うっかり



根岸はご機嫌でエマをからかった。
メンバー紹介で、吉井にドラマーの弟と名前を呼び間違えられて、アドリブでドラムを叩く真似をしたエマがあまりにも可愛かったからだ。
ステージを降りながら、エマはそんな根岸に笑っていた。

今日こそ・・・いけるのではないか。

既に何度と無く失敗に終わっているというのに、思わず期待が胸を高鳴らせる。
名前を間違えるなんて、やってはいけないことだ。
まして、他の人間じゃない。エマを呼び間違えるなんてどうかしている。有り得ない。
エマがそういうちっちゃいことで怒る男だということは、既に根岸も知るところである。
大きいことより、むしろちっちゃいことで怒るのだ。
このぶんなら、今夜の打ち上げではエマは吉井を徹底無視。
一番効果のある方法で嫌がらせをするだろう。

それはつまり、根岸にべったり懐く、ということだ。
からかったのは、ほくそ笑むのを誤魔化したせいでもある。

だが、この直後、根岸は自分の認識が、まだまだ甘かったのを思い知ることになるのだった。


眩いステージから、袖の暗がりに降りて、
「今夜の店ってどこだったっけ?」
なんて、嬉々として話しかけたら、エマは返事をしなかった。

まだ客席からは歓声が聞こえている。
スタッフたちも「お疲れ様でーす」と、口々に声をかけているので、聞こえなかったのかと思って、隣を歩くエマの顔を覗きこんで、根岸はぎょっとして一歩後退った。

その表情に、さっきまでの笑みは無い。
それどころか、薄暗がりの中でもはっきりと判るほど、でかでかと『不機嫌』と書いてある。
にっこり笑って相手を斬る、なんていう、恐ろしくも可愛い怒り方ではない。全身から青白いオーラを放っているかのようだ。

怖いものを見たような気分になって、思わず根岸は足を速めた。
すると、その進行方向になにやら障害物があり、咄嗟に躓いて尻餅をついてしまった。
「何だよ、こんなとこに・・・」
文句を言いながら障害物を睨み、更に驚愕する。
がっくりと落ちた顎は、暫く戻りそうにない。

――――・・・そこには、誰あろう、吉井和哉が深々と土下座している姿があった。

エマはそんな吉井に一瞥をくれると、ものすごく醒めた声で
「邪魔」
とだけ言った。
吉井が顔を上げる。

「エ・・・、エマっ!」
「どけ」
「ごめんなさいっ!」
「・・・・・・・・・どいてくんないかなぁ?・・・ロビン」

途端に吉井は今にも泣きそうな顔になった。そんな吉井を軽く足蹴にして、エマは追い越していく。
イヌコロのように吉井は立ち上がり、その後を追った。
サポートメンバー用の楽屋のドアを開けようとするエマの手をとって、
「こちらへどうぞ!」
と、自分の楽屋に引っ張っていこうとする。
「馬鹿?」
だがエマの反応は冷たい。
さっさとドアを潜っていって、吉井の鼻先でバタン!と派手な音を立てて閉めた。

「エマちゃーん、エマーっ!エマさまーっ」
既にその姿は、とても40前の男とは思えない。まして、さっきまでステージライトを浴びて颯爽と君臨していたようには、とても。
根岸は勝利を予感して、
「諦めたら?」
と声をかけ、吉井をどかして自分も楽屋に入った。

そして・・・返す返すも自分の認識の甘さを確信することになるのだ。

まだエマを呼び続けている吉井の声をBGMに、エマは自分の鞄からタオルを取り出して、顔の汗を拭いていた。
「大変なことになってるねぇ」
と、バーニーはエマとドアを交互に見ながら、どこまでも可笑しそうに笑っている。
はっきりいって些細なことだ。大問題というわけではない。心配に値するような事件でもないのだから、傍観者にとっては娯楽なのだ。
やがてエマは、すっきりしたのか、タオルから顔を離した。
そして・・・根岸はまたしても見てしまったのだ。
エマが楽しそうににっこり笑ってるのを。

が、直後に頬の筋肉を引き締めて、険しい表情を作る。
ドアの越しに、
「エマさーんっ!エマちゃーん!」
「吉井さん、いい加減に楽屋に入ってください」
「エマぁぁぁぁぁっ」
「吉井さんってば、みんな困ってますから。せめて立ってくださいよ。でかいんだから」
「えーまーぁぁぁっ」
「移動できないじゃないですかっ!」
という、なんとも情けない遣り取りが響いている。

それをじっと見つめ、エマは着替えもしないまま、素早い動作で荷物を纏めた。
周囲がどうするのかと思っていたら、「ほんと、馬鹿なんだから」と呟きつつ、鞄を持って楽屋を出た。
再び閉められたドアの向こうから、
「エマっ!」
「ごめんね、すぐ連れてくから」
「お願いしますよ、菊地さん」
「エマちゃぁん」
「ほら行くよ!馬鹿、抱きつくなってば」
という会話が聞こえ、サポートメンバーの楽屋はどっと沸いた。
ただ一人、苦い顔をしている根岸に、
「はい、ネギさん、今日も負け」
と、バーニーは楽しそうである。絶対にあの2人に割り込むのは無理なんだから、いい加減に諦めたらいいのに、とは思うものの口には出さない。それは彼の優しさでもあるが、
(三角関係・・・楽しすぎる。この年になってこれで楽しめるとは思わなかった)
という、娯楽の助長でもあった。


隣の楽屋では、またしても吉井が土下座の姿をとっていた。
エマは笑いを堪えながら、吉井に背を向けて着替えている。おかげで、一見激怒しているかのように眉を顰めて。
「ごめんなさい」
「・・・・・・・・・・・・」
「つい、うっかり間違えました」
「・・・んー・・・いいけど」
やっとエマが返事をしたので、吉井は嬉々として顔を上げた。
「ほんと?許してくれる?」
直後に立ち上がって背後から抱きつくのだから、現金なものだ。
エマはちょっと機嫌を良くしたが、面白いのでもっとからかうことにした。

「そんなに英二が良かったら、こういうことも英二にしたら?」
「・・・ばっ・・・!馬鹿なっ!冗談でも言わないでよ」
「えー?だって吉井がうっかり呼ぶのは英二なんでしょ?お前ら仲いいし」
「仲良しは俺たちじゃない!」
「そうかなぁ?気のせいじゃない?」
「エマってば」

ぎゅうぎゅうと抱きしめながら、なんとか誤解を解こうとする吉井に、ついにエマは噴出した。

「吉井」
「はい」
「戻ってる」
「・・・え?」
「呼び方」
「・・・・・・・・・・・あ」

やっと吉井はそれに気付いて、軽く口を押さえた。

「全く、お前が言い出したのに」

それは、このツアー開始前に2人で決めたことだった。
2人でエマのマンションでご飯を食べていたときのことだ。
今年から『吉井和哉』の名前で活動することにしたのを機に、エマも『菊地英昭』の名前で活動しないか?というのは、吉井から提案したこと。
本当は名前なんかどっちでもいいと思ってるエマだったが、最近、なんでもお揃いにしたがる吉井の意を汲んで、それに乗ってやることにした。
ただ、エマは普段から吉井を苗字で呼んでいたが、吉井にとって、あまりにも長い間エマは『エマ』だったので、呼び慣れるということがない。
「ほら、呼んでみ?」
と、提案された直後に強請ってみたら、吉井は何故かすっと居住まいを正して正座した。
つられてエマも正座する。
吉井は、そんなエマの目をじっと見つめながら、ひとつ咳払いをして
「・・・ひ・・・英昭」
と呼んだ。
「え?そっち?」
あまりにも呼ばれ慣れない語調に、エマは思わず真っ赤になった。吉井も負けず劣らず真っ赤である。

「そっちって?」
「菊地、じゃなくて?」
「そんなの、アニーとかぶるじゃん」
「あ、そっか」

最初は2人して照れてしまったが、そこはもう、天下のバカップルのことだ。
すぐに雰囲気をそっちに持っていくことにかけては、吉井は天才的と言えた。
隣に座りなおし、エマの髪を耳にかけて口を寄せると、自他共に認めるエロティックヴォイスで、もう一度呼びかけた。

「・・・英昭」
「馬鹿。恥ずかしい」
「英昭も呼んでみて。俺の下の名前」
「・・・かず・・・や?」
「もっと。呼んで?英昭・・・」
「和哉」

―――――・・・とまぁ、そんな、ほっぺたがむず痒くなるような会話が交わされたのは、1ヶ月ちょっと前のことである。

ただ、ツアーリハーサル開始の際、公衆の面前でも「英昭」と呼んだので、シータカさんと柴田さんはともかく、ネギとバーニー、そして社長やマネージャーを始め、以前からいるスタッフたちは揃って目を丸くした。
流石にエマは照れて、「本名呼びするなら、みんなの前ではせめて『菊地』にして」と懇願した。

以来、あんまり呼び方は定まっていない。
裏を返せば、あのとき、「英昭」と呼ぶのをエマが許しておけば、今となってはもうそれが定着していただろうに、あまりにも照れて拒否し続けるから、周囲もいつまでも意識してしまうのだ。
はっきり言って、打ち合わせの場で
「えっと、じゃあ『FINAL COUNTDOWN』は、エマ・・・じゃなくて、菊地が・・・」
とか
「このコードだけど、英昭、・・・っと、エマ」
などとやられては、周囲はこっぱずかしくてたまらない。
大森社長は密かに「こいつら一体、いつまでお互いが新鮮なんだろう?」と感心していた。
ツアー名が『MY FOOLISH HEART』とはよく言ったものだ、と誰もが思っていたが、最後の理性で口に出していなかった。
結局、あまりにも周りが辟易するので、ステージ以外での呼び名は「吉井」と「エマ」に戻ったのだが。

だがその実、バカップルは更に上手を行っていたのである。
何故エマがそこまで拒絶することになったのかという経緯だ。
最近2人の間では、いちゃつくときは下の名前で呼ぶ、というのがブームだった。
名前で呼んだら、「いい?」というサイン。呼び返したら「いいよ」という返事だという、今時有り得ないようなルールを作っていた。
おかげで、特にエマは余計に名前を意識するようになってしまって、人前で「英昭」と呼ばれるのを怒ってしまうのだ。

そして、それが今夜のうっかりを呼んでしまったと言ってもいい。

ライブ中で興奮状態にあった吉井は、メンバー紹介で「菊地・・・」まで言って一瞬混乱してしまったのだ。
人前で英昭と呼んだら怒られるというのがインプリンティングされてしまっていて、咄嗟に『菊地』に続くそれ以外の馴染みのいい言葉を繋げてしまったら『菊地英二』になったのである。
エマは最初、それが冗談だと思ったのだが、素で間違えたと吉井が言った所為で、逆に名前を意識してしまって、思わず必要以上に怒ってしまったのだ。


「ご機嫌なおしてよ、英昭」
「やだ。屈辱だもん」
「屈辱って・・・そこまで怒んなくても・・・」
「だって、昔からのお客さんもいっぱいいるのに、吉井がこともあろうに俺の名前を間違えたんだよ?」
「うー・・・」
「絶対!絶対もう、吉井にとって俺はどうでもいいと思われてる!屈辱!」
「そ・・・・それはきっと誰も思ってないと思うけど・・・」
「思われてる。間違いなく」
「・・・・あ」
「何?」
「そうだ。英昭こそ、今また吉井って呼んだでしょ。抱っこしてるのに」
「あ」
「ちゃんと呼ばないからおあいこ。ね?」
「――――-・・・和哉・・・」


楽屋に篭って30分。
いつまで経っても着替えようとしない吉井とエマを急かしたいのだが、漏れてくる会話があんまりで、声をかけられないマネージャーが、ドアの前で全身に鳥肌を立てていた。
その後ろで、中の様子が気になって仕方ない根岸と、興味本位のバーニーも鳥肌をたてていた。

念のために言っておこう。
彼らは決して気持ち悪がっているのではない。
むず痒いのだ。

「ま・・・まぁ、そのうち、ね?だんだん2人とも『吉井』『エマ』って呼ぶ回数が増えてきてるんだから、そのうち戻るよ、すっかり」

バーニーがフォローに回った。

だが、マネージャーは知っていた。
ライブ中のキスも、それ以上の行為も、最初は悪ノリだったのだ。
それがエンドレスで10年以上続いた実績を踏まえ、彼らの行動は常にエスカレートするということを。


やがて出発を1時間以上遅らせて楽屋から出てきた二人は、それはそれはつやつやした顔色をしていたという。
一体エマのどこが怒っていたというのか、と。
誰もがつっこみたかった、仙台の夜は静かに更けていった。



end



2/11ZEPP仙台のメンバー紹介時の、エマの名前呼び間違え事件から発展させてみました。
新鮮なネタは新鮮なうちに。この手の捻りのない話は、鮮度が命でございます。
あんなネタ振りみたいなことしたら、こういうアホにこういうの書かれるのは目に見えてたでしょうに、吉井くん。最近の「菊地英昭」紹介に、どうしても彼の言い慣れなさが見えて、それはそれで可笑しい。
今回のツアーは、ホントネタに事欠かないので、感謝しておりますよ(笑)

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