立原道造の夢−ヒアシンスハウス
 アトリエ・リングから徒歩20分足らず、別所沼のほとりに昨年秋に完成した「ヒアシンスハウス」です。設計されたのは1937年(昭和12年)、若き詩人で建築家の立原道造の手になるものです。図面だけ残して彼は世を去ってしまいましたが、その夢が67年ぶりに正夢になったのです。地元の文化人たちによってその夢はあたたかく守られ続け、浦和市からさいたま市へと公園が移管されたのをきっかけに実現の道がひらけ、多くの人々の力をかりて、この小さな建築ができあがりました。我々は、2003年4月の「ヒアシンスハウスをつくる集い」に参加したままになってしまっていたのですが、先日初めて中に入ることができました。

 中には「ヒアシンスハウスの会」の方がいらっしゃり、建物の謂れ等、説明をして下さいました。昭和初期の建物という先入観から見ると、ずいぶんきれいに造られていると感じましたが、一般的な大工さんの技術は、もしかしたら今より当時の方が高かったのかもしれないとも思いました。ベッドがとても気持ちよさそうで、その脇にある窓は、立原にとって、この建物でいちばん大事かもしれないものでした。

 実はこの建物の本来の敷地は、沼の東岸でした。この小さな窓から、沼を眺めるようにと立原は意図していたのです。上のスケッチにも、そのことが明記されています。ところが、今回の建設に当たって、敷地は沼の反対側、西側にとられることになりました。これはこの建築のありように関わる大事な部分です。本来、東側の高台から沼へとゆるく下りてくる地形の流れに沿って屋根の傾斜が考えられ、小さな窓一つが湖面向きに開かれていたものが、湖面に対して屋根を高め、L字の大きな開口部を開くという建物の印象は全く別物です。その事を理解した上でないと、立原のイメージを読み間違える恐れがあります。平面図と室内のパースで、この小窓の位置に注目して下さい。机の前の椅子の位置、ベッドでの頭の位置から西への延長線上にこの小窓があり、そこからは、湖面に映る入日が望めたはずなのです。

 上のパノラマ写真では、背景に沼が広がっていますが、建物の手前に見える柵は、沼との関係を調整するためのものだったのです。
 それにしても、この建物が別所沼に実現したことの意味は多大です。これから、何らかのかたちで、「ヒアシンスハウス」を盛り上げていく力に少しでもなれればと考えています。(写真・文;青山恭之)
「ヒアシンスハウス」の公式ページは、
http://haus-hyazinth.hp.infoseek.co.jp/
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