時間
最初にボールペンを落とした。
足元を指先で探ったけど当たらなくて、視線を向けると後ろのほうに転がっていた。
「でさぁ、最後にサビのあとなんだけどさ、1個めと2個めと、エマ、どっちのほうがいい?」
吉井は当然ながらそんなことは気にも留めていなくて、話を続けてる。俺は意見を求められたので、
「んー、1個めかな。録ってきたやつのほうがしっくりくるよ、やっぱり」
慎重に考えて答えたから、顔は吉井のほうに向けていた。
「やっぱそっか・・・。ちょっと迷ったけど、だったらそうしようかな。決定!1個め」
でも、ボールペンを拾う作業も中断するわけにはいかない。吉井が決定を下したから、目の前のスコアに『原曲通り』とすぐ書いとかなきゃいけない。FC限定ライブ用の全体リハーサルは既に終わって、本番が目前になった今日になってから、2人だけでやる曲の打ち合わせをしてるもんだから、気を利かせて拾ってくれるスタッフも帰ってしまってる。スタジオには俺たちの他には誰もいない。
更に吉井に顔を向けたまま、ちょっと無理な体勢で拾おうとして体を捻ったら、ずらした左足がギタースタンドを蹴ってしまった。買ったばかりの愛器がゆらりと前に倒れ行くのが見えて、慌ててそれを庇う・・・つもりで急に上半身を反転したら、パイプ椅子ごと転んでしまった。

ガッシャーン!

右足に蹴り飛ばされた椅子が派手な音を立てて倒れ、吉井が
「エマっ!?」
と叫んでる。
俺はとにかくギターを庇うことしか頭になくて、転びがてら咄嗟に上半身全部でギターを受け止めたから、ボディが見事に腹を強打して、
「いったぁ〜・・・」
と呻いてしまった。
「もう、エマちゃんってば、大丈夫?」
すぐさま駆け寄ってきた吉井に大事なギターを預け、立ち上がるために一旦うつ伏せになった。

ひやっと、頬が冷たくなる。
1本の線状に。

「・・・・・・・・・・・・・」

頬の下には、さっき落としたボールペンがあった。
「エマ、立てる?怪我してない?」
ギターをスタンドに戻してから、吉井の手が俺を抱き起こすべく、肩と腰に当てられた。
普通は手を差し伸べるもんなんだろうけど、いい加減、年季の入った過保護は筋金入りだ。
人前ならそういうのを怒ったり流したりするけど、2人のときに過保護をやられると、俺はいつも素直に甘える。
「怪我はしてない・・・けど」
「けど?」
「顔に書いたぁ〜」
抱き起こされながら吉井に顔を向け、「ほら、ここ」と言うように線の入った頬を指で差すと、吉井がプッと噴出した。
「かっこわる」
「うるさい」
笑いながら俺の頬を拭って、
「とれないなぁ」
と呟き、ペロリと舐めてもう一度拭う。
「取れたよ」
にこっと笑った吉井の顔が、何故かぼやけてるのに気付いた。

・・・・あれ?

椅子を直して座らせてくれてる吉井の腕をちょいちょいと引いた。

「ん?」
「ついでに、コンタクトも落とした」
「はぁ?踏んだ?」
「わかんない。っていうか、あっても今日の使い捨てだから入れらんない」
「眼鏡は?」
「バッグ」

「はいはい」と、吉井が俺のバッグの中を探す。だけどすぐに「あれ?」っていう声が聞こえてきた。

「エマちゃん、エマちゃん。ケースはあるけど、眼鏡入ってないよ?」
「え?無い?」
「今朝はかけてたよねぇ?あ、でも出るときはもうコンタクトにしてたか」
「うん。顔洗ったときに―――――・・・あ、洗面所だ!」
「はー・・・あんたって人は・・・。帰り、俺が運転するよ?いいね?」
「えー」
「えー、じゃないの!できないでしょうが」

吉井の運転は別に危険でもなんでもない慎重派だけど、愛車を任せるのはちょっと勇気がいるんだ。
いや、別に吉井に限らず誰にでも感じる抵抗なんだ。まぁ、英二あたりには意地でも運転させないけどね。

「ちょうど全部決めたとこだし、もう帰ろっか」
「んー・・・今のうちに一回流しときたいけど」
「でも見えないでしょ?」

演奏しときたいのは俺以上に吉井のはずなのに、まずこいつは俺のコンディションを優先する。
バカだな、何年お前のギタリストやってると思ってんだ。

「平気。別に見て弾くもんじゃないし、コードは大体もう頭に入ってるから」
「え?今日はじめてあわせたのに?」
「ははっ、だいぶ前から聞かせてもらってたしね。大丈夫、吉井節だもん。展開は指が覚えてるよ」

お前の癖も、好みもね・・・って、両手を目の前でヒラヒラ振ってやったら、ぼやけた視界の向こうで、吉井が
「ほー・・・」
っと溜息を吐きながら簡単にスタンバイした。
俺は自分の愛器じゃなくて、吉井のアコギを我が物のように構える。この曲にはやっぱりこっちだ。

さらりと合わせて確認。
ん、一回目にしてはいい感じ。

危うい視力でアコギを慎重にスタンドに置いて、
「どうよ?」
と振り返ったら、吉井はまだマイクスタンドの前にいた。

「吉井?」

怪訝に思って近づく。
あれ?俺、なんか間違えたっけ?

だけど吉井は、すぐ前に立った俺に手を伸ばして、両手で大事そうに頬を包んだ。近づいたらきちんと見える表情は、嬉しそうでもあり切なそうでもありという、なんともいえない複雑な色を刷いていた。

「よくも・・・まぁ」
「ん?」
「2ヵ月もアンタなしで生きてたもんだ、俺は」
「はぁ?」

2ヵ月?
ああ、レコーディング期間の2ヵ月ってこと?
ヘンなこと言うなぁ。

「たった2ヵ月で何言ってんの。休止してたときなんか、2年くらい会ってなかったじゃん」
そしてそれと俺の腕前に一体なんの関係が?

「そう、2年!あの2年間・・・いや、一緒にやるまでの3年間!よく死ななかったな」
「死ぬかよ」
思わず可笑しくなって笑い出す。
そんな俺に、吉井はそのまま軽くキスした。

「ううん、それより出会うまでの20年ほども、よくそんな世界で生きてたと思うよ」
「出会ってないのに?」
「アンタがいなけりゃ、この世なんか砂漠と一緒。たまにオアシスがあっても、あとはただの乾いた砂」
「よく言う」

何を言い出すかと思ったら、よくそんな全身がむず痒くなるような歯の浮いた台詞をサラサラ吐けるもんだ。

――――・・・ま、気分はちょっといいけどね。

「じゃあ、出会ってからの20年は?」
いっそのこともっと照れくさくなりたくて、自分の両手で吉井の手を包む。

「そうだなぁ・・・。一年中いろんな種類が咲くお花畑」
「くはは!なんだそれ」
「大雨も降るし雪も積もるし、台風も地震もあるけど、咲いてる花を絶やさないように大事に大事に住んでるよ」
「蹴散らしてくときもあるけどね」
「・・・それはオトコのサガ」

2人して声を上げて笑いながら、ぎゅっと抱き合った。

うん。
俺もね、ちょっとだけ思うよ。

そう思うよ。


帰り支度をして車に乗り込むまで、吉井はずっと俺の手を繋いでいた。
「別に歩けますけど」
「ダメ、危ない。エマちゃん、見えてないときしょっちゅうフラフラしてるもん」
「そんなことないよぉ」
「してるしてる。ガラスにぶつかるし、転ぶし・・・」
「さっき転んだだけだよ」

しかもアレは視力とは関係ない。

「いやいや、顔に線書いちゃうし」
「だからそれは関係ないって」
「サラっと初回の曲弾いちゃうし」
「それは悪いことか?」
「見えてないもんだから至近距離まで近づいてきてニコニコ笑うし」
「別にいいじゃん・・・」

しっかり助手席のドアを開けて乗り込ませるというエスコートまでやってくれてから、慣れた仕草で俺の車の運転席に納まって、ブツブツ言ってる俺の頭を撫でた。

「ホント、俺がいなくてよく生きててくれた」
「酷いなぁ」
「エマの場合、2年どころか、20分でも心配だよ」

まるで人のことを頼りない子供みたいに揶揄いながらキスするから、少しばかり拗ねてしまう。
機嫌よく車を出す、保護者の顔の吉井が悔しい。
言い返そうとして横顔を見つめたら、咄嗟に予定と違う台詞が口をついてしまった。


「そんな俺を2ヶ月も置いてって寂しがらせといたくせに」


今まで仄めかしもしてなかった、しかも自分でも別に考えてた訳でもないことを言ってしまってうろたえ、思わず窓の外に視線を向けると、よく見えてない所為で車の外はまるで本当に危険だらけの無機質な・・・人口の砂漠のように感じられる。
そんな危ない世界には、例え2分間だって居たくない。

馬鹿な思考と馬鹿な台詞に、だけど吉井は返事をしなかった。
俺は調子に乗ってつまらないことを言ってしまったと気付かないわけにはいかなかった。


馬鹿な台詞に対する答えを貰ったのは、20分後、自宅マンションの駐車場に車が停まってからだった。
エンジンを止めて、おもむろに吉井は向き直り、至近距離に顔を近づけてくる。
真剣な、怖い顔。

嫌だ。
忘れてくれよ。
ただの軽口だよ。

「エマ、あんなこと言わないで」
「別に深い意味なんかないってば。ただの買い言葉で、吉井を縛るつもりなんか――――・・・」
「あんなこと、言っちゃいけない」
「解ってるって!ごめ・・・」
「運転中には言わないで」

「・・・・・・・・は?」

妙な論旨にきょとんとしてしまったら、吉井は心底呆れ返ったように天を仰いで・・・なんとそのまま車中で圧し掛かってきた!

「ちょ、吉井、お前何やって・・・」
「エマちゃんね、俺と何年一緒にいるの」
「へ?20年ちょっと?」
「つきあって何年?」
「厳密にはわかんない」
「俺がアンタに惚れたって言ってからは?」
「14・・・5年くらい?」
「そう!そんなに長い時間いっしょにいながら、惚れられてながら、なんでまだ俺のストライクゾーンど真ん中を自覚しないかな。エマちゃんにそんなこと言われたら、1秒で食べちゃいたくなるでしょうが!
やっぱい。事故るかと思った。アンタって子は、ホントに」

発情所構わず。
信じらんない、こんなトコで首筋にキスすんな!そしてボタンを外すな!
俺が20分もシリアスに珍しく自己嫌悪したのは何だったんだ。
耳朶噛みながら囁くの、やめっ!そこは弱いんだから・・・

「も、ここじゃヤダって・・・せめて、部屋・・・」

ほらー、いくら押し返しながら文句言っても、自動的に声が甘ったるくなるんだってー・・・。

吉井は凄い勢いで車から飛び降りると、走ってきて助手席を開け、服も乱れたままの俺を抱き上げようとした。

「抱っこはいらん!」
「だったら走れ!もう5分も我慢できない」
「はぁ?」

訳がわからないまま手を引かれ、物凄い早足でエレベーターまで連れてかれて、昇ってる間にこってりキスされた。
玄関の鍵を閉めたのと、その場で押し倒されたのと、どっちが早かったか・・・。

「くつーっ!」
「煩い。黙りなさい。それどころじゃない」
「どれだけ野獣だよお前。じゃあ脱がせろ」
「言われなくても脱がすわ」
「違う、靴だってばぁ・・・・――――ん・・・」

息つく暇もありはしない。覆い被さってキスしたままなんとか靴だけは脱がしてくれたものの、どうやらベッドや、せめてリビングまで行かせてもらえる余裕は無いみたい。

「吉井・・・年齢詐称してないだろうな。高校生かお前は」
「俺のことこんなにしてるのはエマでしょうが。この口が」
「・・・ふ・・・」
「可愛いことばっか言うからだよ。もうダメ。もうどこにも置いてけない。危なっかしくて、1秒だって心配になる」
「・・・うそつき。また置いてくくせに」
「ほら、またそういうこと言う」
「や・・・!待って、んんっ・・・」
「エマ、俺がいないとこで絶対そんなこと言っちゃダメだよ。絶対他の男の前でそんな声で喋っちゃダメ。サラっと所見の曲合わせちゃダメ。転んでもダメ。他の男は毒だらけだ。アンタのことなんか軽く喰ってしまう」
「女ならいいのかよ」
「・・・・・・・・ダメだ。エマが正直に『寂しかった』って言ってくれたから、俺も正直に『ダメ』って言うよ・・・」
「う、・・・あっ・・・」

『女はいいよー』って、ずっとずっと長いこと言い続けてた吉井がこんなこと言うのは初めてで、俺もなんだか熱に浮かされた気分になって背中に腕を回した。押し付けられた独占欲に満たされる。

「可愛い・・・俺のエマさん。あんたはやっぱり俺のギタリスト。離さない――――」

それが一時の睦言にすぎないことは解ってるけれど。

寝転がって見上げた玄関の、ぼやけた下駄箱の上に、誰かのお土産で貰った、飾り物の砂時計が置いてある。
すっかり砂を落としてしまうと、窪みの上半分が空洞になってしまって満たされることはない。空っぽの反対側を満たすには、アナログ時計やデジタル時計と違って、人の手で反転させてやる必要がある。
だけど砂は必ずとめどなく落ち、永遠に『足らう』ということは無い。

なんだか俺たちの関係によく似てる。

吉井がアメリカで俺と離れて充実していた2ヶ月間、俺は本当はやっぱり寂しかったんだ。
今日、曲を合わせていた間は、丁度お互いの間を砂が流れているところ。俺から吉井に流してた。丁度それが流れきった帰りの車中で、「寂しがらせてた」なんて台詞で、俺が再び性急に砂時計をひっくり返したから、落ちたばっかでまだ仄かに漠煙を上げていた吉井の砂は一気に俺に向かって流れ、独占欲の形で俺を満たしてる。
俺が満ちてる今、無遠慮な独占欲を吐き出した吉井は、もうすぐ自己嫌悪で空洞を感じることになる。

吉井が気付かないうちに、俺はもう一度そっと砂時計を返した。

「知ってる?お前が俺のヴォーカリストなんだよ。・・・だから、お互い様。お前の歌で溺れてたいよ・・・」

その腕と、そのキスも。
俺の。

文句ばっか言ってた口を、睦言と愛撫に使うことにして、大切な喉をペロリと舐めた。

圧し掛かられて、押さえつけられて、どんなに気持ちよくなっても満ち足りることは無い。
SEXは砂時計の中の乱気流。落ちるはずの砂が逆流し、また落ちる。
一瞬ごとに時計を反転させあう行為。
普通の時計のように何の刺激がなくても回り続けるような関係ではない、俺たちは。
ただ、そのかわり、電池という外部のエネルギーで動いている訳でもなく、更に緻密な技巧を施している訳でもないから、ちょっとやそっとじゃ壊れない。
罅が入ったくらいじゃ平気で動く。
俺たちを壊すには、何かとてつもない大きな力で叩きのめすしかない。

それは・・・たぶん。
どっちかの命が尽きる日のことなんだろう。
どんなに頑張っても逃れることのできない、その最後の終焉を迎える日まで、俺たちは砂時計をひっくり返すのさえやめなければいい。
どうせ砂が満ち足りて身動きできなくなる日なんか――――相手に満足して「もういい」と思う日なんか、一生来ないんだから。


今になって、漸く延々と尽きることがなかった吉井への興味を・・・そして、吉井の俺への興味を噛み締められるだけの絆と時間が経過した道程を振り返って、そんなことを思えるようになってきたんだよ。


だから。


「離れてるときも、俺のこと考えててくれてたらいいよ」
「エマを忘れてる瞬間なんか、出会ってから一度もないよ。・・・それにもう、この先1秒だって離さない」

優しい嘘つき。
現実には明日にはまたきっと違うベッドで眠る。
さっきの返事も、本当はほんの少し、何かを誤魔化したんだろうということには気付いてるよ。大丈夫。

でもいいんだ。
俺たちにとって、それは砂時計を反転させるファクターにすぎないんだよ。


「うん。ずっと・・・俺も離さない。吉井は一生俺の世話して生きてろ」
「はは、なんだそれ」

入ってきながらぎゅっと抱きしめて、吉井は屈託なく笑った。



end
7/27のFC限定ライブのアンコールで2人だけでステージに立ったことを弄りたいと思ったけど、私は実際はその曲を聴いていなくて歌詞も知らないのでどうしようもないなぁって思いながらも諦めきれなかった衝動と、転ぶエマを書きたかった衝動と、吉井がエマを甘やかしまくるところと独占欲をむき出しにする台詞を言っちゃう話が書きたかった衝動と、お決まりの妙な精神論が融合した結果の、短い割りになんともテーマを沢山孕んだ話になってしまった。
・・・つまるところ、欲望のままってことだな(謝)

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