アトリエ・リング 一級建築士事務所

私たちは、さいたま市浦和区の設計事務所です。環境に向き合う住まいづくりを、お手伝いします。

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格子状の街に、格子だらけの美術館はよく似合う

格子状の街区と美術館 グーグル・アースより

埼玉県立近代美術館のニュース紙「ZOCALO(ソカロ)」2012年4月-5月号に、僕のエッセイ「格子状の街に、格子だらけの美術館はよく似合う」が掲載されました。現在、同美術館で無料配布されていますが、写真を追加して、ここでも紹介します。




埼玉県立近代美術館のある鹿島台というエリア(旧浦和市から与野市)は、大正11年から昭和9年にかけての大規模な耕地整理事業により、格子状の街区が整備されたところです。ここに、大正12年に起こった関東大震災で被災した多くの人々が移ってくることになります。そのなかに、上野から近いわりに武蔵野の面影を残すこの地を気に入った画家たちが含まれていたこともあって、「鎌倉文士に浦和絵かき」という言葉が生まれてきたようです。鹿島台は、浦和の美術の環境を下支えしてきたといえるでしょう。

そんな鹿島台に美術館を設計するにあたり、設計者黒川紀章氏がどの程度地域の歴史を意識したか、いろいろ文章をあたってみても、これといった記述に出会えていません。ただ、グーグル・アースで格子状の街区を見ながら美術館にズームアップしていくと、屋上に格子のパターンが見えてきました。その時、街区の格子状パターンから屋上に描かれた格子までがシームレスに繋がっているように感じられ、「もしかして?」と、想像は膨らんでいったのです。

美術館の屋上の格子 グーグル・アースより

この美術館は、格子だらけの美術館として知られています。構造から、仕上げのタイルに至るまで、造形のモチーフとして格子のパターンが貫かれているからです。建築の基本寸法は4650ミリ。これが水平方向の柱間としてXY方向に、さらに階高としてZ方向にまで使われています。このことが、外観で正方形の格子が現れる基礎になります。(50ミリ角のタイルが91枚、20ミリの太目地が5本入って、50×91+20×5=4650)。そして誰の目にも見えない屋上にも、柱間を二等分した2325ミリピッチの格子。それが屋上一面だけでなく、屋上に突き出た二か所のペントハウスの上部にまで及んでいる徹底ぶりです。ただの目地であれば、幅は20〜30ミリ程度でグーグル・アースでは見えないのですが、ここでははっきり幅のある線で「描かれて」います。ナスカの地上絵のように・・・。

もちろん、格子のパターンというのは、建築では、よくある構成に違いありません。さらに、メタボリストやそれに近い表現者にとっては、トレードマークのようなものでもあったのです。磯崎新氏設計の群馬県立近代美術館は、その典型でしょう。ただ、磯崎氏の格子があくまで抽象的な表現を目指しているのに対し、黒川氏の格子は、柱・梁の構造躯体を強調表現するなど、具体的な手ごたえがあります。


格子が繰り返されるアプローチ

この美術館が発表された、1983年1月号の雑誌『建築文化』の解説文の中で、黒川氏は、開かれた美術館の条件として8項目を挙げているのですが、その8項目目に、「美術館の建築自体を周囲の環境へ同化し、開放すること。」と述べています。この同化ということは、周囲の街へと繋がる造形モチーフを建築で具体化することではなかったのか? 関東大震災から90年近く経ち、すっかり落ち着いた住宅地となったこの格子状の街に、格子だらけの美術館は、よく似合っているといえるでしょう。 青山恭之(建築家)




美術館のホームページで、PDFファイルを見ることができます(写真の解像度が低いのが残念)。ここをクリックすると、別ウィンドウで開きます。


■ 参考

昭和27年の浦和の地形図

上が、昭和27(1952)年の、浦和の地形図です。左半分の格子状の街区が、大正から昭和にかけて開発されたエリアです。美術館が建つのは、左上の「埼玉大文理学部」とあるところ。右半分の街区は、中山道(仲町・岸町という文字を貫いている)が直線状に通っていますが、くねくねした街路が多く、江戸時代からの道や地形の跡が読み取れます。