Escape!

1945年8月10日 満州 遼寧省 撫順郊外

 午前中さかんに響きわたっていた戦場音楽は、下火になりつつあった。もっとも、それで状況が改善されたと考えるほど、この場にいる将兵たちは楽天的ではなかった。膨大な鉄量にたたきのめされた大地に這いつくばり、かろうじて生きのびることに成功した男たちは、これがたんなる嵐の前の静けさにすぎないという教訓を嫌というほどその身に叩き込まれていた。

 将校斥候に出ていた勇吾が帰ってきた。どうにもならないね、となげやりに言う。どこもかしこも撃破された味方の戦車ばかりだよ。九七式も四式も五式も無差別だ。どうなってるんだか。

 ま、わかっちゃいたけどな。恭也はそう応じて自嘲気味に笑った。笑うしかない状況だった。通化方面から敵が来襲するなどという狂った現状を考えれば、なおのことだった。

 恭也と勇吾が所属する第二五連隊は、撫順の東側でソ連軍の包囲下に陥っていた。押し寄せる機甲軍団の戦力は圧倒的といってよい。日本軍が装備する対戦車兵器は、彼らの主力であるT−34/85やIS−3に対してまったく歯がたたなかった。 すでに陳腐化した歩兵砲や47ミリ対戦車砲は論外だった。敵戦車の正面装甲はおろか側面や背面も貫けず、急所と言うべき履帯に命中した場合ですら、行動能力を奪うことができないことがあった。
 合衆国製の車両が普及しつつある現在でも日本陸軍の機甲戦力の中核を占めている九七式中戦車は、さらに悲惨だった。六年前に当時ですら旧式化していたT−26相手に苦戦した戦車が、昭和二十年現在の戦場で通用する道理がなかった。彼らは非力な単砲身57ミリ砲を振りかざして果敢に抗戦をこころみたが、放った砲弾は至近距離で空しく弾かれ、彼らの装甲は最厚部ですら対戦車ライフルの銃弾に容易に貫通を許した。なかには、IS−3に文字どおり踏み潰されてしまった車両まであった。
 合衆国から供与された四式中戦車──M3スチュアートや、五式重戦車──M24チャーフィーもまた、その鬼籍簿に名を連ねるしかなかった。M3は国共内戦での実績で九七式よりも有効との判定を下されていたが、互角に戦えるのはせいぜいBT−7クラスまでだった。M24は日本軍が装備する戦車の中ではもっとも有力な火力と装甲をそなえていたが、それすらT−34/85の前では見劣りがするものだった。

 早いはなしが、満州に展開していた日米軍は、怒涛のごとくおしよせる赤い嵐に文字どおり蹂躙されていたのだ。