椅子



ベッドサイドの灯りだけがぼんやりと浮かび上がらせる、冷えたパイプ椅子を、俺は延々と見つめ続けていた。
耳が冷たいのは、さっきまでの涙がそこに溜まっているからだ。

そっと自分の左頬を押さえる。
昼間、厳しい顔で容赦なく俺を平手打ちしたエマは、そろそろ東京に着いただろうか。
きっと平然とした顔で荷物を抱え、誰かからかかる夕食の誘いに普通に乗っただろう。

明るく。
明るく。

それはきっと、俺にとっては前代未聞のこの事態を、なんでもないことのように・・・たいしたことではないことのように演出してる筈だ。

『ねえ、じゃあ俺たちは一旦休みでいいの?だったらもう帰りたいんだけど』

不自然なほどのんびりした声音で、そう言い出したのはエマだった。
それはいくら3公演中止のジャッジが下っても、動揺のほうが色濃い現場で、誰もが言い出せなかった次の行動の指針となった。
遅ればせながらウチの会社のスタッフが
「ああ、そうですね。そうしてください。連絡だけは常につくようにお願いします」
と宣言して、みんな連れ立って帰って行った。
そのとき俺は点滴を受けながら、当然のようにエマだけは残ってくれるんだと思っていたけれど・・・。

30分ほど、隣の・・・このパイプ椅子に座っていただけで、エマは帰ってしまった。
声が出ないもんだから、『寂しいよ』と、追いすがるようにエマの手を握ることで態度を示した俺に、
「大げさ。ただの風邪でしょ?俺に感染ったらどうすんの」
と笑って。
そしてエマは柔らかく俺の頭を撫でた。
「吉井が倒れたら公演中止になるの。でも俺が倒れても中止にはできないの。そんなことになったら、多分、俺のファンが暴動起こすよ?」
可笑しそうに声を上げて笑うけれど、その言葉は俺を深く抉った。
自分が今まで、この人に対してどんなに甘ったれていたかを思い知らされて。

黙って手を離した俺に、エマの声は優しかった。
「東京に帰ってきたらメール頂戴。会いにいってあげる」

それは久しぶりに聞く、甘い恋人としての声音だった。
その声で、俺は漸くこの人の怒りが解けたことを知り―――・・・もう少しで失うところだった信頼を繋ぎとめられたことを実感し、安堵の吐息とともに微笑み返した。

エマは俺の布団をかけなおして、もう一度頭を撫でてくれると、「じゃあね」とだけ言って病室を出て行った。


ああ・・・エマ。
俺はきっと、いつまでたってもあんたに狎れることはないんだろう。
間違うたびに、何度でも思い知らされるんだ。
あんたがなんて俺にとって大切な人なのか。


閉まる扉を見送っていた俺の左頬に、一筋涙が伝った。





11月末の石川のあたりから、俺の風邪は随分悪化してしまった。
微熱が続くのは我慢できるにしても、どんどん喉の調子が悪くなる。だけど俺には中止とか休演とか、そういう発想は全くなかった。今までだって風邪をひきつつライブをこなしたことはある。倒れるのだって、ライブが終わってからに違いないんだから―――-・・・。それは今までのミュージシャン生活の中で、自分の所為でライブを飛ばしたことがない事実への意地だったと思う。

だが、12月頭の大阪2公演で、俺の喉は見事に壊滅した。
初日に既に平常とはいえない状態だったのが、2日めにはもう、如何ともしがたい状態と成り果てて、おまけに高熱までついてきた。
スタッフたちはしきりに心配した。
「大丈夫だよ。今夜寝たら治るよ」
そればかり言い張る俺に、たった一人「大丈夫?」と声をかけなかったのは、エマだけだった。

正直に言おう。

その頃・・・いや、今日の昼間まで、俺とエマの間に流れてる空気は微妙だった。
もしかしたら俺だけがそう感じていたのかもしれない。
エマはいつもどおり仕事をこなし、メンバー間を取り持ち、俺に次ぐステージの華として君臨し続けていた。
なのに俺が「微妙」と感じていたのは、エマがただ、そんな俺を励ます言葉をくれなかったからにすぎない。
ただ、あの人が時として冷たいのはいつものことだけど、今回は俺からそれに対して甘えに行けなかったんだ。

理由はたったひとつ。
エマが俺に距離を置いてると、そう思い込んでいたからだ。

きっかけは、秋のツアーのリハが始まって、5日ほどした時のことだった。

ミーティングルームで曲順の構成を練っていた俺の隣で、ぺらぺらと第1案から書きかけの3案までを捲っていたエマが、ぽつんと言い出したのだ。

「ねぇ、吉井。今回さ、恋の花で俺を外してくれない?」

「・・・え?」

俺は耳を疑った。
FC限定ライブのとき、2人きりで板に上がったパフォーマンスにファンは喜んでいたし、エマもエマで驚異的な飲み込みで俺の曲をマスターしたんだから。
確かに色々と課題は残った演奏だったけれど、それはそのうち解消されていくだろうと思っていた。

「あんま俺向きじゃないと思うな。多分、バーニーのほうがいいよ、これ」

だけどエマは淡々とそんなことを言う。そしてこの人は言い出したら頑としてきかない。
あの瞬間の、嬉しげなファンの顔を見るのが好きな俺は、がっかりしてつい言ってしまった。

「エマがそんなこと言うんだったら、これ、今回のリストから外そうかな」


その瞬間だった。
エマの目が極端に険しく、冷たいものに変わったのは。

「・・・・・・・・おまえ、ルール違反」

「え?」

聞き返したけれど、エマはもうそれ以上は何も言ってくれなくて、更にはその日以来、プライベートな時間を一切俺にくれることを拒んだ。
昔、喧嘩したときみたいに、あからさまに俺を避けるようなことはない。
スタジオでは完璧に俺を補佐し、新しいメンバーの練習に積極的に精力を注いでる。
移動や食事のときに俺の隣に座ることも厭わない。
ただ、2人きりになろうとしない。マンションに泊まることも禁止された。

訳がわからない。

何がそんなにエマの気に障ったのか、皆目見当がつかなかった。
ただ、今までからもエマが不条理な不機嫌で俺をないがしろにすることはままあったし、多分なんか小さなことで拗ねてるんだろうとばかり思ってた。
あるとすれば、アレだ。
レコーディングで組んだギタリストを絶賛したことかな。
あれは俺が言ったことを更に編集して雑誌に載ったもんだから、余計に際立ってた。それに拗ねてあんなことを言い出したのかもしれないし、不機嫌なのかもしれない。
そう思いついたら、単純にエマが可愛く思えた。

結局『恋の花』はバーニーに弾いてもらうことになり、実際・・・そうしてみると、この曲に限っては、エマのギターよりも、バーニーのそれのほうが歌いやすいと思った。
さすがギタリスト、そこのところを指摘したかった訳ね、と納得はしたけれど、やっぱり寂しい思いは消えなかった。

もしかしたら、自分の音楽性と俺がやろうとしてることに差異が出てきたのかもしれない・・・なんて、ふとヒヤリとすることはあったけれど、今回オープニングにラップを混ぜるとか、カバー曲を沢山やるとか、そういう大凡今までとは違うことを言い出しても、エマはニコニコ楽しそうに笑っていたし、むしろ積極的にプランに噛んできたくらいだから、それは考えられない。
だから暫くは気楽に構えていた事件だったけれど、それに反してエマの態度はなかなか緩和することがなかった。

そんな折、俺は風邪をひいたんだ。

周囲の誰もが「大丈夫?」「やれる?」「無理しないほうがいい」と案じる中、エマだけが何も言わなかった。
その代わり、リハではあまり俺の喉を酷使しないように気遣い、楽器の面倒は出すぎない程度に一手に引き受け、歌リハは必要最低限に抑えるセッティングを整えるようになった。

その気遣いは確かに嬉しかったけど、一抹寂しかったのも事実だ。

エマ。
あんたは俺のギタリストってだけじゃないでしょう。
もしかして、俺の恋人だという立場は忘れたの?
それとも――――・・・なかったことにしたい、そういう事情でもできたの?

生まれた疑心暗鬼に、いとも簡単に俺は捕らわれ・・・結局眠りを逃して、風邪を悪化させたわけだ。


今日の、昼まで。


故郷静岡でのライブ当日である今日、俺の調子は史上最悪だった。
それでも意地になってリハに出た俺を、その場にいた全員が落胆の目で見た。
歌おうとしても声はガサガサで全く艶がない。ファルセットどころか、地声すら伸ばせない。咳き込む。挙句にアクションしようにも身体が安定せず、午前中のうちに点滴を打ってもらったけれど、熱は下がる気配すら見せなかった。

「吉井・・・流石に無理だろう」

社長の下したジャッジに、俺はムキになった。

「大丈夫だよ。ゴホっ・・・やれます。俺のせいでライブに穴をあけるなんて耐えられない・・・」

掠れてるというより、出てるのかどうかも怪しい声で意地をはった、そのときだった。
スタジオの隅で音調していたエマが、静かにギターを置いてつかつかと俺のところにやってきた。

周囲が何事かと見守る静寂の中、エマは凛とした表情で俺を見据えた。

「やれるの?」
「あ?・・・ああ・・・」
「その声で?」
「・・・・・・・・今までだって、風邪ひいてやったことはあるじゃな・・・ゴホっ・・・。気合入れりゃ大丈夫だよ」
「俺は、ここは潔く見送ったほうがいいと思う」
「何言ってんの。今日しか見られない子もいるんだよ」
「そう。今日しか聞けない子がいるんだよ!」
「だから・・・ゴホン!意地でも・・・・けほっ・・・」

苦しい喉で、それでも言い返す俺に、エマは呆れたように一つ溜息をついて――・・・。

次の瞬間、派手に音を立てて平手打ちをくれた。

僅かに残っていたスタジオ内の音が全て消え、熱で力の入らない俺の身体は簡単に床に崩れた。
エマは仁王立ちで腕組みをして、そんな俺を冷ややかに見下ろした。

「高いチケット代払って、楽しみに来てくれたファンに、そんな情けない声で歌う気?吉井は何屋なわけ?かっこつけてりゃいい、昔のアイドル?冗談じゃない。俺はそんなステージでは弾かない」
「・・・・・・・エマ」
「バンドのときなら、俺たちがカバーしてやれる場合もある。だけどね、これはお前のソロツアーだ。ファンはただひたすら、お前の歌を聞きに、お前を見に来てるんだ。甘えるのもいい加減にしなよ」




目の前で
何かが弾けた。




座り込んだまま呆然としてる俺の横にしゃがんで、エマは今度は優しい声で、もういちど繰り返した。

「いい?吉井。お前のソロツアーなんだ。・・・お前ひとりで、責任をとらなきゃいけないんだよ」

諭すように俺の背を撫で、柔らかく囁いたエマの声は、「それ以上のことは、俺にはなにもしてやれないから」と、小さく震えていた。



そうか。
そういうことだったのか。
エマがあのとき、「ルール違反」と言って怒ったのは、俺が間違った判断で趣旨を取り違えたからだ。
最初から俺たちは約束していた。
「お互いにいい刺激になろう」
と。
それなのに俺は、昔以上にエマに甘えきってた。
俺についてきてくれたこの人を、自分の所有物みたいに考えてた。
恋人の甘さで「俺のものだ」というときはいい。
だけど、俺たちには譲ってはいけないプライドの線があったんじゃなかったか?

俺は小さく
「うん」
と頷いた。

生まれて初めて、自分の責任でライブを飛ばす決心をして。








ほんの30分ほど病室についてくれたエマは、すっかり元のままの優しい顔つきに戻っていた。
オレンジジュースなんかを注いでくれて、「飲めるようになったら飲むこと」なんて言いながら、ポツポツと怒っていた事情を説明してくれた。
それは大凡、さっき俺が剥がした目の鱗の通りだった。


「あの限定ライブの時ね、お前、ちょっと違和感を感じてる顔してたんだよ。俺も感じてた。この曲は俺じゃないって思った。ギタリストがひとりしかいないなら仕方ない。だけど、もっとこの曲寄りのバーニーがいるのに、お前は俺に固執した。そこがお前の間違いなんだよ。
お前はベストのステージを作らなきゃいけない。その方法を間違えちゃいけない。多分・・・俺のプライドも立ててくれたんだろうね。ファンの子たちから見たときの心証とかさ。
でもそんなことしてくれても嬉しくないんだよ、俺は。
お前の曲には、俺を活かす方法はいっぱいある。だから俺はその努力は惜しまないし、誰にも譲らない。
でもね、ソロは、まずお前の曲ありきなんだよ。お前は生まれた曲を、ライブでやりたいと思ったら絶対にやらなきゃいけないし、それを俺の所為なんかで変えちゃいけない。それは本末転倒」

もう判ってるよね?と、笑いかけてくれたエマを見つめてるうちに、俺の目からはどんどん涙が溢れてきた。

ああ・・・この人はなんて。
なんて俺にとって、唯一無二の人なんだろう。
こんなに俺のことを理解して、しょっちゅう間違う俺を叱りつけて、その上で大事に思ってくれる人が他にいるだろうか?

ますます出なくなった声に、もう無理させることなく、「ごめん」と唇だけで何度も呟く俺に、エマは

「本当に吉井は俺に甘くて、仕方ないヤツだね」

と笑った。








エマが帰ってしまった病室で、俺は一人いつまでもパイプ椅子を見つめながら、そこに座っていたエマを幻視する。
いつも一緒にいても、見えないことはあまりにも多いから寂しくなったりするのに、心がきちんと繋がったと確信すると、一人でも寂しくないのは何故だろう?
今頃バーニーたちとでも飯食ってるんだろうか。
そしてきっと、しきりに気遣う周囲に、ほほほんとした空気を返すことで、「大したことじゃない」とアピールしてることだろう。

「だいすきだ」

俺は空っぽの椅子に向かって、ガサガサの声で何度目だか判らない告白をした。




2日後、エマの誕生日。
本当なら「ハッピーバースデイ」の大合唱をプレゼントしてあげられた日、やっと熱が下がって俺は東京に戻れた。
そのことへの謝罪と、お誕生日おめでとうの言葉と共に、これから帰るとメールを送ったら、エマは『どうやってこの穴埋めをしてもらおうかなー』と、小悪魔全開の返事を返してきた。

それはよく馴染んだ、愛しい恋人の態度だった。
俺は花を抱え、エマのマンションに車を走らせる。
狎れ合わない、常に緊張感のある、素敵な恋人兼相棒を、この両腕に抱きしめるために。



end



久々のSS更新です。
『恋の花』のがっかりと、3公演延期の衝撃と、更にどうやらエマちゃんはその日のうちに帰っちゃったらしいという大笑いを(なんて失礼な)まとめて昇華してみました。
札幌もラブラブだったみたいだしー、盛岡では数年ぶりの「あなたは私のエマ」と歌ったとの嬉しい証言もあり、この世は憂いなし(笑)

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