私たちは、さいたま市浦和区の設計事務所です。環境に向き合う住まいづくりを、お手伝いします。
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浦和くらしの博物館民家園 |
6月の梅雨の晴れ間に、ものつくり大学の学生達と、浦和の民家園に行きました。ずいぶんしばらくぶりの訪問で、前回の訪問以降に、綿貫家住宅と高野家住宅が移築復元されました。
今回の大きな目的は、上のスケッチを描くことでした。建物名称は、「旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫」。大正8年、栃木県の小山に、干瓢問屋の倉庫としてたてられたものです。それが昭和31年に浦和市農業組合三室支所に移築され、政府指定米穀倉庫として使用されてきました。そして、平成6年度にここに移築復原を行ったという経緯があります。大谷石のボディーに穿たれたアーチのディテールなど、実直ななかに細やかなデザインがほどこされています。内部のトラスも見事です。登録有形文化財。
さて、高野家住宅との再会です。かつては我が家の近所の中山道に面して、現役のおせんべいやさんでした。下の写真は、解体直前の2000年10月に撮影したものです。解体工事の現場を見せていただくチャンスがあって、復元設計を担当された神奈川大学の西和夫先生にお会いする事ができ、以後、うらわ建築塾でお世話になるきっかけとなりました。
下の写真が、移築復元されたもの。江戸時代末の浦和宿というのは、このような萱葺き平屋の町屋が連続する風景だったのでしょう。
さらに、綿貫家住宅とも再会。浦和宿の中心から、やや北よりに位置し、何件かの町屋が並んで残っていたところの一軒です。防火壁を備えた、黒い塗屋でした。明治に入ってからの建物で、当時の職人の技術の高さが随所にうかがわれます。特に、みせまわりの建具(揚戸)のディテールには、みるべきものがあります。
下の写真は、高野さんと綿貫さんが並んでいる様子。本来は、中山道をはさんで東面・西面していたものが同じ側に揃い踏みです。手前に、あともう一軒並べそうな、アキがあるのですが・・・
そして、この民家園での最大のみどころは、旧蓮見家住宅でしょう。江戸時代中期までさかのぼる、さいたま市域最古の民家と考えられています。旧武笠家表門をくぐって正面に立つと、古い民家の特徴が匂い立ってきます。低い軒。壁の多い壁面に獅子窓。一間ごとに、礎石の上に建つ柱。
大戸から中に入ると、広い土間に、馬屋が同居しています。関東近世民家の典型である四つ間取りに至る前の、三つ間広間型の間取り。
「おく」と「なんど」は部屋として区切れるものの、ほかは大きくワンルーム的で、畳のまわりに縁側がまわるわけでもなく、プリミティブな空間を感じます。
もう一軒移築復元されている旧野口家住宅は、安政6年(1859)と年代が特定できます。典型的な四つ間取り平面で屋根の建ちも高く、江戸末期の特徴を備えています。蓮見家との比較が興味深いです。(旧野口家写真出展;浦和の古建築、浦和市教育委員会、平成11年)
ところで、この民家園の概要説明が最後になってしまいました。浦和市中心部から越谷市へ向かう通称越谷街道が、見沼田んぼに入って、芝川を越える念仏橋の辻に、現在4棟の古民家と附属建物、一棟の倉庫とを、環境を若干修景して展示している、さいたま市(旧浦和)の施設です。浦和駅東口から、バスの便が便利です。(文・スケッチ・写真;青山恭之)