フルーツ
翌日、ライブが終わってから、また少し熱が上がった。
でも熱が上がったのが、風邪の所為なのか他に原因がある所為なのかははっきりしない。
何しろ頭の中はそれ以上に大混乱を起こしていた。

昨日、エマさんが俺の看病をしてくれて、いつの間にか寝てしまったらしく、目が醒めたらもう夜の10時を過ぎていた。
眠りを破ったのは内線電話。
ぼんやりと目を開けたら、エマさんが応対してた。
どうやらマネージャーあたりかららしく、食事はルームサービスを取るとか、そんな話をしてたと思う。

思うっていうのは、俺の頭が、会話の内容以上にエマの雰囲気に注意を向けてしまっていたからだ。
隣のベッドに腰掛けたエマさんは自分も眠ってたらしく、ぼんやりした口調で話しながら、乱れた髪を手櫛で梳いていた。
俺を起こさないように気遣ってか、反対側を向いているのでここからは背中が見える。
エマさんの部屋着は俺のスウェットみたいに首が詰まってない、だぶっとした長袖のTシャツで、髪を梳いてる所為で、白い項が露になってた。

「ん、吉井?よく寝てる」

やっと会話が耳に飛び込んできたのは、俺の名前が漏れたからだ。
俺は咄嗟に狸寝入りをしてしまった。
・・・何故だ?

「熱?」

そんな俺に気付かないエマさんがこっちに近付いてきて、額にぺとっと掌を当てた。
そして
「んー?」
と唸ってる。
俺はその時点で動揺してしまってたんだけど、更にまさかの追い討ちが来た。

目を閉じた向こうで、なんか暗くなったな、と思った瞬間、ふわっと柔らかい感触が頬のあたりをくすぐった。
次いで、息遣い。
そしておでこに―――――・・・。

思わず目を開けたら、エマさんは自分の額を俺の額にくっつけて熱を測っていた。

なっ・・・
なっ・・・
一体何を・・・!

すぐに離れたエマさんが
「下がったみたい」
と平然と言っているのを横目に、俺は浜に打ち上げられたマグロのように硬直してしまっていた。


その後2人でルームサービスの雑炊を食べて、エマが自室に引き取って行ったのが深夜0時。
一人になってからもエマさんの所業が脳裏から離れずに眠れなかったのは言うまでもない。


・・・まさかと思うけど・・・俺、エマさんに懸想してるってことはないよな?
ちらっとそういう疑念が湧いたのは、今朝になってからだった。
でも、今回もあんまり深く考えることはしないでおいた。

というのも、ロビーで顔を合わせたエマさんは俺の動揺なんか全く微塵も気にすることなく、普通に俺を気遣い、普通にリハをこなし、普通にライブをしたからだ。

俺一人がそんなエマさんを目で追ったまま――――・・・気がついたら、再び熱が出ていたって具合。


まだまだツアーは続くから、無理は馬鹿のすることだと思って、打ち上げをパスしてホテルに戻った。
昨日思いがけなくエマさんが看病してくれたし、もしかしたら「俺も一緒に」とか言ってくれるんじゃないか、と、少し甘えた期待をしたけど、流石にそうはならずに一人で帰った。

それは当たり前のことなのに、何故だか今日は「寂しい」と思ってしまう。

今頃エマさんはみんなで楽しく飲みながら、俺のことなんか思い出しもせずに笑ってるに違いないと思ったら、自分が世界中で誰にも気に留められてないような気がして、泣きたい気分でベッドに潜り込んだ。

別にエマさんには俺についてなきゃいけない理由はない。そもそもこの間、エマさんが倒れた日だって俺は打ち上げに出たし、そこに罪悪感なんかなかった。始終エマさんのことが気になってたから、楽しめなくて早めに切り上げたけど、それも俺の勝手だし、別にそのあとエマさんを見舞ったとかそういうこともない。

なのに。

寂しい。

寂しい。
寂しい。

理解不能な自分の思考回路を持て余しつつ、30分ほどその場でジタバタしていたが、やがて名案を思いついた。

・・・・そうだ!

今つきあってる彼女の電話番号を思い出しながらプッシュする。
何で今の今まで思い出さなかったんだろう。
そうだよ、彼女を思い出さなかったからいけないんだ。
ツアー中で女っ気がないから、妙なことを考えてしまうんだな。
もう夜中だけど、別に気にしない。俺には今、優しくしてくれる人間が必要だ。

5回ほどのコールで繋がった。

『・・・もしもし?』
「俺」
『どうしたの?もうお仕事終わったの?』
「うん。・・・風邪ひいちゃって」
『え?大丈夫なの?』
「まぁ、別に。たいしたことないよ」
『明日・・・そっち行こうか?私』

期待どおりの優しい声。
彼女がここにいてくれたら寂しくなんかないだろうか。
そう思いながらも、俺の口は勝手に返事してた。

「いや、いいよ」

あれ?
俺はなんで拒否してるんだろう。
優しくしてもらいたいと思ってたのに。

『看病くらいできるよ?』
「・・・看病?」

看病。
その言葉に、思い出す人は今、一人しかいない。
俺は急に苛立って、悪いとは思いながらも冷たい声で言い放ってしまった。

「来なくていい。忙しいし、相手できないし。ファンに見つかったら困るし」
『―――――・・・そう』

結局、癒されることもなく、無意味に彼女を傷つけて電話を切った。
電話を切り際、多分『困るし』の一言の所為で、彼女の声はちょっと怒ってた。
何をしてるんだろう、俺。
自己嫌悪でますます落ち込む。そのうち、それもこれもエマさんが一緒に帰ってくれなかった所為だ、なんて思い始めて、情けなさに泣けてきた。


それからどのくらい眠っただろう?
喉の渇きで目を覚ましたら、まだ夜中だった。
水を取りに行こうと思って起き上がったら、サイドテーブルにスポーツドリンクのペットボトルと、蜜柑が1個置いてあるのに気がついた。

帰ってきたときにはこんなもの無かったと思うんだけど・・・?

怪訝に思いながらもスポーツドリンクを飲み下す。
冷蔵庫から出したての冷たいのより、少しぬるくなってるのが、弱った体には飲みやすい。
マネージャーか誰かが気を利かせてくれたのかな。
ついでに一服したくて、蜜柑を片手にリビングチェアに座って、煙草に火をつけた。
深く紫煙を吸い込み、夕方までの不味さがないのに体調の回復を実感しつつ、灰を落とそうとして思いがけないものを見つけた。
留守の間にルームメイクが入った筈なのに、灰皿に1本だけ吸殻が残ってる。

これは・・・ジタンブロンド?

周囲でジタンを吸ってるヤツは一人しかいない。

咄嗟に蜜柑とペットボトルを凝視した。
それじゃ、この計らいはエマさんの・・・?
しかも煙草吸ってったってことは、ここで暫く様子を見ててくれたってこと?

心臓が大きくドクンと音を立てて跳ね上がり、俺は慌てて立ち上がると、コネクトで仕切られただけの、隣の部屋に繋がるドアをそっと開けた。鍵はかかってなかった。


灯りをつけたまま、エマさんは寝てた。
だけどシーツすらも被っていなければ、部屋着も着ていない。
シャワーを浴びてそのまま寝ちゃったんだろう、バスローブのままでベッドに転がってた。

ああ、もう。
自分だって病み上がりの癖に、この人は。

布団に入れてあげようと思って近付いた。
サイドテーブルに、俺が持ってるのと同じ蜜柑が、剥いて半分だけ食べて残してある。
そこから一房剥がして口に含んだ。

少し季節が早いらしく、まだ酸っぱい。

俺はやっぱりエマさんの仕業だったか、と思いながらも、持ってきてくれたのが『蜜柑』っていう可愛らしさに笑ってしまった。
俺に笑われてるのにも気付かず、エマさんはよく眠ってる。
長く広がった髪の上で、両手を赤ちゃんみたいに軽く握ってて、寝顔は穏やかにあどけない。
伏せた長い睫毛がほの暗い明かりの下で濃く影を落とし、軽く開いた唇の隙間から、僅かに八重歯が覗いてる。
ステージではキメまくってる人だけど、それでも時折見え隠れする無防備さが今は全開になってて、俺は少し微笑んで首の下に手を差し入れた。
抱き起こすために顔を近付けたら、微かな蜜柑の匂いと一緒にぷんとアルコールが漂った。
そういやこの人、飲んできたんだったなと思いながら、さっさとベッドに放り込もうと思った・・・のに。
ふと視線を下げてしまった所為で、俺の動きは止まることになる。

寝乱れて大きく開いたバスローブから、白くて薄い胸が寝息と共に上下していた。
そこにポツンと色づいている、小さな乳首に目が釘付けになった。

・・・・・・・・・・・ピンク・・・。

着替えのときはおろか、ステージでも見慣れてる筈なのに、、こうしてベッドで抱きかかえてるシチュエーションでそれを見てしまうと、なんだか落ち着かない気分になってしまう。
俺の乳首は、見た人間が「サイテー!イメージ通り!」と爆笑してしまうほど黒い。元々色白でメラニン色素とそんなに仲が良い体質ではないのに、乳首だけ異常に黒いから益々サイテー感が強い。
それに比べると、エマさんのピンクの乳首は何だか柔らかそうで、この人がオンナにかけて百戦錬磨というのはデマなんじゃねぇかと思うくらい穢れなく見えてしまう。
無意識のうちに、俺はその胸元に手を差し入れていた。
指先で触れるとやっぱり柔らかい。ライブのときに触って勃ってるのは興奮してるからなんだな、って思ったら、硬く尖らせたくなって、人差し指と親指で軽く摘んでみた。
ぴくっと腕の中のエマさんが震えて、唇がさっきより少し大きく開いた。
俺は興奮が突き上げてくるのと同時に、「ヤバイ!」と身を竦め、手を離そうとしたが、
「・・・よしい?」
それより先にエマさんが目を醒ましてしまった。
ぽやん、と俺を見上げてる。
「吉井、熱は?」
「え?・・・あ・・・」
どう言い繕おうかと冷や汗をかいたが、寝惚けてるエマさんは俺の行為には気付いていないらしい。
「下がった・・・と、思う」
若干しどろもどろになりながら答えると、エマさんはニコっと笑った。
「みかん、食べた?」
「まだ―――・・・」
「・・・・・・そ・・・・」
そしてそのまままた目を閉じて、寝息をたて始める。
赤ちゃんみたいに握っていた手で、この間みたいに俺のスウェットの裾を握りしめて。

離れることもできなくて、エマさんを抱いたまま寝顔を見つめ続けた。

気付いたらもうあの苛立ちはどこにも見当たらない。
エマさんが昨日に続いて今日も俺を気遣ってくれていたという、そのことががじわじわと胸の内を暖めて広がっていく。
さっき、彼女さえ邪険にあしらってしまったというのに、腕の中で無心に眠るエマさんがただ可愛くて仕方ない。

エマさん。
可愛いエマさん。

この先ずっと、俺のことだけ考えててほしい。

眠るエマさんのおでこにキスしたい。
このまま腕枕して眠りたい。
細い腰を思いっきり抱きしめたい。
ピンクの乳首を口に含みたい。
ローブを脱がせて、全部見て、触れたい・・・・・・・・・・・・・。

熱に浮かされたように動く左手を目で追ってるうちに、オレンジ色の球体が視界に飛び込んできた。

蜜柑。

俺が部屋から持ってきた蜜柑は、ベッドの上でエマの腰の隣に転がっていた。
我に返って手元を凝視する。
俺はあろうことか、エマさんのローブの裾を割って、内腿に手を這わせていた。

――――――・・・な・・・っ!

俺は、何を!?

自分がしようとしていたことに動揺して、慌ててエマさんをベッドに押し込むと、蜜柑を拾って自分の部屋に引き返した。
「んー・・・にゃあ?」
という、意味の判らないエマさんの寝言に、かわいこぶってんじゃねえぞ、コノヤロー!わざとか、計算づくか!?と胸のうちで悪態をつきながら。

バクついてる心臓を上から撫でさすって宥め、狂ったように煙草をふかす。

ヤバい。
真剣にヤバい。

この間から「ひょっとしたら・・・」と訝しんではいたけど、さっきの自分の行動は、まるでこの思考回路は恋であるという証拠を突きつけられたみたいで、どう誤魔化していいか解らない。

苛立ち紛れに、エマさんがくれた蜜柑に人差し指を突き刺した。
固い外皮を破って侵入した柔らかい果実の中、皮膜が破れて果汁が指を濡らした。
その感触に、既にアドレナリンが溢れかえった脳内は、フルカラーの善からぬ妄想を映写する。

・・・・・・・・。

っていうか、人差し指より・・・やっぱり・・・。

気がついたら、蜜柑の中に中指を突っ込んでいた。


馬鹿っ!
何を考えてんだ、俺!

下半身も大変なことになっていたけど、ここでヌいたら負けだというような気がして、俺は忌々しい蜜柑を乱暴に剥いて齧りついた。

口の中に果汁を迸らせた可哀想な蜜柑は、陵辱されたにも関わらず、エマさんの食べ残しのよりも甘かった。

目を閉じたらエマさんの唇とか乳首とか太腿が脳裏に浮かんできて、どうしても寝付けない明け方、きっとこの混乱は熱の所為だろうという言い訳を思いついていそいそと熱を測ったけれど―――――。

残念ながら、すっかり平熱になっていた。



end
次章『天使と女神と悪魔の仕草』に続く

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