語録 (Yosukeさんリスペクトページ)
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安彦麻理絵 「制服は喪服にもなります。チーン!!」(『作文の不謹慎的展開におけるうんぬん』)
荒木経惟 「このカメラは大人になれないからね」 (※このカメラ=ポラロイド 『ポラエヴァシー』)
アレクサンドル・カリャーギン 「チェーホフは、トルストイのようにモラリストであったことはなかったし、
ドストエフスキイのように悪魔と戦うこともありませんでした。
そして、一度としてロシアの人々を悪く言ったことはなかったのです」
「これはあくまで私の考えですが、チェーホフが書こうとしたことは
次の科白によく表れているのではないかと思っています。
“今日は良い天気だ!お茶を飲もうか、それとも首をつろうか?”
ロシアの人々は今なおこのはざまで生きているのです」
(01年12月6日『人物たち』来日公演の前説より)
淡谷のり子 「あまりヨレヨレになって生きているっていうのは…。でも、そうかといって、
じゃ華々しいうちにステージをやめればいいじゃないかって言われるけど、
そんなものじゃないんですよ。最後まで見きわめたいでしょう。」
(坂東玉三郎との対談より)
アンジェリーナ・ジョリー 「演じた役が『17歳のカルテ』と違うわけじゃないのよ。『17歳のカルテ』でわたしが
演じたリサは何も持ってなかった。ふたりは同じ人間なの。もしララを檻に閉じ込めたら
彼女もリサそっくりに、ちょっと狂ったようになるんじゃないかな」
(“ゴスの女王”にして国連親善大使のアンジー。
『トゥーム・レイダー』のララ・クロフトを演じて。「ぴあ」01年10月9日号)
アンソニー・ホプキンス 「私はレクターではない、アクターだよ」
アンディ・ウォーホル 「僕は存在の無いものを描きたいと思っていた。
それで、実在する非実在というものを探していた。
そして見つけたのが、スープ缶だった」
庵野秀明 「まあ、自殺っていうのも希望ですから」
泉鏡花 「恋には我身の生命も要らぬ」(「夜叉ケ池」白雪姫の科白)
「ロダンやトルストイのおせわにならないことを私はほんたうに喜んで居る」(色紙より)
「元来脚本は単独では権威はない、昔から台本と言はれるくらゐで、脚本は即ち舞台と関連してこそ
価値があるのであって、詩歌俳句或いは小説がそれ自身独立した芸術であるのとは訳が違ふ。
それに芝居を見る人も脚本そのものよりは舞台を見るのである。否舞台の上の役者を見るのである。」
「故に創作する時に於ては「売る」といふ事を些とはこゝろに置いて掛らねばならないではなからうか。
それには誰にも解し得るやうに心掛けねばなるまい、或る特殊な人達にのみ向く作品ばかりを、
決して作品とすべきものではないと言へる。」(「作のこと」大正6年7月)
井上陽水 「高校時代でしたね、音楽に興味を持ち始めたのは。ビートルズ、ビートルズですよ。
ビートルズはね、もー、大ドカン!(笑)」(「ぴあ」01年6月4日号)
今村昌平 「女優は智的であっても良いが、それよりも薄皮を剥ぐように肉体的な内実の
人間そのものの芝居を見せてくれるほうが良い。」(『赤い橋の下のぬるい水』パンフより)
イングマル・ベルイマン 「これは絶対にいい映画であり、どんな批判にも百パーセント応えられるものである。
だからこの映画を貶めた批評を私は忘れない。」(自作『冬の光』(62年)について)
内田春菊 「それでも容赦なく
朝は来て
あたしはまた
制服を着ます」(「幻想の普通少女」)
Woody Allen "An artist creates his own moral
universe."
「いつも観客を少なくとも僕ぐらいは知的なはずだと思っている。
だから僕は観客のためにレベルを下げたような映画を作ったことがない」
(『おいしい生活』プレスシートより)
「たのむから、射たないでくれ。ボクは死にやすい体質なんだ。
医者からも銃で射たれないようにと注意されてる。もしボクが妊娠してたらどうする?
最後の一服をいいかな?もうこれっきり禁煙するからさ。
こうなったら抗議の手紙をタイムズに書くからね」(『007/カジノ・ロワイヤル』)
ボリス「子供?ぼくたちのかい?」
ソーニャ「どっちにせよ、たいした違いはないわ」
ボリス「約束してくれ。子供は政治家にしないで欲しい。
兵隊にも牧師にも殺人マニアにもしないでくれ」
ソーニャ「他に言うことはない?」
ボリス「未来が見える。ある男がウィーンで生まれる。名前はジグムンド・フロイド。
彼は人類を罪悪感から救うが、料金が高すぎるのが欠点だ」
***
ボリス「さあ、もういいだろう。人生の秘密を教えてくれ」
死神「愛する人とのセックスだ。回数が多いほど、よい」
ボリス「なるほど、じゃあボクは間違ってなかったんだな」
(『愛と死』ラスト削除部分)
「フランス人は、メガネをかけているから私をインテリだと思い、
映画がいつも赤字になるから私をアーティストだと思っている」(2002年・カンヌ映画祭にて)
えびふらい 「プライベートの切り売りも、マンガ家の宿命なのかも」
及川光博 「確かに僕は親しまれてはいるけれど、一方でバカにされていることもわかっているんだ。」
(「ぴあ」01年12月10日号)
岡本喜八 「成瀬巳喜男が自分の作風を変えたか!ゴッホが作風を変えたか!」
("もっと重厚で立派な作品を撮ってみては"と提案され激怒して)
尾崎翠 「言葉はつねに文学の強敵だと思ひます」(『「第七官界彷徨」の構図その他』)
小沢昭一 「まぁ言はば騙る稼業やはるの風」(『波』2002年3月号表紙)
尾上菊五郎(六代目) 「まだ足りぬ踊り踊りてあの世まで」
筧利夫 「だから力を出す場所や出し方は違っても、基本的には何をやってもいっしょだと思うんです。
だから、『どこへ行きたいのか?』って聞かれたら、『どこへでも行きたい』と答えるしかない」
(「ぴあ」01年11月12日号)
華原朋美 「私の新曲は、牛丼を食べて歌って欲しい、量は並、つゆだく、玉じゃなきゃだめ」
唐十郎 ♪この路地に来て思い出す
あなたの好きなひとつの言葉
死ぬのは、皆他人
ならば
生きるのも 皆他人
死ぬのも 皆他人
愛するのも 皆他人
覗くのは 僕ばかり
そこに
見てはいけない何があるのか」(『ジャガーの眼』)
川瀬智子 「何が無駄って、後悔してる時間が一番の無駄。ただ、その日の問題点だけは把握しておかなきゃ
いけないから、私は、振り返って反省する時間を2時間って決めたんです(笑)」
(「ぴあ」02年2月9日号)
クリストファー・リー 「私は原作(※「指輪物語」)が出版されたときから、年に一度は読んでいる。
今は、夢が叶うこともあるんだなという気持ちだ。本当はガンダルフを演じたかったんだがね。
だがサルマンも、複雑で演じ甲斐のある役だ。「人間らしさを出さないで」と言われて苦労したよ」
(『ロード・オブ・ザ・リング』ロンドンでのインタビュー/「ぴあ」02年2月25日号)
Groucho Marx "I would never wanna belong to any club
that would have someone like me for a member."
「自分で靴をはくようになったら、その日から女の子を追いかけたまえ」
「さいわい、わたしは一に女の子、二に自分自身のふたつにしか興味がなかった」
(『好色一代記』)
黒沢清 「でも、レクターは悪魔じゃないんですよね。そこがすごいなっていう。
悪魔みたいな崇高な存在じゃないんですね。本来、彼はただの犯罪者なんですよ」
桑田佳祐 「愛する誰かとめぐり逢えたら
大事な生命が世に報われる」(「涙の天使に微笑を」)
「こういうライブをやっているってことは半分不幸な状態。本当はこういったライブが
なくなればいいってことなんだよね。これをいいことだと解釈してはいけないって思うよ」
(9回目のAAAを迎えて。「週刊プレイボーイ」01年12月4日号)
小林麻央(恋から9期生) 「女の子は女の子であり続けなければいけない」
小西康陽 「よくできたオモチャかな。17年間も飽きずに遊べるオモチャなんて、ないもんね。
車だって17年も同じのに乗らないでしょ。」
(「ぴあ」01年4月2日号・ピチカート・ファイブ解散について)
コンスタンチン・スタニスラフスキー 「理解して記憶することは、むずかしくありません。
感じとって信じることが、むずかしいのです」
坂口安吾 「好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。」 (『夜長姫と耳男』)
さだまさし 「人生は明るく、歌は暗く。これがさだのモットーですから」
サルバドール・ダリ 「単調なるものに反対し、多様性を擁護せよ。
拘束に反対し、拘束を受けない熱狂を擁護せよ。
一致することに反対し、等級を擁護せよ。
ほうれん草に反対し、殻を持ったかたつむりを擁護せよ」
ジェラール・ドパルデュー 「米国人はヒーローに対する感覚が違う。
正義のとらえ方が単純で、スパイダーマンや悪との戦いが彼らのスタイルだ」
「ポジティブなヒーロー像は好きではない。退屈してしまう」(02年7月24日ロイター)
島田雅彦 「正直さに勝る青二才の知恵はない」(『彼岸先生』)
Jack Nicholson "I miss the fake elements the most.
I liked the glamour of Hollywood
when I first came here, and I guess I still do."
J=L・ゴダール 「今では、テレビで放映するための映画しか製作されていません。
劇場配給はテレビの放映の付属にしかすぎません。テレビは何も製作しません。
テレビは放映の様々な可能性を生み出すだけです。テレビカメラはすぐに放映してしまいます。
テレビは映像をただ放映するだけで、生み出すことはありません。インターネットに関しては、
私はインターネットを使用していないのでお答えできません。」
「例えばこのヴィッテル(水)の瓶を撮るとします。キャメラをセッティングし、フィルムを回します。
キャメラが映像を録画するので、彼らにとってはヴィッテルの瓶が撮影できたことになってしまいます。
しかしながら、セザンヌがリンゴを描いた時、このように描いたわけではありません。
このことを説明するのは容易なことではないのですが、彼はリンゴを受け取っていたのです。
キャメラのレンズはモノに向かって行くのではなく、モノを受け取るために作られています。
テレビによって色々なことが変化しました。先程もお話した通りです。
今日の監督はキャメラの後ろにいて、見ているか、見ていないかはともかくとして、
何かを送っています。何かを受け取ることによって始めません。自分が考えていること、
自分が書いたことを送ることから始めています。
いわゆるキャメラの根本的な機能が消滅してしまったのです。
送るのは映写機の機能で、キャメラの機能ではありません。キャメラは受け取るべきなのです。」
「テレビはただ放映するだけで、クリエートすることはありません。
サッカーの中継はクリエートされるわけではなく、放映されるだけです。」
(2001年5月15日・カンヌ映画祭記者会見)
「テレビで放映しても何もならない。事態は悪化する一方です。日本人が陸上の世界選手権を撮る
方法を見ると、彼らは無数のカメラを使っていますが、むしろ他の方法より出来が悪い」
(インタヴュー「「歴史」の孤独」より)
ジョン・ウォーターズ 「いちいち撮影に許可が必要だって知ったのは、路上で公然とヌードを撮っていて
警察に逮捕されちゃったとき。それまで10年くらいかかったかな(笑)」
「確かにセシルはフィルム・テロリストだけど、本当のテロリズムはハリウッドにあるんだ。
この先、ロクでもないハリウッド映画が世界を制覇して、気がついたら日本映画が
なくなっていた、なんてことも有り得るんだよ。これこそテロじゃないか!」
「私の映画は劇場の興行にも都合がいいんだよ。お昼から深夜まで6回上映できるからね。
3回しかできないハリウッド映画とは違う(笑)。これをちゃんと守っているのは、私とゴダール、
それにウディ・アレンくらいだろうね!」
(「セシル・B」監督インタビュー・「ぴあ」01年5月14日号)
鈴木清順 「幽霊のようなものですね、女っていうのは。
いるようでいていなくて、いないようでいる、ってやつですね。」
「映画ってのはなんだって撮れるんだよ(笑)。なんだってつながっちゃうんだしね。
制約のないもんだから。非常に自由な表現形態じゃないですかね、映画ってのは。
みんな思いつきなんだよ。楽しくさえあればいいわけだ」(「ぴあ」01年4月16日号)
「愛とは
考えるもの
創造するもの
造形化するもの
面倒臭いもの」(1967年6月)
セルジュ・ゲンズブール
「死んだあとのことなんか
私はどうでもいい。
死んだあとなんか、ファックだ!
死んだあとが
私のために
いったい何をしてくれた?」(1987年)
太宰治 「きみ、
かもめってのは、ほんとは
唖の鳥なんだってね。」
鶴田浩二 「孤独と苦悩に耐え得る者
それを男と称します」
(最後の色紙の言葉)
デイヴィッド・リンチ 「僕は、謎は好きだが、混乱は求めていない。
抽象的なストーリーだが、観客が進むべき道筋は示している。」
(『マルホランド・ドライブ』について 「ぴあ」02年2月18日号)
ティム・バートン 「僕には未来はない。今を生きるだけです」(『猿の惑星』来日記者会見より)
寺山修司 「いい仮面というのは、鏡のように、他人の顔をうつしてくれる。」(『歩けメロス』)
東野英治郎 「戯曲は文学としても成り立ち得るが俳優は演劇としてしか成り立ち得ない。しかも演劇は俳優を
通してしか成り立ち得ないのである。
俳優がいなければ、どんな名戯曲があろうとどんな名演出家がいようと名批評家がいようと
全く成り立たないのである。それほど俳優というものの存在は重大なものなのであるはずなのに、
実際にはどうも、まず戯曲があって演出があって、そして俳優がある。そして批評家が最後の
三行位演技にふれているというような感じがあるのはどうにも不思議なことのように思うのである。」
(『私の俳優修業』1964年3月・未来社刊)
トム・ハンクス 「何といっても映画は監督のもの。テレビはプロデューサーのものだ。
俳優が輝けるときもあるけど、やっぱり舞台に勝るものはない」
中島みゆき 「心をよぎる迷いもなく 行く先のことを考えている
総ては流れてゆく日々の ゆきずりの眺めだった
私の姿も街の色も 過ぎてゆく眺めだった
泣くほどの子供じゃなかった
ひきとめるほどの自信もなかった
諦めることに慣れたふりして 何かを守ろうとしてみたの
どうしてどうして素直に
貴方に心を伝えなかったのか 後悔してる
貴方は遠くで私を忘れる
朝が来るまでに1人に戻っている」(『後悔』)
「私は名前を残したいとは思わない。
ただ曲が聴き手にとって実用品になってくれれば」(01年9月19日・読売新聞夕刊)
長瀬愛 「私の騎乗位は常にエゴです」(「週刊プレイボーイ」01年12月4日号)
野坂昭如 「不思議に生命永らえて、「昭和」時代作家兼ダニアースCMタレント」(『妄想老人日記』)
「ダム工事中止」の、象徴的意味を考え、マスコミは、田中康夫を守るべきだ。
木曽川の涸れたのがダムのせいと、長野県人なら誰だって知っている。
ようやく政官分離のキッカケが、長野県から生れた。
ぼくは田中を守る。」(「田中康夫よ 君を小説家として認めないが、政治家として支持する!」)
「グラスの底に真理が見える。真理をもう一杯」(「サントリーGOLD」CMより)
野田秀樹 「・・・近頃の日本人ときたらいつもいつも金持ちで、簡単に幸福でないと、
すぐにも他人とか社会が悪いような気になってしまう。
そこを「みのもんた」につけ込まれる。」(「司会者M・M」)
「都市には淫らな妄想を美しい夢に変える力がある」(『農業少女』・都罪の科白より)
「一つのモノを作るためにどれだけの魂を犠牲にし、そのうえに作っていかなければならないか。
もちろん、芝居を作るということもそうなのである。
一つの魂を宿すためには、沢山の魂が消されていってるのである。
満開の桜の下に行くと、今でも我々がその場所に何か魂でも宿っている気になるとすれば、
それが消えていった者達の思いだ。この国が作られるために消えていった、古代人の
アニミズムである。それを私は、鬼と呼んでいる。」(「魂という文字の中に棲む鬼」より)
「私は、伝統をわざわざ踏みにじろうなどという者ではない。
第一、そんなにあっさりと踏みにじられるようなものは、長い時間をかけて作られた伝統ではない。
踏みにじられるのは伝統に乗っかった勘違いである。」(「がりがらせる心」01年8月歌舞伎座パンフ)
「私はいまだに自分がつくる芝居がこの世で一番おもしろいと思っている。そう思ってつくっている。
これはもはやカッコ悪いことなのかもしれない。思わずとっさに「根性」とかいうコトバが出てくるような
滑稽さなのかもしれない。
でもね、でもね、近頃つまらない芝居が増えてきたのは「身の丈を知る」なんていうコトバが
横行しているからだ。身の丈知りたかったら舞台にあがるな、どっかそこら辺にいろと私は言いたい。
私は客というものを信じている(それはどうだか)。
客にとって「身の丈」なんてどうでもいい。「この世で一番おもしろい芝居」を見たいに決まっている。」
(「私の「根性」と「勝負」」 99年『パンドラの鐘』パンフより)
野田高梧 「云うまでもなく、シナリオというものの本来の目的は、文章によって物語りを伝えようとするものでは
なくて、文章を手段として映画を描こうとするところにある。」
「映画は決してフィルムによる演劇の缶詰であってはならないのだし、もし単にプロットを数多くの場面に
配分して劇的に組み上げることだけがシナリオの任務なら、それはただ場面数の多い戯曲を書くのと
同じことになろう。」(『シナリオ構造論』)
萩原朔太郎 「はかなしや病ひ医えざる枕べに七日咲きたる白百合の花」(最後の短歌)
八谷和彦 「アイボは遊び心に敬意を表すが、生きたペットを絶対に越えられないし、介護ロボットの開発とか
聞くと、人間がタッチしない『介護』に何の意味があるのかと問いたくなる。そんな考え方が、人間から
ますます身体性を奪っていく。しかし、技術そのものを否定するのもやりすぎだ。要は道具として
どう使うかで、電子メディアが人間の感覚を拡張することもあり得るだろう」
「ポストペットも馬車も、僕にとって本質は同じで、それは行き過ぎた効率化・合理化に対するアーティスト
としての反論でもある。面白いことや豊かさは、何よりみんなの体が知っている」
(読売新聞夕刊01年11月7日)
埴谷雄高 「おれはお前を愛している」と言って、相手が愛しているとわかった場合もあれば、
「愛している」と言ったから、あの人は愛してないんだとわかった場合もある。
要するに、言葉というものはまだ残っている」(島田雅彦との対談・94年)
ピーター・ブルック 「新しくあるための新しさを求めるなど論外です」 (『ハムレットの悲劇』初演パンフより)
広末涼子 「南の海の珊瑚礁で
気持ち良く漂ってる熱帯魚じゃなくて
私は絶対、日本海の魚だと思う。
寿司屋の
水槽の中でも、
平和そうな
見せかけで人を
だましてるけど、
じつはすっごい勢いで、
シルバーの体を
ギラギラさせて、
泳ぎ続けてるでしょ。
考えて、止まっちゃうと、
死んじゃうかもしれないから。」(「週刊プレイボーイ」01年12月18日号)
フォルカー・シュレンドルフ 「宣伝というものは、決して終わりを観せようとはしない」(『魔王』パンフより)
深作欣二 「政治家が騒いだのがいい宣伝になった≠ニ言われるけれど、正直なところ腹立たしい≠ニいう
思いの方が強い。国会議員のアホらしさっていうのと、そんなアホが出てきた途端に
ここぞとばかりに飛びつく報道番組がなあ。バカバカしいと思ったのは、こっちが提供した映像素材を
番組で流すんだけど、血だらけ戦ってるシーンばっかり選んでるんだな。
こんなの、お茶の間流していいのか?≠チて、俺があきれるぐらい(笑)」
(「ぴあ」のインタビュー・01年4月2日号 『バトル・ロワイアル』に関しての発言)
藤谷文子 「行かないで。置いて行かないで。そしてまた怯えてる。
みせる涙の無意味さと私の発する言葉の無力さ。
いやいやそれでも恨んでなどおりません、一度たりとも誰のことも。
こういう時に良い思い出しか浮かばないのは、おもしろい。
よく映画に連れてってもらったのはやけに覚えているなあ。
ああ優しい言葉の一つでもかけてやりたかった。」(『逃避夢』)
フリッツ・ラング 「映画監督に著作権はない」
マイケル・チェーホフ 「抽象概念は創造的芸術家にとって、なんら価値を持たない」(『演技者へ!』)
槇原敬之 「すごく甘えてたっていうか、ミュージシャンとしてどうこうっていう以前に、
人間としての志が低かったね。」(「ぴあ」01年11月26日号)
松岡充(SOPHIA) 「どメジャーなところっていうのは、実は何もないってことも何となくわかってる。
何もなくて、消費されてもう這い上がれられへん。」(「ぴあ」02年2月25日号)
松任谷由美 「もう、どんな末席の末席の末席でもいいから、職人ではなく、天才でいたい(笑)」
(「ぴあ」01年6月11日号)
三池崇史 「なんだかんだ偉そうに言ってもね、結局は他人の金でつくってるんでね。ヘンな仕事ですよ」
(映画監督/「ぴあ」02年1月28日号)
水木しげる 「子供の頃から墓が好きだったから。面白がって、いろいろ想像しながら、墓を見てたからねぇ。
この人は、どの位生きたのか、どうやって死んだのかとか。
そういうことが、ほんの少し、0.1%くらい、雰囲気が伝わって来るんですよ。
墓石を触ったりすると、分かるんです・・・・。」 (「墓をほる男」インタヴューより)
三谷幸喜 「笑うことの力を信じています。」(01年6月12日・読売新聞夕刊より)
南Q太 「朝になって二人は
どうでもいい
話をしながら
駅まで歩いた」(「不幸せでもいいじゃない」)
宮崎駿 「米国で人気を得ることが一番だと考える人もいるが、それは間違った考え方だと思う。
映画は国際的なものだと言われているが、自分はそうは思わない」(ロイター01年11月)
美輪明宏 「いやあ、あれは犯罪ですよ」(「恋から」ゲストで。さんまとしのぶの結婚について)
村上龍 「わたしたちは、何かが欠落していることをはっきりと確かめたときに初めてそれを捜し始める。
意識して希望を捜すことほど切なく悲しいことはない。だが、生きていく上で必要で、
現在の自分にはそれがないのだと知ってしまったら、それが何であれ捜さなくてはいけない。
『ラブ&ポップ』はそういう映画だった。」 (1998年『ラブ&ポップ』ビデオ解説より)
山下彩佳 「たぶんあなたも10年後ぐらいになればわかると思うけど、男は所詮敷いてナンボよ」
(「恋から」8期生29歳・女子高生スペシャルで高校生に)
山本正之 「お嬢さん 月がとってもきれいですね
お嬢さん 星がたくさん光ってますね
お嬢さん お嬢さん 夜風がやさしく唄いますね
キザ Ha キザキザキザキザキザ
夜風が唄なんか唄うわけないわ」(「キザの唄」)
「中日は、走る野球を求めながら、いつしかそれを拒否している。」(2001年)
吉田美和 「私なんか、北海道を離れた時点で、東京だろうがニューヨークだろうが関係なくなってる。
どこでも一緒じゃんというかさ(笑)」(「ぴあ」01年12月3日号)
淀川長治 「ここまでくると五十八歳鈴木清順「陽炎座」にたどりつく。お見事のひとことにつきた。
ほめたのではない。拍手したのである。五十八歳の青春に拍手したわけである。
それもどう好かれたか選ばれたか大正初期の鏡花「陽炎座」。これは酔って忘れ、思い出して
はその記憶をたどって酔いを恋しがる一瞬いなずまとひらめいた鏡花短編。おおむかしに読んだ。
忘れたのを映画で思い出したがそれはただひとり(おいね)その名。その原作からはけんらんと
かけはなれ自由ほんぽうあるがままにセイジュン・キョウカになりながら、そのシンに鏡花愛が
くみとれて私は拍手した。時代色がすこしあやしいがこの大正末期に美術の池谷仙克氏も
鈴木清順氏もが鏡花をもとにその香りを掴み出さんの遊びの苦しみが見てとれてうれしく。」
(『陽炎座』評より抜粋・1981年)
リー・ストラスバーグ 「創造と評価とは、同時に手をたずさえて進行すべきものである」(『メソードへの道』)
リドリー・スコット 「たいていの戦争映画は15分か20分戦闘をみせたら、観客が疲れないように息抜きの
シーンを入れるけど、この映画はそうじゃない。戦闘というものは一度始まったら止まらないんだ。
それを伝えるためには、ブレイクは必要ない。兵士たちは全身全霊をこめて戦ってる。
その感覚を観客に伝えたかったんだ」(『ブラックホーク・ダウン』について「ぴあ」02年4月1日号)