獅子の葬列 〜大英帝国崩壊顛末記〜


 かつて世界の海を支配した大英帝国が凋落を始めたのは、1942年に地中海の制海権を失って以後である。フランス・イタリア・スペイン連合の波状攻撃の前にジブラルタル、マルタ、アレキサンドリア、スエズといった主要な拠点全てを喪失し、北アフリカと中近東に対する影響力を遮断された結果、植民地帝国から独立国家連邦へと緩やかな変革を遂げつつあった大英連邦の領域は東西に分断されることとなった。1944年夏、これ以上の防戦を至難と判断した連合王国首脳は、ボロボロになった本国の艦隊/航空戦力をかき集めるとオーストラリアへと脱出する。主を失ったイギリス本土が陥落したのは、それから3ヶ月足らずの後のことであった。皮肉にもその頃、太平洋地域のイギリス戦力は日本の助力のもと合衆国太平洋艦隊を圧倒し、アジア・オセアニア全域を席巻していた。

 本国を脱出する際、イギリス首脳はいつの日か本土を奪回し、連合王国を中心とした大英連邦を再建することを夢見ていた。その夢は1946年の太平洋制圧、1951年のインド洋制圧を経て、1952年に地中海の制海権を同盟軍が握るに至りついに実現を見るかと思われた。
 だが、連合国の中核を成す「マスメディアの国」アメリカは一枚も二枚も上手だった。同時にアメリカと言う国家は、ひとたび敵と見なした国家に対してはある意味極めつけに残忍になれる特徴を持っていた。占領下のイギリス本土に対する施政は、それを如実に表すものだったのである。彼らはまず、イギリス本土をイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの四つの共和国に分割した。そして教育・放送・出版界において大々的な公職追放をおこない世論支配力を奪うと、それぞれの共和国のあらゆる教育・マスコミ手段をもちいて極端に排他的な民族主義キャンペーンを展開したのである。程度の差こそあれ、四つの共和国(とはいえ、実質的にはアメリカの支配下にある半独立国状態だった)における互いの国民感情は悪化の一途をたどった。旧連合王国首脳が戻ってきたとき、そこにあったのは秩序と伝統を美徳とする人々が住まう紳士の国ではなく、民族浄化の名を借りたテロリズムと果てしない国境紛争が横行する混沌の無法地帯だったのである。

 それでも、かつて連合王国の母体であったイングランドでは事態は遥かにマシだった。かつての主人たちの“凱旋”を、人々は憐憫と同情と安堵と、幾分かの冷笑を以って出迎えたからである。イングランドにおける名目上の立憲君主制が回復するのに、さしたる手間は掛からなかった。だが、ウェールズとスコットランドは連合王国への復帰を強硬に拒んだ。国内の把握で手一杯のイングランドに、この状況を打開する手立てはなかった。イングランドにとって両国はもはや共に王室を戴く連合国ではなく、国境を脅かす敵でしかなかった。

 これに比べると、直接国境を接しないアイルランドの対応はまだしも冷静だった。彼らは新生イングランド王国に対して「過去の遺恨は水に流す」と声明を発し、対等な完全独立国同士と言う立場の下での基本修好通商条約の締結を申し出たのである。イングランドにとっては地獄に仏とはいえ、残酷なまでに皮肉な現実であった。彼らがヨーロッパで頼りにすることができる国家は、遠く離れたロシアを除けば、彼らがつい数十年前まで全力をあげて弾圧してきたアイルランドしか残っていなかったのである。王都の座に復帰したロンドンでは、王制反対過激派やウェールズ・スコットランド系ゲリラによる爆弾テロが連日発生していた。イングランドを盟主とする大英連邦の復活こそ成し遂げられたが、もはや、かつての古式ゆかしい連合王国の復活は見果てぬ夢だった。イングランド・スコットランド・ウェールズの三国間の民族感情がおさまりを取り戻して平和条約が結ばれるのは、これより100年近い時を経た2037年のことである。

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