眠りたいと、男は思っていた。
子供の頃のように、暖かい手を繋いで眠りたい。
そう願いながら、しかし叶わぬまま日々は過ぎる。
その朝、まず寝癖がどうしても言うことを聞かなくて家を出るのが遅れた。
駅でコーヒーを買ったら、おしるこが出てきた。
定期を忘れた。
メールの送信先を間違えた。
食堂でA定食を頼んだら品切れだった。
夜、どんな経緯だったか思い出せないくらいくだらないことで、見知らぬ若者と喧嘩になった。
ジャングルジムの下に転がりながら、男は星の見えない空に祈る。
誰か優しくしてくれ。
俺に優しくしてくれ。
心配して、励まして、眠らせて。
できれば可愛い子だと嬉しいです。
あっでも贅沢は言いません、ヒゲのおっさんでも構わない。
誰か俺を助けて。
そういうわけで、涙目の男が転がる公園から物語は始まる。
英昭は「見つけること」が得意だった。
子供の頃から、声にならない声を震わせる子猫を見つけた。
母親がなくしたイヤリングの片割れを見つけた。
父親が拾ったハンカチの落とし主を見つけた。
英昭自身の持ち物もたくさん見つけた。見つける前提として無くしたり落とすのもよくやったが、そのほとんどのものを見つけたので、母親は特に英昭を叱らなくなった。
43歳になった英昭が夜中に突然コーヒーが飲みたくなった時に、たまたまタイミング悪くコーヒー豆が切れていた。
見つけるまでもなく、部屋に一杯分のコーヒーもないことは英昭がよく知っていた。飲めないとなると余計に我慢ができなくて、雪が降っているというのに英昭は厚手のパーカーを羽織ってコンビニを目指す。公園を横切ると、風が吹いて寒いが近道だった。
寒がりの英昭はあまりその近道を利用しなかったが、どうせこんな夜はどこを通ったって寒いのだし、とにかく早く行って帰ってきたい。
薄い肩をちいさく丸めて早足で歩いていると、誰かが咳き込む声が響いた。
遊具のあたりをくるりと見回しても歩いている人影はない。
どこか少し離れたところの声が風に乗ってたまたま響いたのかもしれない…と思ったときに、英昭はそれを見つけた。
うずくまっている男…長身らしい…こんな時間にこんなところにいる割に、怖い人間ではなさそうな気配…。
万一の際に逃げる道と大声を出す準備をしてから、少し距離をおいて声をかける。
「あのー、こんばんは。どうかしましたか?」
「………」
「具合でも悪いんですか?救急車、呼びますか?」
男は答えない。
時折道行く車のライトに、頼りなくもわずかに辺りが照らし出される。
くたびれたスーツは、日々の仕事とストレスのみによるものではなかった。明らかに何者かによって引っ張られ、捩じられ、ボタンを引き千切られていた。
その顔も痛々しく腫れ上がっている。
意識はあるようだ。なんとなく、命に関わる状態ではないかな、と考える。
「…こんばんは」
掠れ気味の声がようやく英昭に答える。
挨拶なんてしてる場合じゃないのに、この人、律義だ。
あぁきっと悪い人ではない。ふと、いくつになっても誰かれ構わず挨拶できる弟の姿が浮かぶ。
「怪我してますね?何か呼びますか?救急車か、警察か。呼ばない方がいい?」
首を横に振ったり縦に振ったりして、公共機関に関わることを彼は拒む。
「えーと…あ、俺はすぐそこに住んでる者です。逃げないで大丈夫…何も呼ばないから」
言いながらゆっくり近寄ると、彼もじっと英昭を待っていた。
「歩けますか?」
「あ…」
「俺の家、すぐそこです。一人暮らし」
「………」
「とりあえず、消毒薬とタオルは貸せます。遠慮はしないでください」
あくまで柔らかく話し続けると、ふいに男は顔を歪めた。中年だが妙に綺麗な顔立ちをしている。怪我のせいか不安げな、子供のようにも見える顔。
唇の端を震わせて男は答えた。
「すみません…ありがとうございます。すぐ、帰ります…迷惑はかけませんから…」
英昭の差し出した手を、縋るように握り返した。
男の手も髪も服も、雪に濡らされて冷たかった。目が大きくて、若い頃はさぞかし可愛かったろう。
いい声だなぁ、と英昭は考えていた。
バスタオルを敷いた上に座らせて、ささやかな薬箱とタオルを何枚か持ってくる。
足首を痛めたようだが怪我自体は大したことはないという本人の申告をとりあえず額面通り受け取り、傷の手当は本人に任せて、英昭はお湯を沸かした。
コーヒーは飲めなくなってしまったが、予定外の拾い物に気分が散らされて、コーヒー気分が薄れている。確か粉末スープがあったはずだ。男の顔色は酷かった。
「お名前は?」
「……………吉井です」
「吉井さん、どちらにお住まいで?」
「……………」
「あ、詮索する気じゃなくて…遠いですか?」
「そうですね、ちょっと…タクシー呼びますから」
「どの辺ですか?」
男が言った地名を英昭は脳内の地図で確かめる。
「遠いじゃないですか…タクシーなんか使ったら高いですよ。電車もないし」
「構いません、家に帰れば、それくらいは払えます」
「そう…右手は俺やりますよ」
ぎこちなく薬を持つ左手から奪い取る。
「すみません…」
男の手は大きくて指が長い。倒れたときに地面で擦ったような擦り傷がいくつかあった。
「顔も、塗りますね」
丁寧に薬を塗り込んでいると、男がもぞもぞと落ち着き無く英昭から離れようとしているのに気がついた。
そういえばメガネもかけていない。男の顔はすぐ目の前にあった。
「あ…ごめん、俺、目が悪くて」
そういう趣味の人間だと思われただろうか。英昭の髪が長く、顔もどこか中性的であり、身長はそれなりにありながら華奢と表現するにふさわしいからだは、余計な誤解を呼ぶこともある。
苦笑しながら一歩引いて、ぼやける傷口に薬を塗り込んだ。
ふと、男…吉井と名乗ったか…が震えているのに気付いた。そうだ、雪が降っていたし、あそこはいつも風が流れている。スーツだけでコートも着ず、冷えきっているに違いない。
「吉井さん、シャワーしかないですけど、行けますか」
はっとしたような顔で吉井がこちらを向く。
「いいえっ…!そんな、結構です。これ以上ご迷惑を…」
「迷惑じゃないです。まぁ今から温まっても遅いかもしれないけど、あなた顔色酷いですよ。せめて服は替えた方がいい。あなたに合うのはスエットくらいしかないけど、俺が運転手なら、今のあなたは乗せたくないな」
吉井の目は迷うように部屋を一周したが、やがて観念したように頷いた。
「…ありがとうございます…」
音もなく吉井のスーツに二つの水滴が落ちた。
英昭は何も見えなかったふりをして、たんすの中のスエットを探し始めた。
10分ほどで吉井は風呂から出てきた。英昭の用意したスエットを着る気配。
「すみません、下着はないので…」
「いいえ、いいえ!全然、あの、ありがたいです!」
ドア越しに聞く声は先ほどまでよりも幾らか明るくなったようだ。
少ししてから現れた吉井は、テーブルに用意されたカップにまた礼を言った。
「まぁ、少し落ち着いて温まってください」
「ありがとうございます……おいしいです…」
嬉しそうに顔を緩ませると、なんだかやけに幼く見えた。
「…えぇと。あの、ご家族に連絡は…」
自分とそう変わらない年齢なら、心配して待つ家族がいる可能性が高い。英昭はそう思ったが、しかし吉井は首を縦に振らなかった。
「今は、ひとりです」
なるほど、40年も人間が生きるといろんなことが起きるものだ。英昭にも覚えがあった。
「20代で結婚して…散々馬鹿をやっていたら、いつの間にかまたひとりになっていました」
「俺も…似たようなものです」
くはは、と二人して顔を見合わせて苦笑する。
さっきから気付いてはいた。こんな寒い夜に触れ合った寂しい心が、これから離れて冷たいベッドに一人で入ることは酷く難しい。下手をすると涙が出てしまうかもしれなかった。
それにしても目の前のこの男の現実感の無さはなんだろう。英昭の友人で、会社に勤めながら劇団員をやっている男を思い出した。彼も40を過ぎているが、舞台のために体を鍛え声を鍛え肌の手入れをし、年相応の白髪や皺はあるもののやたら若く見えて、年齢不詳なのだ。
いろんな役柄を演じてきたせいか、会う度にイメージの変わるなんとなく不思議な雰囲気の男だった。吉井の持つ空気はその友人とどこか似ていた。
もしかしたら吉井も、演劇や音楽や、何か人に見られることをするのかもしれない。
「あの…」
吉井の声にはっとする。ぼうっと彼を見つめていたらしい。
慌ててまばたきをしながら答える。
「はい?」
「あの…今更…なんですが…」
「はぁ…」
「お名前、は…」
「え?」
「お名前を伺っていいですか?助けていただいたのに、名前も知らないとは…」
「あ、あぁ。気を遣わないでください。俺は菊地といいます。菊地英昭」
「菊地、英昭さん」
どうしたことだろう。
潤んだ大きな目、色素の薄いその目がじっと自分を見て名前を呼んだことが、なぜ英昭の心臓を高く鳴らせたのか、意味を理解できなかった。
ぼそぼそと世間話をしているうちに、吉井の声が間延びして、遂にかくんと頭が落ちた。時計は夜というよりも既に朝が近いことを告げている。
必死に会話を続けようとしているのかただの寝言だかわからない言葉をもぐもぐ言う吉井に、寝室から引き摺ってきた布団をかける。
誰が泊まることもないこの部屋に客用の布団なんかはなかった。思案した後、英昭も吉井の隣で同じ布団の下に潜り込んだ。
吉井は極度の寂しがりだった。
父親こそ幼い頃に亡くしてはいるが、母と祖母からは十分な愛情を受けていた。
だから吉井が特別に不遇だったとはいえないかもしれない。
とにかく吉井は一人で眠るということが酷く苦手で、妻も子もいなくなった部屋で毎日一人で眠ることは、家族を無くすこと以上に吉井を苦しめた。
朝、にしてはやけに部屋が明るい。寝過ごしたか?アラームが鳴らなかったか…今日は何曜日だったっけ…。
そうだ。一人なのにこんなに眠ったのは久しぶりだ。いや、昨日は誰かの家に泊まったんだっけ?
目の前のこの…ふわふわの黒髪は…誰だ…。
目線を下げると、予想した顔のどれでもないしかも男が眠っていて、一瞬、ついに男に…と思ってしまった。
そこで漸く、前日の記憶が蘇った。
そうだ!ボロボロになった自分を拾ってくれたこの男…菊地、そう、菊地さんだ。薬とシャワーとスープと、どうやら布団まで貸してくれたらしい。
もう長いこと浅い眠りしかできなくて溜っていた疲れが一気に出て、子供みたいに眠ってしまったようだ。
吉井の混乱をよそに菊地はぐっすり眠っているらしかった。くうくうと規則正しい寝息をたてている。
んん…っ、と小さく唸る声がなんだか色っぽい。じゃなくって、えーと、色っぽいってなんだ。
身動きしようとしたら、腕が重かった。
足を動かそうとしたら、足首に釘を打ち込まれたような痛みが走って、ついに「ぎゃいんっ!」と犬みたいな声を出してしまった。
「…………ん」
しまった…菊地を起こしたらしい。そりゃそうだ、耳元で叫べば。
「おはようございます…」
小声で話しかける。
菊地は眠そうに何度か目を擦り、それから喉のあたりに掌をあてて、眉をしかめた。
「…おはようございます。喉を痛めたみたいで…」
耳元で、息だけで囁かれて、なんだか吉井は逃げだしたくなった。
「すみません、なんか…」
菊地は苦笑しながら吉井の言葉を否定する。
「弱いんです…」
わかったから、そんなに顔を近付けないでくれないか。耳が熱い…ん、熱い?
「…菊地さん、熱ないですか」
失礼、と額に手を当てると、確かに熱い。
「熱いですよ!すみません…俺のせいで…!」
「あー…出ちゃったか…」
「どうしよう…俺、財布とかないや…なんか、手伝えることは…」
「…ん……えっと…や、大丈夫ですから…慣れてるし」
「でも、いや、ごめんなさい…もう俺…」
「いいですって…」
言うなりご、ご、と重い咳をする。あぁ、風邪の人の咳だ。あんなに世話になった人に風邪まで引かせて。
おろおろする吉井に、当の菊地はのんびりと、大丈夫大丈夫と繰り返す。
「俺、一応看護師なんですよ。見えないって言われますけど…。薬は買い置きがあるし…すぐ治ります。構わず帰っていいですよ」
「できませんそんな…せめて俺にも看病させてください」
「吉井さん、お仕事はいいんですか?」
「大丈夫です、俺のことなんか気にしないでください。えーと…歩けますか?ベッドに行った方がいいですよね」
「ん…行けます」
ひょこ、と起き上がって、ふわふわした足取りで扉を開けて(恐らく寝室へ)入っていく。
後を追ってもいいか吉井は迷った。
「よしいさん…布団持ってきてくださいませんか…」
いかにも辛そうなガラガラの声が言う。
そうだ…一緒に寝てたってことは、俺に貸す布団がなかったってことだ。
慌てて布団を丸めて、半ば引き摺りながら同じ扉をくぐった。
痛めた足首は、しっかり体重をかけたり横に捻らない限りはそれほど痛くない。
寝室はあまり風を通さないのか少しだけこもった匂いがした。敷き布団だけのベッドに腰かけた菊地は、とろんとした目で吉井の持つ布団を見ている。
「横になってください。掛けますよ」
一拍おいて、こくん、と頷くと素直にからだを横たえた。
ばさ、と布団をかぶせて軽く整えると、菊地はごそごそと丸まって落ち着いた。
「よしいさん、ひとつ、お使いを頼まれてくれませんか」
「は、はい」
声を出させるのが可哀想で、耳を口許に持っていく。
「あのね、そこに俺の財布があります」
うぅん、と唇をとがらす姿が可愛らしかった。…え?だから可愛らしいって何?俺はさっきから表現を間違ってないか、色っぽいだの可愛らしいだの。
「コーヒーと…りんご…買ってきてください」
「はい、じゃあ…財布、預かります」
内心、俺がこの財布持ってっちゃうとか考えないのかな、と思った。たとえ中身が少ないとしても、財布本体だけでも有名なブランドのものだ。
もちろん吉井は決して、菊地を裏切るような真似をするつもりはなかったが。
「あ…」
部屋を出ようとした吉井を後ろからの声が呼び止める。
「はい?」
ベッドに戻ろうとすると。
「いってらっしゃい」
と、ちょっと照れたような笑顔と、その横で小さく振る手に送り出された。
「…いってきます」
俺、顔が赤くなってるなぁ。
菊地のマンションを出た吉井は、そういえばこのあたりの地理にさっぱり詳しくないことを思い出した。というかさっきはなぜ、そんな当たり前のことに気付かなかったのだろう。きっとあの「いってらっしゃい」のせいだ。
冬とはいえ昼間の日差しはいくらか暖かい。スエットの上下という、いかにも休日のお父さんスタイルで出てきてしまったが、今日は土曜だ。一応吉井には子供がいるし、休日だ。まぁ間違いでもない。
少し足を引き摺りながらなんとなく勘で歩いていたら、犬を散歩させている人と擦れ違ったので、店の場所を尋ねる。このまままっすぐ行けばすぐわかる、との返事に礼を言ってまた歩き出す。
言われた通りのものを買って戻ると、菊地は眠っているようだった。
りんごを冷蔵庫に入れていると、
「…かえり、なさぁい…」
またあの声が吉井の顔を赤くさせる。こんな挨拶は久しぶりだ。
菊地さんも一人暮らしだから、たまにはこんな挨拶をしたいのかな、と思ってみる。家族ごっこだ。
「ただいま〜…」
それらしい返事をしてみる。
「なんか食べますか?」
こくん。
「コーヒー?りんご?」
どっちも。唇だけ動かして答える。
コーヒーメーカーは戸棚の中にあり、包丁もすぐに見つかった。菊地は割ときれい好きらしい。
「コーヒーは濃いめ?ミルクと砂糖は?」
こくこくと頷いて、ミルクと砂糖は、冷蔵庫。とまた息だけの会話。
コポコポ…と香ばしく落ちていくコーヒーを見ながら、変なことになったなぁ、と思う。
でも俺を拾ったのがあの人で良かったな。
左手にコーヒー二つ、右手にりんごの乗った皿、そしてスエットのポケットに小包装のミルクと砂糖を入れて寝室へ向かう。
「お待たせ」
ゆっくりと起き上がった菊地は、コーヒーを受け取ってにっこり笑った。
「ありがとうございます。昨日から飲みたかったんだ」
すると昨日はもしかしたら、コーヒーを買いに行こうとして俺を拾ったのかしら。
熱いコーヒーは吉井の口の中の傷に優しくなかったが、無理においしいですねぇ、と笑ってみせた。
「よしいさん、時間とか、大丈夫ですか?」
「大丈夫なんです。今日は土曜だから、明日も休み」
「土曜…何日でしたっけ」
「えーと、8日ですね」
「あぁ…8日かぁ…そっか…」
「何かありましたか?」
ふふ、と少し笑って、先ほど俺に預けた財布をまた取り出す。開くと免許証を取り出した。
指先を見ると、彼の生年月日は昨日の日付だった。
「昨日…誕生日だったんですか」
生まれ年を見ると吉井より二つ年上なのがわかった。
「おめでとうございます」
「…ありがとう」
そんなにおめでたくもないんだけど…と目を伏せながらも、どこか嬉しそうに見える。
二つ、ということは43歳?こんなに綺麗で可愛らしい43歳は初めて見た。笑うと可愛いし、仕草もいちいち可愛い。それに優しい。
中年の同性に対する感情としては間違っているかもしれない。
けど、菊地は物凄く、吉井の好みだった。
待ちわびたコーヒーと、人が剥いてくれたりんごはとてもおいしかった。
ついでに風邪薬と水も吉井に頼んで持ってきてもらう。冷たい水が少し辛かったので、たくさんは飲めなかった。
このまま眠ったら、吉井はその間に帰ってしまうだろう。
帰らないでほしいなんて言い出したら驚くだろうか、困るだろうか。
昨日拾ったこの男に、英昭は自分でも思いがけないほど気持ちが寄り添ってしまっているのに気付いた。
「よしいさんは…寒くないですか?」
「俺は平気です」
「もう…帰りますか?」
「そうですね、あなたが大丈夫そうなら…」
やっぱり、帰っちゃうよねぇ。そういえば傷は痛くないのかな。足が痛いって言ってた人にお使いさせちゃったな。
そんなことを考えていたら、熱のせいで潤んでいた目から、ほろりと涙が零れた。
「菊地さん、辛いですか?大丈夫?」
途端にまた不安そうな吉井の声。
「大丈夫、ねつがあるから…」
今まで一人で住んできた。何度か風邪もひいたが、その度一人で薬を飲んで寝ていたはずだ。
なぜ今回に限って、一人では寝られないなんて思うんだろう。
吉井がいなかったら…自分でコーヒーをいれて、一人で飲んで。一人で、りんごを剥いて…。
「もうちょっと…」
いてください、とは言えない。
「え?」
布団から手を出して、ちょいちょいと招く。
吉井は不思議そうな顔をして右手を差し出した。
それをきゅっと握る。
「な、なんですか?」
戸惑ったように言いながらも、振りほどくことはしなかった。
「寒い、から…」
「はい…」
「…………一緒に寝ませんか」
あれ、なんか俺、間違ったなぁ。吉井がびっくりした顔をしている。でもどこを間違っていて、どう訂正すべきかわからない。それにこの手。温かくて、乾いて大きな掌。放す方法がわからない。
「えーと…」
「ごめんなさい、変な…」
「俺、体温低いけどいいですか?」
なんだか変なことになっちゃったなぁ。でも俺たちは昨日も一応一緒に寝たんだった。
緊張しながら布団に入ってくる吉井は温かかった。
日曜日の朝、吉井は菊地から借りた金で電車に乗って帰っていった。
(お金とスエットは、返しにきてください)
玄関での別れを思い出す。
二人の都合を合わせて、二週間後の月曜に約束をした。
(月曜?本当にいいんですか?)
(いいですよ。俺は何も予定ないです…あぁ、吉井さんが?)
(いえ、俺もないですけど)
(もし用事ができたら、また別の機会で構いませんから)
別れ際の菊地の笑顔が吉井の心の真ん中にあって、つい、部屋のカレンダーに丸をつけてしまった。
なんとも気恥ずかしいことに、月曜日は24日だ。
この日の予定に心が浮き立つなんて、随分久しぶりの感覚だった。
ところがその日、菊地と会うことはなかった。
電話越しに、貸したものはもう返さなくていいということと。
(ごめんね、俺はあなたを好きになっちゃった)
そう言って切れた電話は二度と繋がらなかった。
――――――
新年が明けてその夜、またコーヒーを切らした英昭は、コートを羽織って近道をする。
あの日から、この公園を通るときはあたりを一周見回すのが英昭の癖になっていた。
今日もまたくるりと目を巡らして…それを見つけた。
長身の男がうずくまってこちらを見ている。
「あの…こんばんは」
まさか二度と会うこともないと思っていた男の声。たった一日だけ一緒にいた相手にあんなことを言ってしまった俺を、気持ち良く思っているはずがなかった。どこまで律義な人だろう…。
でもやっぱりいい声だなぁ、と英昭は考える。
「まず、これ…ありがとうございました」
立ち上がった男は紙袋を差し出す。英昭はまだ動けないでいる。
「返さなくていいって言ったのに…」
会いたくなかった。会わなければ、こんな気持ちは日常が少しずつ削ってくれる。
袋を受け取ってすぐ離れようとすると手首を掴まれた。
「や…」
「菊地さん」
「…なんですか」
俯いたまま答えた。
「コーヒー飲みに行きませんか」
「結構です。今から買いに行くところだから」
「菊地さん」
強く呼ばれて、少しだけ顔をあげる。もう勘弁してくれ…。
「菊地さん、俺とコーヒー飲みに行きましょう」
「飲みたくない」
「豆買ってきました。淹れさせてください」
「もう…」
「俺のこと好きだって言ったのは、そういう意味じゃないんですか?」
「どういう意味…ごめんなさい、変なこと言った。もう忘れて…」
「俺はあなたに会いたくてずっと待ってたのに」
「………」
「来年こそクリスマス一緒に過ごしたいです」
「………」
「そういう意味じゃなかったらすみません、でも俺はあなたが好きです」
「…俺こんなおっさんですけど」
「俺もおっさんなんですけど…あなたが好きなんですが、抱き締めてもいいですか」
固まったままの英昭の手首を放して、肩に手をかける。
ぎこちなく背中に触れて、英昭の顔を吉井の肩に押しつけた。
「あの…」
くぐもった声で、英昭は吉井に尋ねる。さっきから何か騒がしいと思ったら、心臓の音だ。
誰の?
「すごく今更だけど…名前は…?」
「和哉です。吉井和哉」
笑いながら吉井も答える。
「明けましておめでとうございます」
「…あ、あぁ、おめでとう」
思わず顔をあげた英昭は、思ったよりずっと近くにあった吉井の顔に驚く。
それから目の前の吉井は目を伏せると更に近付いて、もう英昭は何も見えなくなった。
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