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利根川の向こうの北川辺町 |
5月3日祝日、加須の大こいのぼりを見に行った足で、利根川を隔てた北川辺町を歩きました。利根川というのは、埼玉県の北辺と群馬県を隔てているという思い込みがずっとありました。それが、埼玉県は、利根川を越えた先にも伸びているところがあって、北川辺町とう地域が形成されているということを知ったのは、加須の仕事をするようになってからでした。
北川辺町のホームページを調べてみると、「古代より海水にみたされていた北川辺町一帯の平野部は海退現象が進行して、人が住みついたのは万葉の時代と言われています。当時私達の郷土は「まくらが」と呼ばれ、武蔵・下総・下野いずれの国にも属さない地域とされていました。」とあり、落人の受け皿になっていたようです。また、「江戸時代になると、古河が日光街道の主要な宿駅になり、それに伴って北川辺は古河藩内の「川部(かわべ)」と称し、重要な役割を果たすようになりました。」とあって、古河(茨城県)に属していた時代があったこともわかります。
近世は、利根川の氾濫に苦しんだ地域だったようです。氾濫後にできた自然堤防にそって集落ができてきたことが、グーグルアースでよくわかります。家々が、ゆるいカーブにそって連なっているのです。一度、そんな集落を歩いてみたいと思っていて、それが今回実現したのです。
加須市側から、長大な埼玉大橋を歩いて渡り(歩いている人は一人もいなかった)、降り立った北川辺町は、特に何の変哲もない農村の風景が広がっていました。でも、狙いをつけていた集落があったのでそこに向かうと、いくつか見えてきたことがありました。
上が、曽根という集落の航空写真です。屋敷の背後(北)に小川が流れていて、前面(南)に道路が緩やかなカーブを描いて通り、東西に屋敷が連なっています。
その道を歩きながら一軒一軒を見ていくと、ほとんどの家の敷地が道のレベルより高く、スロープでアクセスするようになっていました。そんななかで、母屋をかなり高い塚の上に配置している例が、下の写真です。
また、母屋よりさらに高い塚(水塚)の上に蔵を建てている例もありました。
また、やや新しい例だと思われますが、二階建ての鉄筋コンクリートの蔵を建てているお宅もありました。
それらの屋敷全体は、北側の屋敷林によって、冬の季節風から守られています。下の写真では、敷地全体を高く盛土しているのがわかります。
航一見ふつうの風景ですが、人々の「住まいの文化」といったものを見つけることができました。
(北川辺の集落については、日本工業大学の伊藤庸一教授が、「農村集落の美しさと民家」という文章のなかで、明快な説明をされています。http://leo.nit.ac.jp/~ito/study/japan/345utukusii.pdf)
北川辺町を北へと縦走(縦歩?)していく途中、田植えの終わったばかりの田の畦で、多くのダイゼン(チドリの仲間)が羽を休めていました。
この日の最終目的地、「道の駅きたかわべ」に隣接した「スポーツ遊学館」の屋上から見た、渡良瀬遊水地の谷中湖です。
遥かな風景が、どこまでもどこまでも広がっていました。
帰路は、東武日光線の柳生駅から電車に乗ると、北川辺町の北辺から東辺をなぞるように進み、あっという間に利根川を渡って、JR栗橋駅に着きました。(写真・文;青山恭之)