【Xブレイシング(左上)】
【ハウザーのファンブレイシング(右)】
【ラティスブレイシング(左下)】

製作家クリスチャン・フレデリック・マーチン~マーチン社のはじまりについて

ウィーンスタイルのギターを築いたシュタウファーに師事したマーチンはアメリカに渡り、師と同じくネック調整システムやブリッジピン等取り入れた小型ギターを多く作りました。
クラシックギターの祖、アントニオ・デ・トーレスが工房を開いたのとほぼ同時期、1850年に有名な力木構造であるXブレイシングを開発しています。これらの構造は、スチール弦ギターの強度を得るのにとても都合のよいものでした。
しかし、実際にスチール弦ギターをマーチン社が製作しはじめたのは、1922年と言われ、クリスチャン・フレデリック・マーチンは「鉄弦の先駆者」にはならなりませんでした。
アメリカでの1915年の万国博覧会を契機としたハワイアンギターの流行や1918年以降のスチール弦バンジョーを使ったブルース等の音楽の発展といった時代の要請に合わせてスチール弦化していったと言えます。

アメリカギター発展の歴史にとって、マーチン社の歴史は、最も重要なものの一つだと思います。
ここでは、主にマーチン工房時代の製作家クリスチャン・フレデリック・マーチン(マーチンⅠ世)の
生涯を追ってみたいと思います。

) ドイツ・シュタウファー工房で製作技術を磨いたマーチンⅠ世

1796年1月31日、創業者のクリスチャン・フレデリック・マーチンが誕生しました。
クリスチャン・フレデリック・マーチンの父はヨハン・ゲオルグ・マーチンといい、
ドレスデン市を流れるエルベ川に近いマイク・ノイキルヘンの小さな村に住み、
ヴァイオリンのケースや出荷箱などを製作する仕事に携わっていました。ヨハンは、
楽器製作にも興味を持つようになり、ヴァイオリン製作者との間にトラブルを招く結果となりました。
一説には、当時のドイツでは、ヴァイオリン作りの職人が属する組合ヴァイオリン・ギルドと
家具職人たちが、ギター作りの権利をめぐって対立していたといいます。
当時の多くのヴァイオリン職人たちは、ギターを「ジプシーが道端で踊りの伴奏をするためのもの」で、
彼らが製作している「ヴァイオリンやリュートといった貴族にも認められている高尚な楽器とは異なる低俗なもの」
という考えを持っていたといいます。しかし、ギターが世の中に広まっていくにつれ、
家具職人たちがそれを作り始めたことに対して、「楽器作りはヴァイオリン職人の組合に属する者だけに
与えられた権利で、家具屋が楽器を作れるわけがないし、また、許されるはずもない。」
として、裁判所に訴訟さえ起こしていたといいます。そうした中で、クリスチャン・フレデリック・マーチンの父、
ゲオルグは、他の多くの家具職人同様、早くからギター作りを始めていたそうです。
クリスチャンはそうした環境の中で育ち、幼くして家業を継ぎました。
1811年、15歳の頃にウイーンに出向き、当時ヨーロッパで名を馳せていた
ギター製作家ヨハン・シュタウファーの徒弟となりました。
クリスチャン・フレデリック・マーチンは、シュタウファーのもとで14年の修業を積み、
職人頭にまでなったとも言われています。
その後、シュタウファーの工房でギター製作の技術を身に着けたクリスチャンは結婚して故郷に帰り、
マイク・ノイキルヘンで念願の楽器工房を持ったそうです。
しばらくするとヴァイオリン製作者ギルドの紛争に巻き込まれ、泥沼状態に陥ったといいます。
ヴァイオリン職人の1回目の提訴は、1826年に退けられましたが、
再び5年後「自分たちの作るギターのケースを家具職人に注文していたが、ケースを依頼する時に
渡したギターを家具職人たちが真似をして作っている。」「我々のケースの注文によって充分儲けている上、
もともとおじいさんの肘掛椅子しか作ったことのないぶきっちょが、ギターを作ることなど許してはいけない。」
との主訴で提訴しました。これも1832年7月9日に「1677年に定められたヴァイオリン組合の定款には
ギターが含まれてはいない。」として退けられましたが、結局、この争いは1853年にギター組合を
正式に作る許可がおりるまで続いたといいます。苦悩と疲労の果てに、クリスチャンは故郷を捨てて
新天地アメリカへ渡る覚悟を決め、ギター組合ができる以前の1833年9月9日、
クリスチャン一家はニューヨークへ向かったといいます。

) ニューヨーク時代のクリスチャン・フレデリック・~ニューヨーク時代の名作、シュタウファー・モデル

ニューヨークに到着したクリスチャン・フレデリック・マーチンは、ウエストサイドにあるハドソンストリート196番地に小さな店を開きました。店先には、トロンボーン、フルート、クラリネット、ハープ、ヴァイオリンなどが並び、裏部屋にはギター製作の設備が整っていたといいます。ウイーン時代に結ばれたハープ演奏家兼歌手のルシアとの間に子供があり、家族そろっての移民だったそうです。1833年は、ロマン派の巨匠ヨハネス・ブラームスが生まれ、日本では葛飾北斎が数々の傑作を描きあげていた頃です。狭いながらも様々な楽器や楽譜の販売コーナー、裏部屋のギター工房。これがマーチンⅠ世のスタートでした。マーチン・ギターのヘッドストックにデザインされたC.F.Martin EST.1833には、創業時の心意気を永遠に引き継いでいこうとするマーチン社の強い意志と願いが込められているといいます。創業時代のアメリカは音楽マーケットが未成熟で、マーチン・ギターの製作は創業初期の年代では、成り行きに任せるしかなかったといいます。また、小売り、製作経営で認められていた業務慣行は、現代から見れば考えられないことばかりで、物々交換は小売取引の常識だったそうです。マーチンⅠ世の私的記録には、音楽商品をワイン1ケースから子供服に至るあらゆるものと交換したことを示す多数の記載があるといいます。製作者が20%以上の現金割引を約束する慣行もありました。良いクレジット会社がなかったので、製作者は法外な現金割引を実行したが、その正当化の理由は、ある小売業者が現金割引を受けないとすれば、その業者は信用価値がないとするものでした。クリスチャン・フレデリック・マーチンは、売り上げを増加させるために、様々な方面の楽器業者や音楽教師達にアプローチし、配給契約を結んでいきました。したがって1840年より以前に製作された多数のマーチン・ギターには“Martin&Schaz”や“Martin&coupa”といった取引先業者との連名ラベルが貼られています。

ニューヨーク時代の名作、シュタウファー・モデルはネック調整システムを持った革新的なギターでした。クリスチャン・フレデリック・マーチンがニューヨークに着いて間もない頃に製作したこのギターは、1834年に完成され、現在でもマーチン社が所有しています。デザインはイタリアのギタリスト兼作曲家であったルイジ・レニャーニのものとされ、シュタウファーが製作したものをクリスチャン・フレデリック・マーチンが忠実に復元したモデルです。チューニング・マシン・ペグ(糸巻き)を片側に寄せたデザイン、変則的アジャスタブル・ネックによりネックを上下させる革新的構造。その操作は、ネックヒールにつけた鍵によって自由に調整できました。ただ、これは弦の張力が強いギターでは適さないため、少なくともその後のスチール弦のギターには使われていません。クリスチャン・フレデリック・マーチンの友人のヘンリー・シャッツに宛てられた書簡によれば、ニューヨークでの都会生活は、マーチンⅠ世一家にとって住み心地のよい街ではなかったそうです。当時のニューヨークは、奴隷解放運動家たちが反対派に次々に虐殺されるなど、治安も非常に悪かったとも言われています。

) 安住の地ナザレスで飛躍するマーチン・ギター;Xブレイシングの開発

ペンシルバニア州ナザレスへ移住したクリスチャン・フレデリック・マーチンは、安住の地を得て本格的なギター製作を行いました。1800年代中頃はまだ鉄道網が整備されていなかったため、製品の大部分はニューヨークに向けて出荷されていました。その他は船便に頼り、主要船積み港や運河が充実している都市に送られました。今日まで残されているマーチン社の出荷記録には、ボストン、アルバニー、フィラデルフィア、リッチモンド、ピータースバーク、ナッシュビル、ピッツバーク、セントルイス、ニーオリンズ等が記載されているといいます。この時期には、マーチン社の経営も安定していて業績も順調でした。当時の広告に、ギター製作者として虚勢のない真摯な姿勢をうかがい知ることができます。「ギター製作者クリスチャン・フレデリック・マーチンは、謹んで音楽愛好家の皆様にお知らせいたします。当社に賜った多くのご愛顧により工場を拡張することになりました。これは、ますます増大するギターの需要にお応えすることを目的とするものです。」何の変哲もないコピーであるが、人々に対する感謝の気持ちが込められていました。初期のマーチン・ギターは、オールカスタムメイドで1本ずつ製作されており、標準仕様はまだ設定されていなかったそうです。そうした中でも、マーチン・ギターにはいくつかの共通した特徴がありました。1840年代中頃までは、前出のシュタウファー・モデルに用いられたワン・サイド・ペグ・ヘッド、変則アジャスタブル・ネックが採用されていました。1850年代になると、クリスチャン・フレデリック・マーチンは、その後のアコースティックギターに大きな影響を与える、有名なXブレイシング(エックス・ブレイシング)を開発します。この頃からモデルの定番化が進められ、[5][0]といったボディサイズのスタンダードが登場し始めてもいます。クリスチャン・フレデリック・マーチンのXブレイシングは、マーチン社において、今日まで守り続けられ、それまで取り入れられていたラダーブレイシング等と比較して、音響的にも強度的にも素晴らしいものであることがわかっています。

Xブレイシング開発については、ラウドロフがマーチン社より一足早く、1840年にそれと酷似したXタイプのブレイシングのギターを作成していたと言われるますが、その後の発展に繋がってはいません。また、実際にXブレイシングが音楽家に受け入れられ大きく広まったのは、スチール弦の持つ音色と張力の強さに有効な力木構造であったという側面が大きく、少なくとも今日のスチール弦フラットトップギターにおけるXブレイシングは、間違いなくマーチン社が開発したものだと言っていいと考えられます。クリスチャン・フレデリック・マーチンは、1873年2月16日に他界しました。マーチン社を受け継いだ息子のクリスチャン・フレデリック・ジュニア(マーチンⅡ世)は、48歳で、既に充分な経験を積んでいました。当時、十数人の職人たちを雇用しており、継承はスムースにされたそうです。しかし、南北戦争後の影響から、業績はしばらく乱高下したという記録が残っています。ジュニアはギター製作のかたわらチター製作もしました。1882年製マーチン・チターは今も残っており、美しさは計り知れないと言われています。

クリスチャン・フレデリック・ジュニアは、公共への貢献も惜しまず、ナザレス市長を務めたり、教会の管財人にも選出されたりもしました。人々の尊厳を集めたクリスチャン・フレデリック・ジュニアは1888年に突然の死を迎えます。マーチン社の経営はⅡ世の息子のフランク・ヘンリー・マーチンの手に委ねられていくことになりました。

マーチン工房においてクリスチャン・フレデリック・マーチンは、初めからスチール弦化を意識して製作をしてきたわけではないのでしょう。しかし、マーチン社となり、その後のマンドリンの製作と手作り弦の販売に力を入れていったのは、時代の要請を捉える「目」と「能力」を持っていたのだと思えます。
以前、私は、アメリカのギター製作家アーヴィン・ソモジから「楽器の製作家の提案と、プレイヤーの演奏は、音楽を作る上で、車の両輪にあたると思う。おそらく製作家の提案が、血のにじむような大きな努力で100されたとして、プレイヤーに受け入れてもらえるのは1か2かもしれない。しかし、プレイヤーに対して、提案することをやめてしまったら、その楽器を演奏するプレイヤーは、いつか少なくなっていくに違いない。新しいものにとってかわられて、忘れられてしまうだろう。」という話を聞いたことがあります。クリスチャン・フレデリック・マーチンも、その血のにじむような大きな努力をしてきた製作家の一人だったと言えるのだと思います。