トム・ウィーラーの「THE GUITAR BOOK」にはリュートの伝播について次のように書かれています。
「Vladimir Bobriは作曲家であり、ギター歴史家である。彼は、ギターの先祖が地中海の北の沿岸に沿ってイベリア半島(スペインとポルトガル)に伝わった様子を述べている。
ヨーロッパには、8世紀に東方からきたジプシーが、アッシリア人とペルシャ人の用いた竪琴とリュートを持ち込んだ。また、ムーア人の侵略は、スペインにアラビアのリュートを紹介することになった。udとして知られている楽器は、多くの変形があり、それぞれが2等分された梨かメロンのようなボディをしていたが、このudはペルシャ人によって作られ、中国のtzi−tzeの影響を受けていると信じられてきた。tzi−tzeは、東洋の楽器の一つで、これもまた、十字軍の帰還によってヨーロッパに紹介された物である。」
ギターとリュートは、その生い立ちにとって切り離せないものではあるが、今日のギターのもとになったのが、西アジア(メソポタミア⇒ラテン)のリュートなのか、アラビアのリュート(メソポタミア⇒エジプト)なのかは、はっきりとわかっていないとのことです。
13世紀にスペインに現れたギターラの起源には諸説ありますが、大きく分けると

@ エジプトのリュート族「アルウド」(左図)からギターラとビウェラが作られた
A ラテン(ローマ方面)から伝わったギターラ・ラティナ(左下図)がスペインで発展した
B 中世ヨーロッパのフィドルのボディにエジプトのリュート族「アルウド」のネックとサウンドホール部分を組み入れた

という3つに分けられます。

但し、比較音楽学者クルトザックスによれば、ラテン(ローマ方面)から伝わったのはフィドル族で、始めに伝播した楽器は
10世紀スペインの手写本に現れるびん型フィドルであったといいます。
その後、やはり10世紀ごろ、民族的・文化的にはギリシャ化が進んだビザンチン帝国(東ローマ帝国)の拡大により、
第二のフィドルとしてビザンチンリラ(右図)がヨーロッパ中に広がったといいます。これは、ザックスによれば特殊なフィドルで、
「少しふくらんだ薄い胴を持ち、はっきりとしたネックがなく、裏に糸巻きの付いた板型の糸蔵がついている。
ガット弦は4−1−5に調弦され、長い真ん中の弦は常にドローンを奏し、外側の弦は指先でなく指の爪で触れるのが普通で、
ハーモニックスのみで演奏される。したがって、この楽器では指板の付いた現代の楽器のように、
ネックと糸蔵の間にナットを必要としないのである」と紹介しています。(私見として2世紀ローマのアポロ石像の持つフィディクラと
ビザンチンリラは、くびれていること以外、同じ特徴を持っているようにも思えます。)
また、ザックスは、弓奏のビウェラは弓奏のフィドルと同じものであると言い切ってもいます。
それらが事実であるとすれば、ローマ方面から伝わったギターラ・ラティナとは、ある種のフィドルから
スペイン国内で発展した楽器である可能性が高くなると考えられます。
さらにザックスによれば、ギターラと指弾のビウェラ(ビウェラ・デ・マノ)のネックとサウンドホールは、
エジプト由来のアルウドの構造を持つと述べてもいます。

ギターラ・ラティナやビウェラの祖先は2世紀ローマのアポロ像の持つ「フィディクラ(右下図)」である
とする説もあります。
フレデリック・グレンフェルドによれば、ローマ時代、「ローマ人によってフィデfides
(弦を意味するという)またはフィディクラfidiculaと呼ばれた楽器が一部で愛用された。
フィディクラは『ちいさなキタラ』という意味の言葉で、リュートやリラを含むあらゆる弦楽器に
用いられた呼称である。オービットによれば、森の牧羊神ファウンが『カーブのあるフィデの発明者』
であり、詩人の芸術を象徴しているが、例えば『無学者とは関係がない』の諺通りである。
フィデ−フィディクラに次いで、中世紀ラテンのフィドゥラfidula、ビトゥラvitula、
フランスのブィエーユvielle、プロバンス地方のヴィウラviula、ドイツのヴィテーレvidele、
またはフィーデルfiedel、イギリスのフィテレfitheleまたはフィドルfiddle、
イタリアのヴィオラまたはヴィオリーノviolino、スペインのヴィウェラvihuelaとなったが、
いずれも同じ子孫なのである」とのことです。

但し、アポロ神の持つ楽器は、聖なる「ライア」とされていることから、
フィディクラはリラ族として扱われていたかもしれません。
クルトザックスによれば、現代では、弦楽器は、まず開放弦で弾くリラやハープ・ツィター等と、閉塞弦で弾くリュート族等に
分けられますが、古代においては未分化で、リラ等でも閉塞弦を持ったり、リュート族でも開放弦を持つものがあるといいます。
フィディクラは有棹楽器[リュート族]ですが、ローマにおいては宗教上のこともあり、開放弦とハーモニックスで弾かれ、
ライア[リラ族]として扱われた可能性があると考えられます。


また、フレデリック・グレンフェルドは、「ラテンのギター」の意味は、
必ずしも「ギリシャ・ローマ」を指してはいないとも述べています。
「ある仮設によれば、ラティナlatinaというのはローマからきたということではなくて、
ヨーロッパの地中海沿岸に土着した楽器ということなのである。
音楽学者カール・ガイリンガーは13世紀のザクセン広報から引用して次のように説明している。
『ラティニという言葉は、異邦人によって侵略された地方の土着の人たちとか、
はじめて住み着いた人たちとか、植民地人になった人たちに対して呼ばれた名称なのである。』」
と述べています。
この「ラティニ」の定義から言えば、「東方から移り住んだジプシーが持ち込んだ」とも考えられるし、
「ムーア人に支配されたスペイン人によって作られた」とも解釈することもできます。
グレンフェルドは、さらに、「ムーアのギターとラテンのギターの二つの区別がはっきりしてくるのに200年程度かかった」
とも指摘しています。

以上のことから、私見としてはBの説が最も可能性の高い説のような気がしています。