夜の河を渡る前に RAY



まただ……。
気付いて、内心苦笑する。
馬鹿みたいだとわかってても、無意識だからどうにもならない。
表面上は、何も変わらないはず。気を付けてるから。
そのかわり、恐ろしくエネルギーがいる。恐ろしく疲れる。
いっそ、スッキリしてしまいたい。
心のモヤモヤを全部吐き出してしまえたら……。
できない。そんなこと、できない。
俺は、臆病で、ズルイ。カッコつけていたいだけ。
わかってるから、尚更囚われる。苦しい。

気が付くと、吉井を目で追ってる。
視界の中に、吉井の姿を探してる。
あれからこっち、ずっとそう。もう動けやしない。
そうなんだ。気付いてしまって、認めてしまって、俺はそこから一歩も動けなくなった。
先へも行けず、あとにも戻れない。同じ場所にじっと立ち尽くしてる。
あれから、ずっと。
吉井を好きになってしまった、その瞬間から。

気が付いたら、もう好きだった。
俺としたことが、狼狽えたよ。
動揺しすぎて、自分を誤魔化すヒマさえなかった。
そう。気付いた時は、ドツボ。
そのうち───
イエローモンキーに誘われて、俺は、正直、嬉しかった。
吉井と、一緒にやりたいと思ってたから。
だけど、最初英二から話が来た時、俺はわざと気が乗らない振りをした。俺の中の、邪な気持ちを隠したくて。
純粋に、音楽だけやりたかったんじゃないから。
そばにいたかった。吉井の近くにいたかった。
今時、女子高生でも抱かないような恋心でしょ。
最初は良かったんだけど───、でもすぐに、俺は後悔した。
とりあえずイエローモンキーに入って、俺は一歩吉井に近付いた。
そしたら、もう一歩近付きたくなった。
たぶん、もう一歩近付いたら、今度はもっともっと、近付きたくなる。
近付きたい。もっと。でも、怖い。
躊躇う理由は、とっても簡単。
男同士だから────。
なんて、簡単で、陳腐で、ありふれた理由。
でも、立ちはだかる分厚い壁。
冗談ですまないから。本気だから。
常識とかモラルじゃない。
ただ、拒絶されるのが恐い。
ただ、それだけ。
俺は、恐い。
まとわりついて、じゃれついてた仔猫に爪を立てられるのが。

 ☆

夢を見た。
何もない広大な大地に、俺は一人でポツンと立っている。
薄ぼんやり明るくて、空は藍色。
目の前に、河が流れてる。真っ黒の、夜の色をした河。
向こう岸はすぐそこなのに、俺の足はすくんで飛び越すことができない。
何度も飛び越えようとするのに、足が動かない。
河を挟んでこちら側とあちら側。
何が違うの? あっちには、何があるの?
どうやったら行けるの?
誰か、教えてよ。

俺はたぶん、あっち側に行きたいんだ。

 ☆

時間が来たんで、練習をやめた。
そそくさと片付けをしてると、一度出ていった吉井がスタジオに戻ってきた。駆け寄ってくる。
「エマさん、今夜、ヒマ?」
「え…、なんで?」
「メシ食って帰らない? 二人で」
二人で。
吉井が強調したように聞こえたのは、たぶん…気のせい。
力強い光を放つ瞳が俺を見詰める。
そんな目で見るな、吉井。
苦しい。息が止まりそう。
無意識に、目を逸らしてた。
「今日は……ダメ。約束があるから」
嘘つきめ。
ホントは、行きたいと思ってるくせに。
それで、心にもない悪態ついて、カッコつけるつもりだろ?
嘘つきめ。
狼狽えてることを知られたくなくて、俺は、その場から離れようとした。
その俺の腕を、何故か慌てて、吉井が掴んだ。
ギョッとして振り向くと、ひどく怖い目をした吉井の顔があった。
「明日は? 明日はヒマ? 明後日でもいい。その次でもいい」
何? なんでそんなに真剣なんだよ。
そんな…、そんな目で見るなってば。
俺はすっかり混乱して、吉井の手を振り払った。
「わかんないよ、そんなの…。俺、もう帰る」
急いでギターケースを担ぐ。
吉井が何か言ってるのも構わず、追い立てられるように、俺はスタジオから逃げ出した。

 ☆

エマに避けられてる。
俺の中の不安は膨らむばかりだ。
エマがどんどん離れてく。俺から。
なんでなんだ? 俺の作る曲が気に入らないの?
それとも、俺が気に入らないの?
ちくしょう…。
せっかく、エマをバンドに入れるのに成功したのに……。
入る前の方が、よく笑ってくれた。
音楽の話もくだらない話も、俺に付き合ってくれてた。
なのに、今は、なんだってこんなに距離があるんだ。
───理由?
そいつがわかれば苦労しないんだよ。
エマは、黙って俺に背を向ける。口を噤んで、目を逸らすんだ。
もしかして────、エマ、気付いてるのか?
だから、避けてるのか?
ああ…、苛々する。

次とその次。エマは練習に来なかった……。

 ☆

近頃、バンドがしっくりこねぇ。まとまらねぇ。
えれぇ、ちぐはぐでよ。なんかよ、ぎこちないって言うのか?
リズム隊は問題ねぇんだけどよ。吉井とエマが、噛み合わねぇ。
特におかしいのは、エマちゃんだね。
練習サボったりよ。来ても、フイっといなくなったり。
俺、ちっと文句言ったら、まぁちゃんと来るようになったんだけどよ、集中しねぇんだな、これが。
ちっちゃいミスが多い。フレーズ忘れたり、コード間違えたりして、その都度曲が止まんだよ。先に進まねぇ。
ここんとこ、ずっとそれでよ、今日は特にひでぇな。
吉井は短気で、すぐ癇癪を起こすんだけどよ、エマにだけはけっこう甘かったんだよ。
でも、吉井もずーっと機嫌が悪くて、なんとなく、空気が張り詰めてはいたんだな。
…で、今日は、最初から、吉井がピリピリしてたし、なんか起きそうな気配はあった。

 ☆

またかよ。
なんで俺を見ないんだよ。
エマ、そんなにいやかよ、俺が。

あ───、また間違えた。

 ☆

「ちょっとエマ、なんなんだよ」
険のある声で、吉井が兄貴に詰め寄った。
兄貴は情けないような申し訳ないような……、でもそれだけじゃなさそうな複雑な顔で吉井を見た。
「ごめん……。もう一回、頭から……」
「何回目だと思ってんの? この曲だけいつまでもやってらんないよ。だいたい、もう三日もやってるんだよ」
珍しいな。吉井が兄貴にあんな言い方するなんて。
兄貴も、ただ項垂れてるなんて、らしくない。
吉井が兄貴の二の腕を掴んだ。
「しっかりしてよ。近頃、エマのギター、全然サエないよ。こんな曲、いやなの?」
「そんなんじゃ……」
「じゃあ、なんなんだよ!」
吉井の癇癪が爆発した。
初めてだ、吉井が兄貴に対して大声上げるなんて。
なんか、二人とも変だな。
吉井の態度を見てると、どうも八つ当たりっぽいんだよな。
兄貴の方は、言われっぱなし以前の問題だ。あんな集中力のない兄貴は、有り得ない。
あまりに険しい吉井の様子を見かねて、ヒーセが割って入る。
「まぁまぁ、吉井…、そんな怒るな。エマだって……」
だが、効果なし。吉井はなだめようとするヒーセをまるっきり無視して、兄貴を睨み付けた。
「やる気ないんだろ? やってらんねぇって? だったらそう言えよ。そんなんだったら───、もういらねぇよ」
驚くほどの勢いで、兄貴が顔を上げた。青ざめてる。
吉井は一瞬『しまった』って顔をしたけど、仏頂面で兄貴の腕を放した。
プイッと兄貴に背中を向ける。
「もう…、今日はやめ。こんなんじゃ意味ねぇ」
ヒーセと顔を見合わせる。ヒーセもちょっと困ってるみたいだった。
立ち尽くしてた兄貴が、ゆっくりギターを肩から降ろして、スタンドに立てかけた。
青ざめた顔を強ばらせて、兄貴は無言でスタジオを出ていった。
吉井は、振り返りもしなかったけど、このスタジオの空気よりも重い音を立てて扉が閉まると、大きく舌打ちした。

 ☆

いらねぇ───って、言われた…。
嫌われ……たんだ。
唯一、吉井のそばで堂々としていられる手段だったのに。
今の俺は、まともにギターさえ弾けない。
俺は、吉井の望むギタリストにさえなれない。
俺はダメなんだ。失格なんだ。

 ☆

夜の河を目の前にして、やっぱり俺の足は動かない。
立ち尽くして、何も見えない向こう岸を見詰めてる。
ふと────、気配がした。
横を見たら、吉井がいた。
彫像のような、真っ白で無表情な顔で、俺と同じように、向こう岸を見てた。
なんだ、吉井もいたんだ。
吉井も、あっちに行きたいんだ。
吉井───? なんで、黙ってんの? ねぇ、なんか言ってよ。
どうしたの、吉井。
あ、もしかして、恐い?
大丈夫だよ。俺がいるから。
吉井の手を握る。冷たい手だった。
その手を引くと、操り人形のように、ギクシャクと吉井が動く。
恐がらなくていいってば。一緒に渡ろう。
お前となら、渡れそうな気がするよ。
さぁ、行こう。
吉井の手を引いて、俺は、河を越えようとした。
その瞬間。
吉井が、俺の手を振り払った。
振り向くと、吉井は相変わらずの無表情で俺を見詰めてた。
そして、ゆっくりと、首を横に振った。
絶望感とともに体が傾く。
俺は、たった一人で河に落ちていく。
落ちたが最後、二度と浮かび上がれない夜の河。
ゆるゆると、果てのない深みに、俺は一人で落ちていく……。

 ☆

飛び起きた。
ああ……。なんて夢見たんだ……。
やっぱり、そうなのか?
そう───、そう…だよな……。
あれから、吉井は何も言ってこない。バンドの練習もしようとしない。
『いや……、なんか、忙しいみたいだぜ、吉井』
それとなく英二に聞いたら、そんな答えが返ってきた。
もしかして───、新しいギタリスト探し…?
ま、それが当然か…なんて、うそぶいてみたりしながら、俺はひたすら落ち込んでる。
ほら、やっぱり…って。
あいつが欲しいのは、あいつにとって最高のギタリスト。
サエない音しか出せない今の俺なんか……、俺なんか────
胸が、痛い。
心のどこかに、もしかしたら、吉井なら俺の気持ちを受け止めてくれるんじゃないかっていう甘い期待があった。
だから俺は、こんな生殺しみたいな状態で、いつまでもこの想いを捨てられなかった。────でも。
汗を拭おうとして、顔に手をやる。
俺、泣いてたんだ……。
気付いたら、あとからあとから涙が溢れてきた。
ダメだ。もうダメだ。
もう────限界。

 ☆

俺って、馬鹿だ。マヌケだ。
相手にされないからって苛ついて、勝手に腹立てて……。
エマ、怒ったかな。呆れたかな。
俺一人で空回りして、自分でぶち壊してんの。
もう、ヘコみの極み。
あんなことになった切っ掛けかと思うと、てめぇの作った曲なんか聴きたくもない。
どん底状態で、誰かと口を利くのも鬱陶しい。
それでも、バイトに出てきたのは、なんかしてないと破壊衝動で暴れ出しそうだから。
だけど、あんまりにも暗い俺に、店長がキレた。
『吉井! お前、もう帰れ!』…とは、ありがたいお言葉だ。
帰りますよ。そんで、二度と来ないかもね。
下手すると、今夜辺り、自殺すっかもしんない、俺。
…なんて、もう、救いようがないほど暗〜くなりながら裏口のドアを開けた。

そしたら────
そこに、エマがいた。

薄暗い路地裏。俯き加減のエマが、隣のビルの壁に寄りかかってる。
これは、夢か?
エマに会いたい…って、そればっか考えてたから、幻覚でも見てる?
「───エマさん?」
無意識に声をかけてた。
俺の声に、エマが顔を上げて、ゆっくり近寄ってきた。
「仕事、終わった?」
「う…うん」
「話あるんだけど…、ちょっといい?」
仮面のような顔。無表情で乾いた声。
でも、エマの瞳は、沈んでるように見えた。

 ☆

なんとなく歩き出すエマに、なんとなく付いていった。
飲屋街と住宅地の真ん中に、忘れ去られたように佇む、近くの公園。
時刻は、午前一時に近い。
この時間になると、公園を通り抜けてく人影もない。
エマが、それを知ってたのか、俺は知らない。
喧噪と静寂の狭間。
なんとなく、俺とエマにふさわしい場所のような気がした。
エマは、一つだけあるベンチに真っ直ぐ歩み寄って、ストンと腰を下ろした。
真っ直ぐ前を向いたまま、俺を見ようともしない。
なんか、胸騒ぎがしてた。
わざわざ俺のバイト先に来て、俺の帰りを待ってまでしたい話って、なんなんだ。
エマの隣に座って、それとなく様子を窺う。
話があるって言ったのに、口を開く気配もないエマ。
いつもとは微妙に雰囲気が違う気がした。
なんていうか───、カタイ。
エマが黙ってるから、俺の胸騒ぎはどんどん酷くなる。
こないだのこと、あんまり頭に来て、殴りに来た…とか?
いや、まぁ、それでコトが収まるなら、それでもいいんだけど……。
ダメだ。黙ってるのが辛くなった。
「エマ……、この間のことなんだけど…」
切り出すと、エマがゆっくり俺を見た。
無表情だけど、瞳に拒絶はなかった。
「癇癪起こして…、ごめん。あの…、実は……」
「吉井」
低い声に、俺は言葉を止められた。
仮面の顔に、ほんの一瞬、苦しげな影が浮かんだ。
「俺、イエローモンキー、やめるよ」
ポツリと、呟くようにエマは言った。
その言葉は、どこか、違う世界から聞こえてきた。

 ☆

数秒後、物凄い怖い顔して、吉井が俺の腕を掴んだ。
「それ、どういうことだよ。やめるって、なんでだよ」
言えないよ。ホントのことは。
「ひどいこと言ったから? 俺、そんなに怒らせた?」
違うよ。全然違う。
俺は、言葉が見付からずに、首を横に振った。
「じゃあ、なんで? なんでやめるの?」
俺は、ただ首を振る。悲しい思いをしながら。
「俺には…合わないから……」
「合わない? 何が? 何が合わないの? 俺? 俺がダメなの? 俺が気に入らないの?」
「そんなんじゃ……」
泣きそうになってる吉井の目と出会って、物凄い違和感に気付いた。
なんだ、これ───。違うんじゃない?
捨てられたのは、俺の方じゃないか。
『いらない』…って言ったくせに。なんだよ、そんな顔して。
俺の気も知らないで───。
俺は、腕を掴んでる吉井の手を振り払って、思い切り吉井を睨み付けた。
「お前…、どっちなんだよ。俺なんか、いらないんじゃないの?」
「え───?」
「こないだ、そう言ったじゃん」
口にしながら、泣きそうになってた。
いっそすっぱり捨ててほしいと思いながら、まだどこかで、否定してほしいと期待してる。
言葉の数だけ決心が鈍るのに、未練と呼ぶには強すぎる恋心が、恨み言を言い募る。
冷静さを取り繕おうとすればするほど、俺はどんどん感情的になってく。
「俺なんか…、いらないくせに……。別のギタリスト、探してんでしょ? 引き止める振りなんかするなよ」
冷たい口調で言ってみても、俺自身が悲しくなるだけ。
吉井は、マヌケに口を開けて、呆然と俺を見詰めてる。
何か言え、馬鹿。
これ以上暴走したら、どうなるか、自分でも責任が持てない。

 ☆

俺は今、ちょっと感動してる。
『歌が下手』とか、『アレンジがダサイ』とか、果ては『曲が悪い』とか、メチャクチャ言われてても、感動してる。
あることに、気付いてしまったからだ。
ごめんね、エマ。
俺の独りよがりで、あんたを傷付けた。
『やめる』なんて言わせるほど追い詰めた。
ごめんね、エマ。
でも、怒られるかもしれないけど、そうやって感情をぶつけてもらえて、感激だ。
だって、エマは、いつも颯爽としててカッコ良くて、なんか近寄りがたくて。
いつも、本音は見せてくれなくて、一本線を引かれてるみたいな気がしてた。
だから、俺には手の届かない人だと思ってた。
だから、せめて、一緒にバンドやって、あんたのそばにいて、同じものを見ていたかった。
でも、違ったんだね。
スゴイ近くにいたのに、俺が気付かなかったんだね。
ごめんね。ホントに、ごめん。
ああ───、もう、困ったな。
悪口言いながら、泣きそうな顔しないで。
そんな、真実味のない悪口、痛くも痒くもない。
逆に、可愛い…とか思っちゃうでしょ。
どうにかしたくなっちゃうじゃない。
まぁ、とりあえず、言いたいこと言って、スッキリして。
そしたら、俺は、あんたを傷付けた償いと、そんな顔させた責任を取る。

 ☆

言いたいことは何一つ言えずに、言いたくないことばっかり言った。
悪口のネタも尽きた…って言うか、途中から、逆上して、何言ったかよく覚えてない。
ただ、無性に虚しくなって、死にたくなるほど情けなくなった。
ああ…、これで終わりだ。
ほら、吉井、すっかり無表情になってさ。
怒って言い返してくると思ったのに……。ケンカ別れできると思ったのに……。
そんな落ち着かれたら、俺一人が、まんま馬鹿じゃないか。
ダメだ。もう…、ホントに泣く────
顔を背けようとしたその時、吉井の掌が俺の頬を包んだ。
ギョッとする間もなく、強引に引き寄せられる。
「ちょ…、吉井…? な…んだよ」
「言いたいこと、みんな言った?」
妙に落ち着き払った吉井の口調。
俺を見る目が優しくて、俺はまた取り乱す。
「言ったよ。腹立ったろ!」
「なんで?」
「おま───」
「俺、なんにも聞いてなかった」
はぁ?!
「だって、みんな嘘でしょ?」
「ば───、馬鹿じゃないの? も…、放せよっ」
吉井の手をはね除けようとしたら、いきなり抱きしめられた。
心臓の鼓動が跳ね上がって、頭に血が上った。
「何すんだよっ! 放せ…ってば」
必死に藻掻いてみたけど、意外に吉井の腕は力強くて、ビクともしない。
逆に、抵抗しようとすると、拘束は更にキツくなる。
どうしよう…、なんなんだよ。
なんでこんなことするんだ。
純情な乙女みたいにポーッとなってる自分に狼狽えながら、何故か俺は抵抗をやめてしまった。
俺って…、意外にこういうのに弱いのかも……。
吉井の腕に身を任せると、吉井は、力任せじゃない、優しい仕草で俺の体を抱いた。
俺はもう逆らわずに、吉井の胸にもたれた。
あとで、どんな言い訳をしようか…なんて思いながら。
そのくせ、目を閉じて、吉井の息遣いとか、心臓の鼓動とか、ぬくもりを感じてると、少し幸せを感じてる。
なんでこんなふうにしてくれるのかわかんないけど、すさんでた俺の心が、少しずつ穏やかさを取り戻してく。
そんな気配を感じたのか、吉井が、体を離して、俺の顔を覗き込んできた。
「エマ…、やめるなんて、言わないでよ」
俺は、吉井の背中に腕を回して、シャツを掴んだ。小さく首を振る。
「だって…、俺のこと、いらない…って───」
「本気で言ったと思う?」
「いらない…って、言った…」
らしくないとわかってても、駄々っ子モードはどうにもならない。
吉井は、小さく息をついて、ちょっと目を伏せた。
「エマを、傷付けたよね。悪かったと思ってる。俺も、あん時は荒れてて…、勢いで、心にもないこと言っちゃったんだよ」
「別のギタリスト、探してるくせに…」
拗ね気味の俺の言葉に、吉井が目を剥いた。
「冗談でも怒るよ?」
「だって……」
「別のギタリストなんか、いらない」
怒ったような吉井の顔。真剣な眼差し。
顔が歪むのが、自分でわかる。もう堪えきれない。
「エマじゃなきゃダメ。俺は、エマがいい」
「嘘…だ……」
涙が溢れた。吉井の顔が霞んで見えない。
「なんで…だよ……、なんで…、そんなに俺にこだわるんだよ…」
そんなことを聞いたのは、話の流れ。成り行き。
最後の意地を張ってるだけ。
『やめる』と言ったことを撤回する、決定的な理由がほしいだけ。
吉井の指が、零れた俺の涙を拭った。
クリアになった視界に、笑顔の吉井。
「ギタリストとして…っていうか……、俺…、エマが好きだから」
ホントに言葉を失った俺の唇を、吉井が塞いだ。
ほんの数秒の、短いキス。
でも、俺の心を吉井でいっぱいにするには十分だった。
唇が離れると、吉井は、照れ臭さに俯こうとする俺の顎を捉えて顔を上げさせた。
俺を見詰める吉井の瞳に強い光。
「エマも───、俺に惚れてるでしょ」
歌ってる時でさえ見たことがない、自信満々な顔だった。

 ☆

背中合わせの恋。探しても見付からなかった同じ想い。
吉井は、先に見付けた。あっち側に。
そうして、苦しさに耐えられなくて逃げ出そうとしてた俺を、しっかり捕まえてくれた。

だからね、吉井。
俺も、夜の河を渡るよ。

 ☆

かなり長い間、エマは、無言で俺を見詰めてた。
そのうち、エマの指が、俺の頬を優しく撫でた。
「俺…、お前に惚れてる。ずっと…、好きだった」
無防備な瞳が、全てを許すように、俺を映して揺れる。
エマは、ちょっと首を伸ばして、俺にキスして────
「愛してる……」
にこっ…と微笑んだ。
その瞬間、俺の頭のどこかがショートした。

 ☆

いきなり力一杯抱きしめられて、恐ろしく濃厚なディープキスが返ってきた。
さすがの俺も、息もできないような激しいキスは経験がなくて、されるがまま。
しかも、馬鹿みたいに長いから、やっと唇が離れた時、俺の息は上がってた。
なんだか魂抜かれたみたい。吐く息が少し熱っぽかった。
ちょっとうっとりしながら、恋い焦がれた胸に身を寄せる。
当然、優しく抱きしめてくれて、なんだったらもう一回────
…とか思ってたら、吉井は、いきなり俺を抱きかかえて立ち上がった。
「行こう、エマ」
「行くって……、ど…どこに?」
「俺んちに決まってるでしょ」
「え───、なんで?」
キョトンとすると、吉井は俺の腰を強く抱いた。
「ここでエッチできないでしょ」
言うが早いか、吉井は問答無用で俺を引きずって歩き出した。
いや…、そういうことになるとは思ってたし、覚悟もしてたけど……。
「ちょっと吉井……、いきなり今夜ぁ…?」
「さっさと確かめ合いましょう、エマさん」
俺の腰を抱く吉井の腕に力がこもって、もう一度、軽くキスされた。
「逃がさないからね」
あ…、そっか。そうだったね。
ニヤリと笑う吉井に、微笑みを返す。
「逃げないよ、もう…」
吉井にしっかりしがみつきながら、俺は、自分に向かって言ってやった。

 ☆

夜の河。
こっち側には、恋があった。
あっち側には────、愛が待ってた。

 ☆

ヤル気満々の割りに、結構冷静だった。俺も吉井も。
狭いワンルーム。 マットレスだけのセミダブルが、かなりのスペースを占領してる吉井の部屋。
密室で二人きり。
ベッドの上で吉井の腕に抱きすくめられた。
吉井の心臓の音が、直接耳に響いてくる。
意外に広い吉井の胸。
俺を抱く長い腕。
ようやく辿り着いた俺の場所。
こうしてるだけで、すごく幸せな気分。
まぁ、これですむほど、俺も吉井も純情じゃないけどね。
それにしても───
吉井、落ち着き払って見えるけど、心臓破裂しそうだ。
そういう俺も、なんだけどね。
やだね、初体験の中学生じゃあるまいし。
色恋沙汰も濡れ場も、場数踏んでるのにね、俺達。
あ、でも…、俺、ある意味ヴァージンか…。
たぶん…、吉井、俺に気を遣ってくれてるんだろうね。
気を回すヤツだしねぇ。
大事にしてくれてるんだと思うし。
だから、俺から言ってあげた方がいい…よね。
何気なく顔を上げると、吉井の手が俺の頬を撫でた。
軽く目を閉じて、口付けを待つ。
何度も、唇が触れ合ううちに、胸が熱くなってきた。
俺は、吉井に思い切り抱き付いて、耳元で囁いた。
「お前のものに…してよ……」
一瞬息を呑んで、吉井は俺を押し倒した。

 ☆

ポーッとしてたら、あっという間に全部脱がされた。
俯せの状態で抱き起こされて、背後から吉井の腕が巻き付く。
ピタリと体を寄せられて、思わず───、照れた。
だって、腰に、スゴイのが当たってるから……。
「……コワイ?」
身を固くしたのを誤解したのか、吉井が遠慮がちに聞いた。
俺は、小さく首を横に振った。
「お前だから、平気…」
「最後までするよ?」
「うん……」
吉井の欲望を体に感じて、俺も欲情する。
恋い焦がれた男に、欲望のまま愛されたい。
今は、ただそれだけ。
首を捻り、吉井に顔を向けた。
お互いの吐息が唇を湿らせる距離で、薄く唇を開き、キスを誘う。
吉井は、唇を軽く触れ合わせながら、舌だけ濃厚に絡めてきた。
そのうち、吐息ごと唇を塞がれ、俺は、深いキスに身も心ものめり込む。
唇が離れると、吉井は、俺と頬を寄せ合って、もっときつく、俺を抱いた。
熱い息が顔にかかって、吉井が囁く。
「ずっと…、エマが欲しかった。───抱きたかった」
その台詞が、なんか嬉しくて、胸がいっぱいになる。
だから───、それなら今度は、体も満たされたい。
「俺も……、お前と、したかった…」
囁きを返して、寄せ合った吉井の頬に口付けた。

 ☆

背後から抱いたまま、荒々しくエマの胸や腹をまさぐる。
首筋を舌で舐め上げ、耳朶を軽く噛む。
固くなってる可愛い乳首を探り当て、指で弄ると、
「は…ぁ……」
エマは声を漏らし、少し体を震わせた。
その体を横抱きにすると、潤んだ目が俺を見上げくる。
すがりついてくる眼差し。息を乱して薄く開いた赤い唇。 汗ばんで桜色の白い肌。
エマの全てに、俺はそそられる。
エマをベッドに横たえ、忙しなく上下する薄い胸に唇を這わせた。
乳首を舐め、強く吸い立てると、エマは予想以上の反応を見せた。
「あっ…あぁ……はっ…ぅ……」
「メッチャ可愛いよ、エマ…。ねぇ…、スッゲー綺麗…」
「う…ん……、よし…い……」
「俺、こうしたかった…、ずっと。エマに触りたかった」
ずっと我慢してた反動で、ちょっと俺は暴走気味。
エマを触る手付きも、つい乱暴になる。
でも、エマは、絡み付く俺の手に、心地よさそうに声を漏らした。
そんなエマが愛しくて、俺は、我を忘れてエマにむしゃぶりついた。
エマの体を腕に抱きながら、舌と唇を這わせてく。
エマは、俺の愛撫に体を波打たせながら、盛んに喘いでる。
下腹を舐め回したら、少しだけ恥ずかしそうにエマは身を捩った。
その仕草が可愛かったんで、雫を滴らせるエマ自身も口に含んでたっぷり愛した。
エマは、執拗な愛撫に身を悶えさせ、感じるままに応えてくれた。
俺に、好き放題弄ばれて、もう息も絶え絶えじゃないか。
それでも、そんな、気持ち良さそうな顔して────

可愛いエマ。愛しいエマ。
もっともっと、触らせて。
もっともっと、エマを感じたい…。

 ☆

愛しい男の腕が、愛撫だけでグッタリした俺を力強く抱き寄せる。
俺は、その胸にすがり、声を出さずに『いいよ』…と言う。
だって、されたいから。そこにも触れてほしいから。
全部吉井のものになりたいから。
軽く目を閉じると、瞼に吉井の唇が触れた。
同時に、するすると手が動いて、吉井がそこに触れてきた。
躊躇うことなく、指が挿し入れられる。
「ん…っ……う…んぅっ…」
説明の付かない感触に戸惑う俺を、吉井はしっかりと抱きしめてくれる。
ああ…、吉井、息が荒い。───苦しい?
もう…、欲しい? 欲しいよね。
俺もね、もう欲しい。
吉井が俺を欲しがれば、同じだけ、俺も吉井を求める。
望み通り吉井の指に弄られて、俺の体はもう疼いてるから。
吉井の指が蠢くたびに、どうしようもなく快感が背中を這い上る。
「うっ…あ……あぁ……」
俺は、堪え切れずに再び喘ぎだし、それを待ってたように、吉井の指が出ていった。
残された疼きにむずかる体が、すぐに吉井に押さえ付けられる。
抗うことを許さない手付きで下肢を押し広げ、熱を滾らせた吉井が入ってきた。
初めて受け入れる、男の欲望。
吉井に征服される悦びに心を満たしながらも────、痛かった。

 ☆

どんなに吉井を愛してても、吉井のものにされたくても、痛いものは痛い。
俺の体は、良くも悪くも正直。
「うっ……くぅっ…」
灼けつくような痛みに顔を歪め、身を固くする。
息を詰めて、必死で痛みに耐えてると、頬に、吉井の唇が触れた。
目を開けると、すぐ真上に、見たこともないような優しげな吉井の顔があった。
「…痛い?」
素直に肯くと、吉井は微笑んで、俺の頬を掌で包んだ。
「息吐いて。力抜いて」
促されるまま息を吐くと、自然に体の力も抜ける。
同時に、少し痛みが和らいだ。
吉井は静かに俺の胸や腰をさすりながら、じっと動かない。
気遣われるのは、嬉しい反面、ちょっと恥ずかしい。
「まだ痛い?」
「痛いけど……、平気…」
指が震えないように気を付けて、吉井の背中に手を回す。
「なんか、俺…、処女の子みたい……」
照れ臭いのを誤魔化そうと思って言ったら、吉井は妙に真顔で、
「こんな可愛げのある処女はいない」
…なんて言うから、俺は痛みも忘れて笑ってしまった。
ああ……、やっぱりこの男が愛しい。
もっと深く、吉井と愛し合いたい。
「吉井…、いいから…、我慢しないでよ……」
「エマ…」
「しよ…?」
微笑みかける俺に、吉井は優しいキスを返してくれた。

 ☆

仰け反るエマの腰を抱いて、ゆっくりと腰を動かす。
無防備に体を開いたエマ。俺の動きに合わせて、艶めかしく腰を揺らしてる。
「ふっ……あぅ…」
甘ったるい声。穿たれ、波打つ体が悩ましい。
「ん…ぅ……、吉井……」
ひっきりなしに喘ぐ唇から舌先を覗かせ、エマは、赤い唇をひと舐めする。
その色気に吸い寄せられて、俺は、エマと重なる。
細い腕が首に巻き付いてきて、エマに唇を貪られた。
魂を吸い取るような、深くて甘い、ディープキス。
熱く溶けた体が、俺を欲しがって悶えてる。
「吉井…、もっと…深く……来てよ…」
限界まで、エマは俺を求める。
だから、俺も、俺でエマを満たしたい。
激しい欲求に、俺は燃えた。
揺れる腰を強く引き付け、思い切り突き上げる。
最奥を抉られ、跳ね上がるエマの体を押さえ付け、エマの深いところを蹂躙する。
「はっ……ぁんっ……うぁっ……」
腕の中でエマが暴れる。艶やかなよがり声を上げて。
もっと聞かせて。もっと乱れて。
エマの中で燃えてる俺を、もっと感じて。
「ねぇ…、もっと…? もっと…欲し…い?」
エマの腰を浮かせ、激しく揺さ振り、責め立てる。
「うっ…あっ……あぁ…っ……吉井…っ…」
「エマ……、俺────、エマ…っ……」
「はっ……あんっ…! あっ…んぅっ……」
エマの声が艶っぽさを増していく。
「あぁっ…あっ……あぁっ……吉井っ…」
俺にしがみついて、エマは首を仰け反らせ、ガクガク震えた。
「よし…吉井……、お願…い…っ───」
俺の背中に指を食い込ませて、エマが懇願する。
大丈夫。すぐ楽にしてあげる。
クライマックスは、もう、すぐそこ。
一緒に、上り詰めよう。
思いの丈を込めて、エマに最後の一突き。
刹那、エマの体が綺麗に反り返った。
「んぅっ───!」
一瞬の恍惚の中で、エマは悦びを迸らせる。
同時に、俺も欲望を果たし、初めての夜に───、燃え尽きた。

 ☆

まだ熱のこもった腕に優しく抱かれて、俺は夢見心地。
思いっきり甘やかされながら、抱かれたあとの気怠さに酔ってる。
「ねぇ、エマ?」
「ん〜?」
「もう、やめるなんて言わないよね?」
───え?
やめる? 誰が? 何を?
真面目になんのことかわからずに、首を傾げて吉井の顔を見て────
あっ! 思い出した…。
…と、俺が何か言う前に、吉井が吹き出した。
「エマ、忘れてたでしょ」
う……。
「いいの、いいの。忘れて」
吉井はやたら満足そうに肯いて、俺をギュッと抱きしめた。
「もうね、俺がエマを離さないから」
「吉井……」
どうしよ…。照れるけど、嬉しい。
「ずっと…、離さない?」
やっぱり今夜は甘えたい。今までの分も。
吉井は、メチャクチャ真顔で肯いて、少し長めのキスをくれた。
「離さないよ、ずっと。俺にはエマだけだから……」
…って言われても、俺は、そんなに甘い人間じゃない。
普段の俺なら、絶対信用しない。
でも、今は、吉井の言葉が信じられる。信じようと思う。
「うん…、俺も……離れない…」
「愛してるよ、エマ…。ずっとね……」
「うん…、俺も……愛してる…」
今は、これでいい。
愛し合ったあとだから、これでいい。
吉井も、もう何も言わない。
ただ抱き合って、キスを交わして、確かめ合って、それでいい。
ほら…、もうすぐ夜が終わる。
俺達は、二人で夜を渡った。夜の河を───。

 ☆

その夜から、10年以上の年月を経て────
俺は、いまだに吉井の腕の中にいる。
吉井は、あの時の言葉通り、俺を離さず、俺も吉井から離れなかった。
馴れ合いながら愛し合って、求め合いながら、お互いに溺れてる。

俺は、一つ思い違いをしてた。
夜の河のあっち側に、愛は待ってなかった。
愛は、すぐそばにあって、俺は、渡る前にそれを手に入れてた。

夜の河は愛の河。
落ちたが最後、二度と浮かび上がれない、夜の河。
なんだ、そうだったのか…って、今思う。

俺達は、夜の河を渡る前に、落ちた────って。



  おしまい



■COMMENT■
ご無沙汰いたしておりましたが、RAYです。鳥とは会話しませんが、まだ生きてました。
え〜、今回の話、純粋な新作ではありません。
ずいぶん前に書いたものを、リフォーム&増築しました。
皆様の脳内に妄想の花が咲くことを祈りまして────
謹賀新年。