小さなもの
吉井和哉は走っていた。
駅から全力疾走を休めることなく。
180センチを超える長身の美丈夫が歩道を疾走するのは、人目を引く上に迷惑である。
道行く人々が何事かと振り返り、また激突されては大変だとばかりに除けるのを、気にすることもなく走っていた。
別に約束の時間に遅れそうな訳でも、危篤の知人に駆けつけるわけでもないが、駆け足は漸く辿りついたマンションに飛び込んでも変わらず、玄関のオートロックを解除する間も、果てはエレベーターの中でさえドタドタと踏み鳴らされたままだった。

エレベーターが開くなり、その足を見慣れた角部屋の前まで進めると、漸く立ち止まったものの、次の瞬間には怒涛のようにチャイムを鳴らす。
鍵は持っているのだが、今日ばかりはどうしてもチャイムを鳴らしたい事情があった。

ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!

どこまで迷惑な男なのだろうか。
だが、隣の部屋から丁度出てきた、50ばかりのご婦人は、「またか」と溜息をつく程度で気にも留めず、その背後を過ぎ去った。

ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!

この小学生のような振る舞いを平気で敢行する男は、信じがたいことに今年40になる。
だが、見ての通り世間の40歳とは行動がかけ離れている上、見た目も充分に若々しい。

インターフォンから、「はぁい」という、柔らかい声が聞こえた。
「エマさんっ!俺、俺っ!」
吉井が息と共に声を弾ませる。
忍び笑いと共に、ドアが開いた。
途端に吉井は突進する。
「たっ・・・ただいまぁっ!」
そしてこの部屋の主を両手で抱きしめようとして―――――・・・固まった。

迎えてくれた人は、当然ながら、最愛の恋人だった。
そこに間違いはない。
だが。
顔を見るなり抱きついて、優しく抱き返してもらえる筈の両腕が、既に先客によって塞がれていたのだ。

「ね・・・・こ?」

そう。
エマの腕はちっちゃな白い仔猫が占領していた。
しかも吉井があまりの勢いで飛び込んできた所為か、警戒して「フーッ!」と毛を逆立てている。
「ちょっと、みるくちゃん、爪立てたら痛いって!吉井、早く閉めて、ドア!」
エマに急かされドアを閉めると、仔猫のみるくちゃんはエマの腕から這い出て、ご丁寧に吉井の腹を一蹴してから飛び降りてキッチンに走っていった。
「あーあ・・・」
と、エマは寂しそうにそれを見送っている。
やっと顔を見れた恋人に注意も向けずに!
吉井はじとっと猫が消えたキッチンを睨んだ。
どっちが動物か解らない警戒を示す吉井に、エマは吹き出して部屋に入るように薦める。
その癖、自分は一緒にリビングに落ち着かず、さっさとキッチンに行ってしまう。飲み物でも持ってくるつもりなのかと思ったが、エマは机の下や棚の隙間を覗きながら「みるくちゃん?」と猫の捜索に余念がない。
吉井は離れたリビングでそれを苛々と眺めながら煙草に火をつけた。

どういうことだ。
長い長い単身赴任の渡米(レコーディングの為の渡米と一般的には言う)がやっと終わって、最愛の恋人は顔を見るなり抱きついてキスしてくれる筈だったのだ。
つい昨日、「帰国したよ」のメールに対して
「寂しかったよ。早く会いたいな、おかえりのキスしたいし」
なんて、他の人が知ったら目を丸くするであろう、可愛い可愛い返事をくれたから、殆ど表敬訪問と化している自宅への帰還もそこそこに、翌日の夕方にはエマの元に文字通り走ってきたというのに、この仕打ちは。

いつまで待ってもエマがリビングに来る気配がないので、吉井は焦れて二口ほど吸っただけの煙草を消してキッチンに足を運んだ。
それでも自分に注意を向けないエマを、背後から抱きしめる。

「エマちゃんってば、猫なんてどうしたの?飼うの?」

思いがけなく2人の間に割り込んできた存在に、吉井の向ける声音は硬い。
それに、できればそれは遠慮したかった。
吉井は猫があまり得意ではない。犬も得意ではない。
猫はひっかくから、犬は吼えるし噛むから、などと言っているが、それ以上に理由がある。
エマが動物好きだからだ。
エマという人は本当に動物を可愛がる。犬だろうが猫だろうが兎だろうが、抱き上げられるサイズのものはにこにこと抱き上げ、それができないサイズのものは見るなり撫でに行く。
それは微笑ましくはあるが、生来動物が得意ではない吉井には、そこに割り込む余地がない。
しかも以前、バンド活動中なんかは、エマと性質を同じくするヒーセと共に興じ、どっかの馬鹿が「まるで夫婦と子供みたい」と形容したのに真剣に腹を立てた過去があった。
だが、吉井がそこに割り込もうと思っても、怯えているのを察知されてか、大概の動物に嫌われてしまう。
ことに警戒心の強い猫は手に負えない。自分も猫を避けるが、猫も吉井を避ける。
ヒーセの家で集まったときに、ヒーセの猫をおっかなびっくり触ってみようとしたら、猫が怒って吉井を引っ掻き、吉井もそれに驚いてダッシュで逃げたことにより、何年か前、ファンクラブの会報で、エマがソマリという猫を抱っこして表紙を撮影することになったとき、どうしても吉井をスタジオに入れないと決まったのを聞いて、そのまま部屋の隅でカビが生えそうなほど落ち込んだものだ。

それを知ってる筈なのに、2人の愛の巣で猫を飼うなんて・・・。

明らかに猫が気に入らないと顔に書いてある吉井に、エマは苦笑した。

「違うよ。友達がね、今朝から家族で旅行に行ってんの。昨夜電話がかかってきてさ、その間預かってほしいって」
吉井の腕の中で胸に頭を預け、エマが事情を説明した。

なるほど。そういうことか。
束の間、新手の嫌がらせかと思ったが、そうではないらしいことに安堵して、吉井はとりあえず、当初の目的を遂行することに決めた。
猫を気にしすぎて今夜をフイにする気はない。

「エマちゃん、それより忘れてることがあるでしょ?」
「え?」
「俺が帰ってきたら何をしたいって言ってたっけ?」

背後から抱いたまま、指の先で唇をちょんちょんと触って囁く。
吉井の予定では、エマはちょっと恥ずかしそうに笑って、「おかえり」と言いながら向きを変えてキスしてくれるはずだった。

のに。

「・・・なんか言ってたっけ?」

――――・・・忘れてるし!あんまりだ。
しかも、まだ「おかえり」すら言ってくれていないことを、この人は自覚しているのだろうか?

思わずジト目で睨んでしまうが、背後にいるので気付かれない。
その上、エマは
「あ、みるくちゃん!冷蔵庫の上は反則だよー」
と、さっさと腕から逃れてしまった。
冷蔵庫から猫が飛び降りる。
「みるくちゃん、おなかすいた?・・・ごはんまだあるなぁ。あ、お水がないね」
流しの前で立つエマに、猫は何かを期待してか寄ってくる。
「エマさん、俺も喉渇い・・・」
「ちょっと待ってね。今お水入れてあげるからねー」
吉井の訴えは1メートルほど手前で跳ね返されたらしく、エマはいそいそとプラスチックの皿に水を汲んでいる。
仕方がないから吉井は自分で冷蔵庫からミネラルウォーターを出して飲んだ。

にゃーん、と高い声で鳴いて、エマの足元に摺り寄る姿が恨めしい。
それだけのことでエマが
「可愛い!ね?可愛いよね?」
と喜ぶから。

にゃんにゃん言うだけで可愛いなら、俺が1万回でも鳴いてやるわ!
そう思って、試しに
「にゃん!」
と鳴いてみたが、「可愛い」と言ってくれるどころか、100歩譲って「気持ち悪い」とけなしてくれるどころか、エマはそんな吉井の必死の鳴き声を、聞いてすらいなかった。
再度チャレンジして
「わん」
と鳴いてみたが、エマは
「あ、みるくちゃん、これで遊ぶ〜?」
と、くたびれた古いベルトを引っ張り出してきて猫の気を引くのに夢中になっている。

すっかり拗ねて一人寂しくリビングに戻り、バカスカ煙草を吸う吉井を尻目に、エマは結局、猫が疲れて眠ってしまうまでじゃらしたり写真を撮ったりして時を過ごした。

吉井が、俺の写真なんか1枚たりとも撮ってくれないくせに!と拗ねてる間に、部屋に到着してから、1時間が過ぎてしまった。
はや、夏日が暮れてしまっている。

部屋の隅でクッションに丸まった猫の背中を愛しげに撫でてから、漸くエマは吉井の隣に来た。

「みるくちゃんね、午前中は警戒しちゃって大変だったんだよ。大人しい子のはずなのに、やっぱり飼い主がいなくて寂しいんだね」

猫も寂しかったかもしれないが、吉井はもっと寂しかった。
みるくちゃんは所詮、まだ1日しか飼い主と離れていないのである。でも吉井は1ヶ月以上もエマと離れていたのだ。
帰ってきたら一番に「おかえり!会いたかったよ。寂しかった?」と抱きしめて撫でてキスしてくれるのが飼い主の義務というものではないか。そして「もう一人でどっか行っちゃダメだからね」と、優しく叱ってくれるのが正しい飼い主の姿だ。

しょーもないことで嫉妬するあまり、吉井はすっかり自分がペットモードになっていた。
冷静な人は「猫と同列でいいのか」と呆れるだろうが、今、まさに吉井は猫以下なのである。

「吉井?」

隣に座ったのに、そっぽを向いてしまう吉井を訝しんで、エマが顔を覗き込んできた。
が、吉井はますます意地になって身体ごと壁のほうを向いてしまう。

「ねぇ、吉井ってば」

いいんだ。
どうせエマはちっちゃい猫が好きなんだ。
どうせ俺なんか使い古しの大きい犬さ・・・。

愛しい人に会えなかったのを我慢して仕事を終えて帰国し、全力疾走で走ってきたのにこの仕打ち。
今日の吉井の拗ね方は、相当に気合が入っている。

エマは暫く
「吉井?ねぇ、吉井ってば。おーい」
と呼びかけてみたり、
「吉井くん?エッチする?」
と餌をちらつかせてみたりしていたが、その程度では吉井の機嫌は直らなかった。

ふんっ!エッチなど!
したいが、・・・相当したいが、そうじゃないんだ。
俺が今ほしいのは、機嫌取りのエッチじゃなくて
「おかえり」

「寂しかったよ」
の言葉なんだ。
そして優しい抱っことキスだ。
それから長い夜離れを取り戻すように情熱的にベッドに・・・って、結局エッチに辿りついたけど、そうじゃない。そのプロセスが欲しいんだ。

吉井和哉は、今年40とは思えない青春の真っ只中で苦悩していた。
エマも同じく年齢をどこかで忘れてしまったような男ではあるが、やがて呼びかけるのを諦めて手元の雑誌を捲りだした分、吉井よりは冷静だ。それは彼が2歳年上の所為なのか、吉井が凄すぎるのか・・・恐らく後者だろう。

エマは、吉井がちょっとした意地悪くらいで、自分を嫌いになったりすることは有り得ないのを判っていた。
だから平気だし、この程度拗ねたくらいで甘い顔はしない。
なんせ、これは報復なのだから。
昨日、帰国するなり「帰国したよ」のメールをしてきたのは上出来としても、エマが「寂しかったよ。早く会いたいな、おかえりのキスしたいし」なんていう、自分でも可愛いと思う返事を送ってやったのにも関わらず、吉井はそのあと「明日行くからね」とメールしてきただけだったのだ。

自宅に帰らなければいけなかったのは仕方ないにせよ、電話の1本くらいかけてきたらどうなんだ。寂しかったのは自分だけじゃないんだぞ。それを「明日行くからね」なんていう二番煎じめいた扱いはどうなんだ。そこらの愛人と一緒にすんな馬鹿!そこにせめて「早く会いたいよ」の一言を書き添えられないか?それとも「行く」ではなく「帰る」と表現してくれてたら、俺の気持ちも和んだのに。

と、エマもまた拗ねていた。

そう。
猫が部屋にいるのもわざと。
それでもやっと会えるから、と、ドタキャンして出かけるというような極端な行動には出なかったものの、素知らぬ顔をして吉井に「おかえり」を言う気にはなれずに、友達から猫を強奪してきた。元々猫が好きだし、たまに、吉井がいなくて寂しい夜、可愛い猫でも傍にいてくれたらな・・・と思うことがあったから、この計画をすぐに思いついたのだ。

前言撤回。
エマもまだまだ青春真っ只中である。

お互いに焦れ焦れしたまま、完全に日が暮れて、夜になった。
エマが灯りをつけに立ち上がる。
いい加減、奇妙な気まずさが苦しくなってきた吉井は、それを目で追った。
エマは視線を充分意識しながらソファに戻り、また雑誌を手に取る。
吉井がそろりと手をだして、エマの膝に触れた。今度は目を逸らしている。
エマは吉井を払い退けることもなく、涼しい顔でページを捲った。
吉井は更に、上体を傾けて、エマの顔色を伺いながら、次第に倒れこんだ。
エマは何も言わず、身体をずらして、吉井から離れた。
避けられたのかと傷ついた吉井だったが、相変わらず雑誌を眺めたままのエマの片手が、トントンと自分の膝を叩いているので、ぱっと顔を輝かせた。
吉井のためのスペースを空けてくれたのだ。

膝枕!

吉井は突進して、その膝に頭を乗せる。
あまりに勢いがついていたので、ソファがドカッと音を立てた。

無言のままだったが、束の間訪れた吉井の天国は、その音によって破られた。

音に驚いた猫が起きたのだ。
しかもご丁寧に飛び上がって。

その様に、エマの意識は一瞬でまたしても猫に奪われた。

「みるくちゃん、起きちゃったの?」

優しく呼びかけて、吉井の頭を膝に乗せたまま、手を差し出して猫を呼び寄せている。
来るな、来るなという吉井の願いも虚しく、みるくちゃんはエマの手に引き寄せられ、フンフンと匂いを嗅いでいる。そしてエマの手に頭を摺り寄せ、自ら撫でてもらう格好を取った。

あ・・・厚かましいヤツめ!
今は俺が抱っこしてもらってるんだ。これから撫でてもらう筈だったんだ!
それを・・・それを!

吉井の怒りはエマに伝わることなく、更にエマが追い討ちの決定打を放った。

「みるくちゃん、寝ちゃってて寂しかったよー。おかえり♪」




おかえり?
おはよう、だろう?
寂しかった?
それは・・・・・・俺が貰う台詞だっ!




勿論、エマはわざとその言葉を選んだのだ。吉井が何を欲しがってたかなんて、確認しなくても解っていたから。
吉井にはそんなエマの意図は解らず、ショックが脳天を突き上げた。
やおら起き上がって、がしっとエマの両肩を掴み、ぱくぱくと口を戦慄かせる。
エマは、きっと吉井が「俺と猫とどっちが大事なんだ」と言い出すと思って、身構えた。
そうしたら「どうかなぁ?誰かさんの行動次第?」とでも言って、怪訝になった吉井に昨日の自分の心境を教えて、反省してもらうつもりだ。

吉井がついに叫んだ。

「ペ・・・ペットは古いほうを余計に可愛がらないと傷つくんだぞ!」

「・・・へ?」

絶叫に、エマが目を丸くする。

ペットが?古いほう?
古いって、今ここには猫しかいないし、そもそも俺のペットじゃないし・・・。

目をぱちくりさせたまま吉井を見れば、なんと嫉妬の所為か涙目になっている。

と、いうことは?
吉井が言う「古いペット」とは、他に考える余地もなく、吉井のことではないか?

「・・・・・・・ぷっ・・・」
堪えきれずに、エマは吹き出した。
「ははっ・・・あはははっ!」

寂しがりのヤキモチ妬きの吉井だから、拗ねることまでは想像していたが、自分と猫を同列に置いて、古いペットとして対等に嫉妬するとは流石に想像していなかった。

「お前って、ホントに・・・もう!」

大笑いしながら、ぎゅっと吉井に抱きついた。
吉井はまだ少し拗ねたまま、「だって」「エマさんが」「みるくみるくって」などとブツブツ言いながら、それでもぎゅっと抱き返した。・・・いや、正確にはしがみついた。

みるくが足元で「にゃーん」と鳴いたけど、さっきまでその一挙一動を追い続けていたエマの視線は、今はそちらに向かうことなく、拗ねきった大きな『吉井犬』を「お前が一番大事だよ」「かわいいね」などと、あやしていた。


ちっちゃなことで怒ったけれど、吉井の気持ちが一生懸命エマに向いていることが解ったから。
なんせ、吉井はエマをご主人様だと思っている。
昨日は「俺は二の次か」と思い込んでいたけれど、これ以上の崇拝がどこにある?
そう思うと、もうこれ以上怒る気にはなれず、エマはやっと素直に吉井に甘えた。

まだ少し猫に警戒している吉井だったが、そのエマの動作で、どうやら本当に猫に夢中で自分を抛っておいたのではなく、不機嫌が齎した意地悪だったということを察知して、徹底的に甘やかすつもりで膝の上に抱き上げた。

これではどっちがペットなのか、傍目には解らないけれど、これがこの2人の正しい主従関係なのだ。

「エマちゃん・・・俺が帰ったら何したいって言ったっけ?」
おでこをくっつけて囁くと、エマは少し笑って、漸くその言葉とキスをくれた。



「おかえり」



みるくがいつの間にかキッチンのほうに歩いて行ったのは、お腹が空いたからかもしれないけれど、もしかしたら
「やってられねぇよ」
と、思ったからかもしれない。




end
ソロ3rdアルバムのレコーディングから吉井が帰ってきて、こうなったら・・・という話。
吉井にはこういう盛大な拗ねっぷりが似合う。エマにはこういうくだらない意地悪が似合う。
ところで、ここに出てくる「みるくちゃん」は、えまま宅にいるキジトラの巨猫がモデル・・・だと言ったら、「どこが仔猫で、どこが白くて、どこが小さいねん!」と、まみやに張り倒されそうだから、違いますと言っておこう(笑)

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