狩りに熟練した狼は、牧羊犬には目もくれず羊を襲う。
なぜなら、獲物としての価値が余り高くない犬を相手にしている間に肝腎の羊が逃げ散ってしまうからだ。
だが、もしも狼が、牧羊犬をまるで問題にしないほどの戦闘力を備えていたとしら──?

 

 

 

 

 

 

南溟死闘録

(予告篇)

 

 

 

 

 

起章 1921年 ワシントン

 

「──本会議が合意に至ったことにより、無制限の軍備競争による戦争の危険は回避されました。ここに、世界平和への偉大な一歩がしるされたことを、我々は大きな喜びとともに全世界に宣言するものであります!」

 彼らは臍を噛むしかなかった。全権代表の加藤友三郎海軍大将は、怒りと屈辱のあまり真っ青な顔をしている。壇上では主催国・アメリカの代表が、誇らしげに宣言文を読み上げていた。

 ──何が軍縮だ。莫迦野郎。

 加藤は思った。結局、みながみな現状を追認しただけじゃないか。こんなことならいっそ、最初から会議への参加を拒否していればよかったんだ。そうすれば少なくとも、中途半端な形で日米の戦力に大差がつくことはさけられたはずだ。ここに来て我々がやったことといえば、外務省と海軍内の艦隊・条約両派が勝手に送りこんだ各代表部が、てんでに本国との間で暗号電を飛ばしまくっただけだ。一国の代表部の中で意見が食い違い、その調整に担当者が奔走している間に、アメリカが音頭を取る形で条約の骨子は固まってしまった。主力艦の新規建造こそ向こう15年間禁止されたが、現在起工済の艦に関してはまったく制限は設けられなかった。忌々しいことに合衆国は、ダニエルズ三年計画の戦艦16隻を条約成立前に全て起工してしまっている。それに比べて日本は、八八艦隊を半分着工するのがやっとの有り様だ。畜生。これでは主力艦トン数の対米比はほぼ二倍──つまり、日本はどうがんばっても主力による決戦ではアメリカに太刀打ちできないことになる。

 ワシントン海軍軍縮会議で日本が認められた戦艦保有枠は、54万5000トン。これに対してアメリカは96万トン、イギリスも80万トンを確保していた。主力艦排水量の対米比率は0.56。ランチェスター公式を単純適用する限り、艦隊決戦が発生した場合アメリカ艦隊は日本艦隊を20パーセント以下の損害で殲滅できる計算だ。

 短く息を漏らすようなうめき声が聞こえた。隣を見た加藤は、艦隊派代表部の柏木賢治少将が、火の出るような視線で壇上を睨みつけているのに気付いた。英米の代表を責める謂れはないことは誰もがわかっている。だが、みながみな、どうしようもない怒りと苛立ちを覚えていた。身内のごたごたにかまけている間に本来の交渉相手に出し抜かれた自分たちのふがいなさに。そして、条約発効の期日までに主力艦を追加起工したくとも、そのためのドックすら存在しない自国の惨めさに。

 加藤は、柏木の示したこの状況にたいする素直な反応に、奇妙な羨望を覚えた。(実態はどうあれ)形式上は全権代表である自分は、少なくともこのような場で感情をあらわにすることはできないからだ。

 もっとも、イギリス代表団の内情を知れば加藤も別の見解を抱いたかもしれない。実は彼らの内心での狼狽ぶりたるや、日本代表団の比ではなかったのである。

 

 ほんらいワシントン海軍軍縮会議は、欧州大戦によって国家経済に深刻なダメージを受けたイギリスが、そうでない二国──ありていに言えば日本とアメリカ──がムキになって張り合い始めた(としか解釈のできない)建艦競争に歯止めを掛けるために提唱したものだ。ところがふたを開けてみれば、二つ返事でこの話に乗ってきたはずの両国は、まるで軍縮に対する意識がなっていなかったのである。

 まずアメリカ代表団は、この国の悪い癖である露骨な自国標準主義を前提とした交渉態度に終始し、譲歩という概念をまったく持っていないかのような条件をつきつけては他国代表を辟易させた。各国の財政負担となっている主力艦戦力の拡大競争に歯止めを掛けるための話し合いが、世界一裕福な国家を基準に語られたのではたまらない。おまけに、彼らはことあるごとに、議長国という一種の特権的立場から会議のイニシアティブを引っかき回した。おかげで会議はまとまる議題もまとまらないまま時間と労力の浪費ばかりを重ねながら踊り続け、結局は何の結論も得られないのと同じ形ばかりの合意を辛うじて取り付けただけでお開きとなってしまった。

 一方、それ以上に始末に負えなかったのが日本代表団だった。かれらは、一国の代表団の内部での統一した交渉方針すら持っていなかったのである。外務省と海軍の代表部に意見の相違があるのならばまだ理解もできようが、海軍内部の二つの派閥がそれぞれ独自の代表使節を送り込んでくるというわけのわからない状況は、他国の理解の外にあった。さらに、三つに分裂した代表部がそれぞれ勝手に外交を始めたことによって、事態はますますややこしくなった。交渉を持とうにも、他国の代表は、自分達が交渉している相手が本当に日本の意見を代表しているのかどうか確認する術がなかったのである。同じ国の代表であるはずの二人の交渉相手の意見がまったく食い違っていることは日常茶飯事だった。ひどいときには、本国からの電信一本でその派閥の意見ががらりと変わってしまうことさえあった。かたちの上での全権代表は存在したが、だからといって彼の意見が日本代表団全体のコンセンサスとなっているわけではない。会うたびに同じ相手の意見が変わるのでは、まともな交渉など成立するわけもなかった。かといって、日本の海軍戦力に枷をはめることはこの会議の主要な目的の一翼であるのだから、むげに扱ってしまうこともできない。日本代表との交渉は、他国の人間にとっては(内部で他派と折衝を重ねている各派代表もだったが)きわめて胃の健康に悪い作業だった。

 こうして軍縮会議は、頑ななアメリカと無定見な日本に他国が振りまわされるかたちで幕を閉じた。イギリス代表団が青くなっていたのはこのためだ。条約成立時に着工していた戦艦がまるごと保有枠に収まったことで、彼らが目指していた建艦競争の抑制による財政負担軽減という目的が果たされなかっただけではない。彼らは、軍縮会議開催にあたって他国にカマをかけるつもりで「着工済み」と発表していたG3級巡洋戦艦四隻と、できることなら条約にかこつけて廃艦にしてしまいたいと思っていたフッド級の2〜4番艦を、本当に建造するはめに陥ったのだ。
 なんのことはない、彼らは軍縮を呼びかけるつもりで締結した条約によって、主力艦保有量を倍増させるほどの軍拡をおこなわざるを得ない状況に自らを追いこんでしまったのである。このことは20年後、イギリスの海外植民地域における活動に著しい制約を課すこととなる。

 

 

 

 

過去の人 1939年 伊豆

 

 伊東市街を見下ろす高台に建てられた屋敷は、いささか時局に似合わぬほど閑静な雰囲気に包まれていた。広さはそれほどでもないが丁寧に手入れのなされた庭越しには、相模湾が一望できる。ただ、そこから先は三浦の山にさえぎられて横須賀が見えないのが、この屋敷の主の唯一の不満であった。齢七十に達するほどのとしにも関わらず、この屋敷の主は、こと戦艦のこととなると妙に子供っぽい執着を見せる一面があるのだ。

 伏見宮博恭親王。軍神・東郷平八郎亡きあと、海軍で唯一元帥の地位にある人物だ。四年前に軍令部総長の職を辞してからは、この土地に隠棲して悠々自適の日々を送っている。

 元帥は終身職であるから、伏見宮の海軍内への影響力は未だにおおきなものがある。現役時代は艦隊派の総元締めのような位置にいたとなればなおさらだ。だが、この人物は軍令部総長を退いてからというもの、すっかり覇気が抜けてしまった。じっさいのところこの宮様は、艦隊戦力の増強に心血を注ぐだの、海軍内で権勢を拡大するだのといった政治的なできごとに手を染めるよりも、単に戦艦を眺め、愛でていれば幸せと言うひとだったから、現在のところ艦隊派の実質的なイニシアティブは、永野修身元軍令部総長と嶋田繁太郎横須賀鎮守府長官が代行しているといってよい状態だった。

 もっともトップがこんな調子であるから、艦隊派の流れを汲む伏見宮閥は最近どうも元気がない。現在海軍で主流となっているのは、条約派から派生した、航空機と水雷兵力による敵戦力の間接的減殺を唱える一派だ。現在の海軍三顕職の顔ぶれを見てもそれは一目瞭然で、軍令部総長の堀悌吉大将とGF長官の山本五十六大将は条約派の大物だ。残る豊田副武軍令部総長も、艦隊派でありながらひどく政治臭の薄い人物だから、いまや海軍は名実ともに条約派に牛耳られているといっても過言ではない。そんなわけで、艦隊派でそれなりに政治的判断力を持っている人々からは、伏見宮はすっかり見限られているフシがあった。

 ただ、そういった人々にしたところで、宮様に代わるあらたな求心力を持った人材となると、とんと見当がつかないというのが実情でもあった。確かに艦隊派のイニシアティブを握っているのは永野参議官と嶋田横鎮長官だが、この二人にした所でそれほどの人望やカリスマを持っているわけでもない。その次にくる人材というと豊田軍令部総長や近藤信竹第三艦隊司令長官、高須四郎艦政本部長といったあたりになるのだろうが、彼らは「軍人は政治に関与すべからず」を地で行く政治臭の薄い人物で、派閥の領袖としてはもうひとつ頼みにならない。そのさらに下となると南雲忠一第一航空艦隊司令長官や細萱戌子郎遣支艦隊司令長官といったあたりになるが、いくらなんでもそこまで行くと若すぎて派閥がまとまらない。

 というわけで、艦隊派は未だに伏見宮元帥を中心に据えるしかなく、そのためにますます求心力が衰えて海軍内での発言力が低下するという悪循環が続いている。

 ──久しぶりに横須賀に行ってみるか。

 すっかり好々爺然といった雰囲気が板についてきた伏見宮は、縁側から海を眺めながらそんなことを考えていた。横須賀には、今のところ彼の一番の“お気に入り”である天城級戦艦四隻が停泊している。ひさびさに潮風に吹かれながら実物を眺めるというのも悪くないだろう。それに横須賀工廠の一号ドックでは、軍令部総長時代の彼の最後の大仕事である新型戦艦がそのキールを横たえている。そちらの進み具合も見てみたくなった。

 ぽっかりと晴れ渡った秋空の下、伊豆は平和だった。

 

 

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「どうも臭いですね。何かおかしいと思いませんか? これだけ大々的に整備されていた前線根拠地を、なんで連中はさしたる抵抗もなしに明け渡してしまったんです?」

──エドウィン・レイトン太平洋艦隊作戦参謀

 

 

「けっ、参謀閣下が言ってくれるぜ! こちとら爆薬が仕掛けられた障害物だらけの滑走路を、苦労して整地してるってのによ! 俺達にゃそれだけで十分な抵抗だっての!」

──伝聞:一設営隊員の愚痴

 

 

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回想

 

 ──こうして、特型海防艦の基本設計は固まったかに見えた。艦政本部の了解とGF司令部の支持も取り付け、量産化に当たっては何の問題もないように思えた。
 ところが、これに対して妙なところから待ったが掛かった。

 軍令部第一部である。

 彼らは戦略物資の運用を担当する第二部を抱きこみ、海防艦建造用の物資配分を人質にとるかたちで、特型海防艦に雷装を追加するようにもとめてきたのだ。
 艦隊型駆逐艦の建造を圧迫する特型海防艦計画は、正面戦闘作戦を担当する彼らにとってはただ邪魔な存在でしかなかった。水雷戦隊中核の調達を犠牲にして建造するのであれば、雷撃兵力として少しは役に立ってもらわなければ困る──本音を言えばこんなところだったであろう。
 そしてそれが暗に、艦隊型駆逐艦が損耗した暁には海上護衛総隊から海防艦を引き抜いて水雷兵力に充当する皮算用を示していることは、明白だった。


──大井篤「海上護衛戦」(学習研究社、2001年)より抜粋

 

 

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 アメリカは28隻の戦艦を保有していたが、実際に前線で活用できるだけの機動力を持っていたのは33ノットを出せるレキシントン級6隻だけであった。この海戦で、彼らはそのうち貴重な4隻を失ったのである。こののちキンメル長官は、ソロモン海域へ戦艦部隊を送ることをあえてしなかった。

──「戦術ハンドブック歴史編 激闘ソロモン海域」(勁文社、1990年)より抜粋

 

 

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「我々は、潜水艦というのは海中にじっと潜んで敵艦船に必殺の一撃を見舞うものだとアナポリスで教わってきました。でも……じっさいに配置されてみると、そうじゃなかった。我々の立場は“狩猟者”から“獲物”に変わっていたんです」

──クリストファー・ミヤウチ(当時海軍中尉、1948年)

 

 

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「涙が止まりませんでした。どうして自分達がこんな理不尽な目に遭わなければならないのか解りませんでした。何時間か前まで乗り組んでいた馴染み深い船が、目の前で次々と爆発して沈んで行くんです。それも、味方の仕掛けた爆薬で。燃料が足りなくて連れて行けないとは聞いていました。でも、悔しくて……」

──映像の世紀第五集 世界は地獄を見た(NHK、1995年)より ある水兵の証言

 

 

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ウィリアム・フレデリック・ハルゼー(1882〜1978)

 アメリカ合衆国海軍元帥。太平洋戦争の全期に渡り空母部隊を率いて活躍。常に優勢な敵との戦いを強いられる中、一歩も退かずに敢闘し、崩壊寸前の制海権を守り通した。勇猛果敢な指揮と大胆な用兵で知られ、部下将兵から「うちの親父」と愛された。五十歳を過ぎてから飛行士資格を取得するなど数々の逸話を残す。「Kill Japs,kill Japs,kill more Japs!」という口癖から彼が人種差別主義者であるかのような描き方をしているものの本もあるが、実際には彼の認識は「外国人は全て敵」といった傾向が強いものであった。緒戦において海軍全体に蔓延していた日本軍軽視の風潮を最初に戒めたのが彼である点も見逃してはならない。終戦後、太平洋艦隊司令長官。のち、ノースロップ・グラマン社開発部顧問。1974年に自らF−14Aトムキャットの操縦桿を握って達成した超音速飛行の最高齢記録(92歳)は、未だに破られていない。

──ジョン・キーガン編 第二次世界大戦人名事典(原書房、1996年)より抜粋

 

 

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「えぇ、変ないくさでしたねぇ。結局わたしらがやったことといえば、最後の大一番をのぞけば、南の島で戦艦の中に一年とちょっとのあいだ寝泊まりしてただけなんですよ。もっと南のほうに送られた人たちは大変だったみたいですけど、少なくともわたしらが乗ってた『武蔵』は、あの海戦まではただ浮いてただけでした。まぁ、今にして思えば、そんな暮らしばっかりしてたせいで腕がなまったんでしょうね。なにせウチのてっぽうやの連中ときたら、射撃訓練もろくすっぽせずにギンバイの訓練ばっかりやってたんですから」

──下士官達が見た太平洋戦争(光文社NF文庫、1992年)より抜粋

 

To be continued to “南溟死闘録”第1話「デッカイトットマーチ」

 

 

 

 

 ……というわけで、見切り発車ゴー! と走り始めてしまった新連載、お気付きの方もいるかとは思いますが、本作はバンクーバー支部「歴史改変者協会掲示板」にUPされた「内南洋邀撃戦」の作品化版です。

 本作の出発点は、ワシントン条約の主力艦保有枠が拡大された結果、却って日米の戦力格差が開いてしまったらどうなるだろう、というものです。それと同時に、まともな戦力状態で「修羅の波涛」をやったらどうなるか、という思考実験も兼ねさせることとなりました。そのために、三顕職の中に最低一人はゼネラリスト&リベラリストたる人材が必要となり、それに対する回答が長瀬源五郎GF長官=作品のSS化というわけです。

 なお、この作品は完全なフィクションであることをここに明記しておきます。
 当たり前ですが、本作を読んでから一連のモチーフ作品をプレイして(あるいはその逆によって)失望を覚えたり、学校の歴史の試験問題に本作の内容から得た知識を適用して成績が落ちたりしたとしても、当方では一切責任を負いかねますので悪しからず。

 但し、明白な史実(作者による意図的な改変を除く)および基本的物理法則に対する考証の誤り、ならびに作品内での設定の相互矛盾などについては、指摘して頂ければ今後の作品に対する貴重な参考意見とさせて頂きます。

 それでは、拙い作品ですが暫くの間お付き合い頂ければ幸いです。

 

 ──ちなみに、第一話のタイトルの元ネタに気付いた方、挙手願います(笑)