自己紹介
ハンドルネームは、20年以上、aya-yuと名乗っています。現在は様々なしがらみがなくなり、セキュリティ含め、匿名でいる必要もそれほどないのですが、今さら名乗るのもおかしな感じがするので、運営者に興味のある方は、さいたま市e-公民館「音楽と歴史の講座〜ギターの先祖は弓に行きつく」をご覧ください。もう40年近く、ギブソンマークシリーズに関する事を中心に、ギターの歴史を研究しているアマチュアギター史研究家です。また、私を知る楽器屋さんや楽器制作者、ギター関連雑誌や専門誌の編集者の方々には、ギターコレクターとして認識している方も多いかも知れません。(本人はそんなつもりはなかったのですが・・。)長くアマチュアギタリストとして自主コンサートを運営してきたこともあります。
以下は、普段、あまり他の方には話していない、これまでの経歴です。お時間のある方、よければお読みください。
思春期はさるも詩人?
始めてギターを手にしたのは中学の3年生の頃です。この頃は、学校をさぼったりいろいろプータロー状態でした。たまたま父親が安物のガットギターを知人からもらってきて、他に弾く人がおらず、手元に置いて気をまぎらわせていたのが始まりでした。始めは単音でぽろぽろ弾いていたのだけれどコードを押さえるようになると、誰かのコピーをするよりも歌を作ってばかりいました。今思うと思春期はさるでも詩人になれるんじゃないかと思えてしまいます。でも私にとってはあの頃にギターがあり、歌があったことは何より支えになっていました。
始めてのフォークギター
埼玉県立K高校に入学。井上陽水・イルカ・小椋けいあたりを多少コピーしたものの、相変わらずオジナル作りに精を出していました。学校帰りに楽器屋と楽器も扱ってる質屋さんをのぞくのが大好きでした。正月に念願のフォークギターを質屋さんで手に入れたときは本当にうれしかった。モーリスのW18。定価18000円のギターです。でも、なぜかすぐにネックにひびが入ってしまいました。自分で直そうと思って、なんと電気ドリルで穴をあけてしまい、大切にしていたはずの一台目のギターは自ら破壊してしまった。ネックの中に鉄の棒が入っていることをこの時始めて知りました。その後、アリアドレッドノート・Kヤイリ・パール(ドラムスのメーカーだよ。)といったメーカーの国産ギターを買いました。ちなみに購入したお店は、ほとんどが質屋さんです。確か高校に入って間もなく石川鷹彦さん達の「楽器のはなし フォークギターのすべて」を読みました。多分、その頃からギターの歴史に興味はあったのだと思います。
歌う会N
某国立大学教育学部入学。しばらく前から、ある店に置いてあったMK53が気になり始めました。いままで見てきたギターとは全く違う姿にあこがれていました。きっと店の人にはよだれが見えたでしょう。始めの定価、たしか37万くらいについていたと思ったのですが、ネットで知り合った、shirabeさんにいただいた1978年2月のカタログではケース代込みで25万3千円となっていました。お店の人が正札を書き間違えたのか、私の読み間違えか、今となっては真相は不明です。とにかく、売値は少しずつ安くなっていきました。なんとかバイトで買えそうだと思ったときから貧しい食生活と引き換えに手に入れた一本です。
ところで、私は大学へは講義でなくサークル活動に通っていた人種です。「歌う会N」という、歌を多くの人に広めようといったサークルです。キャンパス内で突然輪になってギターをかき鳴らして道行く学生を引っ張り込んで一緒に歌うというとても迷惑なサークルでした。私はそこで主にギターマンをしていました。それまでストロークなどほとんどしたことがなかったのですが、おかげでとてもうまくなりました。(ほんとにうまくなった?)ストロークで8の字を描いたりカッティングしたり、弦を切るほど強く弾いてもピックガードに傷ひとつつけなくなったのは、このころの修行のおかげだと思います。(でも、今は自分からはストロークしなくなった。)原曲は知らないのに、いろんな歌も憶えました。
中島みゆきパンツ
このサークルは年に一回、定期発表会と言って和太鼓・民謡・ミュージカル・合唱もやっていました。特にミュージカルは、オリジナルの曲を集めて編曲・レコーディングして作り上げた物で稚拙ながらも皆でよく頑張りました。たった一度、なんの間違えか、中島みゆきが大宮でコンサートをした時にジョイント(といってもお手伝い)の声がかかり、バックで歌ったりもしました。その時にTシャツをもらったのですが、そのTシャツは娘が生まれたときに奥さんに赤ちゃん用のブルマーに作りかえられてしまいました。ちなみに奥さんはサークル仲間です。
PAマンaya−yu
市民会館を借りてミュージカルなどやっていると音響の事が気になりだします。その後の私のバイト代はギターでなく、全てPA機材代へと化けていくことになります。サークル小屋で夜なべしてキャノンコードを何本作ったことか。ここはコンデンサーマイク、ここはダイナミック、ここは超指向性コンデンサー、ピックアップは・・・将来の職業はこれもいいかな、と思いました。
でも、私は学校の教師になりました。(教師と言ってもいろいろいるさ。)にもかかわらず、大学卒業後数年間はサークル時代の友人と「Happy Box Folk Concert」と銘打って、オールオリジナルのコンサートを開きました。自前の機材で市民会館を借り切って・・・しかし、300人以上は入るホールにお客はたった2〜30人
しかも、集まったのは大学時代の身内ばかり(外部に宣伝しなかったからあたりまえ)・・・けれど、とても楽しかった。このコンサートでMK53はとても活躍してくれました。
コーヒーブレイク・胃もフ゛レイク
O小学校に赴任して、それまでの学校と様子の違うのを感じました。一言で言えば、ギター・バンド大好き人間がたくさんいたからです。職員旅行にバンド機材を持っていったり納めの会で演奏したり。喫茶店を借りて演奏会をしたり、PTAの新年会の依頼を受けて演奏したり。しかし、コピーをほとんどしたことのない私にとってはバンドで譜面通りに弾くのはちょっとしんどかった。でも、とてもいい仲間で、一緒に活動するのはとても楽しかった。バンドの名前はコーヒーブレイク。その中にコーヒーを飲むのが大好きな人がいて、つきあって一日6杯も飲んでたら胃がこわれた。
このころ既に、個人的にはギターソロに興味がいっていて、リードやサイドを弾くより、メロディーと伴奏を一本のギターで弾くほうが好きになっていました。私の持っている譜面は偶然だけど当時、江部賢一さんのものしかなかったです。適当に好みのソロレパートリー集を買うといつも江部さんの名前がありました。だからある意味で私のギターの師匠は江部さんということになります。でも、私は江部さんのこと、お顔もお年も知りませんでした。江部さんのアレンジは、それほど難しくないけれど和音が綺麗に響くものが多いと思います。
「コーヒーブレイク」から「おじさんず」へ
コーヒーブレイクのメンバーはあちこちの職場に散ってしまい、なかなか一緒の活動もできなくなったのだけれど、しばらくぶりにリーダーらしき人物のM氏から誘いがあり、アコースティックのコンサートを開きました。そのバンド名は「おじさんず」といい、気持ちの悪い(?)ことに皆マーチンのギターをかかえていました。(このときは、練習では私もマーチンをかかえていた。)
「おじさんず」最初のコンサート会場は、回り中吸音板だらけの残響の全くない、とんでもないところでした。私は自分の機材をちょっとばかり過信していて、このくらいなら何とかなるだろうと思っていたのがあまかった。リハなしだったこともあり、いきなり本番に入ったら、中音と低音に強い定常波があって、イコライザー等でもコントロールしきれず、気持ち悪い音だった。せっかく来てくれたお客さんに迷惑かけられないと思って、ほとんどミキサーマンになりきってしまった。ざんねん。でも、まったくこりてないよ。こんどこそ・・・
「おじさんず」リストラ、「一蓮托生」結成。アコースティックギターの生音を大切にしたミニコンサート「HIKAWA Acoustic Guitar
Mini Concert」開催へ
「おじさんず」には6年間ほど参加しました。さいたま市の「おやじバンド大集合」立ち上げに関わり、情宣やホームページ作成を担当しつつギターマンを続けておりました。けれど、その後、本業が多忙になり、旧知の仲間と活動を続けるのが難しく(平均月200時間程度、職場に時間外在校していたかと思います。)、迷惑をかけないよう分派して「一蓮托生」を結成。できる範囲で少しずつ練習し、小規模で生音を大切にしたミニコンサート「HIKAWA Acoustic Guitar Mini Concert」を企画し10年以上続けてきました。ギター好きの多彩なメンバー、焼き鳥屋さんも会社員さんも楽器屋さんも参加してくださったコンサートで、当初は学校の子どもたちも聴きに来てくれていました。
この頃にこのサイトを立ち上げ、インターネットを介して多くの方たちと交流しました。アマチュアギタリスト、楽器屋さん、ギター制作家、雑誌社の方など、たくさんの方と関わりながら、改めて私にとってギターがとても大切なものだと感じていました。
その後、本業の多忙化が侵攻(?)して、「企画を立て、人を集めること」も難しくなってしまい、このホームページの更新も滞るようになりました。でも、現在は、職場が学校教育から社会教育の現場に変わり、また、これまで取り組んできたものを少しずつ積み上げていけたらいいと思いながら、久しぶりのホームページ更新を楽しんでいます。