極空の魔鳥達(トレイラー版)

1932年

ところが、北海道では労働力の需給バランスが内地と逆転していた。特に人口が多い道央圏では、第一次、第二次産業の機械化がかなりの程度まで浸透しているにもかかわらず人手が不足していた。これは、東京、大阪といった他の大都市圏と異なり、道内への生産人口の流入が家族ぐるみでの移住という形態をとることが多かったためだ。事実、北海道へ流入する生産人口と非生産人口の比率は平均でも一対三を超えていた。これによって膨れ上がった都市の機能を維持するためには、第三次産業に従事する膨大な労働力が要求される。しかも、第三次産業における機械力による省力化の恩恵は、他の産業ほど大きくなかった。そのため、生産人口の絶対数が増加しているにもかかわらず労働力の供給充足率が低下するという奇妙な現象が発生していた。

無論、これは労働市場の絶対的な規模が急速に拡大する過程で生じた一時的な歪みに過ぎなかったが、その歪みが適正な状態に補正されるまでの期間で、日本国内には大規模な将棋倒し現象が発生していた。内地の失業者のみならず、小作農や零細自作農が次々と土地を捨て、労働者として世帯ごと北海道に流出し始めたのだ。労働力の供給不足が続く北海道では、有効求人倍率が平均で三倍近い状態が慢性化していた。そのため、北海道における労賃相場は必然的に高騰を続け、労働者の平均年収は内地の農家の平均収入を大きく超えるまでになっていた。

これに泡を食ったのは、食料計画を狂わされた農林省だった。北海道を除く全国で、耕作者の不足により放棄や休耕を余儀なくされる農地が続出していたのだ。ことに近年の不況で生活基盤がダメージを受けていた東北地方の山間部などでは、集落が丸ごと移住して消滅する例すら現れていた。商工省への抗議は、何の役にも立たなかった。商工省自身もあまりの事態に困惑していたからだ。彼らが問題視していたのは、十年来のリセッションによって失業率と企業倒産件数が急上昇を続ける内地の状況であり、その逆ではなかった。むしろ、内地の人余りを北海道か吸収して適正な雇用機会が確保されることは、彼らの目的にとっては好ましいとさえ言えた。農林省と商工省の利害対立の結果として、この事態に対して政府は何の手も打てずにいた。

最終的に動いたのは当事者達だった。小作農の逃散(といって良いだろう)によって経営危機に見舞われた寄生地主層が、一斉に機械力の導入に踏み切ったのだ。農林省は慌てて止めようとしたが、現実という絶対の説得力の前にその試みは無意味だった。激減した労働力で農地を維持するには、それ以外の選択肢は存在しなかった。

だが、農業用機械の操縦技術は土木や建築といった分野でも潰しが利くものだった。そして、その種の技能者は賃金高騰が続く北海道で大量に必要とされていた。機械化の結果発生したのは、農業と建設業の間での労働力の奪い合いだった。そしてその中で、旧来の小作農制度は完全に崩壊していった。ただでさえ農産物価格が暴落を続けているこの時勢、生活向上の道が開いていることが判っていて小作農の待遇に甘んじる者はいない。寄生地主は小作農達に分散貸与していた土地を一元的に集約管理し、それだけでなく中小の自作農からも土地を買い集め、その代わりに彼らを賃金労働者として雇用しなければならなくなった。すなわち、会社企業への転身によって生存を図ることを強いられたのである。

1941年

1942年6月

第七八一航空隊という名前は耳慣れないものだった。しかし、部隊名から大体の想像は付いた。海軍の航空隊には、番号による明確な命名規則があるからだ。おそらく、大湊鎮守府所管の陸攻部隊が新編されるのだろう、そう思った。

しかし、横須賀に搭乗員が集められたとき、小橋中尉は困惑した。集合した搭乗員が、三十名足らずしかいなかったからだ。これでは陸攻三機分がせいぜいではないか。最初は最低限の運行要員だけで任地に進出するのかと思ったが、確かめてみると搭乗員の中で操縦者は小橋中尉を含めても士官四名、准士官と下士官が各一名しかいなかった。中尉はますます困惑することになった。どうやら、本当にこの部隊には陸攻三機しかいないらしい。たった三機の陸攻で、何をさせようと言うのか。

小橋中尉の疑念の一端は、それから間もなく受け取った命令によって氷解した。第七八一航空隊は、輸送機で千歳に移動して機種転換訓練を受けることになったのだ。小橋中尉は、一転して武者震いを覚えた。四千メートルを超える長大な滑走路を擁する千歳基地は、日本における大型機建造の聖地だった。新設計の大型機が現れた際には、必ず千歳で試験と最初の装備部隊の編成が行われるのが通例だった。すなわち、自分達は千歳で新型機を与えられることになるのではないか。

気がつくと、九一式輸送機は既に陸地の上空に差し掛かっていた。眼下には、針葉樹の疎林と入り混じった市街地と工場群が延々と続いている。そして、目指す千歳基地が見えてきたときだった。

中尉の前の席から窓の外を見ていた二階堂大尉が、驚いた声を上げた。つられて視線を移した中尉は、次の瞬間絶句した。

信じられないほど巨大な後退翼の四発機が四機、駐機場に並んでいた。滑走路の外れに停まっている九六式陸攻が、まるで軽飛行機に見える大きさだ。主翼下に懸吊された発動機ひとつとっても、陸攻の胴体並みの太さがある。全長も全幅も、ともに六十メートルはありそうな巨人機だった。

小橋中尉はようやく得心がいった。これほど巨大な機体であるならば、一個飛行隊がわずか三機で編成されているのも頷ける。おそらく、この巨人機一機で一個飛行戦隊の陸攻に匹敵する攻撃力を持っているのではないか。

1943年2月

戦況は予断を許さなかったが、全体的にはそう心配するほどの状況ではなかった。確かに空襲の規模はこれまでにないほど大きいものだが、戦場はこれまでにも攻防の焦点となってきた一帯ばかりだし、防空戦闘機隊は善戦しており、今のところ大きな被害の報告は出ていない。むしろ、敵は母艦航空隊まで投入しなければならないほど追い詰められているとも考えられる。ここは後詰を投入して一気に道東の制空権を確保すると共に、敵空母を叩く好機ではないか。

そう進言しようとしたときだった。通信士官が電文を手に駆け込んできた。受け取って一読した塚原長官の表情から余裕が消える。向き直った塚原長官は、蒼白な顔で告げた。

「襟裳岬南東沖で、特設駆潜艇が敵駆逐艦と交戦ののち連絡を絶った。状況からして、空母も存在する可能性が高い」

情報の意味を理解するのに、一瞬の間が必要だった。そして次の瞬間、岡林少佐は愕然とした。敵空母は、釧路への空襲に加わったものだけではなかったのだ。

続報が入るにつれて、状況の深刻さが明らかになった。大湊の航空隊が急遽送り出した電探機は、大型艦6隻以上の反応を報告してきた。そして電探機は、報告の直後に夜間戦闘機との遭遇を打電して撃墜された。こんな海域に夜戦が現れたということは、陸上からの飛来ではありえない。間違いなく敵艦隊は複数の正規空母を含んでいる。

だが、それにも増して浮き彫りとなったのは、この海域における日本側の警戒態勢のまずさだった。実は襟裳岬から津軽海峡にかけての海域は、北日本の防衛体制にとっての「柔らかい下腹」とも呼ぶべき場所だった。この方面の哨戒体制は沿岸監視哨と駆潜艇によるものがほとんどで、定期的な機載電探による空中哨戒などは行われていなかったのだ。そうなった理由は明白だった。この海域は、北千島に展開する敵重爆の攻撃範囲からは大きく外れている。さらに、近在には大湊鎮守府、室蘭要港部、函館警備府と三つもの拠点軍港が存在し、防備は極めて厳重だ。自然、襲撃の手段は潜水艦によるものなどに限られる。その先入観があったものだから、対戦警備の充実には努力が払われていたものの、対空・対水上警備の手はおろそかにされていたのだ。

米軍は、その隙を見逃さなかった。昨年冬以来頻度を増していた長距離偵察機による十勝沖や三陸方面への航空偵察は、この防備態勢の穴を探るためのものに違いなかった。実は日本軍の内部でも、水上艦による軍港への襲撃を危惧する声は北千島戦開始の当初から存在した。だが、第五艦隊と第三航空艦隊の増強が進み、第八艦隊と第一機動部隊までが増派された今、その危険は極めて少ないと見なされてきたのだ。

だが、米軍にとってこの作戦には、それだけの危険を冒す価値があった。十勝沖を長駆突破してしまえば、道央地区は目と鼻の先だからだ。千歳に展開する超重爆とその生産施設を破壊してしまえば、連日アリューシャン列島を直撃している補給路への脅威を取り除き、北千島に上陸した米軍の行動の自由を確保できる。中部千島への侵攻を諦めていない米軍にしてみれば、これは是非とも手にせねばならない成果だった。

逆に日本にとっては、小樽から室蘭にいたる道央圏は東京や大阪にも匹敵する都市圏であると同時に、国家の生命線そのものだった。千歳の航空基地や付属する工場群ばかりではない。室蘭の製鉄所や発電所、苫小牧の港湾設備と資源備蓄基地、鵡川の弱電工場群、どれが失われても日本は戦争遂行能力のみならず民生においても甚大な障害を生じることになる。

そうでありながら、日本側の対応は緩慢なものだった。敵艦隊の攻撃目標を絞りきれなかったためだ。確かに常識的に考えれば、敵の第一攻撃目標は千歳の航空基地と周辺施設群だろう。だが、だからといって道央に迎撃戦闘機を集中してしまうわけには行かなかった。万一米艦隊が矛先を変えて大湊に襲い掛かった場合、防ぐすべがないからだ。まずいことにこのとき、大湊には空母七隻を基幹とする第一機動部隊が入港していた。しかも現在は北千島への輸送作戦を支援するための出撃に備えた補給作業中で、大半の艦が急速出航できない状態にある。無論、艦載機を飛ばして迎撃戦闘に参加させることも無理だった。

仕方なく、第一機動部隊でかろうじて緊急出航可能だった戦艦陸奥と重巡利根に、室蘭に居合わせた第五艦隊の軽巡多摩と駆逐艦数隻をつけて夜戦を挑むことになった。ところが、出撃した艦隊は浦河沖で、戦艦と重巡複数を含む有力な直衛艦群に遭遇した。空母の撃破を目指す日本側は、陸奥と利根で敵を引き付けて水雷戦隊に突破させる戦術をとったが、米軍はそれを逆手に取り、レーダー管制と見られる正確な射撃で腰だめ同然に狙い撃ってきたという。その結果、水雷戦隊は多摩と駆逐艦二隻を失い、他の艦も大小の損害を受けて撃退された。さらに、残存艦の撤退を支援するため殿軍を務めた陸奥が夜戦艦橋に直撃弾を受け、艦長以下の艦首脳が全滅する被害を受けていた。