近い事を、リトは何となく悟っていた。
『自分達』はきっと基本的に短命なのだ。彼女の母、エレンも三十を前に死んだように。
それが何故か、今のリトはもうその理由を知っていた。そしてそれが、避けられない事である事も。
「…あなただけは、どうかこの呪いから逃れて……」
自分は死を恐れてはいない。でも、この幼い娘を一人残す事だけが心残りだった。
リトは願った。
いつか彼女の娘が出会う運命の相手が、自分達に課せられた呪縛から娘を解き放ってくれる事を。
いつか『還る』場所を、見つけ出せる事を──。
〜終〜