セピア |
サイレンが鳴った。 今夜もまた。 俺たちは交わりの熱を、すぐさま恐怖に変えた。 屋外からバタバタと人々が立ち騒ぐ物音が聞こえる。そこに更にサイレンがけたたましくうなる。 こんな夜は、もう何度目だろう。 ついこの間、隣の街も燃えた。 この戦争は負けるのだと、誰も口には出さないけれど、そんなことはもう判っている。 去年の今頃信じていられたことが、今はもう嘲笑交じりにすら思い出せない。 数年前までは、人の命が重かった。 それが今はもう、当たり前のように死んでいく。 弔う暇もありはしない。 学校で学んだ歴史では、徳川時代のように延々と安定した頃もあった筈なのに、何だって俺たちはこんな時代に生まれてしまったんだ。 今日は。 今夜こそは俺たちだって死んでしまうかもしれない。 「・・・逃げよう」 俺はなんとか声を振り絞って、繋がったままの恋人に呼びかけた。 いつもならそれに応じて立ち上がる恋人は、だけど今夜は湿った布団に横たわったまま、呆然と闇を見つめた。 「どうして?」 そしてぽつんと呟いた。 『どうして?』 それは逃げることに対する問いかけだっただろうか? それでも俺は馬鹿のように状況だけを口にする。 「サイレン。空襲だよ」 「・・・逃げて・・・生きてどうなるの?」 「・・・・・・え?」 だけど、どうやら間に合わなかったようだ。 疑いようもなく、俺の恋人は今まで辛うじて僅かに持ち続けていた生きる情熱を、その夜本当に捨ててしまった。 「逃げて、生きて・・・いつ終わるの。いつか戦争は終わるの?」 「・・・・・・・・・」 「戦争が終わって・・・そうしたら生きられるの?」 「・・・・・・・・・」 「もういいよ・・・。もう、生きない。もう――――充分だよ。もうこれ以上苦しみたくない」 俺の胸に顔を埋め、恋人が嗚咽した。 俺はただその背を撫でてやる。 それを諭して無理に生きようとするには、俺自身ももう疲れ果てていた。 不治の病に冒された俺の恋人。 もしも健康ならば、今夜も逃げただろうか? いや、そもそも戦争がなければ。 人の命が重かった嘗ての世界なら・・・健康な人間がわざわざ負傷して、軍が医療を専横する世の中でさえなければ、あるいは病を治す手立てもあったかもしれないのに。 サイレンが響く。 俺は恋人の耳元で囁いた。 「・・・そうだね。もう、いいよね」 戦闘機の群れが飛来してきた轟音と、人々の悲鳴が賎が家を覆う。 ダダダダダっと連続した衝撃音のあと、ごうっと障子の向こうが赤く燃え上がった。 ガラスの割れる音。 間違いようのない熱風が、その向こうから漂ってくる。 「・・・ふ・・・」 本当の終わりを予感して、恋人が笑った。 笑顔を見たのは何ヶ月ぶりだろう? 舞い散る桜の下でバイオリンを弾いていた、健康だった頃に・・・平和だった頃に、いつも見ていた笑顔と同じだ。 俺も微笑んだ。 絶え間ない爆撃音と共に街が壊れ行く。 一際大きな轟音と振動が、俺たちの上に降り注いだ。 熱も痛みも直接感じる。 ああ、これで本当に――――終わる。 恋人は最後にもう一度だけ我侭を言った。 「抱いててね。最期まで」 俺は「勿論」と言うつもりだったけれど、それを言葉にできたかどうかは判らない。 判らない。 判らない。 俺は最期に、あの人の名前を呼んだだろうか―――――・・・? 「吉井、吉井ってば!こら!起きろーっ!」 目が醒めたら、まだ爆撃が続いていた―――・・・と、思ったのは気のせいで、鳴り響いていたのは目覚まし時計だった。 それと、恋人の声。 「今日からレコーディングだってば。いい加減離して?」 ぼんやりした頭で、「レコーディングってなんだろう?」と考える。 数秒後に、それが音楽を演奏して歌を歌い、CDにして発売するための行為だったことを思い出した。 そんな暢気なことをしていていいのか? 「戦争は、いつ終わったんだ・・・?」 「・・・今更、懐かしのジャガーごっこ?」 俺の呟きに、恋人が嫌そうに眉をしかめた。 何だよ。そんなに嫌そうな顔をしなくても。 エマってば冷た――――――・・・・ え? エマ? 「エマって・・・」 ぱちんと目の前がはじけた気がして、俺は本格的に目を覚ました。 「何?」 呼ばれたと思ったらしく、まだ腕の中に捕まったままのエマが見上げてきた。 いつもと変わらない、柔らかな表情。 ・・・夢だったのか。 いつつけたのか、テレビからはワイドショーが流れていた。 戦後60年を記念した、少し前の映画の話題。 もしかして、あの音に影響されてあんな夢を見たのかな。 それにしては、夢の中のエマはバイオリニストだったけれど・・・。 「なんだよ。呼んどいて」 力を緩めた俺の胸の上に、ぽふん、とエマが乗っかって不審そうに上目遣いで睨む。 その可愛らしい様子に、俺はあれが夢だった安堵をひしひしと感じて、もう一度ぎゅーっと抱きしめて、額にキスをした。 『訳がわからない』と、きょとんとしてる顔は、夢の中の恋人と同一人物のようでもあり、全くの別人のようでもあり――――。 もしかして。 さっきの夢は、前世の記憶ってヤツだったんだろうか? もしかして前世の俺と前世のエマは恋をしていて、不幸な時代ゆえの最期を遂げて・・・。 生まれ変わり、果たせなかった夢を叶えるために音楽を選んで、再び巡り合ったんだろうか。 ――――・・・なんてね。 まぁ、夢見がちな俺の考えそうなことだ。 「なんでもないよ」 俺は笑って姿勢を変え、「もう時間ないってば!」と、ゴネるエマを下にしてシーツに押し付け、 「おはよ」 と言いながらディープキスに持ち込んだ。 窓の外には満開の桜。 誰も見ていないテレビで 『この映画のモチーフになった兵士が、この方なんですけれど』 と、一枚のセピア色の写真が映されていた。 その兵士の学生時代の、詰襟の写真。 彼の斜め後ろで、キリっとした表情を結んでいる二人連れがいる。 今はもう色褪せた記録の中の2人の最期を、たった今、自分の記憶として夢で見たことを、俺は知らず――――・・・その夢は、ほんの30分ほどで、すっかりと忘れた。 end |
前世もの。 『争いの街』がモチーフかなぁ。 戦争は嫌。大事な人たちと夢を見て、叶えるために生きたいから。 |