日本中が、ゴミ箱を座敷にひっくりかえしたように無秩序な景色になってしまったために、他家の座敷へ押しかけて行って感心するのが、ここ十数年来の海外旅行の一つの型になっている。
この点、国内でもかわらない。京都、津和野、萩などといった自然と人工を丹念に秩序づけた町やその郊外へ出かけてゆく。若い女性のためのファッショナブルな写真雑誌は、京格子と紅殻の壁の前にモデルを立たせたり、竹の栽培林としては世界一美しい嵯峨野の薮の小みちを歩かせたりするが、同じレベルでヨーロッパの中世のにおいをもつ田園都市を舞台にする。べつに懐古趣味ではない。むしろ若い女性から先端的な光景としてとらえられている。というより、彼女たちの意志のそこには、ほんとうの文明の中に自分を置いてみたいというねがいがあるのかと思われる。どこかに、たとえそのかけらでも残されていないかと思い、北欧の町へ行ったり、京都の上賀茂神社の古い社家の町を小川ぞいに歩いたりする。
むろん、それらは偶然残っているのではなく、文明とは秩序美であるということを頭とからだで知っている住民たちの意志と犠牲によって懸命に残されているといっていい。島原の町にも、そういう一郭がある。鉄砲町である。 文・司馬遼太郎 街道をゆく・17「島原・天草の諸道」より 朝日文芸文庫 写真・永田博子 |