三渓園特別公開

 横浜の三渓園が、今年、国の名勝に指定されることになり、それを記念して1月末の3日間(26・27・28)、重要文化財10棟が特別公開されました。普段外から眺めるだけの建物の内部にも一部入れるとあって、私たちは、最終日28日の午後に訪れました。
 3日間だけの公開で、その最終日ということで、ものすごい人出かと心配していたのですが、寒さのせいもあってか、混雑という程ではありませんでした。建物内部は一方通行でしたが、立ち止まってじっくり見たり、構えて写真を撮ったりする余裕もありました。
 重要文化財10棟のうち、聴秋閣・春草慮・旧旧天瑞寺寿塔覆堂の三つは建物外部からのみの公開。残る7棟のなかで、臨春閣は毎夏に公開日があり、旧矢箆原家住宅は常時内部まで公開しているので、今回のみ内部公開となるのは、月華殿・天授院・旧燈明寺本堂・旧燈明寺三重塔・旧東慶寺仏殿の5棟ということになります。時間が限られていいたので、その5棟だけをじっくり見る手もあったのですが、夏の公開に何時来ることができるかわからないので、順路通りにまず白雲邸、そして臨春閣と進みました。上の写真は、臨春閣で最も華やいだ位置を占める天楽の間です。欄間に雅楽で使う笙などの楽器が掲げられているのが、その名のおこりで、次の間の花頭口の奥には、二階への階段があります。月華殿は崖に張り出したような回廊からの景色がすばらしかった。梅が咲き始めて、空間に彩を与えていたのですが、残念ながら、写真がありません。次の天授院は、原家が持仏堂としていた禅宗様の建物で、内部はガランとして、正面三間間に三連の厨子が納まっていました。(下の写真)


だんだん公開終了時間が近づいてきたのですが、がんばって丘を登り、旧燈明寺三重塔の内部を見ました。心柱が下まで通っていない形式で、中央のベイは新しく作った須弥壇。ここに仏様が祭られていたのでしょう。特に彫り物などの装飾は無いのですが、太い柱が印象的でした。(下の写真)


丘を降り、時間を気にしながら、旧矢箆原家住宅を横目に奥へ進み、旧東慶寺仏殿を見学。写真はありません。
 最後に上がらせていただいたのが、旧燈明寺本堂です。室町時代の和様の仏堂で、内陣と外陣を隔てる格子から、光が漏れ出して美しかった。数奇屋系の建物を見てからこのような仏教建築を見ると、和様といいながら、大陸的な感じが強く目に映ります。(下の写真*)

木組みの力強さに見入っていると、係りの方が見えて、公開終了となりました。次回が何時になるかは、決まっていないとのことでした。
 
 そういえば、ここのサイトの昨年12月トップで、富岡製糸場を取り上げました。さる1月23日づけで文化庁が、ユネスコの世界文化遺産登録に推薦するための暫定リストに、富岡製糸場など4件を追加すると発表したことはニュースで皆さんご存知かと思います。でも、富岡製糸場と三渓園とのつながりを知っている人は、以外と少ないのではと思うので紹介しておきます。 原三渓(富太郎)は、一時期、富岡製糸場のオーナーだったということです。明治7年に本格的に操業を開始した官営富岡製糸場ですが、大規模すぎたのか充分に機能せず、明治26年に、三井家に払い下げになりました。その後、明治35年に原合名会社に譲渡されて、原富岡製糸場と名前を変え、三渓が実質オーナーになったのです。同じ年、彼は三渓園の建物の第一号となる旧天瑞寺寿塔覆堂を移築してきています。彼の中では、富岡製糸場と三渓園は時代的に重なっていたのです。ただ、三渓園の建物に注ぐまなざしと、富岡製糸場の建物に注ぐまなざしが重なっていたかどうか、すなわち、富岡の建物に未来の文化財となる建築の質を感じ取っていたか、極めて興味深いところですが、今となっては聞くよしもありません。昭和10年代になると、ナイロンの台頭で生糸は大きな打撃を受け、三渓は工場の整理を余儀無くされます。原富岡製糸場は昭和14年、片倉製糸に譲渡され、三渓も同年、世を去りました。その片倉製糸によって、富岡製糸場は、今日まで大切に守られてきたのです。(文・写真;青山恭之、写真*;永田博子、参考;「近代日本画を育てた豪商 原三渓」竹田道太郎著) 

三渓園のホームページは以下です。

 http://www.sankeien.or.jp/