待草

それは奇跡。祈り願い…そしてその花は花開く。

 

これは満月の夜だけに咲く、花の話。

昔、一人の聖人がいた。
心に闇を持たぬ、稀有(けう)なその人を多くの人が敬愛し、
一度なりと会ってみたい、そして言葉を交わしたいと願ったと言う。

+ + +

そんなある日、一人の娘が聖人の元へ訪れた。

それはとても清らかで美しい娘。
肌は白く、髪は漆黒。瞳は濡れて輝く夜の闇。
慎ましやかなその様子に、聖人は心打たれた。

しかし、その娘には一つだけ不幸があった。
彼女はその悩みの余り、聖人の元へやって来たのだった。

「どうか私の話を聞いて下さい」

娘は静かに語り出す。
時は新月、星明りのみが大地を照らす闇の夜。

「わたくしは子供の頃から闇の中だけで生きて参りました」

語る娘の身の上は、夜の静寂(しじま)に淋しく紡がれる。
生まれつき光を受け付けぬ身体。
陽が地上を支配している間は、窓のない部屋に閉じこもり、
陽が姿を消してから、ようやく彼女の時間は動き出す。

「…こんなわたくしですが、不幸ではありませんでした」

娘は言う。
光には愛されなかった娘には、けれども優しい両親と、
何時しか恋人になった幼馴染の青年がいた。
陽の愛が万物へ与えられるものならば、彼らの愛は娘一人の為のもの。

「けれど…一つだけ、どうしても捨てきれない願いがあるのです」

ある時恋人が、自分へ持ってきてくれた色鮮やかな花束。
ある時両親が、自分の心を慰めようと部屋へ運ぶ鉢植え。

どれも娘を喜ばせたが、同時に娘を悲しませた。

「一度でよいのです。
一度だけでいいから…この目で、大地に息づく花々を見たい。
命溢れる…その姿が見たい」

聖人は娘を気の毒に思った。
心優しき娘には、恋人の花束も両親の鉢植えも、
その花の命や、思うままに成長する可能性を奪うものにしか思えなかったのだ。

…けれども、花は陽の世界のもの。
光を受けて草花は成長し、葉を広げ、そして花開く。
夜の世界では、ひと時の眠りに就いたものしかないに違いなかった。

「…わたくしは、近々結婚するのです。
こんなわたくしを妻にしてくれるあの人に、こんな我が儘は言えません。
けれど、ずっと誰かに話してみたかったのです……」

娘はそう言い、聖人に礼の言葉を何度も繰り返すと、
夜の道を迷いのない足取りで帰っていく。
やがてその途中から、人影は二つに増える。
娘の恋人が心配して迎えに来たようだった。
遠めでもわかる睦まじい様子に、聖人は娘の哀しみを思って益々気の毒に思った。

+ + +

その翌日のこと。

聖人は知人の魔法使いの元へと訪れた。
聖人は数多くの悩みを受け止めてきたが、言葉で癒される傷や痛みであれば
彼自身の言葉や行動で力になる事が出来た。
けれど今回のような悩みには、彼は本当に無力であり、
その事を彼は事実としてわかっていたからだ。

魔法使いは気紛れな気分屋。
けれど、その才能を聖人はよくわかっていた。
そしてあらゆる知識をも、同時に魔法使いは有していた。
聖人は尋ねた。

夜に咲く花はあるか、と。

魔法使いの答えは簡潔だった。

「そんなものはこの世界中を捜してもないだろうが、新たに生み出す事なら出来るだろうよ」

+++

そして、満月の夜。
娘の婚礼を前に聖人は彼女の元へ訪れた。

「あなたの願いが叶うかもしれません」

聖人は言った。

「ただし…それは一夜の幻で終わってしまうかもしれない。
それでも構わないのならば、あなたの恋人と一緒に私について来てくれませんか?」

娘は驚き、そして素直に喜んだ。
けれど…最後に困った顔になった。
娘自身の描いた夢に、何故彼女の未来の伴侶を伴わなければならないのか、
その理由がわからなかったからだ。
娘は尋ねたが、聖人は微笑むばかりで答えない。
ただ、一言。

「喜びを共に分かち合うのならば、愛する方がよいでしょう?」

その言葉に娘は顔を赤らめ、そして一度頷くと恋人を呼びに出て行った。
やがて恋人を連れて戻ってきた娘を伴い、聖人は村の外れの森の中へと彼等を案内した。

+ + +

森の中。
木々が切れ、月の光が降るその場所で魔法使いは彼等を待っていた。
黒いローブを身に纏い、夜の闇に溶け込んで。
魔法使いは聖人に一度頷くと、さて、と娘と恋人を顧みた。

「さあて、うまく行くかお立会い」

魔法使いはおどけた口調で話し出す。

「月の光は水、娘の願いは種。聖なる者の祝福はその苗床に」

歌うようなその言葉に、娘もその恋人もただ黙って聞き入るばかり。
魔法使いは手に持った大きな杖を一振りし、彼らの前の地面を叩く。

「「育て、奇跡の花」」

魔法使いと聖人の声が重なった。

魔法使いは命じるように。
聖人は祈るように。

彼等は一つの呪文を口にした。
それに呼応するかのように、杖が叩いたその場所から小さな芽が頭を出す。
つややかなそれは、真っ直ぐに降り注ぐ月光の下で、仄(ほの)かに燐光を纏(まと)っているようだった。

「我が育成の力を受けし、あらざる緑よ。娘の願いを花開かせよ」

魔法使いは楽しげに呪文を唱える。
すると、その呪文を口にした途端、闇に沈んでいた彼の瞳は闇の中で緑に輝いた。

「さあ、あなた達も」

ただ魅入られるように目前の光景を見ていた娘と恋人に、聖人は優しく語りかけた。

「願い…そして祈りなさい。その時、この魔法は完成する。
祈りこそが不可能を可能とするのです」

その後を引き取るように、魔法使いは謎かけのような言葉を紡ぐ。

「そう…そして花が開くにはあと一つ足りないものがある」

ソレハナンダ?

恋人達は顔を見合わせた。
月の光──水。
娘の願い──種。
聖なる者の祝福──苗床。

ナニガ、タリナイ?

奇跡の花は見る間に育ち、蕾(つぼみ)をつけた。
けれど、そこから先には進まない。
娘の願いは叶わない──。

「ああ、そうだ……」

娘が途方に暮れた時、思いついたように娘の恋人が呟いた。
花が開く為に必要なもの。
けれど、娘にはわからないもの。
彼にはその答えがわかった。
ずっと娘の側で、娘を見守りつづけた彼だからこそわかったのだ。

それこそ、聖人が彼を伴った理由。

「足りないものは、『光』──」

硬い殻に覆われた『種』が育ち、花開く為に必要な『光』。
闇ばかりを見てきた娘が、見出した光。
光は決して、陽の光だけを示す訳ではないのだ──。

+ + +

かくして奇跡は花開き、娘の願いは叶えられる。

魔法使いはやれやれ、と苦笑混じりに肩を竦め、
聖人は喜びを分かち合う恋人達を微笑んで見守った。

満月の夜に生まれたその花は、今も満月の夜だけ花開き、
その姿を見せると伝えられている。
そして、その花を見る事が出来た恋人達は、互いに生涯の伴侶になるという。

かつて、それを生み出した恋人達がそうであったように……。