アトリエ・リング 一級建築士事務所

私たちは、さいたま市浦和区の設計事務所です。環境に向き合う住まいづくりを、お手伝いします。

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新潟の二日

旧新潟税関

うらわ建築塾の視察研修で、3月20・21の二日間、新潟をめぐりました。
 一日目は、新幹線を新潟駅で降りてすぐ、レンタサイクルを借りて、万代橋を渡り新潟島へ。信濃川のほとりに建つ「みなとぴあ新潟市歴史博物館」は、最近整備された一帯です。最初の写真は、博物館に隣接する旧新潟税関(重要文化財)です。明治2年に建てられた新潟を象徴する建物で、開港五港の出発点になりました。擬洋風のデザインが印象的です。

旧第四銀行住吉町支店

博物館では、新潟の歴史の概略をおさえ、シアターで「新潟・水の記憶」という映像作品を見ました。川と海が出合う場所で、新潟が水との関わりのなかで歩んできたことがよく理解できました。上の写真は、博物館から見た、旧第四銀行住吉町支店です。新潟市の中心街住吉町に、昭和2年に建てられた銀行建築で、設計は、長谷川龍雄。コンクリートの躯体以外を取り外し、この場所に新たに造った躯体に貼り付けるという新しい再生利用の方法がとられました。
  →みなとぴあ新潟市歴史博物館のホームページ 

博物館を後に、自転車で新潟島中央部の旧市街へ。新潟島は、信濃川と日本海に挟まれた島で、日本海の風雪から砂丘によって守られています。かつては掘割の縦横にめぐる水の都でした。古町通りを軸に、それに平行した西堀・東堀が都市の骨格を形成してきました。南北に走る道を「通り」、東西を「小路」と呼び分けて、明解な都市計画がなされています。自動車交通のために、堀割りは埋め立てられ道路になってしまっていますが、それを再生しようという動きもあります。
  →掘割再生まちづくり新潟のホームページ


新潟県政記念館

新潟島の都市構造を確認しながら、都市軸の焦点にあたる白山神社と、隣接する新潟県政記念館へ向かいました。県政記念館は、明治16年から昭和7年まで新潟県会議事堂として使われ、現在は、重要文化財の指定を受けて公開されています。星野総四郎設計の堂々たる建築です。大学1年の時、始めて一人旅でここに来た時、雨で誰もお客さんがいなかった館内で、館長さんが詳しく説明して下さったのを覚えています。写真は議場を、二階の傍聴席から写したものです。傍聴席のバルコニーを支える柱は、細い鋳物製でした。 。
  →新潟県政記念館のページ


燕喜館

次は、お隣の白山公園に移築・公開されている旧斉藤家住宅「燕喜館」を見学しました。日本建築の高い技術を今に伝えています。縁側の先の軒下空間をインテリアに取り込んだ「土縁」は、雪国の風土から生まれた独特の空間でした。
  →燕喜館のページ

砂丘にも足を伸ばしました。フラットだった市街地から、自転車では変速機がついていないときついくらいの急坂を上ると、砂丘の上に出ます。松林に囲まれたお屋敷などが散見するなかに、旧日銀支店長役宅「砂丘館」があります。昭和8年、日本銀行の技師平松浅一の設計で建てられ、平成11年まで、第8代から第37代までの30人の支店長の住まいとなりました。中廊下が、様々な部屋を貫いて、昭和初期の、機能主義が見て取れます。現在は新潟市の所有となり、新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体が管理・運営しています。この日は、三味線のコンサートや雛人形の展示、蔵を改装したギャラリーでの絵画展が行われていました。下の写真は、雁行配置をとる、庭園側の夕景です。

砂丘館

→砂丘館のページ

夜は、古町花街の独特な雰囲気のある路地を散策しました。

次の日は、レンタカーで動きました。まず、今回の大事な目的である、新潟でまちづくりの活動をしている「新潟まち遺産の会」とのジョイントです。昨日の「砂丘館」の管理・運営にも関わっている団体です。新潟絵屋という町屋を改装したギャラリーで、会の代表者大倉宏氏にお話しを伺うことができました。「建物を保存しようということだけではなく、新潟に残された歴史的遺産を共有の文化的財産と考える」という理念には共感できます。非常に質の高い活動をされていて、我々もがんばろうという気になりました。

新潟絵屋でのディスカッション

→新潟まち遺産の会、ホームページ

次は、新潟島を南東へ離れること十数キロの阿賀野川のほとり、沢海(そうみ)という集落にある豪農の館「北方文化博物館」伊藤家住宅を訪ねました。弥彦神社まで、自分の土地の上だけを歩いて行けたという越後一の大地主の、明治15年から8年をかけて建てられたという、「民家」です。壮大な長屋門を抜けると、建物群の一部が見え始めます。(下の写真)

北方文化博物館

正面が、二階建ての母屋で、茶の間・囲炉裏・台所・土間などの生活空間。中庭を隔て、入母屋の玄関を持つ百畳敷きの大広間と日本庭園。その奥に、現在も伊藤家の方々が生活されている住宅。その他、茶室や蔵、正三角形平面の三楽亭や、移築民家、観光客用の休みどころなど、広大な敷地に何棟の建物があるのでしょうか。日本建築の、細部の凝った造りもさることながら、おそらく地盤が余り良くないであろう氾濫原にあって、重厚な建物を支える構造技術の卓越さは想像を超えるものがあります。台所の高い天井の上には、立体トラスのような洋式の技術も見られました。 。

大広間 三楽亭平面図

また、上が三楽亭の平面図ですが、こういった数寄の精神は、京都から北前船経由で届いたものなのでしょう。柱も畳も、建具の枠も、60度・120度で造られていました。

三楽亭内部 三楽亭外観

→北方文化博物館のホームページ

越後平野に蓄積した富に圧倒されて新潟島にもどり、再び砂丘方面に。會津八一終焉の地である、先の北方文化博物館の新潟分館を見学しました。昭和3年建設の二階建て洋館と、和館が庭園に面して建っています。昭和初期のお屋敷の雰囲気を良く残す建物群でした。

會津八一終焉の地

→北方文化博物館新潟分館のページ

さらに砂丘を辿って、「新津記念館」へ。石油王・新津恒吉が外国人迎賓館として昭和13年に建てた3階建ての西洋館です。あいにく休館日だったのですが、外観からだけでも、瀟洒な雰囲気はうかがう事ができました。

新津記念館

→新津記念館のホームページ

最後は、おみやげの物色も兼ねて、古町通りの商店街をめぐりました。商店会の若い方々が、新しいまちづくりを動かしているところです。
 新潟は、日本海側にあって、どこか中央から遠いというイメージがありましたが、どうしてどうして、北前船のもたらす風や、大陸・ロシアの影響など、高い文化が蓄積されてきた事がよくわかりました。冬の雪も、春・夏には雪解け水となって田をうるおし、秋の収穫が富を形成してきたという風土の豊かさも感じた旅でした。(文・写真;青山恭之)