主力戦闘車輌史


 八九式中戦車は日本初の国産戦車として開発された車輌だが、実際には機械化に二の足を踏んでいた日本陸軍は大量の発注は行わなかったため、そのメインユーザーとなったのは中華民国陸軍であった。つまり、日本の戦車生産は当初から輸出産業としての性格を色濃く持っていた。
 そのような経緯があったためか、当初陸軍大阪工廠のみで行われていた八九式の生産は、貿易国家日本の国策産業として政府からの強い後押しを受け、やがて三菱や川崎、石川島播磨、日立製作所といった大手重工メーカー、さらには中島自動車、ダット、東洋工業、ロールスロイス・ジャパンなどの自動車メーカーにも量産指令が出されるに至った。結果的にこれが、その後の日本における装甲車輌生産の裾野を広げ、ひいては1930年代後半の一大モーターリゼーションのきっかけともなるのである。日本の戦車生産、そして自動車産業は、八九式に育てられたと言っても過言ではない。
 日本から中華民国に輸出された八九式は、昭和4年から昭和11年までの足掛け8年間で延べ1500輌に及ぶ。その間、共産軍との戦闘に投入された八九式は、各地で高い評価を勝ち取っていた。主砲として搭載された18口径57mm砲は、当時の歩兵砲を凌駕する火力を持っており、火炎瓶と破甲爆雷以外に有効な対戦車兵器を持たなかった(というよりも、重火器そのものの保有数が極端に少なかった)共産軍との戦闘において、八九式は高機動の移動式野砲トーチカとして猛威を振るい、戦線を動かす原動力と言われるほどの大活躍を示したのである。
 しかし、窮地に追い込まれた共産軍に対して、ソ連が本格的な武器支援に乗り出した。対戦車砲や各種榴弾砲・加農砲などが大量に供与されたほか、一部では本国ですら配備が始まったばかりのT-26軽歩兵戦車や、BT-2高速戦車までが導入されていた。
 こうして、八九式はその生涯において初めての試練に直面した。共産軍が入手した45mm対戦車砲やソ連製戦車が搭載する37mm砲などの火砲にとって、車体前面で僅か17mmでしかない八九式の装甲などは薄っぺらい紙も同然だった。実際、これらの兵器の配備が進むにしたがって、それまで無敵を誇ってきた八九式の損害は目に見えて増加し始め、昭和11年に共産圏紛争が勃発して中共への武器支援が本格化すると、この傾向は雪崩を打つように顕著となった。新たに共産軍が装備したBT-7の装甲を、八九式の貧弱な短砲身57mm砲は貫通できず、逆にBT-7が搭載した45mm砲は、命中すればほぼ確実に八九式を無力化したのである。
 国府からの突き上げに慌てた日本は、泥縄式に九七式中戦車を投入したものの、主砲は相変わらず短砲身の57mm砲、装甲も重機関銃ですら最厚部を貫通可能な25mmと、まるで進歩の色の見られない古臭い設計に、先方の不満は収まらなかった。さらに、戦車であるはずの九七式がBA-6装輪装甲車にまで撃破されるに及んで、日本製戦車の信頼性は地に墜ちたのである
 さらにこの翌年、九七式には強力なライバルが登場した。イギリスが満を持して輸出市場に投入したマチルダU歩兵戦車である。マチルダUは火力と機動力こそやや物足りなかった(それでも八九式に比べれば遥かにマシだった)が、最大78mmという重装甲は、当時の共産軍が装備する45mm砲ではまず貫通不能だった。「我々は、絶望的な壁に向かって戦いを挑んでいる気分だった」とは、当時T-26の砲手をしていた元人民軍兵士の証言である。こうして、国府軍は再び共産軍に対するハード面での優位を獲得した。
 一方、最大の得意先に対して完全に面目を失った日本は、早急に国府軍のニーズを満たす新型戦車を開発する必要に迫られていた。イギリスは、マチルダUに続いてMk.V巡航戦車を輸出市場に投入し、九七式の唯一の命脈であった偵察用戦車としての地位すらも脅かし始めていたからである。
 ここで彼らが目をつけたのが、イギリス製戦車の火力の低さだった。この頃共産軍の前線に現れ始めたKV-1重戦車(増加試作型と思われる)の重装甲に国府軍が手を焼いているという情報を入手した日本は、これを確実に決戦距離で撃破できる火砲を搭載した戦車によって、イギリスに奪われたシェアを取り戻そうとしたのだ。
 とはいえ、そうそう急に高性能な主力戦闘車輌を開発できるほど日本の装甲車輌開発能力は高くなかった。第一、新規に戦車砲を開発するような時間的余裕は、彼らには与えられていなかったのである。そこで注目されたのが、一般に初速の速さで知られる高射砲の戦車砲への転用だった。新型戦車砲の原型として脚光を浴びたのが、海軍が倉庫で腐らせていた中古の十年式45口径12cm高角砲である。これから安定装置などを取り払って軽量化を施し、九七式の基本設計を拡大した車体に搭載した。
 しかし、なにぶん口径・重量とも車載砲としては前代未聞のスケールだ。重量軽減のために砲塔は固定式のオープントップ・オープンバックとされ、搭載弾数も15発に制限された。
 それでも、120mmという野戦重砲並みの大口径砲の威力は圧倒的だった。徹甲弾を使用した場合の貫通力は、距離1500mで160mm。十年以上前の砲がこの世に存在するありとあらゆる戦車を一撃で仕留められる数字を余裕で叩き出したことは、戦車開発の現場に携わる人々を驚愕させた。満を持して中国戦線に投入された九八式砲戦車は、重装甲のマチルダUを盾代わりに、共産軍が保有する車輌とトーチカを片っ端から粉砕したのである。

 昭和13年に共産圏紛争は終結したが、中国大陸では国府軍と共産軍の内戦が未だに繰り広げられていた。日英に支援された国府軍が中国大陸を統一する事によって、大陸市場を寡占される事を恐れた合衆国が、それまでの反共姿勢を一転してかなぐり捨て、共産軍に対する大々的な武器支援に乗り出したからだ。

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