三渓園(横浜)の臨春閣。神楽坂建築塾のフィールドワークでスケッチしたものの一部。ここの建物のほとんどが、もともと何処か他の場所に建っていたものを移してきたものだ。なかには、ここに移築される以前にも居を転々とした建物もいくつかある。そもそも、西洋社会における「建築」という概念は、永遠に不動で不滅な力の象徴だった。それに対し日本では、他民族を圧するような巨大権力は成立せず、せいぜい古代の寺院や城の天守閣や廟などに力の表現を見出せるにすぎない。豊富な森林資源に支えられて、木材を主要な材料としたことも、日本建築を「不動なる建築」という性格から遠ざけてきた。部分的にでも、使いまわすことのほうが日常的だったのではないか。だから、原三渓が建築を移してくるという事は、歴史的にも特別な事とはいえないだろう。
建築は環境のなかでデザインされ、その場所に結びついて機能する。その場所にあってこそオリジナルだと言える。とすれば、ここでの建物は、建物自体はオリジナルでも建築としては本来の姿を表現していないという見方も成り立つだろう。しかし、建った場所や用途・機能あるいは時代背景等から切り離されても、建築がただ建築として心を打つという水準が確かにあると感じながら、鉛筆を走らせていた。 絵・文青山恭之
|