風が渡る。
日暮れが近い。
東京に比べると少しばかりひんやりした空気は、夏が終わろうとしているのを告げてる。

夏。
夏の北海道。

見上げれば青い空。
雨が降るかもしれないと言っていたのに、嘘みたいないい天気。

風が渡る。

「エマ?」

後ろから呼ばれて振り返った。
黒いスーツを着た吉井の表情が、笑顔の形から真顔に戻る。

真顔の吉井。
夏の空。
あの夏。

胸を押さえたのは無意識だった。
いや、苦しかった訳じゃない。
符号が見せた、束の間のデジャヴ。

真顔の吉井。
あの夏、そう、こんなふうに笑ってた吉井の顔が真顔になって、強張って―――――・・・。

「エマ」

だけど今日は、吉井は表情を強張らせることなく、穏やかに微笑んだ。
静かに近寄ってきて、俺を人目から隠すように立って、そっと頬に手を伸ばしてきた。

両手で俺の頬を包み込んで、親指が目元を拭う。

「・・・泣かないで」
「え?」

気付かなかった。
俺、泣いてたんだ。

「もう何も、怖いことはないから」

俺は吉井の顔を、ただじっと見上げた。
指から煙草の匂いがしない。

吉井は平気な顔をしてるけど、そのことが『夏』の意味を如実に物語ってた。







明け方に飛び起きるようになったのは、今年最初の熱帯夜からだった。
直前に見ていた夢を思い出すことがどうしてもできなくて、きっと寝酒の量が思ったより多すぎたのだろうと判断して、再びタオルケットを被った。
数日後、また酷い寝汗をかいて飛び起きた。
また夢の内容をは思い出せなかったけれど、悪夢だったということは判った。
頬が濡れていたからだ。
夢を見て泣いていたらしい。

泣いて目覚める――――――・・・。

その感覚は2年ぶりだった。
イエローモンキーが解散した、あの頃は毎日のように泣いていた。

そんな揺れは、秋に再び吉井の元に帰って以来、ぱったりと止んでいたのに。

だけどまだ、俺はその久々の不安定の理由については深く考えなかった。
いや、別に気にならなかったと言ったほうが正しい。
寝ておかないと明日の仕事に障る。

フェスからのメンバーも加わって、彼らの音作りがまだまだ残ってる。いくらプロとはいえ、顔を合わせたばかりのメンバーの音を纏めるには、誰かが指揮をとらざるを得ない。まして、『吉井和哉』として既に二回のツアーをこなしているからには、音のアクがガラリと変わってしまう訳にはいかない部分もある。それでも前のツアーは殆どが既にやりこなした曲だったし、吉井も常に俺たちの傍にいたから良かったけど、今回はそう悠長に構えてられないスケジュールだ。
レコーディングを終えて帰国した直後から、吉井はバタバタと忙しかった。大幅に増える新譜のライブ・アレンジもある。そこが仕上がるまでの一番最初の段階として、既存の曲と、イエローモンキー時代の曲の音作りと纏めを、吉井は今回俺に大幅に振った。
「エマさん、頼んじゃっていい?」
少し前なら「越権行為になる」と頑なに了承しなかっただろう提案だったけど、今や俺は吉井のソロワークに於いても最古参のメンバーだ。同じく最初のツアーから一緒のバーニーよりも、前のアルバムのレコーディングでその殆どの曲を弾いてる俺は一番曲たちに精通してる。勿論、イエローモンキーの時の曲は、俺が作った音でもあるから尚更のこと。
多忙に目を回してる吉井が俺に頼むのは当然っちゃ当然。
「うん」
と、何気ないことのように答えた俺にちょっと微笑んで、別の仕事で2、3回楽器隊のリハに来られないと他のメンバーに告げながら、吉井は、
「微妙なニュアンスとかで困っても、エマに訊いてくれたらいいから。エマだったら俺の好みとか癖とか、全部判ってるし」
と断言した。俺はそんな吉井から向けられる全幅の信頼に緊張しながらも嬉しかった。

ちょっとした悪夢になんか揺れてる暇はない――――・・・。

そう思うほどに充実して、毎日を楽しいと感じていたのに。

悪夢が五度目になって、やっと俺は自分の潜在意識の中に、何か不安があるんじゃないかと気がついた。

それはここにきて『単なるサポート』という位置を一歩抜けたことによる責任の重さから来るものなのか、それとも・・・?

ふと考えてみたら、もう長いこと吉井とプライベートな時間を過ごしていない。
まさかそれは関係ないだろうと苦笑しながら、俺は胸の奥に芽生えた不安を誤魔化しながら、多忙な日々を送った。




「エマ、エマ!?」

うろたえ切った吉井の声で我に返ったとき、俺は自分のポジションに蹲っていた。

音が止んでる。
さっき眩暈を感じたけど、どうやらそのまま軽い貧血状態でしゃがみこんでしまったらしい。
明らかに悪夢嫌さの寝不足の所為だ。あれから間もなく毎晩のように魘されるようになって、まともに眠れなかったから・・・。

「ごめんごめん。何でもない」
「バンマス、大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」

ドラムの智美ちゃんに心配そうに言われて笑いながら立ち上がった。
情けないな。しっかりしなきゃ。今日はヴォーカルも入れたリハの詰めなんだから・・・。
だけど、曲が再開してすぐに気付いた。
ささやかな異変は、俺でなく吉井をも動揺させていたことに。

センターマイクの前に突っ立ったまま、吉井は最初の歌いだしに躓いた。
すぐに入ってきたけど、明らかに上の空。何度も歌詞を飛ばす。

調子が上がりきらないまま、その日のリハは早めに終わった。



「今夜は空いたから」
と言いながら、その夜、吉井は俺んちに泊まりに来た。
吉井が泊まるのは、かれこれ1ヶ月ぶりくらいかもしれない。帰国してすぐ泊まってったけど、間もなく忙しくなりすぎてそうもいかなくなったからだ。

だけど久しぶりに泊まるというのに、吉井はちっとも楽しそうじゃない。
夕食のときにちょっと飲もうと思って焼酎の瓶を出したら、「体調悪いでしょ?」と怖い顔で止められた。

風呂で髪を洗ってくれて、いつもどおり甘やかしてくれるけど、なんだか表情が硬い。
普段から「お前はいくつだ」と言いたくなるほど、相変わらず抱こうとするくせに、今夜は手を出してすらこない。折角2人でゆっくりできるんだから、そっちのほうでも甘えたかったのに、軽くねだったら
「元気なときにね」
なんてらしくないこと言って、さっさと腕枕で眠る体制に持ち込まれた。


――――・・・なんか、却って寂しいんですけど。


変な吉井。
体調悪いって、今日ちょっと立ち眩んだだけなのに。
そんなことは誰にでもあるし、今までだって何度もあったのに。
前はこんなに過剰に心配しなかったのに。
あの病気の時でさえ、きちんと診断が下るまでは、俺が「胸が痛い」っつっても殆ど心配もしてくれなかったのに。


あの病気の?



――――・・・あの、病気の?



病気をした、夏の。

蝉の声。
泣き顔。

「吉井、もう判ってると思うけど、俺たち、もうダメだ」
「ダメ?ダメって何だよ。何言ってんの?」
「こんなんじゃ何もかもダメになる」
「エマ!」
「だから――――・・・」
「嫌だ!」
「別れよう、吉井。俺たち―――――・・・」

苦しい呼吸。
胸を締め付ける痛みは、別れを告げることへの憔悴なのか、病気の所為か。

痛い。
胸が痛い。

窓の外の蝉の声。
みっともないほど取り乱して嗚咽する吉井の顔。

俺は、

笑って


大事な手を


離して


何もかもを


失って



あの夏。



絶望が。





・・・あのさ、解散っていうのも一つの方法だと思うんだ・・・。








「―――――・・・嫌だ!」

大声で叫んで飛び起きた。いつの間にか眠ってたらしい。
汗まみれの全身が震えてる。

すぐに吉井が俺の肩を掴んだ。

「エマ、エマ?どうしたの?苦しい?」
「あ・・・、吉・・・井?」

俺の額髪を拭いながら、薄闇の中で吉井がボロボロ泣いてるのに気がついて、一瞬これはまだ夢の続きかと思った。

そう・・・これだ。
これだったんだ。
何日も俺を悩ませていた悪夢の正体。






俺は、夏が―――――怖い。








「病院行こう、エマ」
正体に気付いて呆然としてる俺の前で、吉井は何故かそんなことを言った。
「は?」
起き上がって着替えようとさえしてる。

ちょっと待て。
病院?

「なんで?」
「なんでって・・・大ごとになっちゃいけないじゃない。―――――・・・・胸でしょ?」
「・・・・・・・・・・・・胸?」

胸って・・・胸?
吉井、まさかまた肺気胸の再発だと思ってるのか?
なんで?俺、胸が痛いなんて一言も言ってないのに。

「俺、どこも痛くないよ?」
保険証まで探し始めた吉井に、恐る恐る声をかけたら、振り返って『信じられない』という顔をされた。

「だってエマ、今日も体調悪かったじゃない」
「いや、ここんとこしょっちゅう魘されてたから寝不足だっただけ」
「・・・魘されてた?」

あっと言う間に引き出しの前からベッドに戻ってきた。

「どうしたの?何か悩んでる?忙しすぎた?あっ・・・・最近あんまり来れなかったこと?それだったら忙しかっただけで、俺はいつもエマんとこ行きたいと思ってるし、フェスも始まっちゃえば逆にひと段落つくし、」
「ちょっと吉井、何を一人で早合点してんのさ」

抛っておけば、なんの根拠もないことに対する言い訳を朝までしそうな吉井を苦笑で落ち着かせて、甘えるように抱きついた。

「そんなんじゃないよ。別に疲れてる訳でも、お前を疑ってる訳でもないよ」
「エマ・・・」

ただ、今年の夏は色々と辛かった記憶に直結してしまうんだよ。
病気で唯一飛ばしてしまったフェスのライブは、やっぱり心のどっかでトラウマになってて、それと同じのに出演することが決まって、多分なんか俺の中で刺激するもんがあるんだろうね。
それから、忙しくて中々二人で一緒にいられないっていうのも、全然内容としては違うけど、心が擦れ違ってしまってて、言いたいこともうまく言えなかった、その年の夏みたいで。
なのに・・・英二やヒーセが傍にいないっていう状況は、一昨年の、解散した夏を思い出させて。


夏には辛い記憶が多すぎる。
解散したのも夏。
病気をしたのも夏。
唯一飛ばしたライブも夏。
ああ、そういえば一度目に吉井と判れ別れたとき・・・あれも夏だった。

40年以上生きてて、その半分近い夏を一緒に過ごしてきて、比率でいえば何事もなかった夏や楽しかった夏が圧倒的に多いし、辛い記憶だって必ずしも夏に限ったことじゃないのに、変なの。
やっぱりなんか、夏はトラウマだ。

だけどそんな自分の心境を、吉井に吐露するのはやめておいた。
事柄は全て吉井に直結してる。俺の所為な部分は多いけど、吉井の所為な部分もある。
口にしてしまえば吉井を責めることになるような気がして、俺は口を噤んだ。

「眠らせてくれる?疲れさせて」
「・・・大丈夫なの?」
「だから、身体は別にどこも悪くないって」

ちょっと笑って、自ら手をとって導く。
吉井はそんな俺を、常にないほど丁寧に、丁寧に抱いた。

あの夏と同じライブに出る。
あの夏と同じようにほんの少しの隠し事をしている。
また別の夏と同じように、2人分空間が広い。
だけどそれらの夏とは違う。
何かが違う。

やがて訪れた眠りは穏やかだった。
認めてしまうと気恥ずかしいけど、吉井にとてつもなく優しく抱かれて、それが俺の中のちっちゃな隙間を埋めたのかもしれない。
辛かった夏との間に、今年の夏独特のほんの少しの差異が生まれた。







風が渡る。
そして俺たちはあの失った夏の、約束の場所に立った。
今日、このステージをこなすことで、多分俺たちは2人とも何かを越えることになるだろう。
もしかしたらそれが、執着に対する一つの区切りになるかもしれない。

だけど、今は何も考えない。
考えたくない。

ただ、やっとここに来れた。
吉井が連れてきてくれた。
晴れ渡った空に、あのとき俺を悩ませた蝉の声はしない。

「エマ」

だけど今日は、吉井は表情を強張らせることなく、穏やかに微笑んだ。
静かに近寄ってきて、俺を人目から隠すように立って、そっと頬に手を伸ばしてきた。

両手で俺の頬を包み込んで、親指が目元を拭う。

「・・・泣かないで」
「え?」

気付かなかった。
俺、泣いてたんだ。

「もう何も、怖いことはないから」

俺は吉井の顔を、ただじっと見上げた。
指から煙草の匂いがしない。

吉井の指先から煙草の匂いが消えたのは、あの夜からだった。
不調は胸の所為ではないと伝えたのに、そういうあからさまな行動は、吉井もまたあの夏の呪縛から逃れられていないという証拠に他ならない。禁煙への言い訳は全て俺の心を上滑りしていった。
だから、気付いてはいたけれど、敢えて何も言わなかった。

口にすれば吉井が苦しむ。
その気もないのに責めるみたいな話になる。
誤解を解くのに苦労するのは目に見えてる。

ああ、それはなんて、精神的な擦れ違いを起こしているときと、心境は真逆なのに感情は同じなんだろう。

「怖いことはない」と吉井はいうけれど、一体何が怖くて、何の不安がなくなったというんだ?
俺たちはいつも少しずつ不器用な歩みを進めながら、気がついたら何も変わっていないことを本当は知ってる。
それを見ないように、気付かないように、変わったと思い込んで、強くなったと言い聞かせて、不安定な安定を掌に押し込んで生きてるのかもしれない。
衝撃的な事件が齎す成長は、一時的なものなのだろうか。
いくら突破したと思っていても、喉元を過ぎればまた同じように慢性的な、緩い懊悩を抱えゆく。
それが人間なのかな。

ほんの少し寂しい笑みを浮かべて、吉井の胸に凭れかかった。
吉井の両腕が俺の背中に回される。

「あのね、エマさん」
「・・・ん?」

はっきりとした形を持たない不安に支配されている俺に、吉井は優しく囁いた。

「寂しそうな顔で笑うくらいだったら、どんな酷い言葉でもいいから俺に言いなさい」
「え?」

意外な台詞に思わず聞き返す。

「あんたが何を言っても、俺は受け止めてあげるから」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺はねぇ、もう約束は守るよ。――――・・・ほら、今だって、ちゃんととあんたをここに連れてきた」
「吉井・・・」
「あんたの所為でできなかったことは、こうやって俺が果たさせてあげる。その代わり、俺の所為でできなかったことは、エマさんが果たさせてくれればいい」
「なんだそれ」

くすくす笑いながら身を離した。
見上げれば、吉井も穏やかに笑っていた。
そして子供にするみたいに俺の頭を撫でながら言う。

「約束どおりここにも来た。あと数時間でリベンジできる。ずっと忙しくて一緒にいらんなかったけど、それも解消できる。甘やかしてあげられる。さあ、今度は何が気になってる?何でも言いなさい」

ああ―――・・・違う。
吉井は変った。
同じように胸のうちに色々溜め込んでても、目の前にいるのはあのときの吉井とは違う。
前はこの男をとことんダメにする前にと思って、別れるための苦汁の決断を下した俺だったけど、今は・・・・もしかしたら、本当に何でも預けられるのかもしれない。本当に荷物を半分こにできるのかもしれない。

「どうして煙草やめたの?」

だから俺はやっと切り出すことができた。
吉井は意外そうにきょとんとして、ものの30秒ほど沈黙したまま、俺を凝視し続けた。

「俺、胸は悪くないって言ったよね?なのになんで?」

そこまで続けて、やっと吉井は納得したように両肩で息を吐いた。

「そんなこと?」
「え?俺の所為って思ったのは勘違いだった?」

吉井の反応に、もしかしたら自分がものすごく自意識過剰なことを考えてたのかと思って恥ずかしくなる。
これで本当に「喉のため」とかだったら、羞恥のあまり大声で叫んで逃げ出したくなるような・・・。
肯定されても否定されても困るんだということに気付いて、吉井が口を開いたのを見て、耳を塞いで歌でも歌いたい。ああ・・・恥ずかしい。

「んー、胸の病気はね、関係あるような、ないような」
「・・・・はい?」

だけど返ってきた答えはどっちつかずの微妙なラインで、続きを聞かなきゃ判らない。
吉井は俺を日陰の椅子に促して、スタッフから貰った冷たい水を手渡すと、自分も隣に座って話しはじめた。

「この間ね、エマがリハのときにしゃがみこんだの、あのときと同じだったんだ」
「え?」
「肺気胸のとき。多分・・・あれが最初じゃないかな、不調がね、明らかになったときの」
「そうだっけ?」
「うん。まだ理由とかわかんなくて、俺、エマに『しっかりしろよ』って怒鳴ったよね」

そういえばそんなことがあったような。
あの頃、バンド内の空気は良好とはとても言えなくて、吉井は特にピリピリしてた。そうだ、そのうち胸に本当に異常を感じるようになって、吉井に軽く訴えたら、
「だったら煙草減らせよ。自己管理すればいいじゃない」
って更に怒られたっけ。
実際、胸が苦しくて、その時点では殆ど吸ってなかったのに、吉井はそれにも気付いてなかったから、もう言っても無駄だと思って黙ってたんだよね。
今考えれば甘えてる。煙草はもう殆ど吸ってないから、病気かもしれないって正直に言えば良かったんだ。いくら恋人関係にあったからって、何でもかんでも気付いてもらえるって思うほうがどうかしてるのに、俺は無自覚に吉井に依存しきってたんだろう。

「あのとき・・・エマがさ、『言っても無駄』みたいな顔しょっちゅうしてたから、俺、ホント言うと、エマに失望されてるんだって思ってたの。病気のことだなんて思いもしなくてさ、なんていうか、俺に対することで『言っても無駄』って思われてると勝手に確信しててね」
「へ?」
「身体がしんどいとか、なんだかんだ言うのを、俺に失望してやる気を失ってるんだとばっかり思ってて」
「ちょ・・・何を?失望?」
「・・・まぁ、聞いてよ」

吉井は苦笑しながら更に続けた。

「そんなこんなで、喧嘩にもならない喧嘩ばっかりしてたじゃない、あの頃。俺も苛々してて・・・。そこへ、社長から電話が来たわけよ。『エマが入院した』って」
「・・・うん」
「ライブ敢行したらエマの命に関わるんだって聞かされてさ、自分を呪ったよ。最初にエマさん、俺にしんどいってこと言ってくれてたのに、心配すらしなくて『しっかりしろ』って焚きつけたの、俺じゃない?あんたがそうされたら無茶する人だって知ってたのに。あんとき俺がちゃんと心配して病院に連れてっとけば、そんな大ごとにならずに済んだかもしれないのに」
「いや、でもそれは関係ないよ。あそこまで行かなかったのは俺の勝手だったんだし」
「同時に、そんな命に関わるほどの一大事を、社長から聞かされたっつーのがちょっとショックでね。最初に知ってるべきじゃない、立場的に」
「・・・そうか?」
「そうだよ!腹ん中で自分にもエマにも悪態つきながらともかく病院行ったら、別れ話じゃない?やっぱりそこまで嫌われてたのかって確信して・・・」
「ちょっと待て!オマエ、前に俺たち嫌いで別れたんじゃないでしょ、って言わなかった?」

そんなことを聞いた気がする。えっと・・・そうそう、吉井のギタリストに誘われたとき。話が違うじゃないか。

「いや・・・アレは、なんつーか、一種の賭け?」
「か、賭け?」
「思い切ってエマをスタジオに呼んだら来てくれたし、俺の曲好きって言ってくれたし、話あるって誘っても来てくれたし、あれ?俺、もしかしてもう嫌われてないかもって思って」

しれっという吉井に俺は唖然としてしまった。

「じゃ・・・じゃあ、もしかしてあんとき比較的あっさり別れたのも、2年くらい連絡してこなかったのも、嫌われてると思ってたから・・・?」

「うん」

吉井は実にあっさり認めた。
・・・なんか・・・自分の悩み方がアホみたいに思えてきた。
吉井がだんだん平静になっていくのを悲しく見てて、吉井のことばっか考えてた2年間、もしかしてあのとき素直に「会いたいよ」って言ったら、吉井はすぐ帰ってきたって・・・こと?
・・・っと、そうじゃなくてさ。
それと禁煙とどう繋がるんだ?

「だからね、あの徹は踏むまいと思ったの。エマを焚きつけたり、俺が平気な顔してしまったら、あのときと同じ過ちを繰り返すような気がして。あの夏と今年の夏は違うってことを、はっきり形にしたかったの」
「・・・で、なんで禁煙?」
「前はエマが胸を悪くしてるのに、バカスカ煙草吸ってたでしょ?俺」
「・・・はぁ」
「冷たくもしたじゃない。だから今度は煙草もやめて、優しく優しくして、気になったこととかはなんでも吐き出させようと思ったの」

いや、どうだ!とばかりに胸を張られても・・・。

「それにね、禁煙してみたらものすごい役得に気付いたんだ!」
「な、なに?」
「移動するとき、エマちゃんと一緒に禁煙車両に乗れるじゃない!」
「ふ、ふぅん・・・」

咄嗟に俺は、「移動まで一緒になったら、子守の時間が増えるじゃないか」と思いついて、ついさっきこの男と荷物を半分こできるとまで思ったことが不思議になった。


でも。
だけど。

それはほんの一瞬。

あからさまな苦笑とともに水を飲み下して、再び見上げた吉井の顔は、子供っぽい言動とは裏腹にとても大人びて深い表情で俺を見つめていた。

ちょっとドキっとしてしまって視線を逸らしたら、吉井は俺の好きな喉の奥での笑い声を立ててから言った。

「だから、エマ。俺はあんたにベタ惚れだから。あんたさえ愛想をつかさなきゃ、怖いことなんてなんもないの。安心して喧嘩でもなんでもふっかけなさい。俺が太平洋より深くて広い愛で、きちんと買ってあげるから」

額にひとつ、軽いキスをくれて、吉井は立ち上がり、背後で呼んでるスタッフのほうに向かって歩き出した。

俺は暫く地面を見つめ、やがて決心して吉井の背中に大声で言った。

「吉井!ここには来れたけど、二人足りないよ!」

吉井はその場で立ち止まり、やがてゆっくりと振り返って、ニヤっと笑った。



「そりゃ、将来のお楽しみ!」



その場限りの発言かもしれないけど、俺は胸の中があったかく満たされてくのを感じた。
多分、もう穴は開かないよ。

苦しかった嘗ての夏。
だけど、今年の夏は輝いてる。
そういえば、吉井と共に再び歩くきっかけを与えられた、あれも夏の出来事だった。



俺は大きく空をもう一度仰ぐと、深く深呼吸して、夏の青空を胸一杯に吸い込んだ。




end
まさかどこかに続くとは夢にも思ってなかったデジャヴシリーズ。まさかエゾに繋がるとはね(笑)
だけど吉井が「エマを連れてく」とか言ったりもしたし、どうやらエマがバンマスかもしれないとスタッフさんが公表してみたり、なんかエマが空を見てて、吉井が「エマ」って呼びかけたら泣いていたとかいう素敵な実話(というか吉井談)があったりしたので、空気として繋がったな・・・と思って書いてみたんだけど、書いてる途中で忙しくなって数日ほったらかしにしてる間に、公表されるエピソードや写真がどんどんバカップルの様相を呈してきて、どうにもこうにも書き難くなった挙句、最後はちょっと痒い感じになってしまいました(笑)

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