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国立公園としての上野
奏楽堂のスケッチ
  神楽坂建築塾のフィールドワークで、上野で冬の半日を過ごしました。上は、その時の、奏楽堂のスケッチです。この日僕は初めて中にはいり、練習中だったパイプオルガンの音色にも触れることができました。その日の講義録として文章を書いたものを、以下に載せておきます。(スケッチ・文;青山恭之)

Google Earth 上野上空
                                                     画像;Google Earthより

 日本で国立公園というと、自然公園法のなかで規定されている概念であり、その第一号は日光国立公園というのがおきまりの知識かもしれない。しかし、日本が国家として初めて、近代的な意味での公園として作ったのは、実は上野公園だった。幕末から明治初期にかけて、欧米の都市を体験した日本人たちは、石造建築によって切り取られた目抜き通りの、バロック的都市空間に圧倒された。そして帰国してきた彼らが目指したのは、せいぜい2階建ての木造建築が海原のように続く江戸を、バロック東京へと新生させようということだった。エンデ・ベックマンの日比谷計画には、そんな時代の東京が目指したものがよく読み取れる。しかし現実には、バロック都市の空間が実現したのは、上野公園だったのである。当時、国際博覧会で国家の権威を誇示するのが盛んで、日本政府はは上野公園のアイストップとして博覧会場を据え、コンドルが東洋趣味の建物を実現させた。東京の他の公園、芝・浅草・飛鳥山等が、東京府の管轄におかれたのに対し、上野だけが内務省直轄であったのは、当時の政府が、上野公園という空間に、近代都市としての国家的な威信をかけていたということがうかがえる。(参考;『日本の公園』田中正夫著、SD選書)

そして、昭和になっても、上野は日本の近代建築歴史絵巻の舞台であり続けた。コルビュジエから最先端のモダニズムを身につけた前川國男は、新生博覧会場たる国立博物館のコンペで、バロックのアイストップに、シンメトリカルな国際様式を提案して落選。軍事色・国粋主義が強まるなかで、日本的な瓦屋根をいただく渡辺仁の案が実現した。高度成長期には、コルビュジエの西洋美術館と前川の東京文化会館が上野公園の入り口を固め、上野は都市公園の空間として、建築的充実期を迎えた。

昭和も終わりに近づき、前川による東京都美術館が登場してから、上野の空間はバロックから遠のき始めたように感じられる。国立博物館への縦軸に対して、噴水(これも、バロックにとっては大事な役者)のある池のところでクロスする横軸が弱まったのだ。それ以前の都美術館は、岡田信一郎の設計による、シンメトリカルな古典主義建築だった。それに相対して科学博物館が向き合い、緊張感のあるバロックが実現していた。ところが、前川の新都美術館では、雁行という日本的配置が取り入れられ、正面性が回避された。そのことで科学博物館は話し相手を失い、孤立してしまった。

また、最近では高層マンションやホテルも景観のなかに登場するようになり、明治初期に国家が上野で実現しようとしていたことが、ずいぶん見えにくくなってしまった。建築に、国家が威信を託すというのが、とっくに昔話となったということか。