大陸間戦略爆撃進化論


 日本がはじめて手にした戦略爆撃が可能な航空機は、昭和11年に海軍が制式化した九六式陸上攻撃機だと言える。当時の爆弾搭載量は、まだ最大800kgと僅かなものだったが、過荷状態で6200kmに達する航続距離といい、当時最新鋭(とはいえ、諸外国の機体にくらべれば少なからず旧式化していた)の九五式戦闘機よりも高い最高速力といい、当時としては強力な防護火力(7.7mm機銃3丁、20mm機銃1丁)といい、「敵地へ長駆進出して爆弾を投下する」という用兵思想を実現するにはうってつけの機体だった。
 また、九六式は同時期に開発された合衆国のボーイングB-17よりもひと足先に戦略爆撃を経験していたことも、大きなアドバンテージだった。戦訓を元に、後継機に対してより的確な改良を施すことができたからである。これは、国民党軍に対する兵器供与や義勇航空隊という形をとっていた国共内戦よりも、直接台湾から発進して共産党軍に対する攻撃を行った共産圏紛争の時代において顕著であった。また、当時未だに爆撃機の運用思想について明確な結論を出していなかった合衆国が、B-17の次に採用した機体が、まるで失敗作としか言いようがないダグラスB-23だったことを考えても、のちの日本が大型爆撃機の開発において世界をリードする立場にのし上がったのは必然だと言える。この当時から、下地はできていたわけだ。
 とはいえ、最初から何もかもが順調に進んだわけではなかった。少数生産された陸軍の九七式重爆撃機を経て、昭和15年に制式化された百式重爆「呑竜」は、海軍にも一式陸上攻撃機として採用され、合計2500機余りが生産されるという平時としては画期的なセールスを記録した機体だったが、性能的には九六式の延長線上にとどまっており、欠点であった装甲防御力と消火設備の欠如と言う問題は改善されていなかった。この状況に曙光を差したのは、翌昭和17年に制式化された二式陸上攻撃機「深山」である。これは、イギリス製アブロ・ランカスターのライセンス生産モデルだったが、頑丈で機体構造の信頼性に優れ、搭載量と防御火力に恵まれた「深山」の活躍は、軍首脳に大型爆撃機の生産および運用を再考させるに十分なきっかけとなったのである(これには、三大洋戦争──当時は内南洋戦争と呼称されていた──が、いずれ本当の意味での総力戦となることが予見されていたためもある)。なんと言っても、数百トンもの鉄量を抱えて、数千キロに及ぶ距離を高速で進出可能な兵器は、他に存在しなかったのだ。

 昭和15年頃より始まった陸海軍運用機種統合計画において、守旧派最後の牙城といわれた参謀本部航空課が昭和20年に陥落すると、いよいよ大型爆撃機開発計画(秘匿名称○暴計画)は最終段階に入った。手始めに、「深山」の量産によって培われた技術を参考に開発されたのが、中島六式重爆撃機「連山」である。
 「連山」は、このクラスの機体としてはそこそこ成功したといえる。最高速力は四発機としては当時世界最高峰ともいえる590km/hをマークし、20mm機銃8丁という防御火力にも不足はなかった。装甲防御力も、日本製の機体としては劇的に改善されていた。
 しかし、この当時合衆国では既に、全長30mに達する巨体に最大9トンもの爆弾を飲み込み、高度10000mを570km/hで飛行し、2000kmを超える作戦半径を誇るボーイングB-29が実戦配備され、南洋の日英同盟軍基地の空を脅かしていたのである。この怪鳥にくらべれば、全長わずか22m、爆弾搭載量4トン弱、作戦半径1600km少々という「連山」のスペックは、明らかに見劣りがするものだった。
 さらに、この時期合衆国では、全長50m、爆弾搭載量14トン、最高速力580km/h、作戦半径実に6800km という化け物、コンベアB-36が開発中であった。この機体が完成すれば、ハワイから日本本土を直接窺うことも不可能ではなくなる(もっとも、この心配は結局杞憂に終わった。太平洋の制海権を一気に掌握した海軍が、昭和21年秋にハワイを陥落させてしまったからである)。「連山」では、すぐにでも限界が来る。おまけに、合衆国を東西から扼する要衝の一方であったイギリス本国は、昭和19年夏に陥落してしまっている。降り注ぐ鉄量の驟雨の中で日本が敗れていく幻影に、軍首脳は恐怖した。

 中島・川西・三菱・空技廠の四者による産軍合同体を中核として、超重爆撃機の開発計画(○天計画)がスタートしたのは、昭和21年の松の内も明けて間もない時期である。試行錯誤と紆余曲折を繰り返した末に昭和24年、やっとのことで産声を上げたのが、九式重爆撃機「富嶽」だった。
 4年もの間、性能不足の「連山」で耐え忍んだ将兵の苦労は報われた。「富嶽」は、それだけの時間を費やしたに見合うだけの高性能を備えていたのである。
 最大の難問であったエンジンは、中島飛行機発動機部門が総力をあげて(過労による殉職者が10人以上をかぞえたと言われる)開発した、ハ−168「豊」33型が採用された。空冷四列星型36気筒、最大出力5220馬力の怪物6基が、爆弾20トンを抱えた全長55mの巨体を660km/hで引っ張る。作戦半径もB-36には及ばないとはいえ5200kmに達し、正規の装備法ではないものの、フェリー用の増槽を装備すれば、8トンの爆弾または貨物を搭載して12000kmを飛行できた。実用上昇限度は13300m。言うまでもなく、大半のレシプロ機が(たとえ過給機の力を借りたとしても)行動力を失う高度だ。燃料タンクや爆弾槽、エンジンの周囲には、20mm弾の命中に耐えられる装甲が張り巡らされ、自衛火力も20mm機銃16丁と充実していた。合衆国陸軍が保有していた戦闘機で、「富嶽」に対抗できる機体は皆無と言ってよかった。高高度性能の劣るベルP-39や、旧式化著しいカーチスP-40は論外。ロッキードP-38とリパブリックP-47は高高度性能と速度性能に優れた名機だったが、いくらなんでも13000mの高みに昇るのは無理。艦上機としては稀有な上昇性能を備えたグラマンF8Fも、高度12000まで上がるのがやっとだ。唯一、パッカード・ユモPJ462エンジンを搭載したノースアメリカンP-51が、13500mの実用上昇限度と最大780km/hの速度性能によって「富嶽」に対抗可能な機体と言えたが、半分ドイツ製のエンジンを採用していると言う一点をもって需品系統の上層(とうぜん、その背後にはライトやプラット&ホイットニーといった、パッカードのライバル社の影がある)からサボタージュじみた無言の圧力を受け、実戦配備は遅々として進んでいない。実戦配備の進みつつあったジェット戦闘機──ロッキードP-80の力を以ってしても、万全とは言えない。当時のジェット機は、上昇力や加速性能に難点を抱えていたためだ。
 鉄の驟雨に怯える立場に立たされたのは、今度は合衆国のほうだった。

 それまで、中東戦線で補給線爆撃などに用いられてきた「富嶽」の、戦略爆撃機としての初陣は、昭和27年11月18日未明のトゥーロン大空襲である。奪回されたアレキサンドリアのイギリス空軍基地から発進した、のべ139機の「富嶽」は、トゥーロンの軍港施設・工場地帯・市街地に対して、12000mの高空から合計1668トン──実に6672発の250キロ爆弾を投下。徹底した絨毯爆撃は、軍港施設の85%、市街地の67%を瓦礫の山に変え、戦艦「ブルターニュ」「ダントン」をはじめとする在泊艦艇の半数に対して、大小の損傷を与えた。迎撃に向かったフランス空軍のP-61は、ただ高空から爆弾を投下する巨人機の群を見送ることしか出来なかった。軍人・民間人を合わせた人的被害は、死者・行方不明者だけで19846人。負傷者まで勘定に入れると、この数字は40000人を超える。地中海最大を誇ったフランス海軍の戦略拠点は、再建に5年は掛かると言われるほど徹底的に破壊し尽くされた。世界で初めて行われた超大規模戦略爆撃は、当のフランス政府のみならず、攻撃を行った同盟側すら震え上がらせるほどの大威力をまざまざと見せつけたのである。

 一方、ある意味でそれ以上の深刻さを以って事態を受け止めたのが、合衆国だった。当時の情勢から見て、連合軍占領下のイギリス本土が奪回されるのは必至だった。ここが同盟軍の手に落ちた場合、「富嶽」を用いれば合衆国本土を直接爆撃することも不可能ではないのだ。強力な迎撃機の配備を望む声は、議会筋を中心に急激に高まりを見せた。
 こうして急ピッチで配備が進められたのが、ノースアメリカンP-86である。最高速力970km/h、実用上昇限度14400mという性能は、「富嶽」を易々と撃墜できるだけの性能だった。また、P-86の配備は合衆国にとどまらなかった。同盟軍による戦略爆撃の脅威によって、連合国から脱落しつつあるフランス・ドイツを繋ぎとめておくために、両国に対して合計で2000機以上が供与された。かくして、「富嶽」はその魔力を失った。昭和28年6月2日のブレスト空襲では、フランス軍のP-86が実に37機の「富嶽」を撃墜したのである。
 さらに、合衆国は直接本土からイギリス本土を爆撃可能な超大型戦略爆撃機の開発にも着手した。合衆国〜英本土間は、いかなB-36と言えども往復は難しい距離だったのだ。1954年秋に完成した新型機──ボーイングB-44は、日英に負けまいとする合衆国と、B-17以来の得意分野だった大型爆撃機でコンベアにシェアを攫われたボーイング、それぞれの意地とプライドが懸かった機体だった。「フライングバトルシップ」の名を与えられた新型爆撃機は、全長61m、全幅77mという桁外れの巨体を誇った。エンジンには、ライトの最高傑作と言われるR-6600、6160馬力が六発。さらに、推力790kgのターボジェットエンジン4基を主翼外側に搭載し、高度13800mで最高速力790km/hを叩き出す。爆弾搭載量25トン、20mm機銃21丁という兵装も、「富嶽」を確実に凌駕する値だ。何よりも、最大18900kmの航続距離が、この機体を対同盟軍作戦の最終兵器としていた。

 日英も、手をこまねいて見ていたわけではなかった。P-86の迎撃を凌いで投弾を敢行できる戦略爆撃機の開発は、やはり急務だったのである。この期待に応えて、昭和30年に登場したのが、大戦中に現れた最強の爆撃機と言われる、十五式重爆「泰山」だ。
 「泰山」は、あらゆる意味で常識を覆す機体だった。全長81m、全幅90mというサイズが、なによりもその非常識さを表している。また、エンジンは爆撃機として初めて、ターボプロップを採用した。中島「鼎」五一型、出力11800馬力。この怪物のようなエンジンを8基連ねた巨体が、低回転プロペラの力によって、高度14800mを890km/hで強引に飛ばす。爆弾搭載量は最大32トン、航続距離22600km、防御火力は20mm機銃28丁。おまけに、主要部には20mm弾の直撃に耐える重装甲が施されていた。
 さらに、「泰山」にはガンシップに改造された型が存在する。通常連装の旋廻銃座を三連装、機首・尾部を四連装とし、さらに爆弾槽跡の胴体上下に旋回銃座を各4基増設したもので、防御火力は20mm機銃44丁となった。通常一個爆撃航空隊は、爆撃型60機およびガンシップ8機で構成されており、コンバットボックスを組んだ合計2032丁もの20mm機銃が一斉に火を吹くと、凄まじいまでの防御弾幕が展開された。

 「泰山」の登場は、当初合衆国首脳からはタチの悪い冗談と思われていた。当然といえば当然だ。そんな途方もない巨人機など、想像するだけで誰の目にも馬鹿げているからである。だが、その思い込みのツケは高くついた。昭和31年2月11日、合衆国大西洋艦隊最大の根拠地、ノーフォーク上空に現れた240機の「泰山」は、実に7680トンもの爆弾──500キロ爆弾15360発──を投下して行った。迎撃航空隊やレーダーサイト、さらには軍上層の油断もあり、爆撃隊は僅か3000mという低高度からの進入に成功。結果は、破局という表現すら生易しく思えるような、壮絶なものだった。ノーフォーク軍港は、一夜にして文字通り跡形もなく消滅した。それどころか、ノーフォーク周辺の海岸地形が、地図で判るほどに変化してしまったのだ。大西洋艦隊の残存艦艇は、緊急出港によってその多くが難を逃れることに成功したが、翌朝爆撃隊が去った後に帰還した彼らが目撃したのは、硝煙と土砂によってどす黒く変色した海面と、鉄材やベトンや土砂やその他訳のわからないものが入り混じって堆積した“海岸地形”だったのである。死者・行方不明者の数は、7万とも8万とも言われ、戦後数十年を経た現在もなお、正確には明らかになっていない。ただ一つ言えるのは、この夜行われたのは、核兵器を用いたものを除けば、人類戦史上もっとも単位時間あたりの死傷者数が多い攻撃だったということだ。

 ノーフォーク大空襲は、合衆国大西洋艦隊に大打撃を与え(主力艦戦力そのものへの損失は、入渠中の「ネブラスカ」「オクラホマ」と建造中の3隻に留まったが、国内最大の工廠・軍港施設が再建不能なほど叩かれたことが大きかった)、三大洋戦争の海の戦いにおける決着をつけたという意味で、戦果の大きな作戦だった。だが、同盟軍首脳は、事態を楽観視してはいなかった。ノーフォークに対して行った空襲で、240機の「泰山」は、英本土に備蓄されていた500キロ爆弾の実に4割を、たった一撃で消費してしまったのだ。これは深刻な事態と言えた。この調子で戦略爆撃を継続すれば、合衆国本土の生産力が消滅する前に、同盟軍の爆弾が底を尽いてしまうのだ。問題は爆弾だけではない。「泰山」が装備する防御機銃は、爆撃型が20ミリ28丁、ガンシップが20ミリ44丁。1丁あたりの定数は、爆撃型で500発、ガンシップで1000発だから、一個飛行隊あたりが一度の出撃で携行する20ミリ機銃弾は、定数で11920000発にも及ぶ。これは、当時の主力戦闘機であった十四式戦闘機「突風」(30ミリ機銃4丁、携行弾数合計1200発)に定数一杯の銃弾を補充した場合の266個航空隊分に相当する。
 冗談ではなかった。このような作戦を続けていては、合衆国に致命傷を与える前に日英の戦争経済が致命傷を受けてしまう。何らかの打開策が必要だった。最小限の作戦機数で最大限の効果を挙げられる新兵器が。
 打つ手がないわけではなかった。
 原子爆弾である。

 だが、軍内においても──いや、当時民間に対する情報統制が行われていたことを考えれば軍内だからこそ、原子爆弾の名前を聞いて顔を顰める人間は多かった。原子爆弾の開発は、1940年代半ばに合衆国が手を出し、手痛い失敗をしでかしていたからである。現在「ロスアラモス核爆発事故」と呼ばれている事件がそれだ。開発過程での臨界爆発事故による破壊と放射能汚染は、世界最高峰の原子物理学技術者を数多くこの世から消滅させ、ニューメキシコ州の一角を死の大地と化した(当時ベルリン大学工学部の名誉教授であったアルベルト・アインシュタイン博士は、「やはり(核エネルギー兵器は)パンドラだった」というコメントを残している)。民意の強い合衆国の事情──そして、終戦後の合衆国民の対日感情を考えれば、極端な人口密集地に対する攻撃は、長期的視点における自殺行為だった。原子爆弾は、その破壊力と副次効果のために、極めて使いどころの難しい兵器だったのである。

戻る