私たちは、さいたま市浦和区の設計事務所です。環境に向き合う住まいづくりを、お手伝いします。
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清里、ポール・ラッシュ邸 |
初めて清里を訪れたのは、1982年でした。 当時僕は、武蔵野美術大学建築学科の大学院生で、所属していた坂本ゼミでは家のかたちのイメージについて研究していて、その関心のなかで、清里のペンションを修了制作のテーマに選びました。 大学の寮が清里にあったことも一因でした。 その後は、キープ協会を舞台に展開されたエコロジーキャンプに参加したり、八ヶ岳登山など、清里の自然に親しんで、この30年の間に何度訪ねてきたのでしょう。 そんな清里の核心に、この2月の一泊の旅行で触れた気がしました。 初めて、ポール・ラッシュ邸の内部に入ったのです。
上の航空写真がキープ協会の全景で、画面の右方向には清里の駅があります。 駅周辺からまっすぐ八ヶ岳を目指して登っていく道の両側に、教会・病院・農場といったキープ協会の建物や牧場が展開し、 その突き当たりに、清泉寮の本館(赤い屋根)、さらに最も奥まった位置に、キープ協会を設立したポール・ラッシュの住まいがあります(黄色い矢印)。 ずっと非公開だったものが、平成8年に「ポール・ラッシュ記念センター」が開設され、隣接する住宅部分が公開されるようになったのです。 清泉寮には何度も宿泊してきましたが、今回新たにできた新館(黒い屋根)に泊まったのを機に、「センター」の門をくぐりました。 まずは、展示を見、彼の業績をおさらいしてから、渡り廊下を通って住宅へ。
これが、ポール・ラッシュ邸の略図です。 周囲は深い雪に覆われていて、全景の写真がないのは残念ですが、ログハウス風の簡素な平屋です。 一番上の画像が、八角形をした居間。彼はここに多くの人々を招いて語り合い、清泉寮の精神が醸造されてきた場といっていいでしょう。 中央上部に掲げられたシャンデリアは、大八車をフレームに使っていて、農民の誇りのようなものが感じられます。
ここが彼の執務室です。 日米の支援者に、この机の上のタイプライターで手紙を打ち、様々な事業を実現させていったのです 。彼のメッセージが発信された基地です。
ここは寝室。 今にも、ベッドの後ろから、「寝すぎてしまったよ・・・」と、パジャマ姿のポールが出てきそうです。 晩年、心臓を病み、東京の聖路加病院に入院すると、ここに戻ることなく1979年に亡くなりました。 僕は1974年に初めて八ヶ岳に登り、赤岳から野辺山に下りたので、彼の近くをかすっていたことになります。
そしてここが食堂。 とても質素な空間でした。 彼はバーボンを愛していたそうです。 また、この窓から、外を行き来する人々との交流を楽しんだと伝えられています。
こんな写真も飾ってありました。
彼の右、吉田茂、マッカーサー、岸信介でしょう。
日米両国の間に立ち、キリスト者として志を貫き、清里という場所に、ある種の精神的な雰囲気を成立させたのです。
軽井沢が、避暑地であり社交場であったのとは違い、あくまでも生産の場にこだわってきた清里という街づくりの核心が、この住宅にあるのだと思いました。
(スケッチ・写真・文;青山恭之)