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秩父セメント第2工場 |
10月のこのコラムで、10月7日に訪れた「旧日本赤十字社埼玉県支部社屋」について紹介しました。同じ日に見学させていただき、感銘をうけた「秩父セメント第2工場」についても、文字にしておこうと思い、ここで取り上げることにしました。谷口吉郎の設計で1958年に竣工した工場建築群(現在は、秩父太平洋セメント株式会社秩父工場)です。僕と同い齢ということになります。敷地に隣接して秩父鉄道が走っていて、何度もここを通るたびに、群としての建築の力を感じていましたが、今回初めて、敷地内から見ることができました。
今回の旅の案内人である建築学会のW氏が秩父のご出身で、「あの建築は、定峰峠から遠望するといい」と勧められ、彼の車で定峰峠越えをして写したのが上の写真です。緑豊かな秩父の山並みの中、うねる大海を進む貨物船のように見えました。軍艦のようでなかったのは、威猛々しくなかったからです。
工場に着き、まず事務所棟の会議室に案内されて説明を受けました。そのなかで、この工場が、秩父のこの環境に結びついた実用主義につらぬかれていることが理解できました。セメントの材料である石灰石は南の武甲山から、粘土は工場の南東に隣接する採掘場から、水は西に沿った荒川から運び込まれ、製品は東の鉄道で熊谷・東京へと運ばれていく。そんな物流の要に工場が位置し、セメントをつくるというラインに沿って建物が配置されているのです。近代建築の理念が、工場という実用最優先の場から生まれてきたことが理解されます。(配置図;出典は新建築1956年10月号、クリックで拡大画像が開きます。)
会議室には、工場全体の模型などにならんで、谷口吉郎と親交のあった詩人草野新平の詩「合理の美」が掲げられていました。
さて、南から北へと軸線上を進みます。ひょうたんのような断面のツインの煙突、大きな筒状のタンクなど、コンクリート打ち放しの構造物が並びます。それらに取りついた、鉄骨の階段が美しい。しかしそれよりも、建築としての造形の基調となっているのは、緩やかなヴォールト屋根と、軽やかな障子のようなカーテンウォールの外壁です。そのモチーフは、平屋の小建築から大規模な倉庫に至るまで貫かれています。カーテンウォールなので、柱の太さに無関係に、表層の表情を作っています。5メーターのスパンに、コンクリートのマリオンが巾200、間を800ピッチのパネルやガラスが6等分します。パネルの高さは幅の倍程度で、ちょうど三六の建具のようなプロポーションです。ヴォールト屋根とカーテンウォールは見た目では梁を介さずに直に取り合って、重さを感じさせないディテールです。屋根のスカイラインは、そのまま秩父の山並みのメタファーでしょうか。
圧倒的な迫力だったのは、回転炉(キルン)です。内径3.75m、長さ170mで、緩やかな傾斜を持っており、下の写真は最も低い部分(北端)です。最大稼働時には四本あったものが、現在は一本になってしまっています。
その先、敷地の最も北には、1956年の新建築発表時には無かった、200mを超える平屋の建物がありました。プレキャストコンクリートの壁柱が連続し、鉄骨の切妻屋根がかかります。新古典主義者シンケルの建築に繋がるような、単調な力強さ。
建物群の東見回りこみ、この工場の中では最も規模の大きな建築である原料置場の脇、石炭搬入の線路に沿って南に進みます。その東には、出荷作業場という駅のような構造がありました。三面のプラットホームが並び、さらにその東にも秩父鉄道の線路まで複数の線路並んでいます。
下の写真が、原料倉庫のパノラマで、軒高25.7m、長さは230mの巨大建築です。地上8mのレベルには高架の線路があり、原料である石灰石を積んだ列車が建物内に飲み込まれて、下に原料を落とす仕組みです。線路のレベルまでは打ち放しコンクリートで、壁には緩やかなRがとられています。列車が入ってくる脇の柱間は煉瓦がはめ込まれ、その上部は例のカーテンウォールで、最上部には800のパネルのリズムをさらに二等分した鉄のガラリが細やかな表情を見せています。(下の写真は、クリックで拡大画像が開きます。)
1時間半という急ぎ足の見学でしたが、日本の高度成長期に、東京の街を作ったものの多くはここのコンクリートだったことも思い合わせると、ここにセメント工場を作ろうという発意から稼働までの関係者すべての仕事に頭が下がりました。そのなかで、谷口吉郎という一人の建築家が、モダニズムの理念に貫かれた「合理の美」を編んだということがいえるでしょう。 (写真・文;青山恭之)