その日の空は、まるで彼等を嘲笑うかのような晴天だった。
明るい陽射しは分け隔てなく地上に注ぎ、一見平和そうな空気を生み出す。…けれど確実に、戦いの火蓋は落とされようとしていた。
「何故…争いあわねばならないの? 彼等だって、人間なのでしょう?」
「タミア……」
彼女── タミアの言葉に、彼は表情を曇らせた。
必死に彼を見上げる、黒い瞳。
そこには心の底からの、争い合う事への悲しみとやるせなさ、そしてこれから戦いに赴く彼への、僅かな非難が見て取れる。
地母神の化身と謳われた、麗しく聡明な…およそ非の打ち所のない彼女の、そんな視線を平然と受け入れられる程、彼は大人ではなかった。
反射的に顔を背けたそこに、畳み掛けるような彼女の言葉。
「共にこの世界で生を受けた者同士が醜く争うなど、地母神も嘆かわしくお思いのはず。この争いを止めるべきなの。だから……」
タミアは大地と生命を司る、地母神の巫女。
最も女神に近しく、最も高貴な存在として扱われていた。…そんな彼女だからこそ、その言葉は言えたのだろう。
神殿の奥深くで慎ましやかに暮らす彼女にとって、人と人が傷付けあい、憎み合う事は理解出来ない事なのだ。
たとえその神殿に程近い場所で、何人もの同胞がほぼ無抵抗に惨殺されている事を事実として知っていても、完全に当事者にはなれはしない。
流血は死と腐敗の象徴。
もっとも清らかであるべき地母神の巫女が、そんなものに触れる機会もなければ触れられるはずがないのだ。
「ティセオス、あなたも考え直して。血で血を洗っても、それはまた新たな血を呼ぶだけなのよ」
彼女は必死に彼に語りかける。
彼を引き止める為に。彼を死から遠ざける為に。
── けれど、彼女は思いもよらない。血で血を洗う行為すらも、彼等にはほとんど許されていない事を。
状況は…圧倒的に不利なのだ。
いつ、この神殿へ敵が現れるのかもわからない。そしてもしそうなったなら。
タミアは確実に殺されるだろう、必要以上に惨たらしく。そして地母神の巫女の死は、確実に敵の士気を上げる事だろう。
心の拠り所であり、象徴たる存在の片割れを失えば、彼を含めた大部分の人間が絶望を味わうに違いなかった。
けれども、彼女にはそこまでの自覚はない。
必要以上に怯えさせないように、あえてそうした事を聞かせないようにした結果がこれだった。
「…タミア、僕は君を守りたいんだ」
── 結局、彼が言えたのはその事だけだった。
それは紛れもない事実。けれど、実際はそれ程単純ではない。
…もはや、彼等には神に仕える神官までも武器を手にする所まで、追い詰められていた。
彼等を束ねる王が、一族を守り導く為に自ら剣を手に最前線で闘っているように、彼等も自身と自らの守りたいものの為に戦いに赴く時がやって来たのだ。
「だから僕は行くよ」
「いや…行かないで、ティセ!」
タミアは蒼白の顔で悲鳴のような声をあげた。
耳にするだけで心が痛む、悲痛の声だ。
けれど、彼はそれを振り切るようにその場を後にした。振り返りもしない。
振り返れば…きっともう、彼女の願いを断りきれないに違いなかったから。
── 彼も。いや、彼こそ願っていたのだ。
この不毛な争いが解決し、ただ己の愛する人の幸せだけを祈って暮らす、そんな日々がおくれる事を……。
「行かないで……!」
涙の気配を漂わせた言葉が彼の背を打つ。
それが彼の、彼女に関する最後の記憶──。
+ + +
イカナイデ
ワタシヲ・ヒトリニシナイデ……!
+ + +
「……」
ゆっくりと開いた目に飛び込んできたのは、闇。
それが夜でない事は確かだった。ひんやりと肌に纏わりつく冷気は、微かに土の匂いが混じる。
── それもそのはず、ここは地下だ。
光満ちた地上から、一体どれ程離れているのかもわからない、深い深い…大地の奥底。
「…また、目覚めてしまったのか」
ぽつりと呟く。その言葉はその場の空気を揺らしもしない。声に出しているつもりでも、音にはなっていないからだ。
確かめるように両手を持ち上げる。
確かにそこに白くたおやかな── 家事もろくにしていなかった、傷一つない手があった。
けれど、その両手はもう、何かに触れる事は決してないのだ。
「── また、生まれたのか。天の魔物……」
ぎゅっと、両手を握り締める。
湧き上がるのは、暗い憎悪。怒りの熱ではなく、憎しみの氷が胸の奥底で凝り固まっている。
どんなに時間が経っても、溶ける事のない氷……。
「ならば狩るまで。…全ての根が絶たれるまで、狩り続けるだけ……」
この前殺すには至らなかった、あの男に子がいたのだろうか。
その前に殺した女には、娘がいた。それが子を産んだのだろうか?
さらにその前に呪いをかけた男は、今はもう死んだだろうか──。
「生まれれば、狩る── 天の血を持つ者は全て絶やす」
握り締めたその両手から目を離し、そっと視線を横にずらす。闇の中に仄かに浮かび上がる影にそっと微笑みかけた。
「…そうすれば、きっとあなたの呪いは解ける。きっと……」
もはや触れる事も叶わないとわかっていつつも、手を伸ばす。そこに横たわった、青年の手にそれを重ねて。
「待っていて…いつか必ず、あなたを救ってみせるから──」
その願いの為に、こんな姿になった。
その願いの為だけに、何も知らない数多くの命を奪った。
人の生命を奪うなど到底出来なかった自分が偽りであったかのように、そこに何の迷いもない。
『血で血を洗っても、それはまた新たな血を呼ぶだけなのよ』
何故だか、かつて自分が彼に告げた言葉が思い浮かんだ。
甘かった自分。何も知らなかった自分。
── 無知であったが故に、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
その罪を贖う為ならば、この身がどうなろうと、何人もの血が流れようと構わないとさえ思った。
…血で血を洗う行為をしているのは、誰だろう?
「…聞こえる」
何処からか聞こえてくる歌声。
いつも目覚めを促すのは、誰のものともつかない歌声だった。同じ人間のものではないのに、そこにある本質が同じである事はよくわかる。
そこに行かねばならない。
そしてまた、何処までも追い詰めてその生命を絶つのだ。
何度も…何度でも。
…願う事は、ただ一つ。
── 最愛の人を安らかな眠りへ導く為に……。
〜終〜