中込 靖成 (美術家)
1957 山梨県生まれ(現中央市)
1984 東京造形大学 絵画科 卒
2007-08 文化庁在外派遣研修員
(カリフォルニア州立大学Bakersfield校 研究員)
2005-現在 日米国際作家交流展主催



中込の方法と原風景-飯田龍太と
「一月の川一月の谷の中 」

長島幸和(元「羅府新報」ロサンゼルス・日系新聞 日本語部編集長)

 一枚の絵を見ている時、例えば、昔読んだある小説の一節がふと心に浮かんでくることがある。映画の一シーンや詩の一節であることもあるだろう。音楽の一小節であるかもしれない。そして時には、一つの情景の中にいる幼いころの自分の姿が、絵とは何の脈絡もなしに見えてくることもある。だから、私が中込靖成の作品「ランドスケープ」を見た時に、ある俳句が心に浮かんできたとしても、それは何ら不思議なことではなかったし、何ら驚きに値することでもなかった。だれにでも、きわめて日常的に起こっていることなのだ。だが、そんな些細な心の動きが、妙に気になることがある。その心の動きが、強い必然性を帯びていると予感される場合などだ。つまり、どうみてもそれは起こるべくして起こったとしか思えない時、人はそこに立ち止まる。私の場合、今年五月のロサンゼルス・ダウンタウンに近いアーティスト村にあるギャラリーの展示会場だった。
 中込と会ったのはその時が初めてではない。山梨県中巨摩郡田富町山之神(現・中央市山之神)出身の作家・中込は、東京造形大学絵画科を卒業後、石和高校の美術教師を経て十二年間アートワークの仕事に携わり、その後アーティストとしての「自立」を求めて二〇〇二年に渡米。現在は米国を基盤として創作活動を展開しながら、日米間を忙しく往復している。最初に会ったのは、私がまだロサンゼルスの日系新聞社に勤めていた二〇〇四年のことだった。ダウンタウンの一画、日本人街・リトルトーキョーのはずれにあった新聞社のビルに、近く開く展覧会の説明のために訪れた中込に私が対応した。  私は中込の話し方に魅了されたのを覚えている。自分の考えていることを適切に、かつ説得力のある形で言語化するのに長けている、そんな印象だった。彼の話す言葉は、なぜか聞き手としての私の心に快く響いてくるのだ。硬質な言葉。しかし、それぞれが磨かれて、輝きを伴っている。
 中込の作品は、リトルトーキョーにあるギャラリー「LA ARTCORE」に展示されていた。大作も含めた二十数点はいずれも渡米後に制作されたもので、「ランドスケープ(風景画)」という名前が付けられ、番号が打たれている。それぞれの作品から受ける印象はきわめて似通っていた。重層的な、どちらかと言うと暗い風景。深い山間を想像させ、下の方には暗い川が流れているように見える。しかし、その時はそれだけだった。私の心には、それらの作品に響くだけの余裕がなかったのかもしれない。
 だが、今年の五月に見た時は違った。一つひとつの作品は、やはり「ランドスケープ」であり、四年前と大幅な違いはない。違ったのは、見る側、つまり私の方だった。その後、私は新聞社を辞し、俳句を学ぶようになっていたのだが、絵を見ながら、飯田龍太の一句が浮かんできたのだ。「一月の川一月の谷の中」。しかも、ただ浮かんできたのではない。その一句が生命を帯び、私の中で一月の川が流れ出したと言っていいような感じだった。同時に、絵の中の川も流れ出す。双方の作品に対する印象が静かに心の中で響き合って、やがてゆっくりと心の中に響き渡っていった。
 その後、ロサンゼルスの中込のアトリエを訪れ、話を聞く機会があった。中込の手法は、キャンバスに絵の具を塗って、それを刷毛やへらなどで削っていくというもので、「最小限のもので最大限の効果を求めるという資質に合ったスタイル」という。「えっ」と思った。これは言葉を削っていく俳句の手法と似てはいないか。このスタイルは大学在学中からで、その後も基本的には変わっていないという。
 中込にとってそれは、抽象の手法だったのだが、米国に渡ってきてから、微妙な変化が生じた。それまでにも、作風に「和的な要素が出てきた」と指摘され、アーティストとしての在り方を自問し始めていたが、異国で作家として自立しようとした時、自分の拠って立つところを手応えのある形でつかみ直さなければならないといった状況に直面したのだ。不安をかかえながらの孤独な作業。どちらかと言うと、それは徐々に、抽象から具象への動きを促していった。ただし、抽象で生きてきた作家は、それを肯定することに躊躇を覚える。
 それでも何度も何度もへらを動かし、削るという作業を続けた。そのうち、そこに一つの風景が見えてきた。それを秩序立てていった。やがてそこに、幼少のころ、祖母に連れられて近くの田の畔道を歩いている時に目にしたような山や川、そして峡谷が見えてきた。中込はその風景に引き込まれていった。そこに心に響くものがある。深い記憶に根差した内面の風景。それはまさに「原風景」としか言いようのないものだった。
 「一月の川」は一九六九年、龍太四十九歳の作品で、詠んだ対象は、笛吹川に流れ込む支流の一つ、狐川という渓流。龍太の家の裏を流れている。龍太自身はこの句について、「幼児から馴染んだ川に対して、自分の力量をこえた何かが宿したように直感した」と述べている。狐川の一月の風景は龍太にとっての「原風景」なのだ。
 私は中込の話を聞きながら、削るという手法をによって「原風景」に至るまでの道程の共通性を思った。そこから、一つの句が一枚の絵に生命を吹き込み、一枚の絵が十七文字の世界をより実体のあるものにするという「交響」が可能になったのだ。それに二人は、奇遇にも隣村同士の出身である。つまり、もともと「原風景」そのものを共有していたのだ。中込の絵と龍太の句との「交響」は、ある種の宿命だった。
 中込の「原風景」はロサンゼルスで、出身国も人種もさまざまな米国人たちから「自分にとっても心に訴えるものがある」と、多くの人々の心の奥底に眠っていた、それぞれの「原風景」を呼び起こした。そして、中込の絵と龍太の句との「交響」が続く中、私も確かに、私自身の「原風景」を「ランドスケープ」に見始めていた。 (敬称略) 










カラヴァッジョのナポリ時代の傑作「七つの慈悲の行い」のある聖堂ピオ モンテ デラ ミゼリコルディアからこの「七つの慈悲の行い」に対するオマージュの制作依頼を受け、現地で制作し、完成した作品の奉納式時の様子を収めた動画です。ナポリにある同聖堂では日本人のみならず、アジア人としても初めて作品が収蔵されました。





個人の発表活動とともに行っている国際交流企画のうち日伊交流展の様子を記録したものです。これも中込の重要な活動の一つです。